第1話

文字数 1,616文字

「貴様、何が可笑しくて笑っている」
東山高校野球部監督に就任したばかりの栗山好晴は、部員達との初顔合わせで声を荒げていた。
高校野球の栗山監督と言えば、県下では名の知られた人物である。
前任地の東泉学園では、栗山監督率いる野球部は県下の強豪校として、5年で3回甲子園の土を踏んでいた。
当然の様に各高校間では、栗山監督の争奪戦が深く静かに、そして激しく展開された。
栗山監督が東山高校を選んだのは、金銭的な待遇は別にして、野球部の活動について学校側が其れなりの予算を付けると共に、全てにおいて口出しない事を確約していた。
と言う事は、東山高校野球部に関しては全権を栗山監督が握った事を意味していた。
そんな約束事を胸に秘め、新任の挨拶に来ていた。
「それとも何か、俺の顔が笑える顔に見えるのか」
八十五人いる野球部員達は、新しい監督の言葉を緊張の面持ちで聞いていたが、ただ一人だけその場にそぐわない顔の部員が居た。
栗山監督の鋭い眼差し向けられたその部員は。
「いえ、そんな事はありません」
笑い顔のままで答えていた。
笑っている部員は、新学期から三年生になった、小幡誠一で有る。
誠一の身長は一メートル五十センチと、同年代の野球部員仲間の間では一番小さな選手と言っていい。
だが、二年生からレギュラーになった誠一は、とにかく足だけは速かった。
誠一が左打席に立ち、一塁側、あるいは三塁側にバントをすると、セーフになる確率は六割を超えていた。
そんな誠一だが、野球選手として、あるいは人間としてのアキレス腱を抱えていた。
誠一と対戦した事の有る他校のピッチャー達は、口々に酷評していた。
「あいつ程、不気味な男は居ませんよ。ツーアウト満塁という緊張した場面でも、バッターボックスに立つあいつは、何時もの様にニヤニヤと笑ったまま俺の顔を見るんです。人を見下した様な太々しいあの態度は何処から来るのですか。あいつの心臓にはきっとメチャクチャ毛が生えていますよ」
散々な酷評が他校から出るなどとは、誠一にとって思いもよらない事で有った。
誠一への酷評は、他校だけではなかった。
誠一の笑い顔を見ながら栗山監督は言った。
「ま、良いだろう。俺の話を聞きながら緊張もしないで笑い顔を見せるとは、良い度胸をしている。練習の時が楽しみだよ」
栗山監督は口角を上げたが、誠一を見る目は笑っていなかった。
栗山監督と野球部員の初顔合わせは、半分ほどが誠一の話で終わっていた。
誠一は新監督の挨拶が終わると、解散となったので何時もより早く家に帰った。
家で見せる誠一の顔に笑い顔など全く無く、少し不機嫌そうな顔が「ただいまー」と母親に声を掛けていた。
やがて、家族四人の夕食が始まり、父母と、大学生の姉がテーブルに着いた。
姉は誠一の顔を覗き込む様に見ると。
「ねえ、誠一。不機嫌そうな顔をして、何時もの様にまた何か嫌な事が有ったのね」
姉の夏美は、一人合点した顔をしながら誠一に言った。
誠一は知らん顔で、ご飯とおかずを忙しなく口に放り込んでいた。
「分かった、誠一。今日は知らない人と話しをしたのね。顔がずいぶん疲れたでしょう。よし、後でお姉ちゃんが久しぶりに顔のマッサージしてあげるから、機嫌を直しなさい」
姉の声に、誠一は今日初めて自然な顔で笑っていた。
誠一は元来、気の弱い男の子で有る。
小さい頃は、姉の背中に何時も隠れている、そんな子供だった。
誠一が緊張する度合いは、普通の人の比では無い。
そして、悲しむべきか喜ぶべきか、誠一が見せる緊張で引き攣った顔は、何時も不敵な笑い顔に見えてしまうのだ。
やがて就任から半年が過ぎた栗山監督は、地区予選大会前のミーティングで言った。
「いいか、お前達。試合で緊張する事など何一つないのだぞ。誠一を見習えば良いんだ。相手ピッチャーを、相手チームを笑い顔で飲み込んでしまえ」
「おー」「やるぞー」
チームの皆が笑い顔で拳を上げる中、初めて褒められた誠一だけが緊張できずに泣いていた。


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