第11話
文字数 2,000文字
「ママあ、あの人、私のこと天使だって。馬鹿じゃないの。あはは~」
太一の新しい天使は、スナックのバイトをしている子持ちの若い女だった。
「私、困るって言ったんです~。ろくでなしだけど旦那もいるし、ママの彼氏とそんなことできないって。でも、あのひと、強引だから~」
幸子はグラスを磨きながら、女の話を聞いていた。
女の言っている「ママ」が自分のことなのか、他人のことなのか、いまいちよくわからなかった。誰かの物語を聞いてるような、そんな感覚だった。
「あそこの大きい男って、やっぱり欲求もすごいんですね」
女は勝ち誇ったような顔をしていた。
どうして? 幸子にはいまいちわからない。
男ばかりに揉まれてきた幸子には、同性の悪意が理解できないのだった。
それでも太一が「別れたい」と土下座したときには、体中の血が騒いだ。
「どうして? 遊びじゃないの?」
「俺、遊びなんてできないよ。知ってるだろ」
知ってるだろって、知らないよ。
どうして私がこいつについて把握しなければならないのだ。
勝手に好きと言って腰を振り、天使と言って持ちあげといて、梯子を外す。
こいつも業界の男たちと一緒だ。
所詮、お祭り騒ぎがしたいだけのオスだったのだ。
こんなことは慣れている。怒ってもむなしいだけだ。
感情を殺して、お酒で流し込んで、笑いながら眠ればいい。
そう思ったが、幸子の体中を駆け巡る激しい血流は、おさまらなかった。
幸子は自身の握りしめた右手が震えていることと、太一のすぐそばに黒い塊があることに気付く。何だろう? 老眼がはじまったのか、最近視力がどんどん落ちていた。幸子はそれが何かを認識するために、じっと見つめた。
そして、それが何かがわかったとき、幸子は初めてこれまでしてみたかったことをしようと思った。
自分にまたがり無様に腰を振り、性を絞り出したら何事もなかったかのように離れていく男たちにしてみたかったこと。
「頼むっ! 別れてくれ」
太一が再び床に頭をつける。
幸子は、太一のその頭を鉄アレイで叩いてみる。
黒い鉄アレイは思ったよりもずっと重かった。
幸子は持ちあげるときにはぐっと右腕に力を入れたが、それを振り下ろすときはそれほど力をかけなかった。
持ちあげられた鉄アレイが再び床に戻ろうとする力を、そっと太一の頭のほうへ導くだけで済んだ。
「ぎゃっ!」
鉄アレイと床に挟まれた太一の頭はものすごい音を発し、続いてものすごい量の血を噴水のごとく周囲にまき散らした。
太一は何度かびくびくと全身を痙攣させたが、二度と立ち上がることはなかった。
どうしよう。どうしたらいい。
目の前に人が倒れている。たぶん、死んでいる。
鉄アレイ(幸子と付き合い始めた太一がダイエット用に購入したものだ)で頭をかち割ったのはこの私だ。
大変な状況にあるのに、幸子はどこか他人事だった。
ずっとこんな状態が続いている。自分のことなのに、どこかふわふわとしていて実感がなく、ドラマや映画の中の出来事のように感じてしまう。
ドラマや映画に出ようとしていた暮らしが長かったせいか。
それがついにはかなえられなかったからか。
私は「私」を非日常の世界に置いてきてしまったのか。だとしたら、どうしてそれをいつまでも取り戻せないのか。
それは誰のものでもない、自分だけのもののはずなのに。
幸子にはなにもわからない。
「私、馬鹿だから~」
いつの頃からだろう。この感じは。楽なんだけど、泣きたくなるような、苦しくなるようなこの感じ。
私は「私」をついに取り戻せなかった。
いつかは・・・そう願う気持ちも萎み、今ではすっかり枯れてしまっている。
しかし、こうなってしまった今、「私」を取り戻せなかったのは好都合だ。
私が「私」を手にしていたら、今頃とっくに私はくるっていたかもしれないのだから。
「こんなふうにぼんやりとしか痛みを感じないんだから、やっぱり、幸子の幸は幸せの幸だね~」
幸子は再びベランダのほうを向き、目の前の棟の中心にある部屋を見る。
そこの灯りはとっくに消えていた。
母は朝早くに起きて、ビルの清掃のバイトに出かけていく。そのため就寝がすこぶる早い。
「あんたじゃなくて、私は父さんと居たかったよ。自分と似た父さんに」
でも、もういい。そんなことも、もう考えたくはなかった。
「もう、どうでもいいけどね」
幸子はベランダを囲っているコンクリに足をかける。太一の部屋は最上階の十四階にある。ここから飛んで、助かることはあるまい。
きっと大丈夫。死ねる。
幸子は足下のコンクリを蹴って、強く飛び出した。
瞬間、恐怖に包まれる。それは久々に幸子が「私」を取り戻した瞬間だった。
幸子は笑いながら、夜の闇に落ちていく。
太一の新しい天使は、スナックのバイトをしている子持ちの若い女だった。
「私、困るって言ったんです~。ろくでなしだけど旦那もいるし、ママの彼氏とそんなことできないって。でも、あのひと、強引だから~」
幸子はグラスを磨きながら、女の話を聞いていた。
女の言っている「ママ」が自分のことなのか、他人のことなのか、いまいちよくわからなかった。誰かの物語を聞いてるような、そんな感覚だった。
「あそこの大きい男って、やっぱり欲求もすごいんですね」
女は勝ち誇ったような顔をしていた。
どうして? 幸子にはいまいちわからない。
男ばかりに揉まれてきた幸子には、同性の悪意が理解できないのだった。
それでも太一が「別れたい」と土下座したときには、体中の血が騒いだ。
「どうして? 遊びじゃないの?」
「俺、遊びなんてできないよ。知ってるだろ」
知ってるだろって、知らないよ。
どうして私がこいつについて把握しなければならないのだ。
勝手に好きと言って腰を振り、天使と言って持ちあげといて、梯子を外す。
こいつも業界の男たちと一緒だ。
所詮、お祭り騒ぎがしたいだけのオスだったのだ。
こんなことは慣れている。怒ってもむなしいだけだ。
感情を殺して、お酒で流し込んで、笑いながら眠ればいい。
そう思ったが、幸子の体中を駆け巡る激しい血流は、おさまらなかった。
幸子は自身の握りしめた右手が震えていることと、太一のすぐそばに黒い塊があることに気付く。何だろう? 老眼がはじまったのか、最近視力がどんどん落ちていた。幸子はそれが何かを認識するために、じっと見つめた。
そして、それが何かがわかったとき、幸子は初めてこれまでしてみたかったことをしようと思った。
自分にまたがり無様に腰を振り、性を絞り出したら何事もなかったかのように離れていく男たちにしてみたかったこと。
「頼むっ! 別れてくれ」
太一が再び床に頭をつける。
幸子は、太一のその頭を鉄アレイで叩いてみる。
黒い鉄アレイは思ったよりもずっと重かった。
幸子は持ちあげるときにはぐっと右腕に力を入れたが、それを振り下ろすときはそれほど力をかけなかった。
持ちあげられた鉄アレイが再び床に戻ろうとする力を、そっと太一の頭のほうへ導くだけで済んだ。
「ぎゃっ!」
鉄アレイと床に挟まれた太一の頭はものすごい音を発し、続いてものすごい量の血を噴水のごとく周囲にまき散らした。
太一は何度かびくびくと全身を痙攣させたが、二度と立ち上がることはなかった。
どうしよう。どうしたらいい。
目の前に人が倒れている。たぶん、死んでいる。
鉄アレイ(幸子と付き合い始めた太一がダイエット用に購入したものだ)で頭をかち割ったのはこの私だ。
大変な状況にあるのに、幸子はどこか他人事だった。
ずっとこんな状態が続いている。自分のことなのに、どこかふわふわとしていて実感がなく、ドラマや映画の中の出来事のように感じてしまう。
ドラマや映画に出ようとしていた暮らしが長かったせいか。
それがついにはかなえられなかったからか。
私は「私」を非日常の世界に置いてきてしまったのか。だとしたら、どうしてそれをいつまでも取り戻せないのか。
それは誰のものでもない、自分だけのもののはずなのに。
幸子にはなにもわからない。
「私、馬鹿だから~」
いつの頃からだろう。この感じは。楽なんだけど、泣きたくなるような、苦しくなるようなこの感じ。
私は「私」をついに取り戻せなかった。
いつかは・・・そう願う気持ちも萎み、今ではすっかり枯れてしまっている。
しかし、こうなってしまった今、「私」を取り戻せなかったのは好都合だ。
私が「私」を手にしていたら、今頃とっくに私はくるっていたかもしれないのだから。
「こんなふうにぼんやりとしか痛みを感じないんだから、やっぱり、幸子の幸は幸せの幸だね~」
幸子は再びベランダのほうを向き、目の前の棟の中心にある部屋を見る。
そこの灯りはとっくに消えていた。
母は朝早くに起きて、ビルの清掃のバイトに出かけていく。そのため就寝がすこぶる早い。
「あんたじゃなくて、私は父さんと居たかったよ。自分と似た父さんに」
でも、もういい。そんなことも、もう考えたくはなかった。
「もう、どうでもいいけどね」
幸子はベランダを囲っているコンクリに足をかける。太一の部屋は最上階の十四階にある。ここから飛んで、助かることはあるまい。
きっと大丈夫。死ねる。
幸子は足下のコンクリを蹴って、強く飛び出した。
瞬間、恐怖に包まれる。それは久々に幸子が「私」を取り戻した瞬間だった。
幸子は笑いながら、夜の闇に落ちていく。