一、関東検非違使所

文字数 3,384文字

 東南の離れは下臈(げろう)の方々の居所で、母屋並びに廂の間には御簾(みす)屏風(びょうぶ)几帳(きちょう)で仕切られた局室(つぼね)が並んでいる。東廂(ひがしびさし)簀子(すのこ)を通って一番奥まで行くと漆喰壁で囲われた一室、塗籠(ぬりごめ)だ。そこは間口が格子になっていて、まるで檻のような設えなのだった。それでもこの離れの局室の一つということになっているが、そこに居るのは下臈ではない。格子から中を覗くと、光がうっすらと射し込む藁床の上に襤褸のようなものが載っていることに気づくだろう。その襤褸は藁の上で全く動かないのだが、飽きずにじっと見ていると、かすかに上下に動いているのが分かる。息をしているのだ。
 足音が近づいて来る。しっかりとはしているが調子の崩れた足音だ。それに襤褸が反応して頭をもたげ、炯炯と光る眼を格子の外の人影に注いだ。
「クサビ、判官(はんがん)様がお召しだ」
 クサビというのがその襤褸の名で、この関東検非違使所で走り隷(はしりしもべ)をしている女だ。走り隷とは野盗や罪人の追捕を担うものを言う。それならば域外の隷長屋にいるのがふさわしいはずなのだが、クサビは判官様の命で去る夏からずっと水と少しの食餌を与えられこの塗籠に幽閉されているのだった。その間、月日も分からず長い時が経ったがクサビはそれを甘受した。この度の罪穢はそれに値すると思ったからだ。
 妻戸の向こうから呼びかけた男はザワと言う衛士だ。悪い男ではないが、ここの大概の男どもに倣ってぞんざいで無愛想だ。ザワは入り口の錠を開けると塗籠の中に何かを差し入れた。それは水を張った手桶、洗いざらしの装束一式と櫛で、判官様に謁見するための支度道具だった。ザワは無言で入り口に佇立している。
 クサビは垢じみたものを脱ぎ棄て裸になると、床の藁を一掴みとり手桶の水に浸して体を拭いだした。クサビの細くしなやかで真白い背には鞭で打たれたような傷がいくつも刻まれている。傷は顔と乳房以外体中いたるところにあって、その数たるや傷に慣れた仕置き隷さえ目を見張るほどだ。クサビは髪を梳き終わり装束を整えると壁に掛かった(うちぎ)を羽織ってザワに声をかけた。
 クサビは袿姿で塗籠を出る時息をのむ。この牢屋のような塗籠が今のクサビの局室だが、それでも屋根のある場所はクサビにはありがたい。ここに来る前は雨曝しの藁草と変わらぬ扱いを受けていた。また、判官様謁見用に宛がわれた袿は特別なものだ。裸に襤褸のことが多かったクサビは、この錦糸の入った袿を渡されたときには、体全体が打ち震えて声にならない嗚咽を漏らした。無論、それらはクサビのものではない。もしもこの先、下手を打てば袿は没収され局室から放逐される。もとの藁草にもどるのだ。だから、ここに戻って来るために命も削る。心魂を月に奪われてもよい。それほど気を昂ぶらせている。
 クサビは東の回廊を歩く。前を行くザワは足を引き摺っている。以前走り隷とともに野盗を追捕したとき負った右足の傷のせいだ。それまではクサビと組むこともあったが、以後は庁内で走り隷を管理する任に就いている。
 二人が東対屋(ひがしのたいのや)を見上げる曲がりにさしかかった時、随身所からの橋廊を雉の尾のようなものが棚引いているのが見えた。きららのような光の帯となってクサビの行く手の先へ移動している。
 クサビはザワに聞こえないように舌打ちをした。今度もあいつと一緒かと思うと虫唾が走る。スハエ。この度判官様からお呼びがかかったのは、追捕の役ではないと予想していたが、あの男が呼ばれたのであれば確定といえる。その役があいつがいてこそ収斂するのは分かっているが、クサビにとっては気に障って仕方ない男なのだ。
 光彩は棚引きつつ回廊を曲がって進み、東中門の内の、真白く眩い空間に入って行った。そこがこれからクサビが伺候する判官様の居所の御前(おまえ)だ。クサビたちが光彩を追いかけるかたちで東中門をくぐろうとすると、クサビだけ衛士の長槍に止められた。ザワが少し先で立ち止まりこちらを振り返る。ザワの肩越しに見えたのは、光彩が御前を横切り勾欄(こうらん)を飛び越え簀子の奥の南廂の間に吸い込まれて行くところだった。
 衛士の男が槍の柄でクサビの頭を小突く。髪上げを忘れていると指摘したのだ。貴人に謁見するには女は髪を上げなければならない。クサビは腰紐を引きちぎって、走り隷にはしては長い黒髪を纏めると頭の上で器用に束ねた。衛士はほつれた前髪を槍の先で触れながら、苦笑いするとクサビを中に通した。この衛士はここでは感じのいい部類の男なのだ。
 ザワは、クサビを御前の(きざはし)の下に座らせると南廂(みなみびさし)の奥に向かって、
「走り隷、クサビを連れ参りました」
 と奏した。奥は沈黙が支配している。階の両脇に長槍を持った衛士が佇立しているが、そこを昇る者を峻別する以外は、常時何の反応もない。
「しばし待て」
 と言うなり、ザワはクサビの目前に蹲踞して動かなくなった。
 こうして御前に伺候するのはいく日ぶりか。この前は炎天の下で御前を穢したのだった。思い出すに恥がましいが、ここに戻れたのは一方ならぬ喜びである。御前を振り仰げばただただ美しい檜皮葺の上に判官様の威勢を示すがごとく高々と青い空が見上げられた。クサビが応召して二度目の秋だった。
 いつになく長い刻を御前で待っている。そのこと自体はクサビは苦痛でないが、苛立たしいのは南廂の間にスハエがいることだった。
 以前、何かに怯えた走り隷が間違って階を昇り南廂に一歩足を踏み入れようとしところが、階の衛士に槍で串刺しにされた。本来は蔵人以上の貴顕しか登れない聖域。走り隷の身分では決して上がることが許されない簀子の奥。そこにスハエがいる。あいつにしたところが走り隷に変わりないのだ。スハエは胡坐をかき、鼻くそをほじっては、それをこっちに向かって弾き飛ばしている。届くわけはないが所作のいちいちが腹立たしい。めったに表情を変えぬザワでさえそれを見上げて顔をしかめている。
 南廂の間のさらに奥、御簾の向こうの御座(おまし)の辺りに気配あった。この威圧感と異形の気配。噂では判官様は瞳が二つずつあるという。
スハエが奥に向かって這いつくばる。伺候する者ども全員がそれに倣う。
「判官様おなりー」
 関東検非違使判官である。判官とは在所長官と言えば分りやすいか。本来の長官は都にいる。ゆえに判官が在所の主として行政を司る。辺境の地、関東にあって従五位下という官位を持ち、さらに軍事・警察・裁判を統べるがゆえに、大守を凌ぐ権勢を誇る。
 関東検非違使所は、設置されて間もない役所だ。まだ三年を経ていない。関東であまたの奔星が降り注ぎ、人家はおろか山野も焼け尽くされた「大降星」の後、民草混迷を鎮めるために開庁したことになっている。しかしその初発が嬰天(えいてん)狩りであったということは、クサビやスハエたちのよう嬰喰使(えばみし)走り隷(はしりしもべ)として配属されているのでも明白なのだ。
 嬰天とは、人に奔星が憑いたものといわれている。嬰天は初め種子のように人の身中になりを潜めているが、何かの契機で人の心魂を核に結晶化して嬰天となる。その姿は核となる心魂によって異なり定かではない。嬰天も人と認められる間は害も少ないがひとたび人を失い本性を表せば必ず大なる災疫をもたらす。従って早々に所在を見出して嬰喰使によって解除(げじょ)しなければならない。
「クサビと言うか? そこの糞は」
 判官様の言であるはずがない。判官様の言伝の体でスハエが発した言葉だ。
「まさに」
「糞がクサビとは、言い得てよのう、スハエよ」
「仰せのとおりでございます」
「あの臭いといい、形といい糞そのもの」
「まさしく」
 スハエは自分に話しかけ自分に返事をしている。御前にいる者たちは皆、その滑稽さに笑いをこらえているが、スハエ一人そのことに気付いていない。
「スハエよ、この糞と共に、嬰天を狩ってまいれ」
「かしこまりましてござります」
「下がれ」
 スハエが平伏したまま南廂の簀子まで下がると、御簾の中の何かが母屋の奥に立ち去る気配がした。
 スハエは簀子の端まで来ると、勾欄に片足を乗せて、見下したようにクサビに向かって、
「糞、明日の明け、西へ出立だ。明晩方(かた)違(たが)えして南に下る。行程は三日。門前にて控えておれ」
 と言った。クサビは返事をしない。スハエは鼻を鳴らすと、勾欄をひと蹴りして飛び、東中門の向こうに消えた。その背に光彩を引きづりながら。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み