第7話
文字数 2,650文字
交番を出ると、私たちは北東を目指して進んだが、小学校はみつからなかった。ぐるぐると方角も関係なく歩き回り、やっと辿り着いたときには、夕方近くになっていた。
「北東じゃなくて、南西じゃないか。おまわりさん、逆だよ」
大輝殿はぷんぷん怒りながら校門をくぐった。私とニャー太もあとに続いた。
学校は、ぱっと見にはがらんとしていた。だがよく見ると校庭の隅っこ、職員室脇のひさしの下に、折り畳まれた風船が何枚も重ねられていた。
校舎に足を踏み入れ、一階から順番に教室を見てまわった。行儀よく並んだ文机の上に、折り畳まれた風船が丁寧に置かれている教室もあれば、黒板脇の床上に、ばらばらになって散らばっている教室もあった。風船たちから聞ける亮太の様子も様々だった。苛立ったような手つきだったとか、淡々と抜いていったとか。
五年二組のクラスメイト達は、みな廊下に出されていた。折り畳まれて壁際に丁寧に重ねられている。教室のドアはぴたりと閉ざされていた。
ドアに嵌め込まれたガラスから大輝殿が中を窺うと、誰もいない教室の中で、亮太が椅子に着席して頬杖をつき、ぼうっと宙を見据えてフリーズしていた。机の脇に村正(=空気入れ)が立てかけられている。
大輝殿の姿を認めると、途端に活動を再開した。一瞬で目がぱっと輝いた。がたんっと腰を浮かせた。
「遅いじゃねぇか。待ちくたびれたぜ」
亮太は続けた。
「まあ今のは言葉のあやで、全然待ってなんかなかったんだけどな」
「やあ。来たよ」
大輝殿は開いた教室のドアに手をかけたまま、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ニャー太も連れてきたよ」
「ニャー太!」
亮太が口元を綻ばせて腕を伸ばすと、ニャー太は応えるようににゃおんと鳴いて、一目散に亮太のもとへ飛び込んでいった。そして伸ばされた腕をするりとすり抜けて、開いた窓からベランダへ飛び出していった。
ごろりごろりとベランダで転がって遊んでいる。
「きれいな教室だね」
大輝殿は教室に入ると、腕を伸ばしたまま硬直している亮太にお話しかけになる。
亮太は気を取り直した様子で、はん、甘いな、と何が甘いのかよくわからないことを言うと、机の上にひょいと尻を乗せてふんぞりかえり、大輝殿を見下ろした。
「何しにきた、大輝」
「お願いしにきたんだ」
「お願い?」
「みんなの空気、抜かないでよ」
「できない相談だな」
「そうでもないと思うよ」
「そのお願いのために来たのか」
「そうだよ」
「もし俺がいやだと言ったらどうする」
「困る!」
「どれくらい困る」
「すごく困る!」
亮太は足を組んでしげしげと、一文字に口を結んだ大輝殿を眺めた。それからふいと視線を逸らして、ここではないどこかを覗き込む目になった。
「大輝。あのな。俺も以前は、空気を入れてまわってた」
「うん」
「でもいやになった。丈夫な奴は空気を入れてやると、すぐふわふわと風に吹かれていっちまう。ヤワな奴はこまめに空気を入れてやらないとすぐ萎んじまう」
大輝殿はうなだれるように頷いた。「仕方ないよ」
「風の強い日に窓を開けておいたら、父さんはどっかへ行っちゃった。遠くへ行っちゃったみたいで、もうみつからない。母さんの方は穴がいくつか開いちゃって、空気を入れても入れても膨らまなくなった」
「セロテープ貼ってもだめ?」
「試した。だめだった」
「そう」
「俺は、どうして自分だけこんなことしなくちゃいけないんだって思うようになった。なあ大輝、一生懸命空気を入れて何になるっていうんだ。空気なんか抜いて、折り畳んで押し入れに仕舞っておいた方が良かったじゃねえか」
「それじゃかわいそうだよ」
「可哀想なもんか。風船なんか嫌いだ」
「亮太がかわいそうなんだよ。亮太は風船が嫌いじゃないよ。嫌いだったら割ってるはずだよ。割れないから空気を抜くんだ」
「うるさい。勝手に決めつけるな」
「亮太はさびしいんだよ」
「だまれ。なんだよ。そんなこと言いに来たのかよ。おまえと一緒にすんな!」
亮太は苛立たしげに髪をばりばりと掻いた。大輝殿は困ったように立ち尽くして、うつむいてしまった。
私は腹が立つ。せっかくの大輝殿の慰めを、亮太はどうして素直に受信しないのであろうか。受信機能を備えていないのだろうか。
「もういいよ!」
亮太が怒鳴る。
「用事済んだならどっか行けよ! もうおまえの町には行かないから!」
亮太が退出を促す。
「いやだ! ていちょうにおことわりする!」
大輝殿が丁重にお断りする。
「お断りすんな!」
「おとこわりする!」
「帰れよ!」
「いやだ!」
大輝殿、大輝殿、こんな奴は放っておいて私と一緒に空気入れをしようよ。私はとことこと近寄っていって大輝殿を見上げた。
でも大輝殿は既に空気入れをしていた。亮太の顔から目を反らさないまま、口を引き結んで、小さな両手を宙で握りしめている。言い争いながら、握った両手を小さく揺らしている。きっと空気入れをしているのだ。亮太に空気を入れるのかもしれない。
「くそ。わからん奴だな」
亮太が村正(=空気入れ)を手にとると、ぶんと一振りして威嚇した。取っ手を握りしめて腰だめに構える。
「怪我したくなきゃ帰れ!」
大輝殿がびっくりして目を見開いた。
「ぼくの空気、抜くの?」
「違うよバカ。殴るって意味だよ。抜けるなら空気抜いてやるけどな。ないだろ! 空気穴!」
「ないよ! それにバカって言う方がバカなんだよ!」
「最低だ。むかつくよ。一番欲しいやつに空気穴がない」
「うん。ぼくにも空気穴があったらなあ……」
「空気穴」
亮太は意外そうに首をかしげた。
「ほしいのか、おまえも」
「ほしいよ。空気穴があったら空気入れられるでしょ。ぼくも風に吹かれて空飛んでみたい。亮太も空気穴ほしい?」
「ほしい」
「亮太も空飛びたいんだ」
首を振った。「空気穴があったら、空気を抜いて折り畳んでしまえるだろ」
「…………」
大輝殿は黙した。
亮太は、もういいよ、と吐息をつくと、構えていた空気入れを下ろした。気の抜けた様子で、すとんと椅子に尻を乗せる。
「おまえの好きなようにすればいいよ」
大輝殿はしばらくまごまごとしていた。何を言えばわからない様子で。
それから、自分の空気入れを掲げて、一緒に空気入れしようよ、と言った。
「北東じゃなくて、南西じゃないか。おまわりさん、逆だよ」
大輝殿はぷんぷん怒りながら校門をくぐった。私とニャー太もあとに続いた。
学校は、ぱっと見にはがらんとしていた。だがよく見ると校庭の隅っこ、職員室脇のひさしの下に、折り畳まれた風船が何枚も重ねられていた。
校舎に足を踏み入れ、一階から順番に教室を見てまわった。行儀よく並んだ文机の上に、折り畳まれた風船が丁寧に置かれている教室もあれば、黒板脇の床上に、ばらばらになって散らばっている教室もあった。風船たちから聞ける亮太の様子も様々だった。苛立ったような手つきだったとか、淡々と抜いていったとか。
五年二組のクラスメイト達は、みな廊下に出されていた。折り畳まれて壁際に丁寧に重ねられている。教室のドアはぴたりと閉ざされていた。
ドアに嵌め込まれたガラスから大輝殿が中を窺うと、誰もいない教室の中で、亮太が椅子に着席して頬杖をつき、ぼうっと宙を見据えてフリーズしていた。机の脇に村正(=空気入れ)が立てかけられている。
大輝殿の姿を認めると、途端に活動を再開した。一瞬で目がぱっと輝いた。がたんっと腰を浮かせた。
「遅いじゃねぇか。待ちくたびれたぜ」
亮太は続けた。
「まあ今のは言葉のあやで、全然待ってなんかなかったんだけどな」
「やあ。来たよ」
大輝殿は開いた教室のドアに手をかけたまま、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ニャー太も連れてきたよ」
「ニャー太!」
亮太が口元を綻ばせて腕を伸ばすと、ニャー太は応えるようににゃおんと鳴いて、一目散に亮太のもとへ飛び込んでいった。そして伸ばされた腕をするりとすり抜けて、開いた窓からベランダへ飛び出していった。
ごろりごろりとベランダで転がって遊んでいる。
「きれいな教室だね」
大輝殿は教室に入ると、腕を伸ばしたまま硬直している亮太にお話しかけになる。
亮太は気を取り直した様子で、はん、甘いな、と何が甘いのかよくわからないことを言うと、机の上にひょいと尻を乗せてふんぞりかえり、大輝殿を見下ろした。
「何しにきた、大輝」
「お願いしにきたんだ」
「お願い?」
「みんなの空気、抜かないでよ」
「できない相談だな」
「そうでもないと思うよ」
「そのお願いのために来たのか」
「そうだよ」
「もし俺がいやだと言ったらどうする」
「困る!」
「どれくらい困る」
「すごく困る!」
亮太は足を組んでしげしげと、一文字に口を結んだ大輝殿を眺めた。それからふいと視線を逸らして、ここではないどこかを覗き込む目になった。
「大輝。あのな。俺も以前は、空気を入れてまわってた」
「うん」
「でもいやになった。丈夫な奴は空気を入れてやると、すぐふわふわと風に吹かれていっちまう。ヤワな奴はこまめに空気を入れてやらないとすぐ萎んじまう」
大輝殿はうなだれるように頷いた。「仕方ないよ」
「風の強い日に窓を開けておいたら、父さんはどっかへ行っちゃった。遠くへ行っちゃったみたいで、もうみつからない。母さんの方は穴がいくつか開いちゃって、空気を入れても入れても膨らまなくなった」
「セロテープ貼ってもだめ?」
「試した。だめだった」
「そう」
「俺は、どうして自分だけこんなことしなくちゃいけないんだって思うようになった。なあ大輝、一生懸命空気を入れて何になるっていうんだ。空気なんか抜いて、折り畳んで押し入れに仕舞っておいた方が良かったじゃねえか」
「それじゃかわいそうだよ」
「可哀想なもんか。風船なんか嫌いだ」
「亮太がかわいそうなんだよ。亮太は風船が嫌いじゃないよ。嫌いだったら割ってるはずだよ。割れないから空気を抜くんだ」
「うるさい。勝手に決めつけるな」
「亮太はさびしいんだよ」
「だまれ。なんだよ。そんなこと言いに来たのかよ。おまえと一緒にすんな!」
亮太は苛立たしげに髪をばりばりと掻いた。大輝殿は困ったように立ち尽くして、うつむいてしまった。
私は腹が立つ。せっかくの大輝殿の慰めを、亮太はどうして素直に受信しないのであろうか。受信機能を備えていないのだろうか。
「もういいよ!」
亮太が怒鳴る。
「用事済んだならどっか行けよ! もうおまえの町には行かないから!」
亮太が退出を促す。
「いやだ! ていちょうにおことわりする!」
大輝殿が丁重にお断りする。
「お断りすんな!」
「おとこわりする!」
「帰れよ!」
「いやだ!」
大輝殿、大輝殿、こんな奴は放っておいて私と一緒に空気入れをしようよ。私はとことこと近寄っていって大輝殿を見上げた。
でも大輝殿は既に空気入れをしていた。亮太の顔から目を反らさないまま、口を引き結んで、小さな両手を宙で握りしめている。言い争いながら、握った両手を小さく揺らしている。きっと空気入れをしているのだ。亮太に空気を入れるのかもしれない。
「くそ。わからん奴だな」
亮太が村正(=空気入れ)を手にとると、ぶんと一振りして威嚇した。取っ手を握りしめて腰だめに構える。
「怪我したくなきゃ帰れ!」
大輝殿がびっくりして目を見開いた。
「ぼくの空気、抜くの?」
「違うよバカ。殴るって意味だよ。抜けるなら空気抜いてやるけどな。ないだろ! 空気穴!」
「ないよ! それにバカって言う方がバカなんだよ!」
「最低だ。むかつくよ。一番欲しいやつに空気穴がない」
「うん。ぼくにも空気穴があったらなあ……」
「空気穴」
亮太は意外そうに首をかしげた。
「ほしいのか、おまえも」
「ほしいよ。空気穴があったら空気入れられるでしょ。ぼくも風に吹かれて空飛んでみたい。亮太も空気穴ほしい?」
「ほしい」
「亮太も空飛びたいんだ」
首を振った。「空気穴があったら、空気を抜いて折り畳んでしまえるだろ」
「…………」
大輝殿は黙した。
亮太は、もういいよ、と吐息をつくと、構えていた空気入れを下ろした。気の抜けた様子で、すとんと椅子に尻を乗せる。
「おまえの好きなようにすればいいよ」
大輝殿はしばらくまごまごとしていた。何を言えばわからない様子で。
それから、自分の空気入れを掲げて、一緒に空気入れしようよ、と言った。