最終話***Kyrie***
文字数 2,130文字
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【人工知能-Kyrie-】
数世紀に渡り世界の人口を管理している〈世界均衡維持自動解析システム〉を統括する人工知能。特殊磁場を介して殺人行動の予兆を観測したKyrieが人々の脳に干渉し行動を制御する。これによる人体への影響はない。政府が戦争撲滅のために世界へ向けて発信したプログラムと謂われているがその発祥には未だ不明な点が多い。一説によると、このシステムの前身ともいえるプロジェクトが存在したというがKyrie施行以前の文献などは未だ見つかっていないため定かではない。Kyrieの最高管理責任者は代々女性であるとされ毎年日本で行われる奉納歌は世界的にも有名な行事となっているが、地下の専用住居で過ごしている事、Kyrieと意思疎通が出来るといわれている事(これが、Kyrieが人工知能と呼ばれる所以である)以外の素性は明らかにされておらずKyrieの発祥と共に多くの謎に包まれている。
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修道女は扉を叩く音で書物を読んでいる手を止めた。どうぞ、と言うと扉が開いて世話係の女性――氷瀬礼歌が顔を出した。部屋に入ると礼歌は修道女の読んでいた書物を覗き込む。
「紫苑様。そろそろ式典のお時間です。――何を読んでいたのですか」
「えぇ、Kyrieについての文献を少しね。忘れないように読み返していたのよ」
「Kyrieについてですか。一体誰が書いたのでしょう。Kyrieはその発祥からかなり謎が多く設立時のデータもありません。信憑性あるんですか? ……なんて、紫苑様は本当はご存知なのですよね。Kyrieの運営を代々担っている三岡家と代々お世話を務めている氷瀬家、紫苑様と親交が深く特級対象となっている両家ですら、紫苑様の体質の事は承知していてもKyrieの設立について知る者は既におりません。知っているのは紫苑様のみ。……それにしてもかなり古いですね」
「そうね。かなり昔のものよ。それに私の体質が機密レベルAだとしたらKyrieについては
「老いないくせによく言いますね……。ところで、ずっと気になっていたのですが毎年歌われるあの奉納歌は一体どこの国のものなのでしょう。歌詞も旋律もとても綺麗ですよね」
そう訊ねられると修道女は少し恥ずかしそうに笑って、適当、と答えた。
「大切な曲なの。ずっと昔に聴いた曲で歌詞も曲名もわからない。でもその美しい旋律は今でも覚えているからこうして忘れないように歌っているのよ」
「そうなのですね……。いえ、こんな話をしている場合ではありません。急いでお支度を」
「わかったわ。珈琲を飲んだら行くから」
「紫苑様は『急いで』の意味はご存知ないのですか」
「仕方ないでしょう。ちょうど新しい珈琲を淹れてもらったのだもの」
そう言って修道女は珈琲メーカーを指差す。礼歌は諦めたように頷くと、出来るだけ早めに飲んで下さいね、と部屋を出て行った。
あれからもう四百年もの月日が流れていた。
Kyrieとは桐恵が夢みる世界であり、世界とはかつての二人が夢みたものだ。Kyrieの最高管理責任者として波川桐恵の夢を守り続ける事。これは桐恵に対する贖罪なのである。
人格とは思考によって構築されるものだと、どこかで読んだ覚えがある。ならば今の修道女は
自己とは経験によって構成されるものだと、どこかで読んだ覚えがある。ならば今の修道女は
――それは今でもわからない。
本棚とウサギの置物、日本刀と白い壁。これが修道女の世界の全てだった。修道女は亜麻色に染めた巻き髪を弄りながら、Kyrieが制御する自動機構が淹れた珈琲を一口飲んで微笑む。
「今日も珈琲が美味しい」
『それはどうもありがとう』
回線で繋がっている脳内に彼女の思考を模造し彼女に似せた声を持つKyrieの言葉が響いた。
どうか彼女達に安らぎあれ。殺意なき世界で〈
――Kyrie
――eleison
完