『湯けむりに消えた!?』

文字数 1,801文字

やれやれと。とりあえず、ビールを頼んでも?
もちろんです。


――お待たせいたしました。

ぷはー。やっぱこれだよね。

この近く、温泉街になってるところあるじゃないですか。

仕事の関係で何軒かハシゴして泊まったんだけど、そのたびビールをしこたま飲んで。

それでもまたビールってね? カレーは飲み物に思えないけど、ビールは水だね。

強いんですか?
強いのかなぁ。強いつもりでいたんだけど、疲れてたのかなぁ。

――ああ、いやね、ちょっと不思議なことに遭遇したんですよ。

と、いいますと?
宿泊した施設でね、温泉手形ってものをもらったのね。
ああ、別の温泉施設を半額で利用できるという。
そうそう。

それを持った観光客が昼でも夜でも浴衣着姿で闊歩していて。

なんかそういうのも風情があっていいなとは思うんだけど、なにせ、こっちは仕事で。

わざわざ別の温泉に入りに行かなくてもと、思ってたんですよ。

逆に近すぎて、私もあまり温泉には行かないですね。
でしょ。

それで、ビールを一杯飲んで、飯食って。

そこの仲居にこの旅館の裏の方に秘境の温泉があると聞いてさ。

しとしとと降っていた雨もやんだし、話のネタに行ってもいいかなって、まぁ、実のところ、混浴ってのもそそられて。

(笑)
ちょっと。ニヤニヤしないでくださいよ。
すみません。想像できたものですから。

まぁまぁまぁ、そうですよそうですよ。

ならばここで一句。


『湯けむりや 妻に内緒の 胸騒ぎ』

期待値を上げないでください。
俺だってテンション上がったのよ。

旅館の裏の出口からすぐ道筋になっていて、その秘境の温泉ってところに行けるのね。

自分の靴を持ってきて履いていってもいいけど、下駄も置いてあって。

それで、その道筋に下駄の跡がついてたんですよ。

誰かが先に行ってると。
そうだよ。しかも、女性ものの小ぶりの下駄で、小股で歩いてるようなんだよね。
特に浴衣着てると、はだけてしまいますものね。
そう。しかもだよ、その足跡が一筋しかない!
おお。盛り上がってきました。
もう、行くしかないじゃない。

俺もオヤジだから、浮かれすぎて転ばないように、慎重に、ぬかるみに足を取られないように歩いて行くと……

そこには、誰もいなかったんだ。

なるほど。それで酔っていたのかもしれないと。
上がり口に履き物もないし、脱いだ浴衣とかタオルも、なにもかも、ひとの気配がない。

その温泉場はとどのつまり。

その向こう側は川が流れてるし、道をそれたのなら、そのような足跡が残っているだろうけど、まっすぐ、一直線に温泉場に向かっていたんだ。

ひょっとすると、その方――仮に女性としておきますと、その女性はずいぶんと前に温泉へ行かれたのかもしれません。
まさか……。なにか事件に巻き込まれて帰らぬ人となったとか?
いえいえ、そうだとしたら、その女性を探しに来た人や捜査関係者の足跡で乱れていますよ。

そこには遺体もなにもなかったわけですから。

だったら、どういうことです?
雨が降っていたということですけど、女性が温泉場まで行ったときにはまだ雨が降っていなかったんですよ。

それで、出てくるころには雨が降ってぬかるんでしまった。

そういえば、何日か前まで天気がよかったのに、急にゲリラ豪雨みたいに強い雨が降って、そのあとはしとしと、というかんじに降ってましたよね。
ええ。下駄は二本歯ですから、その足跡が行きか帰りかわかりません。
いわれてみればそうだな。

つい興奮して温泉場に向かっていると思い込んでいた。

秘境ということですが、あまり人気がなかったようですね。

女性のあとは誰も行かず、そして、深く残った二本の下駄の跡は雨に流されずにそのまま残っていた――ということかもしれません、想像でしかないですが。

ま、そうだろうな、幽霊となって足下が消えて戻ってきた、なんてことでもなければ。

はぁ、そういうことなのか。

じゃあ、俺の頭もしっかりとしてたってことだな。

もう一杯、何かもらおうか。

かしこまりました。


こちらはいかがでしょう。ホワイトレディです。

白い湯けむりに消えた女性じゃないだろうね?
イメージとしてはそうなるでしょうか。
おもしろいね。
ジンベースのカクテルになります。

オレンジ系の甘めのリキュールと、レモン果汁で甘酸っぱいながらも、ちょっと強めのお酒です。

ふうん。いいね。おいしいよ。

失敗した初恋の味ってところかな。

それじゃここで一句。


『温泉街 淡い期待を 煙に巻く』

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