第9話 それは祝直木賞受賞なのか新直木賞作家シリーズ作品なのか

文字数 5,759文字

 先日或ることがきっかけで謡口早苗と言う銅版画家のことを思い出した。
 読者諸兄は北村薫と言う直木賞作をご存知のことと思うが、謡口早苗はその北村薫作品の装画を担当している。
 もし北村薫作品の本をまだ買ったことがないと言う方がいらっしゃるなら悪いことは言わない、明日書店へ行きその足で彼の作品を買うべきである。
 それも文庫ではなく単行本で買うことをお勧めする。
 何故なら前述の謡口早苗が、北村薫作品の本の装画を担当しているからだ。
 実に趣きの有る独特な作品であり、見ていると惹きこまれてしまう不思議な銅版画である。
 私が北村薫氏の単行本を購入する際の楽しみのひとつでもある。
 読前も読後も鑑賞する。
 私に取って謡口早苗の版画は、読前には北村薫作品への水先案内人として、また読後には小説の余韻に浸る為の幕引くの黒子として、欠くべからざる絶対的な存在なのだ。
 つまり北村薫作品の本は小説と銅版画を一冊で二度楽しめるから、非常にお得なのである。
 文庫でも楽しめるが、単行本の方がより鮮明に謡口早苗の版画を楽しめる。
 そんな謡口早苗の作品に「砂時計」と言う作品がある。
 或る詩を読んでその作品を思い出したのだ。
 実は拙作に応援コメントを戴いた方がこのノベルデイズに詩集を掲載していたので、せっかく応援コメントを頂戴したのだから何かネタにさせて貰えることはないか、と、その方の詩集である「月光読書」、と、言う作品を読んだ。
 結果思惑は外れた。
 泣かされてしまったのである。
 拙作を読まれる方なので、恐らくコメディか何かを書かれているのだろうと勘違いした私であったが、物の見事に裏切られた。
 総てが泣ける詩で詩集の最後に、「さもあればあれ まずしき蝶よ 天かける」、と、言うタイトルの詩があり、それを読んで謡口早苗の「砂時計」を思い出した私は、パソコンでその版画の画像を立ち上げてみた。
 そして「砂時計」を鑑賞しながら再びその詩を読んだ私は、迂闊にも泣いてしまったのだ。
 その作品は飛翔する前の羽を閉じた蝶が砂時計の上に止まっており、その砂時計の下の部分に西洋の楼閣が描かれている。
「砂上の楼閣」ならぬ「砂下の楼閣」である。
 読者諸兄もやってみられてはどうか。
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 試しにスマホには「月光読書」を、パソコンのモニターには謡口早苗の「砂時計」を立ち上げてみると、あら不思議、涙が溢れてくること請け合いである。
 またその詩集「月光読書」は水瀬そらまめのペンネームで掲載されているから、ノベルデイズで検索して戴ければ直ぐに読める。
 が、しかし、拙作を読んだ勢いそのままに「月光読書」を読むことはお勧め出来ない。
 読者諸兄からの、「それじゃ泣けねえわ」、と、言う苦情は戴きたくないからだ。
 読むなら明日以降で泣きたいと思う日に読まれるのが良かろう。
 少なくとも拙作を読んで暫く時間を置いてからにして戴きたい。

 さて、話を本題に戻そう。
 その「月光読書」のお蔭で謡口早苗の版画を思い出した私は、それと同時に北村薫が直木賞を受賞した際のことも思い出したのだ。

 その際私は新宿の某大手書店で信じられないものを見たのである。

 北村薫作品に於いて装画は謡口早苗と決まっているのだが、装丁は出版社によって異なる。
 私は大久保明子の装丁が大好物なのだが、彼女は文芸春秋社所属の為他の出版社から刊行される作品は、各出版社によって異なるのだ。
 よって文芸春秋社刊行の北村薫作品でしか、大久保明子の装丁を楽しむことは出来ない。
 北村薫もそうであるが私は三浦しをんの大ファンでもあり、彼女の「まほろ駅前」シリーズは読破している。
 文庫本で読んだのだが読後大久保明子の手による装丁に惚れ込み、装丁を楽しむ為だけにわざわざ単行本を買ったくらいだ。
 益してや北村薫の直木賞受賞作品ならこれを新刊で買わずして何とする。
 11年前の2009年当時、そのときも私は新宿にある某大手書店へと跳んでいったものである。
 北村薫の直木賞受賞作品は「鷺と雪」で、それはそれは見事な装画と装丁であった。
 当然である。
 大久保明子と謡口早苗のタッグは最強なのだ。
 そしてその最高のタッグを従えて発売される北村薫の単行本は、私に取って至高の芸術品である。
 実業家の令嬢花村英子(はなむらえいこ)と、ベッキーさんことお抱え女性運転集の別宮(べっく)みつ子が繰り広げる推理小説なのだ
         ‐34‐

が、それ以上のことは例の如く各自で作品をお読み戴きたい。
 時代設定も私の大好きな昭和初期の設定で、この作品は通称「ベッキーさんシリーズ」と言って三部作になっている。
 無論直木賞受賞ともなれば、書店にもそのシリーズの三作が総て並ぶことになる。
 私に取ってそれ等三部作は直木賞受賞作品であろうがあるまいが、至高の芸術品であることは言う迄もない。
 言うならば大久保明子装丁謡口早苗装画の北村薫作品とは、私に取ってはバッグ好きの女性に取ってのエルメスの「バーキン」に匹敵し、時計好きの男性に取ってのロレックスの「デイトナ」に匹敵する至高の芸術品なのである。
 ここで読者諸兄にご一考戴きたい。
 仮にエルメスやロレックスの直営店の店頭で以下のような文言が日本語で記載され、趣味の悪い紫色の「帯」が巻かれて販売されていたらどのような気分になるだろうか、を。

(バーキンのバッグ本体と紙箱の両方に)
「祝 フランス国家最優秀職人賞 M・O・F受賞!」、とか。

(デイトナ本体のベルト部分と紙箱の両方に)
「祝 キュー天文台発行・A級クロノメーター証明書取得」、とか。

 確かに以上の記載事項は事実である。
 しかし事実であってもエルメスやロレックスがそんなセンスの悪い下品なことをする訳がない、と、思われた方が殆どのように思う。
 スーパーで見掛ける野菜やお菓子の広告じゃあるまいし、とも。
 無論エルメスやロレックスの直営店が過去にそんなことをした事例はないし、未来永劫そんなことは起こり得ない。
 何故ならエルメスはエルメスであることこそが何にも勝る受賞であり、ロレックスはロレックスであることこそが何にも勝る受賞なのだから。
 ならばそんなおかしなことが何処で起こったと言うのか。
 前述した書店に於いてである。
 否、しかし書店だけが悪いと言う訳ではない。
 部数を伸ばそうとした版元が一番悪く、それを許した書店にも多少なりと責任はある。
 開いた口が塞がらないとは正にこのことだ。
 そのとき私に取っての「バーキン」であり私に取っての「デイトナ」に、以下のような文言で紫色の「帯」が表紙に来るよう巻かれていたのは紛れもない事実である。
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「祝 直木賞受賞!」、と。

 先ずは目に付くようその文言が表紙に来るように巻かれていたのである。
 無論直木賞受賞作の「鷺と雪」にその「帯」が巻かれていたのであったなら、何も私がここでそのことを取り上げる必要はない。
 しかしである。
 その「帯」が巻かれていたのは、「ベッキーさんシリーズ」第一弾「街の灯」と第二弾である「玻璃の天」の方なのだ。
 それはまるで誤って読者が購入することを誘発させるような取り組みとは言えまいか。
 また背表紙には「新直木賞作家 シリーズ第二弾」、と、あり、意図的にそのように仕組んだことは明らかである。
 私はこの際の「帯」の文言は表紙と背表紙の逆であることが、より読者に対して誠実であるように思うのだが如何か。
 直木賞を受賞するとその作品は勿論、受賞作家の他の作品が平積みされるのが書店での習わしとなっている。
 その為全版元では何等かの「帯」は巻くし、私はそうした行為を批判するものではない。
 どんどんやるべきだしより多くのファンを増やそうとする努力は有って然るべきである。
 しかし読者を欺くような表現は如何なものか、と、私は言いたいのだ。
 また私は何も文芸春秋社ばかりのことを責めているのではない。
 こうした「帯」が表紙に巻かれていることは各販元ともやっていることなのだ。
 確かにこう言った文言は「ギリギリセーフ」であり誤りではない。
 また当事者である版元の広報にそのことを聴いたとしても、「誤って違う作品の購入を誘発? それは言い掛かり以外の何ものでもない。実際に当時北村薫氏は直木賞を受賞しているんですから。非常に心外です」、と、一笑に付されて終わりである。
 とは言えそれ等「街の灯」と「玻璃の天」に巻かれていた「帯」に、前述の版元の意図を裏付ける事実がもう一つ存在する。
 それはそれ等とは対照的に実際の受賞作である「鷺と雪」の表紙の「帯」に、以下のような文言が記されていたことだ。

「直木賞受賞作品!」、と、されていたのである。

 それ等「帯」をパッと見ただけでは「街の灯」や「玻璃の天」、或いは「鷺と雪」の何れが直木賞受賞作なのか誠に以て判別し難い。
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 直木賞受賞以前からの北村薫ファンは別としても、初めて北村薫作品を手にする読者に取っては尚のことである。
 当時私は「ベッキーさん」シリーズの第一弾である「街の灯」も第二弾の「玻璃の天」も持っていたし、それ等二作品とも読破していた作品であったから、迷うことなく直木賞受賞作品であるシリーズ第三弾の完結篇「鷺と雪」に手を伸ばすことが出来た。
 しかし当時前述の書店で以下のようなことが起こったのである。

 私の向かい側に居たカップルの男性の方が直木賞作品ではない、第二弾の「玻璃の天」を手にこう言ったのだ。
「これでしょ、今度の直木賞は」
 肩を並べていた女性が黄色い声を上げる。
「本当、『祝 直木賞受賞』って書いてある」
 他の書籍にも眼を運ばせていたカップルであったが、愈々レジに行くつもりなのか女性が男性のスーツの袖を引いた。
 私は一瞬逡巡した後誤解されないよう男性の方に声を掛けた。
「あのう差し出がましいことを言うようで恐縮なんですが、それってシリーズの第二弾でこちらが直木賞受賞作です」
 私が手にしていた「鷺と雪」を差し出すと男性は小首を傾げた。
 そこで私は駄目を押す為に宣言する声音で高らかに言い放った。
「あの直木賞受賞作はそちらの手にしておられる『玻璃の天』ではなく、こちらの『鷺と雪』なんです」、と。
 私の言葉を聴いたカップルは両者とも大きく口を開け、瞠目を禁じ得ずに棒立ちとなった。
 やがて男性が私の手にした「鷺と雪」からこちらに視線を移した。
「本当だ。ご親切にありがとうございます。
 こんな紛らわしいこと書かれたら間違っちゃいますよね」
 そう言い終え私に向かって軽く会釈を返したた男性は、「玻璃の天」を元の場所に置き私の手から「鷺と雪」を受け取ると、女性と共にレジに向かった。
 レジに向かうカップルの背中が遠ざかるにつれ、私は余計なことをしてしまったかも知れない、と、得も言われぬ罪悪感に駆られた。
 しかし次の刹那或ることが脳裏を過ぎり私は苦笑を禁じ得ずに、顎を振って感じる必要のない罪悪感を一掃した。
 そうなのだ。
 私が教えたことでカップルが「鷺と雪」を買う機会を得た代わりに、「玻璃の天」を買う機会を喪失したのではないか、と、言う不必要な懸念など確実に杞憂に終わるのだ。
 何故なら一度「鷺と雪」を読んだら、そのシリーズ第一弾の「街の灯」も第二弾の「玻璃の天」も、買うに決まっているからだ。
 大久保明子装丁謡口早苗装画の北村薫作品は地上最強なのだ。
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 そのことは私が、否、私ならずとも全北村薫ファンが太鼓判を押すところである。
 そんな風に売れない訳がない北村薫作品なのに、何故だかあの趣味の悪い紫色の「帯」。
 あれは自信の無さの現れである。
 自信が無いからこそそうしたスーパーの安売りのような、あんなしみったれた「帯」を巻くのだろう。
 そんな「帯」の製作担当は営業部なのか宣伝部なのかは知らないが、装丁担当の大久保明子の範疇ではない筈。
 何故なら大久保明子があんな趣味の悪「帯」を製作するとは思えないからだ。
 確かにペーパーレスのこの時代、出版社が少しでも売り上げアップを図ることは悪いことではない。
 しかしもっと自信を持って欲しい。
 版元各社はエルメスやロレックスのように、確固たる自信を持って販売にあたって欲しいのである。
 繰り返しになるが大久保明子装丁謡口早苗装画の北村薫作品は、地上最強であり版元が自信を持って然るべき作品である。
 斯く言う私は北村薫作品には金を出すが、週刊文春には金を出さない。
 もしかするとそんな私は文芸春秋社に取ってマイノリティなのかも知ないし、週刊文集の読者はマジョリティなのかも知れない。
 しかしそうであっても、北村薫作品を週刊文春と同じ感覚で扱っても良いと言う法は無い。
 それでなくとも稼ぎ難い文芸作品である。
 売りたいと言う気持ちは良く分かる。
 しかしそこをぐっと堪えて安売り商法は止めにして戴きたい。
 是非ともエルメスやロレックスのような信念を持って欲しい。
 大丈夫、北村薫作品は信頼するに足る。
 そこでひとつ提案がある。
 こと北村薫作品に於いては今後装丁だけでなく、「帯」も大久保明子の担当にして戴くのは如何か。
 もし文芸春秋社のお歴々に私の、否、全北村薫ファンの声が届くならば是非とも聴いて戴きたい。
 貴方達の最たる誤りは、少しでも売りたいと形振りを構わずしみったれた売り方をしたこと、そして自信を持てなかったこと、だ。
 それは貴方達の製作した「帯」に現れている。
 またそのことは文芸春秋社だけでなく、全版元に於いても然りだ。
 そして最後に全版元のお歴々にひとことだけ言わせて欲しい。

「読者を、ファンを嘗めるな!」、と。
         ‐38‐
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