4-5-6 繋がる者 繋がれぬ者

文字数 9,517文字

 シャレイドの口から《オーグ》の存在を聞かされても、モートンは一笑に付したりはしなかった。むしろ新たに知らされた真実として、冷静に受け止めている。彼自身が《クロージアン》という思念の超個体群に属する身だけに、《オーグ》の存在を理解しやすいからなのかもしれない。
「もう少し驚くか、呆れた顔でもしてくれないと、せっかくの大ネタを披露した甲斐がないな」
 口ほどには残念そうな素振りを見せずに、シャレイドは薄ら笑いを浮かべたままそう言った。
「突拍子も無いとは思うが、そうであれば筋は通る。そうか、《オーグ》の干渉を防ぐため、《星の彼方》に通じる極小質量宙域(ヴォイド)を封鎖することが、あの戦いの目的だったのか」
 口元に拳を当てながら、モートンは自分で発した言葉に頷いた。
「そもそもホスクローヴ提督があれほどの大敗を喫すること自体、おかしいとは思ったんだ。《スタージアン》がそこまで露骨に関わってくるとは、計算外だった」
「それは俺もだ。利用するつもりが、ものの見事に利用された」
 シャレイドは自嘲気味にそう言うと、残りわずかなフライドボールをまたひとつ摘まみ上げた。
「カナリーの親父さんは、今どうしているんだ?」
 フライドボールに視線を注いだまま、心持ちトーンを落とした声音のシャレイドの問いに、モートンは瞼を伏せて答えた。
「敗戦の責任を取って退官されたよ。今は故郷のイシタナで隠棲している」
「……あんな戦い、俺はするつもりはなかった。スタージアにはお前たちとの仲介を頼むだけのはずが、まさかあいつらの方から戦うことを条件に出されるとは予想してなかったよ。巡礼研修の実施程度で交換条件になると思った、俺が甘かった」
 苦渋の表情をちらつかせながら、シャレイドはそのままフライドボールを皿に戻した。一方で彼の顔を見返すモートンの切れ長の目は、幾ばくか刮目している。
「だがようやく納得いった。この二百年、《クロージアン》は連中の意図を測りかねていたが、あいつらはこの銀河系人類社会を《オーグ》から守っているつもりなんだな」
「方法は稚拙極まりないがね」
 そう言うとシャレイドはサイドテーブルを模した現像機(プリンター)からシードルの注がれたグラスを取り出して、おもむろに口をつけた。
 グラスを呷るシャレイドを見て、モートンが訝しげに尋ねる。
「稚拙?」
「《オーグ》が雪崩れ込んで来るのを防ぐのに、大量の艦艇を破壊したデブリで出入口を蓋しましたなんて、稚拙と言わずになんと言う?」
 グラスから口を離してそう語るシャレイドの顔に、俄に嫌悪感が浮かび上がった。形の良い眉がしかめられて、眉間にくっきりと皺が寄る。
「あの極小質量宙域(ヴォイド)封じで目を引くのは、馬鹿馬鹿しいほどのスケールと、それを実現するためのえげつない精神感応力、そして犠牲となる人命を顧みることのない非情さだけだ。呆れることはあっても、感心するような大層なもんじゃない」
「お前の言うことはわかるが、実際に我々は《スタージアン》の策にしてやられた」
「モートン、いや《クロージアン》よ。お前らや《スタージアン》は精神感応的に《繋がり》、圧倒的な知識と力を得たかもしれないが、俺に言わせればその弊害も大きい」
 シャレイドの赤銅色の顔に浮かぶ感情は嫌悪から嘲りへと変化し、そのことを隠そうともしない。モートンの表情がいかめしく引き締められたのは、彼の嘲笑に反感を刺激されたからなのか、それともわざわざ呼び名を改められたせいなのか。未だアルコールの酔いが残る意識ではそれも判然としない。
「《繋がる》ばかりが能じゃない、か?」
「そういうことだ」
 憮然としたモートンの言葉に頷くと、シャレイドは椅子の背凭れに掛けていたコートの内ポケットをまさぐり、愛用のベープ管を取り出した。
「一服させてもらうぞ」
 そう言うとシャレイドはモートンが承諾する前に、ベープ管のスイッチを入れた。微かにぶんと唸ったベープ管の吸い口を咥えて、一息吸い込んで後に唇の隙間から白い煙を吐き出す。
「《スタージアン》の策、そして《クロージアン》がモートンから主導権を奪ってからの、連邦軍の動きを目の当たりにして確信した。お前たち《繋がる》連中の思考は、平準化する」
 シャレイドの言葉に、モートンは釈然としない面持ちで問い返した。
「平準化?」
「そうだ。お前たちには何千何万というお仲間がいて、様々に思考を積み重ねることが出来るんだろうが、最後にはひとつにまとめなきゃならないだろう? そこで下される結論は、お仲間たちの思考の最大公約数的なものにならざるを得ない」
「様々に検討した結果下される結論だ、当然だろう。現に今回敗れるまでは、《クロージアン》が運営する連邦は着実に成長してきた」
「そりゃそうだ。お前たちには強力な精神感応力があるんだから、例えそんな結論しか出せないとしても、それを押し通すだけの力がある」
 ベープ管から口を離したシャレイドは、鼻腔から水蒸気の白煙をくゆらせながら、なお薄い笑みを浮かべている。
「だがそれも精神感応力を持たない、《繋がら》ない集団に対してだけだ。精神感応力が効かなかったり、同等以上の力を持つ集団には勝てない。それこそ、スタージア星系の戦いのように」
 ベープ管の先を突きつけられ、モートンの顔は憮然を通り越して能面のように無表情になる。だが彼の表情の変化を意に関せず、シャレイドの言葉は止まらない。
「《繋がった》ばかりの頃のお前のような、ほかを従えるような強烈な個が率いれば、また別だろう。大多数には思いもよらない発想で、劣勢を覆す可能性だってある。だが話を聞く限り、どうやらそれはレアケースらしい」
「《クロージアン》が《クロージアン》らしくあるほど、《スタージアン》には勝てない、そう言いたいのか」
「そう怖い顔をするな」
 シャレイドはおどけた表情で、大袈裟に肩を竦める。
「《クロージアン》も《スタージアン》も、それぞれテネヴェとスタージアから動けないんだろう? 普通に考えれば両者が衝突することなんてありえないはずだったんだ。お前たちが《スタージアン》以上に恐れなければいけないとしたら」
 手元をくるりと回してベープ管の先でシャレイドが示したのは、彼自身の顔であった。
「この俺だ」
 虚を突かれたように、モートンの口が半開きになる。その顔を見て、シャレイドは口角の片端を吊り上げながら、ベープ管の吸い口を唇に咥えた。
 ガラス張りのテラス席の外は既にとっぷりと陽が暮れて、閑静な住宅街らしい静寂と共に夜の闇に包まれている。ベープの煙がゆっくりと吐き出される一瞬だけ、シャレイドとモートンの間に沈黙が訪れた。テラス席の内の照明に区切られた空間は、彼らふたりの存在が、まるで外界から隔絶しているかのような錯覚に陥らせる。
「正確に言えば俺のようなオルタネイト常用者(ユーザー)――いや、N2B細胞の精神感応力を受け付けない人間、だな」
「……そういうことか」
 シャレイドの端的な説明を受けて、モートンはようやく腑に落ちた表情を見せた。
「我々は相手の思考を読み取れるもの、干渉出来るものという大前提に立っている。例え我々の一部が意識しようとも、その他多数の思考もひとまとめに集約しなければならないから、結局は大前提を踏まえた結論しか導き出せない」
 左右の肘掛けに両腕を乗せて、背凭れに長身を預けながら、モートンはふっと大きなため息を吐き出した。
「お前のような、思考を読めない上に突飛な発想をする相手は、我々にとって天敵というわけだ」
「言っちゃ悪いがモートン、今のお前相手なら、俺は立方棋(クビカ)で百戦百勝する自信がある」
「そんなに差があるか?」
 少なからず傷ついたように眉根を下げるモートンに、シャレイドはベープ管を小さく振り回しながら「ああ」と頷いた。
「俺の知るモートンなら、トゥーランは最大戦力の集結を待ってから攻撃しただろうし、スタージアの救援よりもジャランデール攻略を優先するよう手を打ったはずだ。奇抜さはないが、勝機は確実にものにする男だった」
「それを指摘されると、ぐうの音も出ないな」
「お前との対局を再開したいのは山々だが、今のお前とやっても結果は見えている」
 そう言うとシャレイドは、ふとテラス席を覆うガラス窓の向こうに目を向けた。
 庭園に生い茂る木々は既に影となって輪郭しか覚束ないが、その上に広がる夜空には瞬く星空が広がっている。広大な闇に散りばめられた輝きの群れを見つめるシャレイドの瞳には、どこか厳しい表情が漂っていた。
「《スタージアン》も同じなんだよ」
 シャレイドの唇から零れ出すように囁かれた言葉の意味を、モートンはすぐに理解出来た。
「《クロージアン》が《スタージアン》には勝てないように、《スタージアン》は《オーグ》には勝てないのか」
「俺は《オーグ》とやらががなんなのか、よく知らない。だがあの《スタージアン》が恐れるほどだ。単純な力は《オーグ》の方が上なんだろう。だとしたら、あいつらはその力量差をひっくり返すことは出来ない。それどころか」
 外界の景色に注いでいた視線をモートンへと戻して、シャレイドはベープ管の先をまた口に含む。
「あいつらの極小質量宙域(ヴォイド)封じは、もしかして悪手だったんじゃないかとすら思っている」
「何千隻もの宇宙船をデブリ化しておいて、それでも不足だっていうのか?」
「俺たちの常識で言えば、もうあの極小質量宙域(ヴォイド)は使い物にならないだろうさ。だが《スタージアン》以上の化け物というなら、俺たちの想像を超える手段があってもおかしくない」
 シャレイドの言葉と共に、大きな水蒸気の煙が唇から吐き出された。ふたりの間に漂う煙の固まりは、すぐには霧散することなくその場でくゆり続ける。白煙の向こうを見極めようと細められたモートンの目には、表情も窺い知れないシャレイドが、ゆっくりと口を開く様だけは認められた。
「あの極小質量宙域(ヴォイド)で、俺たちは人類史上最大規模の戦闘をやらかした。恒星の輝きには及ばないだろうが、戦闘時の爆発光はスタージアの地表上からも肉眼で観測出来たって話だ」
 そう告げるシャレイドの呼気と共に、煙の壁が徐々に晴れ渡っていく。同時にまたモートンの脳裏にも、シャレイドが言わんとすることがはっきりと形をもって浮かび上がっていた。星空の合間に数時間だけ瞬いて、やがて消える光。その輝きを観測出来るのは、スタージアだけではないだろう。
「《オーグ》が爆発光を観測していてもおかしくない」
「確実に観測しているだろう。あの策は、それまで隠し通せていたこの銀河系人類社会の存在を、《オーグ》にはっきりと知らせることになっていないか。俺はそう思うんだよ」
 ようやく掻き消えた煙の向こうに現れたシャレイドの顔に、モートンが厳しい目つきで問いを投げかける。
「《オーグ》が住まう星は、どれほどの距離にあるんだ?」
「わからん。あの爆発光を観測されるのが果たして何年先か、何万年先か。だがおそらくそれほど遠くはないだろう、と俺は踏んでいる」
「《原始の民》が旅立ってからスタージアを見つけ出すまで、それほどの長距離を踏破出来たとは思えないからな」
「ああ。伝説の通りなら、一隻の船に万を超える人数を抱えての遠征だ。あまり距離があれば、途中で全滅していただろう」
 再度ふたりの間に訪れた沈黙には、先ほどとは異なる緊張感が伴われていた。
「《オーグ》の干渉は、本当にあるんだろうか」
「《スタージアン》は本気で《オーグ》を恐れていた、俺にはそれしか言えない。俺は未だに《オーグ》の脅威とやらは眉唾だと思うし、仮に本当だったとしても、今回の極小質量宙域(ヴォイド)封じで脅威の到来も少しは先延ばしされただろう。俺の寿命が尽きるまでは大丈夫なんじゃないか」
 投げやりな口調の端々に、そんな先のことまで責任は持てないという、シャレイドの本音が見え隠れしている。
 彼の気持ちは当然かもしれない。だがモートンは、一連のシャレイドの言動の裏にある真意まで、すっかり理解していた。
 思念を読み取れないとしても、シャレイド相手であればその程度、看破するのは容易いことであった。
「《クロージアン》の意識はまだまだ引き継がれる。自治領が成立した今後も、連邦の中枢は我々が掌握していくことになるだろう。なら我々も《オーグ》への対策を考えておかなきゃならん」
「そいつはお前たちの都合だ。俺はそこまで面倒を見るつもりはない」
「ならどうして我々に《オーグ》の存在を知らせた? 《クロージアン》も《オーグ》の脅威に対処しろと、そういうつもりだろう。そこまで言うならシャレイド、我々にお前の知恵を貸して欲しい」
 背凭れに預けていた上体を起こし、テーブルの端に両肘を乗せて、モートンは組んだ両手の上に四角い顎を乗せた。真摯に協力を求めるダークブラウンの瞳には、既に酒精の名残はない。
 対するシャレイドは長い脚を組み、肘掛けに片肘をついた手で顎を支えたまま、空いた片手に挟んだベープ管を膝の上に垂らしている。しばらく所在なげに揺れていたベープ管の先は、やおら持ち上げられたかと思うと、彼の肩の上にぽんと置かれた。
「《スタージアン》と組むしかない」
 大袈裟にため息をつきながら、シャレイドの答えは明快だった。
「どういう経緯か知らんが、《クロージアン》は《スタージアン》のことを敵視しているだろう。否定しても無駄だぞ。モートンじゃない、その奥底に《繋がる》無数の意識野に、《スタージアン》への対抗意識がちらほらと見える。同族嫌悪みたいなものか?」
「そうだな。話せば長くなるが、《クロージアン》の《スタージアン》嫌いは、イェッタ・レンテンベリの頃からの筋金入りだ」
「俺だってあいつらは気色悪くて敵わんが、そこら辺は全部取っ払って協力しろ。俺が言ったことを覚えているか? 《繋がる》必要は無い。違いなんてあって構わないから、折り合いをつけて共に《オーグ》に当たるんだ」
「そいつはやぶさかじゃないが、どうやって連絡を取る? 俺たちは互いにそれぞれの星系から身動き取れない身だ。まさか連絡船通信を使うわけにもいかないだろう」
 再び問いを重ねるモートンは、その目がどこか愉快そうに細められていた。シャレイドは何か言い返そうとして、だが言葉を発することなく口をつぐむ。そのまま肩に置いたベープ管の先を二度、三度と叩きつけていてから、やがて芝居がかった仕草で天を仰いだ。
「わかったよ。俺がメッセンジャー役を務める、これでいいだろう?」
 手のひらを向けて降参の意思表示をするシャレイドを見て、モートンが満足そうに破顔した。
「願ったりだ。よろしく頼むぞ、シャレイド」
「全く、《オーグ》なんて与太話は全部お前に押しつけるつもりだったのに。結局巻き込まれるのか」
「お前こそ、俺の思考を読んでる割には脇が甘い。なるほど、自分の力を過信するとこうやって足元を掬われるんだと、よくわかったよ」
「抜かせ」
 苦笑するシャレイドの顔からは、いつの間にか険が削ぎ落とされている。その顔を見て、モートンは胸中に俄に懐かしい想いが溢れかえるのを感じた。ジェスター院の寮で共に過ごしていた頃によく目にした表情と、目の前で唇の片端を吊り上げた赤銅色の笑顔は、よく似ている。
「俺が死ぬまでに、《スタージアン》との連絡手段はなんとかしておけ」
 シャレイドは平常運転であることを示すように薄い笑みを浮かべながら、唐突に物騒なことを口にした。
「《オーグ》と向き合うとしても、どうせ俺が死んだ後の話だ。それまでに恒星間通信を発明するなりなんらか考えておかないと、いざというときにどうしようもないぞ」
「出来るものならそうしたいものだが。恒星間通信なんて、そう簡単に言ってくれるな」
「ほかの手段でもいいんだ。例えば《クロージアン》は一度でも《繋がって》しまったら、二度と《繋がり》を解くことは出来ないのか?」
「無理だな。ほんの数時間程度の《繋がり》ならともかく、一定期間以上の《繋がり》は、無理矢理断とうとすれば死に至る……」
 当たり前のように答えながら、突然何かに思い当たったかの如く、モートンの切れ長の目が一杯に見開かれた。
「まさか、《スタージアン》は《繋がり》を解くことが出来るのか?」
 思わず椅子から腰を浮かせて、両手をテーブルの端についたモートンは、シャレイドに食い入るようにして顔を突き出していた。必死の形相を前にして、シャレイドはこめかみに人差し指を当てながら、記憶を呼び覚まそうと眉をしかめる。
「《スタージアン》の思念に触れたときに見た。大量の《繋がり》を解いた過去が、一度だけあったはずなんだ」
「そんなことが……」
 驚きを拭えないままに、モートンが椅子にすとんと腰を落とす。
「信じられない。少なくとも《クロージアン》は、《繋がり》を解いたことはない」
「あいつらの記憶を全て覗いたわけじゃないが、覚えている限りではその一度だけだ。二度目がないのは、なんらかの副作用があったのかもしれない」
 シャレイドはこめかみから外した人差し指をしばらく漂わせながら、やがてその指先をぴんと真っ直ぐ上に立ててみせた。
「よし。《繋がり》を解く方法は、俺が聞き出してやる。何年かかろうとも、必ずだ」
 自分自身の言葉に何度も頷きながら、シャレイドの表情が急激に明るさを増す。混沌の中に一条の光を見出したかのように、黒い瞳の奥にはふつふつと希望が湧き上がっているようにすら見えた。
「どうせあの、気色悪い連中と顔を突き合わせるんだ。それぐらいの役得が無けりゃ割に合わない」
「お前がそれを聞き出して、なんの役得があるんだ?」
 モートンに尋ねられて、シャレイドは当然といった顔を見せた。
「そりゃあ、決まっているだろう。お前を《クロージアン》の《繋がり》から解くためさ」
 自明の理だとでも言いたげに答えると、シャレイドは立てていた指先をそのまま、軽い驚きに包まれているモートンの顔に向ける。
「嫌とは言わせないぜ。《クロージアン》と《スタージアン》の仲立ちは引き受けよう。その代償は、モートン・ヂョウの解放だ」
「……了承しよう」
 シャレイドの要求に対して頷き返すモートンの顔に、穏やかな笑みが広がっている。その笑顔を見て、シャレイドもまた口元に薄い笑みを浮かべた。
「俺は《クロージアン》でもなんでもない、ただのモートン相手に、立方棋(クビカ)の決着をつけたいんだよ」
「今なら簡単に勝てるんだろう? みすみすチャンスを見逃すとは、奇特な奴だな」
「お前こそ、今のうちに錆びついた頭をよく磨き直しておけ。いざ対局のときに泣き言を言われても、容赦はしないぜ」
 お互いに軽口を叩き合うふたりが顔を見合わせて、やがてどちらからともなく笑声が上がる。
 夜の帳に包まれたガラス張りのテラスの中で、テーブルを挟んで笑い合うふたりの姿は、十年前のジェスター院でしばしば見受けられた光景と少しも変わるところはなかった。

 派手ではないが品の良さが窺える、落ち着いた雰囲気のリビングに、調度の行き届いた家具が自己主張しすぎない程度に配置されている。重厚な窓枠に囲まれた窓の向こうには青々とした樹木が生い茂り、その隙間の向こうにはなだらかな丘陵が広がる様が覗く。ガラス越しに射し込む、木漏れ日に照らし出された黒い丸テーブルが、この室内の主役だった。
 磨き抜かれた黒御影石製の、いかにも質量がありそうなそのテーブルは、天板の中央にホログラム映像の投影盤が嵌め込まれている。その上に節くれ立った、血管の浮いた手が翳されると、投影盤は音もなく淡い光を放ち、間もなく九×九×九の格子体(ブロック)に区切られた立方体のホログラム映像が空中に映し出された。
 格子体(ブロック)の中には赤と青に色分けされた駒が、初期配置として登録されているオーソドックスな布陣を敷いている。映像に向かって小さく手を振ると、先頭に位置する赤い駒が三つ前のマスへと移動した。久方ぶりに起動させた立方棋(クビカ)専用のテーブルが、問題なく動くことを確かめて、クレーグ・ホスクローヴは満足そうに頷いた。
 このテーブルで立方棋(クビカ)を指したのは、もう二十年近く前だろうか。ひとり娘のカナリーがジェスター院に留学する直前に、父娘で対局したのが最後だった。カナリーの立方棋(クビカ)の腕前は、当時既に地元の同世代の間ではトップクラスだったが、父から見ればまだまだ指し手が素直すぎた。そのときも結局、カナリーが口惜しげな顔で投了したのを覚えている。
「次の対局では、絶対に勝ってみせるからね」
 負け惜しみのように言い放たれたその言葉は、結局実現することはなかった。四年後、カナリーは帰省途中に乗船した宇宙船の爆破テロに巻き込まれて、短い生涯を終えてしまった。そのときのことを思い返すと、ホスクローヴの眉間には未だに深い縦皺が走る。何年経とうとも、子に先立たれてしまった親の心に刻まれた傷跡は、痛みが引いたとしても消え去ることはない。
 テーブルの向こうに配されたチェストの上、ちょうど立方棋(クビカ)の立方体と同じ高さに飾られたいくつかの写真立てのひとつの中で、留学直前のカナリーが微笑んでいる。娘の笑顔に向かって、ホスクローヴは低い声で語りかけた。
「カナリー、久々にこのテーブルの出番だよ。これならお前もよく見えるだろう」
 テーブルの周りには、肘掛け椅子を三脚用意した。対戦者用の二脚のほかに、観戦用の一脚だ。
「私も現役を退いてから、もう何年も立方棋(クビカ)を指していない。果たして今の私が相手を務められるか自信は無いが……」
 ホスクローヴがスタージア星系の敗戦の責を負い、銀河連邦軍を退官してから既に十年近くが経過している。
 この十年足らずで銀河連邦と外縁星系(コースト)諸国は和平を結び、トゥーラン自治領が成立し、第一世代と外縁星系人(コースター)ははっきりと棲み分けられた。その後も両者の間で衝突がなかったわけではないが、以前に比べれば概ね平穏を保っていると言って良いだろう。
 ホスクローヴに現役復帰の声が掛かるということもなく、彼もまた、このままイシタナの我が家で朽ち果てていくことを望んでいる。
「隠居した老体をわざわざ訪ねてくれるというんだから、有り難い話だ。お前はジェスター院で友人に恵まれていたようだな」
 カナリーの写真から視線を逸らさないまま、ホスクローヴは肘掛け椅子のひとつに腰を下ろした。
「ふたりとも多忙な身だから、日程を摺り合わせるのも大変だったろう。特にテネヴェに詰めていた彼は、二十年ぶりの星間旅行だそうだ。お前に叱られないよう、しっかりともてなさなくてはな」
 ホスクローヴにとっても、しばらくぶりの客人である。いかめしい表情の裏で、内心は到着を心待ちにしていた。彼らに会って、カナリーのどんな思い出話が聞けるのか、待ち遠しくて仕方が無い。
 午後の柔らかい日差しを浴びながら、ホスクローヴは椅子に腰掛けたまま、客人たちの来訪に想いを馳せる。ゆっくりと時間が過ぎゆく中、肘掛けの端を指先で軽く叩いている内に、やがて家人が来客を告げた。
「わかった。今行く」
 ホスクローヴはそう返事をすると、椅子から立ち上がってリビングを後にする。向かった先にある玄関ホールからは、ふたりの男性の声が聞こえた。
 後に残されたリビングの、チェストの上で微笑むカナリーの写真の隣りには、ジェスター院時代の友人たちと共に映る彼女の写真が飾られている。
 シャレイドとモートンに挟まれて、揃って肩を組むカナリーの顔に浮かぶのは、曇りひとつない満面の笑顔であった。

(第四部 了)
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