手塚治虫 ネオ・ファウスト

文字数 3,317文字

大阪。昼のスターバックス。店内は清潔感のあるシックなデザインで、それでいて温かみを感じる。店内の一つのテーブルに、高校生の男女が向かい合って座っている。男子高校生はスターバックスラテを、女子高校生はキャラメルマキアートを飲んでいる。


手塚治虫(てづかおさむ)って知ってるやろ?
北野(きたの)出身の漫画家?もちろん、知ってる。面白い作品見つけたん?

見つけた。正直、詩乃(しの)が好きなジャンルやないかもしれんけどな。それに、描写がちょっと・・なんというか、大人な部分というか・・刺激的なとこあるし・・。でも、詩乃ってシェークスピアとか聖書とか読んでるやろ?中学生のときにシェークスピアの四大悲劇とか全部読んだんだっけ?まあ、少なくとも、背景となってる文学作品とかは読んでみたいっておもうかもなあ。

ふーん。じゃどんなんかおしえてや。

もちろん、そのつもりや。というか、そのために詩乃に会ってるといっても過言(かごん)ではない。まず、作者から。手塚治虫は大阪生まれで、5歳の時に宝塚(たからづか)に移ったらしい。で、大教大(だいきょうだい)の付属に入学するんやけど、彼の創作人生は小学生のときからはじまったらしいわ。昆虫採集にも興味もってて、治虫(おさむ)ってのは、オサムシって虫にちなんで使い始めたらしいな。その後、高校、臨時の医学専門学校へと進むんやけど、専門学校の学生のときに送った作品がきっかけで、四コマ漫画の連載を依頼され、漫画家としてデビューすることになったんや。



はやくから漫画を描いていたんやね。

せやねん。漫画を描くために生まれてきたような人やったんやろな。まあ、ずっと順調にいったわけではないみたいやけどな。で、手塚作品には、鉄腕アトム、ジャングル大帝、ブラック・ジャック、いろいろと有名な作品があんねんけど、名作文学の漫画化もやってたんや。ドストエフスキーの『罪と罰』とか、詩乃の好きそうな『ベニスの商人』とかも漫画化されてる。『旧約聖書』って作品もあるけど、これはキリスト教の立場からとらえた世界観かもな。ユダヤ教は『旧約』って言葉、使わへんし、バチカンから、イタリアの国営放送で流すアニメをつくってほしい、クリスチャンではない手塚が描く聖書の世界が見たいって依頼がきたのがきっかけらしいし。



そうなんや。おもしろそうやね。それで、紹介したい作品ってどれなん。

紹介したい作品はな、『ネオ・ファウスト』ってやつや。ゲーテって知ってるやろ?手塚はゲーテが書いた『ファウスト』って戯曲(ぎきょく)を中学生ぐらいのときに繰り返し読んでたらしい。で、生涯で3回、ファウストの物語をつくろうと試みてるんや。『ネオ・ファウスト』のほかには、『ファウスト』とか『百物語(ひゃくものがたり)』って作品がそうやな。



ファウスト伝説は、現代にいたるまで、いろんな人が作品にしてるわね。

せやな。自分の人生に満足せず、悪魔と魂を引き換えに現世での幸福を追求するみたいな。それと、ゲーテの『ファウスト』の序章、天上の序曲ってところは、ヨブ記(セフェル・イヨヴ、סֵפֶר אִיּוֹב)冒頭とかなり似てる。ヨブ記だと、神がしもべのヨブのことを、地上に彼ほど神をおそれ、悪を避けているものはいないって言うと、サタンは、財産や身体に災いがあると神を呪うとかっていうやん?で、神が、命を奪うのはいけないが、サタンの好きなようにしてよいって言うと、サタンがヨブをひどい皮膚病にして苦しませて、それでもヨブは、神から幸福をもらったんだから、不幸もいただこうって言って(くちびる)で罪を犯さなかったとかなんとか。




そうやね。ヨブ記はほかにも、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など、多くの文学作品に影響を与えたって聞いたことがあるわ。

で、ゲーテの『ファウスト』の「天上の序曲(じょきょく)」やと、神と悪魔メフィストフェレスが賭けをして、神は、メフィストフェレスが主のしもべであるファウストを誘惑しても、善い人間は正しい道を忘れないってことに賭け、メフィスト・フェレスは、自分が誘惑すれば、すぐに悪魔の道へ歩むようになるってことに賭けるって描かれてるんや。



ふーん。そうなんやね。で、『ネオ・ファウスト』はどうなん?

せやな、実はこれ未完の作品やねん。ただ、アニメ用のシナリオは完成してたらしく、その冒頭では、神とメフィストが()けをするって感じらしいわ。漫画の分野は、生命科学のSFやろな。テーマは生命に関するものやと思うけど、未完やし、正直ようわからんわ。まあ、手塚の講演録を参考にすると、遺伝子を操作して、人間をデザインしたり、新しい生命を生み出す考えとかに対する拒否反応を表現するものだったんかもしれん。




ファウスト博士は悪魔の道に誘惑されるん?
んー、まあ、そうやな。冒頭は学生運動の場面から始まる。で、主人公はNG大学で50年、生命科学の研究に没頭してきた一ノ関って先生や。学生運動にはまったく関心ないってキャラやな。で、一ノ関先生は50年、研究してきたんやけど、宇宙の真理はまったくわからず、生命の本質も何一つわからないって思ってて、すごく絶望してる。研究しようにも、残された時間がないんや。それで、毒を飲んで、死の瞬間に意識があったら、死後の世界についてわかるんじゃないかって考えて、自殺しようとする。まあ、このへんは人生に満足しないファウスト博士って感じやな。ちなみに、一ノ関先生はアインシュタインみたいな顔してるで。
そうなんやね。

でな、一ノ関先生は、新しい人生で、メフィストを自由に利用し、快楽の世界を味わいたい、それに満足し、「時よとまれ、おまえはうつくしい」っていったら、魂をゆずりわたすからっていって、メフィストと契約してしまうんやな。メフィストは女悪魔って感じで描かれてる。ほんで、時空を超えて移動した後、一ノ関先生はメフィストの薬で若返り、その後、生命体をつくりだす造物主(ぞうぶつしゅ)となるため、NG大学で生命を研究するって展開になってなるんや。



スケールの大きなお話みたいやね。

せやろ?でも漫画は未完やからなあ。まあアニメ用のシナリオやと、人工細胞から、理性のない、ただ殺戮(さつりく)と破壊を実行する兵士からなる軍団をつくって世界征服を試みるんやけど、クローン人間が暴走してしまう。で、かつて恋をしていた女性がクローン人間に襲われる事を知って救助に向かうことになる。最終的に、ファウストは、燃えさかる廃墟(はいきょ)の中で、愛する女性を抱えながら、自分の力で戦ったことの充実感を感じ、思い残すことはないとして、契約の言葉を口にするんやな。で、そんとき、瓦礫(がれき)がふたりを襲ってくるんやけど、時が止まって、メフィストがあらわれるんや。ただ、ファウストが、このとき、メフィストと対決する覚悟を示したら、ふたたび時が動き出す。それで、瓦礫に埋もれて死ぬんやけど、ファウストと、彼が愛した女性の2つの魂は DNAの二重らせんのような軌跡(きせき)を描きながら、やがて星空へ1つのひかりとなって消えていく。昇天ってやつやろな。『ファウスト』も『百物語』も主人公の魂は救われる結末になってるし。ただ、これはアニメの結末であって、漫画では地獄に()とされる構想も検討されてたらしいわ。



完成した作品、読んでみたかったね。

せやねん。気になって夜も眠れん感じになってしまうねん。詩乃ちゃん、続き描いてくれへん?


え?あたしが?ムリムリ。

もうしばらくスターバックスでおしゃべりした後、2人は店を後にし、HEPFIVE《ヘップファイブ》の観覧車へと向かった。



主な参考資料

NHK. 1999. 手塚治虫 世紀末へのメッセージ

ゲーテ作, 相良守峯訳. 1958. 天井の序曲, ファウスト第一部. 岩波書店 pp.23-30

手塚治虫. 2011. ネオ・ファウスト (手塚治虫文庫全集) . 講談社

German Bible Society. Job. Biblia Hebraica Stuttgartensia








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