第3話 (三)藤田志穂
文字数 6,633文字
(三)藤田志穂
「志穂。この頃帰りが遅いね。仕事はまだ忙しいの?」
「はゆねちゃん、聞いてよ。総務の退職した社員さんの代わりがまだ見つからないみたいなの。もー嫌になっちゃう。せっかく残業が無いことを条件にハラダ事務所を選んだのにさー」
後ろから三両目の車両のドア近くで怒りをぶちまける。言葉に出すとますます腹が立ってくる。
「残業はほとんど無いっていう約束だったんだよね。そんなのおかしいよ。抗議した方がいいんじゃない」
「ホントそう思う。でも派遣会社の担当者の長谷川ってのがマジ使えなくて、言っても無駄なんだよね」
言ったところでヒラメの長谷川の答えは目に見えている。フレキシブルに対応して先方の事業にコミットできる姿勢を見せておいた方が正社員への・・・、長谷川の得意げな顔が浮かんでくる。
「コミットとか言っちゃう人なんだ。ウケる。言ってる時の顔までリアルに想像できる」
「そういうカタカナ用語を使う人って、なんかイラっとするよね」
「私は自分の価値観を人に押し付けてくる人は嫌いだな」
やっぱりはゆねちゃんとは気が合う。私もそんな奴は嫌いだ。私はコミットする姿勢を見せて正社員になりたいわけではない。長谷川の価値観では、派遣社員よりも正社員が上なのだろう。
「絵を描く時間がとれなくなってきてるの。残業のせいで」
また、胸が少しチクリとした。少し苦しい。
「でも志穂は偉いよね。嫌なことがあってもちゃんと仕事をして責任を果たしてる。私だったらブチ切れて放り出しちゃうかもしれないなぁ」
「お金をもらってやってる仕事だから。急に退職者が出てしまったことは仕方ないし、その代わりは誰かがやらないといけないことだからね」
「そうだよね。仕事だもんね。志穂は頑張っててホント立派だよ。私は志穂を応援してるよ」
はゆねちゃんに慰めてもらって、少し怒りが収まってきた。でもまだ胸が苦しい。このままだと、前の職場のときと同じになってしまう。
「あっ、勇気先生。お疲れ様です」
真希とともに休憩のためにフリースペースに行くと北条先生がいた。北条先生は一部の所員から苗字ではなく名前で勇気先生と呼ばれている。真希は勇気先生と呼べてしまうタイプだ。私には難しい。なんか、距離を縮めにいっている感じを変に意識してしまう。
北条先生はいつも自然体だ。クライアントから頂いたお菓子や、近隣のケーキ屋さんで買ってきたお菓子を時々おすそ分けとしてくれる。恩着せがましいこともなく、こういうことをさらりとできる。
北条先生に頂いたパイナップルケーキは甘酸っぱくて美味しい。北条先生は、私たちにハラダ事務所で困っていることや、嫌な事がないかなどを尋ねてきた。私は残業のことを思い出したが口に出すことはしなかった。
「ハラダ事務所で仕事をする人の理由は様々だと思うし、どんな理由でも構わないのですけど、せっかくここで働くなら、その間の時間を心地よく過ごしてもらいたいと思ってまして。なにか1つでも仕事に来る楽しみがあるといいじゃないですか。私の場合、今日はコーヒーを飲みながら美味しいパイナップルケーキを食べるこの時間が心地いいですね」
そう言った北条先生は、本当に美味しそうにパイナップルケーキを食べている。どこか余裕がある。北条先生だって仕事で嫌なこともあるだろうし、好きでもないことをすることもあるはずなのに。この前はゆねちゃんは、そういう色々なことを乗り越えて立派な大人になっていくのかな、と言っていたけど、北条先生はそういう色々なことを乗り越えた人なのかな。北条先生は私や真希のことを「派遣さん」とは呼ばずに名前で呼ぶ。ささいなことかもしれないけど、私にはない何かを乗り越えているような気がする。
「パートナーの先生がみんな勇気先生のような考えだったらいいんですけどね」
真希は他の先生たちの愚痴を北条先生に言う。素直に口に出せる真希が羨ましい。私は残業の不満があるのに言えないでいる。何も言えない私の心はミジンコだよ。はゆねちゃん、私は全然立派なんかじゃないよ。
「今日は志穂の残業がない日で久しぶりだから楽しみにしていたの」
真希がグレープフルーツサワーを片手に嬉しそうだ。
「残業は総務に新しい人が入るまでっていう約束なんだけど、いまだに新しい人が決まってないの。それで週に4日も残業って、あり得なくない」
私もブドウサワーで勢いを付けてまくし立てる。
「なんで志穂が残業しなくちゃいけないの。総務の社員さんが退職した人の分の仕事をやるべきじゃない」
真希も加勢してくれる。
「そうそう。社員さんがやるべきなのに、子供の迎えだとか、なんだとか、色々を理由を付けて私にも仕事を押し付けてくんの」
「あの総務部長は卑怯だから、志穂が残業してくれることに甘えて新しい人を採用しないつもりかもよ」
「ちょっとそんなのマジであり得ないんだけど」
怒りをぶちまけながらブドウサワーをあおる。
私と真希はハラダ事務所のオフィスがある丸の内から日本橋方面に向かい、国道4号線の昭和通りに入って上野方面に向かって歩いている。10月の半ばになると夕方は涼しくなってきていて、散歩には良い季節だ。
今日は真希と「散歩飲み」をしている。散歩飲みは、仕事帰りに数駅分を歩きながらお酒を飲むという、真希が考え出したコスパの良い飲み会だ。今日は残業が無い日なので、こうして真希と散歩飲みができる。北条先生流に言えば、これが私の今日の仕事に来る楽しみ、というものになるのかな。私は今日の楽しみのためにチャックテイラーを履いてきた。無敵のチャックテイラーを履いているから、どこまでも歩いて行けるんだ。
「そうだ。しほー、ちょっと聞いてよ。今日ね。岡崎さんから相談されたの~」
お酒を飲むと真希は語尾を伸ばして甘えたような声をだす。私はそんな素直な真希を可愛いと思う。
「岡崎さんから相談?なんの?」
「それがさ~。事務所内で自分たちのことが噂になってないか心配してるらしいの」
「岡崎さんが何か噂になってるの?」
「それがね。詳しく聞いたら驚いたよ。岡崎さんが言うにはね。新谷先生からモーションを受けてるんだって」
真希は意地悪そうに笑っている。いったいどういうことか。モーションって何。
「モーションって何よ。新谷先生が岡崎さんを誘っている、とかそういうこと。ちょっと信じられないんだけど」
「そうなの。私も信じられない。でね。詳しく聞いたの。どんな風にモーションを受けているのかって。そしらたらね、新谷先生が岡崎さんに対して合図を送ってくるんだって」
合図。なんの合図だ。
「新谷先生がファイルを返しに事務担当者のエリアに来たときにね、岡崎さんの席の近くを通ったときに咳払いをしたんだって。それが合図らしいよ」
いったい、それが何の合図になるのかさっぱり分からない。
「岡崎さんが言うには、それは俺に付いて来い、という合図らしいの。で、岡崎さんは新谷先生の後ろについて行ったらしい」
「なんかちょっと怖いね。で、どこについて行ったの?」
「新谷先生は1階のコンビニに行ったみたい。で、岡崎さんも後からついて行ったらしい。コンビニに。だから私、聞いたの。新谷先生が何か岡崎さんに話しかけたのかって。そしたら、新谷先生とは何も話してないらしいの」
「えっ、ヤバくない?」
「ヤバい、完全にヤバい」
真希ははしゃいでいる。酔っぱらったときの無邪気な真希だ。
神田川に架かる和泉橋を渡って秋葉原に入ると人が増えてきた。秋葉原でも東側の昭和通りは、いわゆる電気街、ヲタク街ではなく、オフィス街になっていて仕事帰りに家路につく人たちがほとんどだ。
「それでね。岡崎さんは、新谷先生とのことが事務所内で噂になってないかをすごく気にしているの。しかも、所内の裏掲示板で噂になっているかも、って心配してた」
「裏掲示板。そんなのあるの?」
「いや、無いでしょ。そんなの聞いたことないし」
「だよね。なんか怖くなってくる」
「さらにだよ」
なんと、まだ続きがあるのか。真希は盛り上がっている。ずいぶんと酔いが回ってきているみたい。
「新谷先生が付いて来いっていう合図をして、岡崎さんがコンビニについて行くところを勇気先生が見かけて、岡崎さんを守るために勇気先生が後ろからついてきてくれたんだって」
なんと北条先生まで登場するのか。
「それって、たまたま新谷先生がコンビニに行くところを岡崎さんが勝手について行って、たまたま北条先生もコンビニに行くところで、偶然3人がその順序でコンビニに向かっただけじゃん。まあ、岡崎さんは偶然じゃないんだろうけど」
「そうだよね。どう考えても、単なる思い込みだよね。だけど、岡崎さんの中ではそういうストーリーが出来上がってるみたいで、本当に心配している様子だったよ」
「完全にヤバい人だ」
「でね。岡崎さんはこの前、勇気先生にも相談したらしい」
「えっーーーー!!!!!」
思わず大きい声が出てしまう。
「勇気先生、この前さ、セクハラとかそういうことが起きてないかって、私たちに聞いてきたじゃない。たぶん、この件だと思う。岡崎さんは、勇気先生に詳細は話してないらしいの。単に、ある男性からモーションを受けて困っている、っていう相談をしたらしい」
「じゃあ、北条先生は、岡崎さんがセクハラを受けていると本気で心配しているわけ。なんか気の毒というか。でも、なんで新谷先生と北条先生なんだろうね」
「なんでも何も、明らかでしょ。新谷先生から誘われていて困っているところを勇気先生が助けてくれようとしているなんて、ずいぶん図々しいストーリーだよね」
「新谷先生も北条先生もモテそうだもんね。たしかに厚かましい妄想だ」
自分で言葉にすると本当に厚かましい妄想だと思う。自分勝手な妄想だ。岡崎さん、現実はそんなんじゃないよ。現実を見ようよ。私の胸がチクリと痛む。
「そういえば、新谷先生も北条先生も結婚してたよね」
「そうそう、子供もいるし。だから、岡崎さんに新谷先生も北条先生もどちらも結婚してるし、子供もいるよ、って話したの。そしたら、凄いショックを受けてた。もう笑えてきちゃって」
真希は思いっきり笑っている。私はどんな顔をしているんだろう。
「真希は、岡崎さんに現実を突きつけちゃったんだ」
「そうだよ。だって現実を知らせないと岡崎さんが可哀そうだし。岡崎さんはちゃんと現実を受け入れられるかなぁ。すごい動揺していたからな~」
私もそう思う。現実を見ないと岡崎さんが可哀そうだ。可哀そうだよ。胸が苦しい。
「勇気先生はまだ真相を知らずに、本当に心配していると思うから、勇気先生に明日このことを話すつもり」
昭和通りでは、落ちた銀杏の実が潰れて匂いを放っている。私と真希は銀杏の実の匂いを避けるように、御徒町駅のところで昭和通りから駅の方へずれて中央通りに入った。そこからさらに上野駅の方に向かって歩く。御徒町駅から上野駅に向かう中央通りは小さな通りで、両側に居酒屋や焼肉屋さんがたくさん並んでいる。居酒屋の呼び込みに声を掛けられる。だけどその声は私にはもう聞こえなくなってきている。
岡崎さんが可哀そうな妄想をしている。岡崎さんは現実をちゃんと見て現実を受け入れないといけないよ。なんで他人のことだとこんなに分かりやすくて滑稽に見えるのだろう。私だって同じなのに。
実際は、本当は、違う。後ろから3両目の電車の窓に映っているのは、はゆねちゃんじゃない。情けない顔した私が映っているだけなのに。。。
私は怖いんだ。自分の絵を描くことが怖くなっていた。自分の絵を描いて、自分の作品を作ることに傷ついていた。子供の頃から絵を描くのが好きだった。楽しかった。好きなことなのに、なんでだろう。今は本気で描けば本気で描くほど深く傷つく。自分で描いた現実を見るたびに傷ついた。
せっかく残業の無い条件でハラダ事務所で働くことにしたのに、時間があるときはファンアートを描いてしまっていた。ファンアートだとSNSでいいねって言ってもらえるから。でも、それは私が描きたい自分の絵じゃないよ。本当は、自分の作品を描いて個展を開くことを目標にしていたのに。
総務部長から残業を依頼されたとき、本当は、本当は、ちょっと安心したんだ。絵を描く時間が無くなれば、これ以上傷つかなくて済むから。だから残業を断らなかったんだよ。断ろうと思えば断れたんだよ。自分でも薄々感づいていた。残業を依頼されて怒っていたのも、長谷川を使えないってディスっていたのも、絵を描く時間が無くなって安心している自分を認めたくないからだよ。
傷ついて逃げている現実の自分を認めたくないから、帰りの電車の中で妄想のはゆねちゃんに慰めてもらって、そんな私を認めてもらってた。私の妄想なんだから、はゆねちゃんは私が欲しい言葉をくれるはずだよ。私は自分のことを騙そうとしてたんだよ。岡崎さんだって本当は現実が見えているんだろうけど、妄想にすがって、自分を騙そうとしている。私だって岡崎さんと同じだよ。
子供の頃から絵が好きだった。幼稚園の頃は紙にクレヨンの色が写るだけで楽しかった。いっぱい描いて、手や服をいっぱい汚すと先生やお母さんがたくさん褒めてくれた。絵具の色も綺麗だった。そのままでも綺麗な色なのに、絵具を混ぜるとビックリするような色ができて、色々な組み合わせを試していた。絵を描いて毎日ドキドキしていた。紙の上には無限の世界が広がっていると思っていたんだ。そして私も無限だと思っていた。
あんなに好きだったのに。このままだと、絵が好きという気持ちが、自分でも知らないうちに、分からないうちに溶けて消えていっちゃいそうだよ。私自身が溶けて消えていっちゃうよ。
妄想じゃなくて現実を見ないと。自分で自分を受け入れないと。ダメになる前に。このままじゃ可哀そうだよ、私。心から大好きなものは言葉にしなくちゃ。そうだよね、はゆねちゃん。
「ねえ真希。思いっきり叫んでみたい」
「えっ、何。志穂どうしたの急に。何を叫びたいの?」
「好きな事、やりたいことを思いっきり声に出して叫んでみたい。真希も一緒に叫ぼうよ」
「人通りもあるし、叫んだら変な人だと思われるし、恥ずかしいよ~」
真希は甘えながらもたれかかってくる。
「あの先に高架橋が見えるでしょ。電車が来たタイミングなら他の人には聞こえないよ。高架下で電車が来たタイミングで思いっきり叫ぶの」
「志穂は変なことを思いつくよね。でも、面白いかも。じゃあ一緒に叫ぼうか。志穂は何を叫ぶの」
グレープフルーツサワーを二缶も飲んで酔っている真希はいつになく楽しそうだ。真希はいつだってノリがいい。はゆねちゃんは私の妄想だけど、真希は現実にここにいる。それが私に勇気をくれる気がする。今なら私は声に出すことができる。
「内緒だよ。真希も内緒でいいよ。でも、心から思いっきり叫ぶの。全身全霊でね」
上野駅を出た山手線が御徒町に向かってきている。ちょうど私たちもガード下にきた。真希と目を合わせる。全身に力を込める。
今だ!
「来年の弁理士試験、絶対に合格する!」
「私は絵が好き。絶対に自分の絵を描く!」
真希の「弁理士試験に絶対に合格する」、という叫びが私にはっきりと聞こえた。ならば、私の叫びも真希に聞こえているはずだ。というか、私たちの全身全霊の叫びは電車の騒音を上回っていた。私と真希の叫びは、ガード下の外席で飲んでいる人たちにまる聞こえだった。仕事帰りに歩きながら酒を飲んで酔っぱらった女二人が叫んでいる。酷い絵だ。ガード下で飲んでいる人たちの好奇の目が刺さる。
「逃げろ!」
私は走りだした。このまま上野公園の不忍池まで走って逃げてやる!
「ちょっ、待って。志穂」
真希が追いかけてくる。でも走りだした私のチャックテイラーには絶対に追いつけないんだから。
(完)
----------------------
この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
ましてや作者(神山ユキ)が勤務している特許事務所などとは一切関係ありません。
なお、作中の藤田志穂はTETORAの大ファンのようです。これは間違いありません。
お読みいただきありがとうございます。
ツイッターなどでも感想などいただけたら嬉しいです。
神山ユキ
2021.11.28
「志穂。この頃帰りが遅いね。仕事はまだ忙しいの?」
「はゆねちゃん、聞いてよ。総務の退職した社員さんの代わりがまだ見つからないみたいなの。もー嫌になっちゃう。せっかく残業が無いことを条件にハラダ事務所を選んだのにさー」
後ろから三両目の車両のドア近くで怒りをぶちまける。言葉に出すとますます腹が立ってくる。
「残業はほとんど無いっていう約束だったんだよね。そんなのおかしいよ。抗議した方がいいんじゃない」
「ホントそう思う。でも派遣会社の担当者の長谷川ってのがマジ使えなくて、言っても無駄なんだよね」
言ったところでヒラメの長谷川の答えは目に見えている。フレキシブルに対応して先方の事業にコミットできる姿勢を見せておいた方が正社員への・・・、長谷川の得意げな顔が浮かんでくる。
「コミットとか言っちゃう人なんだ。ウケる。言ってる時の顔までリアルに想像できる」
「そういうカタカナ用語を使う人って、なんかイラっとするよね」
「私は自分の価値観を人に押し付けてくる人は嫌いだな」
やっぱりはゆねちゃんとは気が合う。私もそんな奴は嫌いだ。私はコミットする姿勢を見せて正社員になりたいわけではない。長谷川の価値観では、派遣社員よりも正社員が上なのだろう。
「絵を描く時間がとれなくなってきてるの。残業のせいで」
また、胸が少しチクリとした。少し苦しい。
「でも志穂は偉いよね。嫌なことがあってもちゃんと仕事をして責任を果たしてる。私だったらブチ切れて放り出しちゃうかもしれないなぁ」
「お金をもらってやってる仕事だから。急に退職者が出てしまったことは仕方ないし、その代わりは誰かがやらないといけないことだからね」
「そうだよね。仕事だもんね。志穂は頑張っててホント立派だよ。私は志穂を応援してるよ」
はゆねちゃんに慰めてもらって、少し怒りが収まってきた。でもまだ胸が苦しい。このままだと、前の職場のときと同じになってしまう。
「あっ、勇気先生。お疲れ様です」
真希とともに休憩のためにフリースペースに行くと北条先生がいた。北条先生は一部の所員から苗字ではなく名前で勇気先生と呼ばれている。真希は勇気先生と呼べてしまうタイプだ。私には難しい。なんか、距離を縮めにいっている感じを変に意識してしまう。
北条先生はいつも自然体だ。クライアントから頂いたお菓子や、近隣のケーキ屋さんで買ってきたお菓子を時々おすそ分けとしてくれる。恩着せがましいこともなく、こういうことをさらりとできる。
北条先生に頂いたパイナップルケーキは甘酸っぱくて美味しい。北条先生は、私たちにハラダ事務所で困っていることや、嫌な事がないかなどを尋ねてきた。私は残業のことを思い出したが口に出すことはしなかった。
「ハラダ事務所で仕事をする人の理由は様々だと思うし、どんな理由でも構わないのですけど、せっかくここで働くなら、その間の時間を心地よく過ごしてもらいたいと思ってまして。なにか1つでも仕事に来る楽しみがあるといいじゃないですか。私の場合、今日はコーヒーを飲みながら美味しいパイナップルケーキを食べるこの時間が心地いいですね」
そう言った北条先生は、本当に美味しそうにパイナップルケーキを食べている。どこか余裕がある。北条先生だって仕事で嫌なこともあるだろうし、好きでもないことをすることもあるはずなのに。この前はゆねちゃんは、そういう色々なことを乗り越えて立派な大人になっていくのかな、と言っていたけど、北条先生はそういう色々なことを乗り越えた人なのかな。北条先生は私や真希のことを「派遣さん」とは呼ばずに名前で呼ぶ。ささいなことかもしれないけど、私にはない何かを乗り越えているような気がする。
「パートナーの先生がみんな勇気先生のような考えだったらいいんですけどね」
真希は他の先生たちの愚痴を北条先生に言う。素直に口に出せる真希が羨ましい。私は残業の不満があるのに言えないでいる。何も言えない私の心はミジンコだよ。はゆねちゃん、私は全然立派なんかじゃないよ。
「今日は志穂の残業がない日で久しぶりだから楽しみにしていたの」
真希がグレープフルーツサワーを片手に嬉しそうだ。
「残業は総務に新しい人が入るまでっていう約束なんだけど、いまだに新しい人が決まってないの。それで週に4日も残業って、あり得なくない」
私もブドウサワーで勢いを付けてまくし立てる。
「なんで志穂が残業しなくちゃいけないの。総務の社員さんが退職した人の分の仕事をやるべきじゃない」
真希も加勢してくれる。
「そうそう。社員さんがやるべきなのに、子供の迎えだとか、なんだとか、色々を理由を付けて私にも仕事を押し付けてくんの」
「あの総務部長は卑怯だから、志穂が残業してくれることに甘えて新しい人を採用しないつもりかもよ」
「ちょっとそんなのマジであり得ないんだけど」
怒りをぶちまけながらブドウサワーをあおる。
私と真希はハラダ事務所のオフィスがある丸の内から日本橋方面に向かい、国道4号線の昭和通りに入って上野方面に向かって歩いている。10月の半ばになると夕方は涼しくなってきていて、散歩には良い季節だ。
今日は真希と「散歩飲み」をしている。散歩飲みは、仕事帰りに数駅分を歩きながらお酒を飲むという、真希が考え出したコスパの良い飲み会だ。今日は残業が無い日なので、こうして真希と散歩飲みができる。北条先生流に言えば、これが私の今日の仕事に来る楽しみ、というものになるのかな。私は今日の楽しみのためにチャックテイラーを履いてきた。無敵のチャックテイラーを履いているから、どこまでも歩いて行けるんだ。
「そうだ。しほー、ちょっと聞いてよ。今日ね。岡崎さんから相談されたの~」
お酒を飲むと真希は語尾を伸ばして甘えたような声をだす。私はそんな素直な真希を可愛いと思う。
「岡崎さんから相談?なんの?」
「それがさ~。事務所内で自分たちのことが噂になってないか心配してるらしいの」
「岡崎さんが何か噂になってるの?」
「それがね。詳しく聞いたら驚いたよ。岡崎さんが言うにはね。新谷先生からモーションを受けてるんだって」
真希は意地悪そうに笑っている。いったいどういうことか。モーションって何。
「モーションって何よ。新谷先生が岡崎さんを誘っている、とかそういうこと。ちょっと信じられないんだけど」
「そうなの。私も信じられない。でね。詳しく聞いたの。どんな風にモーションを受けているのかって。そしらたらね、新谷先生が岡崎さんに対して合図を送ってくるんだって」
合図。なんの合図だ。
「新谷先生がファイルを返しに事務担当者のエリアに来たときにね、岡崎さんの席の近くを通ったときに咳払いをしたんだって。それが合図らしいよ」
いったい、それが何の合図になるのかさっぱり分からない。
「岡崎さんが言うには、それは俺に付いて来い、という合図らしいの。で、岡崎さんは新谷先生の後ろについて行ったらしい」
「なんかちょっと怖いね。で、どこについて行ったの?」
「新谷先生は1階のコンビニに行ったみたい。で、岡崎さんも後からついて行ったらしい。コンビニに。だから私、聞いたの。新谷先生が何か岡崎さんに話しかけたのかって。そしたら、新谷先生とは何も話してないらしいの」
「えっ、ヤバくない?」
「ヤバい、完全にヤバい」
真希ははしゃいでいる。酔っぱらったときの無邪気な真希だ。
神田川に架かる和泉橋を渡って秋葉原に入ると人が増えてきた。秋葉原でも東側の昭和通りは、いわゆる電気街、ヲタク街ではなく、オフィス街になっていて仕事帰りに家路につく人たちがほとんどだ。
「それでね。岡崎さんは、新谷先生とのことが事務所内で噂になってないかをすごく気にしているの。しかも、所内の裏掲示板で噂になっているかも、って心配してた」
「裏掲示板。そんなのあるの?」
「いや、無いでしょ。そんなの聞いたことないし」
「だよね。なんか怖くなってくる」
「さらにだよ」
なんと、まだ続きがあるのか。真希は盛り上がっている。ずいぶんと酔いが回ってきているみたい。
「新谷先生が付いて来いっていう合図をして、岡崎さんがコンビニについて行くところを勇気先生が見かけて、岡崎さんを守るために勇気先生が後ろからついてきてくれたんだって」
なんと北条先生まで登場するのか。
「それって、たまたま新谷先生がコンビニに行くところを岡崎さんが勝手について行って、たまたま北条先生もコンビニに行くところで、偶然3人がその順序でコンビニに向かっただけじゃん。まあ、岡崎さんは偶然じゃないんだろうけど」
「そうだよね。どう考えても、単なる思い込みだよね。だけど、岡崎さんの中ではそういうストーリーが出来上がってるみたいで、本当に心配している様子だったよ」
「完全にヤバい人だ」
「でね。岡崎さんはこの前、勇気先生にも相談したらしい」
「えっーーーー!!!!!」
思わず大きい声が出てしまう。
「勇気先生、この前さ、セクハラとかそういうことが起きてないかって、私たちに聞いてきたじゃない。たぶん、この件だと思う。岡崎さんは、勇気先生に詳細は話してないらしいの。単に、ある男性からモーションを受けて困っている、っていう相談をしたらしい」
「じゃあ、北条先生は、岡崎さんがセクハラを受けていると本気で心配しているわけ。なんか気の毒というか。でも、なんで新谷先生と北条先生なんだろうね」
「なんでも何も、明らかでしょ。新谷先生から誘われていて困っているところを勇気先生が助けてくれようとしているなんて、ずいぶん図々しいストーリーだよね」
「新谷先生も北条先生もモテそうだもんね。たしかに厚かましい妄想だ」
自分で言葉にすると本当に厚かましい妄想だと思う。自分勝手な妄想だ。岡崎さん、現実はそんなんじゃないよ。現実を見ようよ。私の胸がチクリと痛む。
「そういえば、新谷先生も北条先生も結婚してたよね」
「そうそう、子供もいるし。だから、岡崎さんに新谷先生も北条先生もどちらも結婚してるし、子供もいるよ、って話したの。そしたら、凄いショックを受けてた。もう笑えてきちゃって」
真希は思いっきり笑っている。私はどんな顔をしているんだろう。
「真希は、岡崎さんに現実を突きつけちゃったんだ」
「そうだよ。だって現実を知らせないと岡崎さんが可哀そうだし。岡崎さんはちゃんと現実を受け入れられるかなぁ。すごい動揺していたからな~」
私もそう思う。現実を見ないと岡崎さんが可哀そうだ。可哀そうだよ。胸が苦しい。
「勇気先生はまだ真相を知らずに、本当に心配していると思うから、勇気先生に明日このことを話すつもり」
昭和通りでは、落ちた銀杏の実が潰れて匂いを放っている。私と真希は銀杏の実の匂いを避けるように、御徒町駅のところで昭和通りから駅の方へずれて中央通りに入った。そこからさらに上野駅の方に向かって歩く。御徒町駅から上野駅に向かう中央通りは小さな通りで、両側に居酒屋や焼肉屋さんがたくさん並んでいる。居酒屋の呼び込みに声を掛けられる。だけどその声は私にはもう聞こえなくなってきている。
岡崎さんが可哀そうな妄想をしている。岡崎さんは現実をちゃんと見て現実を受け入れないといけないよ。なんで他人のことだとこんなに分かりやすくて滑稽に見えるのだろう。私だって同じなのに。
実際は、本当は、違う。後ろから3両目の電車の窓に映っているのは、はゆねちゃんじゃない。情けない顔した私が映っているだけなのに。。。
私は怖いんだ。自分の絵を描くことが怖くなっていた。自分の絵を描いて、自分の作品を作ることに傷ついていた。子供の頃から絵を描くのが好きだった。楽しかった。好きなことなのに、なんでだろう。今は本気で描けば本気で描くほど深く傷つく。自分で描いた現実を見るたびに傷ついた。
せっかく残業の無い条件でハラダ事務所で働くことにしたのに、時間があるときはファンアートを描いてしまっていた。ファンアートだとSNSでいいねって言ってもらえるから。でも、それは私が描きたい自分の絵じゃないよ。本当は、自分の作品を描いて個展を開くことを目標にしていたのに。
総務部長から残業を依頼されたとき、本当は、本当は、ちょっと安心したんだ。絵を描く時間が無くなれば、これ以上傷つかなくて済むから。だから残業を断らなかったんだよ。断ろうと思えば断れたんだよ。自分でも薄々感づいていた。残業を依頼されて怒っていたのも、長谷川を使えないってディスっていたのも、絵を描く時間が無くなって安心している自分を認めたくないからだよ。
傷ついて逃げている現実の自分を認めたくないから、帰りの電車の中で妄想のはゆねちゃんに慰めてもらって、そんな私を認めてもらってた。私の妄想なんだから、はゆねちゃんは私が欲しい言葉をくれるはずだよ。私は自分のことを騙そうとしてたんだよ。岡崎さんだって本当は現実が見えているんだろうけど、妄想にすがって、自分を騙そうとしている。私だって岡崎さんと同じだよ。
子供の頃から絵が好きだった。幼稚園の頃は紙にクレヨンの色が写るだけで楽しかった。いっぱい描いて、手や服をいっぱい汚すと先生やお母さんがたくさん褒めてくれた。絵具の色も綺麗だった。そのままでも綺麗な色なのに、絵具を混ぜるとビックリするような色ができて、色々な組み合わせを試していた。絵を描いて毎日ドキドキしていた。紙の上には無限の世界が広がっていると思っていたんだ。そして私も無限だと思っていた。
あんなに好きだったのに。このままだと、絵が好きという気持ちが、自分でも知らないうちに、分からないうちに溶けて消えていっちゃいそうだよ。私自身が溶けて消えていっちゃうよ。
妄想じゃなくて現実を見ないと。自分で自分を受け入れないと。ダメになる前に。このままじゃ可哀そうだよ、私。心から大好きなものは言葉にしなくちゃ。そうだよね、はゆねちゃん。
「ねえ真希。思いっきり叫んでみたい」
「えっ、何。志穂どうしたの急に。何を叫びたいの?」
「好きな事、やりたいことを思いっきり声に出して叫んでみたい。真希も一緒に叫ぼうよ」
「人通りもあるし、叫んだら変な人だと思われるし、恥ずかしいよ~」
真希は甘えながらもたれかかってくる。
「あの先に高架橋が見えるでしょ。電車が来たタイミングなら他の人には聞こえないよ。高架下で電車が来たタイミングで思いっきり叫ぶの」
「志穂は変なことを思いつくよね。でも、面白いかも。じゃあ一緒に叫ぼうか。志穂は何を叫ぶの」
グレープフルーツサワーを二缶も飲んで酔っている真希はいつになく楽しそうだ。真希はいつだってノリがいい。はゆねちゃんは私の妄想だけど、真希は現実にここにいる。それが私に勇気をくれる気がする。今なら私は声に出すことができる。
「内緒だよ。真希も内緒でいいよ。でも、心から思いっきり叫ぶの。全身全霊でね」
上野駅を出た山手線が御徒町に向かってきている。ちょうど私たちもガード下にきた。真希と目を合わせる。全身に力を込める。
今だ!
「来年の弁理士試験、絶対に合格する!」
「私は絵が好き。絶対に自分の絵を描く!」
真希の「弁理士試験に絶対に合格する」、という叫びが私にはっきりと聞こえた。ならば、私の叫びも真希に聞こえているはずだ。というか、私たちの全身全霊の叫びは電車の騒音を上回っていた。私と真希の叫びは、ガード下の外席で飲んでいる人たちにまる聞こえだった。仕事帰りに歩きながら酒を飲んで酔っぱらった女二人が叫んでいる。酷い絵だ。ガード下で飲んでいる人たちの好奇の目が刺さる。
「逃げろ!」
私は走りだした。このまま上野公園の不忍池まで走って逃げてやる!
「ちょっ、待って。志穂」
真希が追いかけてくる。でも走りだした私のチャックテイラーには絶対に追いつけないんだから。
(完)
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この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
ましてや作者(神山ユキ)が勤務している特許事務所などとは一切関係ありません。
なお、作中の藤田志穂はTETORAの大ファンのようです。これは間違いありません。
お読みいただきありがとうございます。
ツイッターなどでも感想などいただけたら嬉しいです。
神山ユキ
2021.11.28