第11話

文字数 836文字

「じゃあ、自分も行きます」
 桂木さんは若い女性を一人乗せて人力車を出そうとしていた。
 私は思わず言ってしまった。
「いってらっしゃい、気をつけて」



 私は桂木達也と結婚して、もうすぐ母になる。 
 達也は言った、男の子だから庸二という名前にしてもいいんだぜと。
 でも私はもうブレない。
 庸二さんは私の中だけで生きている。
「馬鹿ね、何を言ってるの。あなたがいつまでも走れるように翔琉(かける)はどうかな」
「キラキラネームみたいじゃないの? 庸二でいいじゃないか」
「しつこいのは、直して。悪い癖よ」
 私はこのしつこさに負けたのではない、底抜けに明るい瞳に、そして強さに負けただけ。あ、勝ち負けなんかじゃなかった、心を持って行かれたのだ。
 私が達也さんとこの先の人生を一緒に歩いて行こうと思ったスイッチはあの一言。
「気をつけてな!」だった。
 あの時……。彼らを見送り私はなぜだか流れる涙を止められなかった。平安神宮の前で号泣してしまった。
 気をつけてと私はあのとき、庸二さんに言えなかった。その一言が私に足りなかったばかりに庸二さんを失ったのではないかと。彼らの中の魔法の一言、それは「気をつけてな!」だった。
 この人となら、一緒に歩いて行けるかもしれない。
 底抜けに明るく一緒に笑える、庸二さんのことも知りながら私を受け入れてくれる人などどこにもいない。
「庸二さんのことが好きだった、カンナさんのことが好きだし。俺にも昔付き合っていた彼女が三人いたよ。顔も覚えてるけど。それとは何が違うの?」
 からっと言ってのける器の大きさと優しさに私はだめなら別れたらいいと思って、付き合うけどいいの? と尋ねた。
「ああ、はじめからだめで元々。カンナさんのことだけを守り続けるから」


 私の誕生日まであと少し。予定日は同じ日だった。
 ちゃんと産まれてくれば、私と同じ誕生日になる。きっとこの子は達也に似て脚が早いのだろうと私は大きなお腹を抱えて今日も夫を送り出す。
「いってらっしゃい、気をつけて」
 
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