第6話

文字数 12,742文字


 その後ずいぶん長い間、僕は一人で過ごさなければならなかった。アルバイトをして、大学に通い、ときどき長い散歩に出る。空いた時間は本を読んだり、音楽を聴いたりして過ごした。僕はTにロバート・ジョンソンの話を聞いてからというもの、古いロックやブルーズの魅力に取り付かれていた。そこにはどれだけ()んでも尽きることのない滋養が溢れていた。僕はそれを吸い取り、ほとんどそれだけを(かて)にしてあの孤独な日々を生き延びていた。

 二年生の最初の学期が終わり、夏休みが来て、僕は(つか)の間実家に帰った。家族は温かく迎えてくれたものの、そこはもう僕の場所ではなくなっていた。なぜかそれが分かった。それでほどなくまた東京の外れに帰ってきて(僻地(へきち)だ)、基本的には似たような日々を送っていた。アルバイトがあるときはいいけれど、ないときには何をして時間を埋めればいいのか分からないこともあった。ときどき無性に恋人が欲しくなったが、もしいたとしても本質的には何一つ解決しないことを知っていた。だから何もせず、ただぼんやりとして時間を過ごした。気が向けば本を読んだり、音楽を聴いたりした。僕はどこにも進まず、にもかかわらず時は刻々と前に進み続けていた。ふと死について考えている自分を発見することがよくあった。

 やがて新しい学期が来て、秋に僕は二十歳(はたち)になった。両親は電話をかけてきて、「おめでとう」と言った。僕は「ありがとう」と言って、電話を切った。僕は用もないのに、ぐずぐずと大学の食堂に居残っていた。ガラス越しに、秋の夕暮れ時の空を見渡すことができた。何羽かのカラスが、どこかに向けて飛び去っていった。僕は過去のことを考え、そして未来のことを考えた。でもそのどちらも、結局は何の助けにもならなかった。

「おい!」とそのとき誰かが背後で叫んだ。僕は驚いて、とっさに後ろを振り返った。そこにいたのは誰あろうTだった。「なにたそがれてるんだよ。なあ、人生はまだ終わっちゃいないぜ」

「きっとそうなんだろうな」と僕は言った。

「『きっと』じゃないよ。まったく。それはそうと、君は今日誕生日なんだろ?」

「どうしてそれを?」

「そんなの学生証を盗み見たからに決まっているじゃないか。君なんかいつもぼんやりしているんだから朝飯前だ」

「そうか」

「そうかって・・・。なんだか大人しくなったな。オカマ音頭を忘れたか?」

「覚えているよ」

「そりゃあ覚えているさ。オ、カマになりたけりゃ・・・。ということでトシトシから誕生日プレゼントだ」

 彼はそう言ってピンクのリボンの付いた紙袋を僕に渡してきた。それを開けてみると、中には真っ赤なふんどしが入っていた。あの夜にTが身に付けていたものとまったく同じ型のものだ。「これは・・・」と僕は言って一瞬言葉を失ってしまった。

「どうだ?」と彼は言ってニヤリと笑った。「素晴らしいプレゼントだろ」

「一体どんなシチュエーションで着ければいいのやら・・・」

「ハッハッハ」とそこでTは笑い出した。何人かの学生が驚いたようにこちらを見ていた。「なあ、そんなの冗談だよ。まさか本当にこれが二十歳(はたち)のプレゼントだと思ったのか? 参ったね。なあ、いいか? 二十歳(はたち)といったら福井では大騒ぎだぞ。親戚中が集まって、酒を飲んで馬鹿騒ぎをするんだ。三日三晩な」

「本当に?」

「いや、本当じゃない。全部嘘だ。まあいいさ。だってめでたい日だもんな。俺が二十歳(はたち)になるのにはあと二カ月あるが、そんなことはどうでもいい。とにかく君は今日から大人になったんじゃないか」

「大人にね」

「なんだようれしくないのかよ」

「大人って何をするんだろう?」

「そりゃあ大人っぽいことさ。さあ、こっちが本当のプレゼントだ」。彼はそう言って背後から別の紙袋を取り出した。そこには高級そうなウィスキーのボトルが入っていた。

「なんかよく分からんが結構高いものらしいぞ」とTは言った。「トシトシが二人で開けろってさ」

「なんか悪いなそんなものもらって」

「悪くなんかないさ。なあどうしたんだよ? 一緒にドーナッツをたらふく食ったの覚えてないのか?」

「覚えてるさ」と僕は言った。「あのあと一週間胃が痛かった。いや、悪い。なんというかさ、今日はそんな気分なんだ。どっと沈んでいる」

「失恋でもしたのか?」

「失恋すらしていない」と僕は言った。そしてまっすぐ彼の目を見た。「最近なんだか自分が非常につまらない人間になったような気がするんだ。どうしてかは分からない。あるいはただ単純に歳を取っただけなのかもしれない。でもいずれにせよ、僕はここでこうして生きている。いいかい? こんなのはクソみたいな人生だ。自分でいうのもなんだけど、百パーセントクソみたいな人生だ。そしてそれは、これからもずっと続いていくんだ。生きている限りね。そんなのに何の意味がある?」

「君はちょっと悲観的過ぎるよ」と彼は言った。「今の段階で物事を判断するのは早過ぎる。俺にいえるのはそれくらいだな・・・。なあ、今ちょっと思ったんだが、君は自分をほかの人間と同一視していないか? だから彼らと同じような、くだらない大人になるんだと決めつけているんじゃないか?」

「どうだろう・・・。もしかしたらそうかもしれない。僕は彼らを一種のサンプルとして見ている。若者が歳を取るにつれて辿(たど)っていかなくてはならない一つの道筋の例として」

「それが間違っているんだ」と彼は指をパチンと鳴らしながら言った。「俺は今まで不思議に思っていたんだ。どうして君みたいな頭の良い奴が、こういつもいつも沈んでいるんだろう、とな。君は自分で自分を退屈な奴にしてきたんだ。本当はパンツ一丁でオカマ音頭を踊れる奴なのに、クールな振りをして夕暮れを見て(たたず)んでいる。そしてこう思う。ああ、俺はなんて駄目な奴なんだろう、とな。違うか?」

「たぶん違わない」と僕は言った。

「そうだろう。そうだろう。いいか? 君は本当は全然駄目な奴なんかじゃない。自分の頭を使えるし、踊りだって踊れる。歌も歌えるはずだ。ただ

に騙されているだけなんだ。日本の教育制度を考えた奴らだ。そいつらの目的はつまりこういうところにある。『君たちは自分の頭なんか使わなくていい。俺たちのいうことをきちんと聞いていなさい。いいか、逸脱しようとなんかするなよ。そんなのは落ちこぼれだ。我々の指示に従えば、立派な労働者になれる。そして国のために税金を納めるんだ。我々はその金を使って、美女たちとよろしくやってるからな! 毎日パーティー三昧(ざんまい)だ。ハッハッハ』」

「君は本当にそんなことを信じているのか?」と僕は笑いながら言った。

「ほら、笑った。やっぱりそうでなくっちゃな。まあ、さすがにそこまでは信じていないが、でも大体のところは合っているはずだぜ。システムがやっているのはつまりそういうことだ。『君たちには能力はない。自分を信じたりはするな。俺が定めたルールだけを信じろ。その内部にいる限り、食いっぱぐれはない。みんな仲良く生きていくことができる。少なくとも墓穴に落っこちるまでは』」

「僕だってそれくらいのことは分かっているさ。でも実際に生きていくためには働かなくちゃならない。意に染まないことだってやる必要があるだろう。僕らはいつまでも理想を追い求める子どもでいるわけにはいかないんだよ」

「子どもでいて何が悪い?」とそこで彼は言った。その目は真剣そのものだった。「なあ、子どもでいて何が悪いんだよ? 地球が何歳か知ってるか? 四十六億歳だぜ? 

。それに比べれば人間なんて全員同級生みたいなものじゃないか? 二十歳(はたち)も、六十歳も、八十歳もおんなじだ。みんな赤ん坊みたいなものだよ。そうは思わないか? 地球にとってみれば全部一瞬だ。ほらほら、可愛い赤ちゃんが生まれた。よちよち、良い子だね・・・。と思ったら老けて死んだ。さあお葬式だ。次はミサイルが飛んできて、みんな死んだ。文明も滅びた。でも僕ちんには何の関係もないもんね。だって宇宙の大きさに比べたら全部鼻くそみたいなものだからだ。ふんふんふんって感じなもんだ。俺はそう信じている」

「なかなかの極論だけどね」

「極論だろうとなんだろうと、それが事実さ。たしかに我々は地球ではない。人間だ。だから人間的時間軸を生きている。それは認めよう。しかしだね、それでも君の生き方はつまらな過ぎるよ。本当は俺たちもっと自由なんじゃないのかな? もっと自由に

なんじゃないのかな? だって明日何が起こるのかは、誰にも分からないんだぜ?」

「今思い出した」と僕は言った。「例の十字路の悪魔のことだ。あれは一体どうなった? あれ以来その話を聞いていなかったが・・・」

「それについては」と彼は言った。「こいつを飲んでからにしようや」


 彼はそのまま食堂で宴会を開くと言い張ったのだが――もちろんここは飲酒禁止である――僕としてはそんなつまらないことで大学当局に睨まれるのは嫌だったので、場所を変えることにした。始めは僕の部屋に行こうとしたのだが、途中でふと考えが変わり、ある別の場所に向かうことにした。

「なあ、河原に行こうぜ」と僕は言った。

 彼はそれに同意し、二人で歩いてそちらに行った。幸いさほど遠くはない。せいぜい十分くらいの距離だ。途中彼はコンビニで大量のおつまみを買い、宴会の準備を整えた。柿の種は? 干し芋は? ポテトチップスは? 焼きししゃもは? ええい、全部買ってしまえ! 支払いは彼の魔法のクレジットカードである。Tはさらに袋入りのバナナを買い、それをレンジで温めてほしいと言って、店員を困らせた。

「ねえ、どうして駄目なんです? マニュアルにそう書いてあるんですか?」

「いやあ」と大学生らしい男の店員は頭を掻きながら言った。「そういうわけではないんですが・・・」

「じゃあいいでしょう? インドでは今これが流行(はや)っているんですよ。ホットバナナっていうんです」

 店員は結局温めに応じ、Tはホットバナナを手に入れた。僕としてはそんなもの食べたくもなかったのだが、とりあえず彼が満足であればいうことはなかった。果たして本当にインドで流行(はや)っているのかどうかは謎だが。

 その河原は僕が長い散歩をするときにいつも通る場所だった。夕陽が綺麗に見える。風が通り抜け、周囲の草をさわさわと揺らす。そのあたりが少しだけ僕の田舎の町を思わせる。秋の空気は乾燥していた。哀しげな気配があたりには満ちていた。僕らが到着するのと同時に、太陽は山の()の奥に姿を消した。僕らは川の水のすぐ近くに腰を下ろし、ウィスキーを開けた。買ってきた紙コップにそれを注ぎ、乾杯をした。

二十歳(はたち)の誕生日、おめでとう」と彼は言った。

「どうもありがとう」と僕は言った。そして一気に飲み干した。

「それで」と燃えるように熱くなった胸を押さえながら僕は言った。「例の十字路のことだ」

「ああ」と顔色一つ変えずに彼は言った。なにしろ酒に強いのだ。「あの悪魔のことだな」

「そうだ」と僕は言った。「ずいぶん前にそのことを聞いて以来、君からその話を聞いていなかった」

「まあ、たしかにそうだ」と彼は当時と比べればずいぶん長く伸びた髪の毛を撫でながら言った。「正直俺も忘れていた(ふし)がある」

「忘れていた?」

「そうだ。というのも全然悪魔からの指令が来ないからだ。あのときあいつは、俺に実行部隊になってほしいと言ったんだ。そしてその代わり二十八まで生きさせてやる、と。俺は悪魔の資格を引き継いだはずだった」

(つの)はどうなった?」

(つの)は相変わらずだ。大きくもならなければ、小さくもならない。ちょっと触ってみるか?」

 僕はためしにそこを――両耳の少し上のあたりを――触ってみた。たしかに彼のいう通り、最初に会ったときから変わっていない。何かがあるような気配はあるのだが、大きくなっているわけでもない。だとすると、彼が経験したあれとは一体何だったんだろう? あるいは全部単なる気のせいに過ぎなかったのだろうか?

「いや、気のせいじゃない」とまるで僕の心を読んだように彼は言った。「あれは実際にあったことだったし、今でも俺はそう信じている。きっと休止状態にあるだけなんだろう。あるいは悪魔の指令センターでストライキがおこなわれているとか」

「君は想像力豊かだな」

「どうもありがとう。日本海を見て育ったおかげだ」

 僕らはそこで次の一杯を飲み干した。彼は柿の種一袋を一瞬ですべて口の中に入れた。バリバリ、バリバリ、という小気味の良い音があたりに響き渡った。本格的な夜が世界を覆い始めていた。

「そういえば」と僕は、酔いの回った頭をなんとか働かせて会話を再開させた。「君は最初に会ったとき、人生には何の意味もないと言っていたよな。だからこそ十字路に寝転んで神を試したのだと」

「うん」とまだボリボリと柿の種を噛み砕きながら彼は言った。「ほのほおりだ(その通りだ)」

「今はどう思ってる? 今でもまだそう思ってるのか?」

 彼は次の一杯で口の中の物を胃に流し込んだ。そして言った。「今は・・・正直よく分からない」

「分からない?」

「うん。分からないんだ。神がいてもいなくても、さほど違いはないんじゃないか、とさえ思う。なぜなら

はそこにいるからだ。ただ呼び名が変わっているだけで」

「それは一体何なんだろうな」

「そんなこと俺に訊くなよ。俺にはなんにも分からないんだ。分かってるのはただ自分が二十八までは生きるだろう、ということくらいだ」

「その先は?」

「その先は・・・おそらく死だ。暗黒の死」

「なんで暗黒って分かる?」

「なんでだろうな・・・」

「死んだことあるのか?」

「いや、まだない」

「だとしたら決めつけられないだろう?」

「もちろんそうだ」

「もしかしたらものすごく楽しいところに行けるかも」

「美女に囲まれて?」

「そう。美女に囲まれてオカマ音頭を踊るんだ」

「オ、カマになりたけりゃ・・・」


 記憶はそこで途切れている。というのも二人ともそのあたりで眠り込んでしまったからだ。ふと目を覚ますと、本物の夜がやって来ていた。川の水がさらさらと流れる音が聞こえる。僕らは間にウィスキーの瓶を置き、ごつごつする石の上に並んで横になっていた。秋の風はずいぶん冷えた。雲の隙間から明るい月が我々を見下ろしていた。

「ずいぶん楽しそうじゃないか」とそこで誰かが言った。今まで一度も聞いたことのない声だ。「こんなところで宴会なんて」

 見るとそこにいたのは一人の中年男だった。上下黒いスーツを着て、黒い革靴を履いている。月明かりしか光源がなかったものの、僕は彼の姿をはっきりと視認することができた。というのもその輪郭が、明らかにまわりよりも濃かったからだ。濃い闇に(ふち)()られた男。その(たたず)まいは僕に何かを思い出させた。何か非常に重要なことだ。

「私が誰か分かったかね?」とそこで彼は言った。

「悪魔ですね」と僕はTの話を思い出して言った。それはまさに僕が彼の話を聞いて思い描いていた悪魔の姿そっくりだった。もっとも今は(つの)はないが。

(つの)は彼に授けた」と彼は言った。まるで僕の心を読んだように。「だから正確には私はもう悪魔ではない」

「それでは何なのですか?」と僕は訊いた。訊きながら、Tが起きないかチラリと横目で見てみたのだが、ぐっすりと深く眠っている。まるで死んでいるみたいに。

「彼はしばらく起きない」と悪魔――元悪魔――は言った。「そう決まっている」

 我々はしばらくそこで黙り込んだ。と、周囲の音が消え去っていることに気付いた。川の音も、遠くで鳴っていた車の音も聞こえない。風さえ吹かない。世界は死んでしまったのだろうか、と僕は思う。

「いや、世界は死んでいない」とそこで男は言った。「ただ一時的に動きを止めているだけだ」

「あなたは彼に――Tに――自らの悪魔としての資格を引き継ぎましたね? その結果彼は二十八までは生きることができるようになった。違いますか?」

「その通りだ。異論はない」

「でも逆にいえば、二十八になったら死ぬわけだ」

「まあ」

「それを止める方法はないのですか?」

 彼はそれには答えず、しばらくじっと何かを考えていた。その顔は・・・ごく普通だとしか形容できない。その辺を歩いていても何ら違和感のない顔だ。ほかのサラリーマンたちと比べても、特筆するほどの違いはない。しかしその目だけは違っている、と僕は思う。たしかにそこには何かがあった。

。説明するのは難しいのだが、要するにそこには奥行きというものがなかったのだ。彼の目は空っぽだった。しかし空っぽであることによって、何かとつながる可能性を持っている。僕にはそれを感じ取ることができた。

「なあ、君はトシトシの話を聞いただろ?」とそこで突然彼は言った。トシトシ?

「どうしてそれを?」と僕は驚いて言った。

「私は大体のことは知っている。だから驚かないでくれよ・・・。とにかく、君はそれを聞いて何を感じた? 彼の話から、何を学んだ?」

「僕は・・・」と僕は言って、かつて車の中で聞いた、例の長い話を思い出した。彼が若い頃から四十五歳までの(いつわ)りの生活。郊外の家と綺麗な妻。子どもたち。そしてあの決定的な夜。彼は家族を守る代わりに、男を捨てたのだった。そういう取引をしたのだ。

との間に。「私は本当に孤独なのよ」と彼女は言った・・・。

 果たして僕はそこから何を学んだんだろう、と思う。あの話はとても長く、おそらくは心の闇のような部分と密接に結びついていた。トシトシは結局は孤独なオカマとなって、この世に生き(なが)らえている。彼女の家族は、おそらくは今でも(いつわ)りの生活を営んでいるのだろう。世間のほかの多くの人々と同じように・・・。

? 結局いえるのは、この程度のことに過ぎなかった。

「おそらくそれは・・・何かを得るためには、何かを差し出さなくてはならない、ということです。自分の最も重要なものを差し出したときにだけ、それと同等の対価を得ることができます。しかしその結果、往々にして人は孤独になります」

「それはどうしてだと思う?」と男は言った。

「それは・・・。たぶんそれが異常なことだからじゃないでしょうか? 普通の人たちはまずそんなことはやりません。彼らは生き延びることが善だと考えています。しかし僕はそうは思わないんです・・・。つまり・・・」

「なあ、君は私と取引をするつもりはないか?」

「取引?」と僕は言った。取引? なんだかいろんなところで似たような話を聞いているな、と僕は思った。「それは・・・どんな取引です?」

「つまりこういうことだ。私には彼を――そこで寝ている彼を――救うことができる。もちろん今のままでは二十八までの命しかない。それはたしかだ。しかしその悪魔の資格を別の者に移せば、寿命の縛りはなくなる。言っている意味は分かるか?」

「ええ」と僕は言った。「ここにその『別の者』がいる、と」

「その通りだ。君にその資格を移せば、彼は救われる。ついでに私と契約した、という記憶も完全に消えてなくなることになる。そういう風になっているんだ。(つの)は記憶領域のすぐ近くに生えているからね」

「その代わり僕は二十八で死ぬことになる」

「まあそうだ。どう思う? それについては」

 僕はひとしきり考えたが、すぐには結論は出なかった。果たしてこんな得体の知れない人物と取引をするのが正しいことなのか分からなかったし、そもそも言っていることが真実なのかどうかも定かではない。たとえば僕は二十六とかで自殺するかもしれない。そういう可能性は十分あるように思えた。

「いや、君は自殺しない。それはたしかだ」と彼は僕の心を読んで言った。「どうする? チャンスは今しかないぜ」

 僕はさらにひとしきり考えたが、それでも答えは出なかった。自分の命が惜しかったからではない。そもそもこの状況が、どうも胡散(うさん)(くさ)くてならなかったのだ。この男は今ではもう悪魔ではない。自分でそう言ったのだ。だとすると何なんだろう? 今度は天使に変わったのだろうか?

「いや、天使でもない」と彼はまたしても僕の心を読んで言った。「正直にいえばなんでもないんだ。ただの影みたいなものに過ぎない」

「しかしこうして取引を持ちかけている」

「それは

がそれを求めているからだ。私はただの手先のようなものに過ぎない。どうだ? それで? 君は悪魔の資格を引き継ぐのか? 引き継がないのか?」

「僕はそれによって何を得るんですか?」と僕は言った。「その資格があれば、僕はどうやら二十八までは生き延びるらしい。だとするとあと八年です。長いような気もするけれど、きっとあっという間でしょう。一般的な寿命からすればかなり短い。僕はその代わりに何を得られるんですか?」

「君は真実を見る」と彼は言った。「ほかの人間が八十年かかっても見られないようなものだ。俺はそれを保証する。というかその

を保証する。というのもそれまでに鍛えられていなければ、君は真実を見ることに耐えられないからだ。君は一瞬で破滅するだろう。もしそれだけの力がなければ、ということだが」

「僕にどうしてそれを信じることができるんですか? もしかしたらあなたは嘘をついているのかもしれない」

「まったく(うたぐ)り深い奴だな。それは実際に見なければ分からないものだし、見ればすぐにこれと分かる。そういった種類のものなんだ。だから私にはそれ以上のことはいえない。もちろん信じないのなら信じないでいい。しかしだね、だとしたら君に何が残る? 君の人生に何があるんだ? クソみたいなものじゃないか?」

「それは認めます」と僕は言った。「僕は彼に比べて――そこで寝ている彼に比べて――何の取り柄も持っていません。度胸もないし、自分を信じることもできない。いつもぐずぐずと考え込んでばかりいる。それだってどこにも行かない思考です。同じところをグルグル回り続けているんです。正直これなら今すぐ死んだ方がましなんじゃないかと思えるくらい」

「じゃあ話は決まったじゃないか。君には失うものがない。取引成立ということでいいかな?」

「基本的には」

「基本的には?」

「ええ」と僕は言った。彼は目を丸くして僕を見ていた。まさかそんなことを言われるとは予想もしていなかったのだろう。「僕はその取引に応じます。あなたが信頼に値するだけの人物かどうかは分かりませんが、たしかに僕には失うものはありませんからね。それに明らかに僕より彼――T――の方が長生きに値する人間です。それはもう間違いのないことだ」

「しかし?」

「しかし、僕にだって意地があります。一人の人間としての意地です。あなたは『取引』という。でもこれじゃあ僕には選択肢がないのと同じことです。既定路線を進んでいるに過ぎない」

「まだ言っている意味が分からないんだが」

「僕はあなたと取引をする代わりに、あることを要求します」

とは?」。彼がゴクリと唾を呑み込む音が聞こえた。

「それは『オカマ音頭』を踊ることです」と僕は言った。

 
 彼は始め何を言われているのか分からない、という顔をしていた。でもすぐに意味を理解し、そして身震いした。天を見上げ、また僕を見た。そして靴の先で小さな石を蹴った。それは川の水に落ち、ポチャンという音を立てた。彼は言った。「なあ、頼むからそれだけは・・・」

「駄目です」と僕は言った。「断固としてそれを要求します。もし踊らないのだとしたら、すべてはなかったことにしましょう。僕はあなたに会わなかったし、あなたは取引を持ちかけなかった」

「ちょっと待ってくれ。すでにあったことをなかったことにすることはできない。そんなのは当たり前じゃないか。そして正直にいえば、君はここで素直に取引に応じ、すべては丸く収まるはずだった。それがものごとの自然な流れだったんだ。どうしてそれを乱す必要がある?」

「それは僕が僕だからです」と僕は言った。正直自分でも意味はよく分かっていなかったのだが。「僕は今日二十歳(はたち)になった。たぶんもう日付は変わってしまったけれど、まあそんな細かいところはいいでしょう。ねえ、福井県では親戚中が集まって、三日三晩浮かれ騒ぐんです。でも僕には彼しかいない。そして彼だって酔っぱらって寝ている。どうしたらいいんです? 僕にはほかに友達はいないんです。ちょっとくらい踊ってくれたっていいでしょう?」

「いや、参ったな。まさかこんなことになるなんて・・・」

「嫌ならいいんですよ」

「嫌ってわけじゃないんだが・・・。なあ、私にもキャラというものが・・・」

 僕は否応(いやおう)なくスマホを取り出し、保存してあった『オカマ音頭』を流した。以前トシトシがメールで送ってくれたのだ。陽気なイントロとともに、例の掛け声がこだまする。ア、ソレ! ア、ソレ! ア、ソレソレソレソレ!

 その曲を聞いた途端、寝ていたはずのTが――おそらく無意識のうちに――動き出し、目を閉じたまま踊り出した。僕は素早く上半身裸になり、やがてズボンも脱いだ。そして彼と一緒にオカマ音頭を踊った。元悪魔の中年は、それを見てしぶしぶ、といった感じで踊り出した。彼の踊りは、ぎこちなくてなかなか可愛かった。

 僕らはそのようにして踊り明かした。知らぬ間に時は再び動き始めていた。秋の乾いた風が、河原を吹き抜けていった。オカマ音頭は永遠に続き、僕らはそれに合わせて身体を動かした。どれだけ踊っても踊り足りなかった。僕は残っていたウィスキーを瓶ごと飲み、残りを中年にあげた。彼はすべてを飲み干し、顔を真っ赤にしながら踊った。ところどころ即興の歌詞を加えながら。


『オカマ音頭』(悪魔の男版)

あ、くまになりたけりゃ

こ、ころを捨てなさい!(ソレソレ!)

て、んしになりたけりゃ

う、で毛を()りなさい!(()()れ!)

(つの)を ((つの)を!)

突き出せ (突き出せ!)

心を (心を!)

燃やせ (燃やせ!)

あっはん (あっはん!)

うっふん (うっふん!)

そこは駄目 (そこは駄目!)

えっへん (えっへん!)

おっほん (おっほん!)

金をくれ (このスケベ親父!)


あ、くまになりたけりゃ

じ、ゆうになりなさい!(ソレソレ!)

て、んしになりたけりゃ

た、ましいを捨てなさい!(アーメンアーメン!)

(・・・以下永遠に続く)


 翌朝目覚めたとき、僕はなぜか一人になっていた。悪魔――元悪魔――の姿もなければ、Tの姿もない。すべては夢だったのかもしれない、とも思ったが、よく見ると僕はパンツ一丁で、上着を軽く羽織っている。周囲にはおつまみの袋や、ウィスキーの瓶が散らばっている。だとすると、やはりちゃんと現実に起こったことだったのだ。

 痛む頭を押さえながら――それに身体もかなり冷えたのだが――ゴミを拾い集めた。太陽がゆっくりとオレンジ色に空を染めていった。あと三十分もすれば、完全に姿を現すだろう。犬の散歩をしている年配の夫婦が、物珍しそうにこちらを見ていた(そのとき自分がまだズボンをはいていなかったことに気付いた)。僕はふらふらする足取りで柿の種の袋を拾った・・・。と、そのとき頭に何かがあることに気付いた。(こぶ)のようなものだ。あるいは昨日の夜酔っぱらっているときに、知らぬ間に転んでぶつけたのかもしれない。そう思って確認しみると、それが全然別のものであることに気付いた。それは(つの)だった。外から見ただけでは分からないかもしれないが、それは確実に角だった。悪魔の角だ。そうだ、と僕はようやく思い出した。僕は昨日かつて悪魔だった中年男と取引をしたのだ。その結果二十八までしか生きられないことになる。代わりにTは――何歳まで生きるのかは分からないが――もっと長い寿命を手に入れることになった。

 僕はそのことについてひとしきり考えたが、とにかく風が寒かったので、まずはズボンをはくことにした(ちなみになぜか靴下は履いていた)。ベルトを締めて、散らばっていたスニーカーを履いてしまうと、とりあえず心が落ち着いた。

、ともう一度思った。でも今はまだそんな実感は湧いてこなかった。だって二十二の自分が何をしているのかさえ想像できないのだ。そんな人間に八年後の自分なんて想像できるわけがない。しかもそこで死んでしまうなんて。

 そういえばそのことについて昨日中年が何か言っていたな、と僕は思う。真実が何だとか・・・。そう、僕は短い寿命を手にする代わりに、普通の人が見ることのできないものを見る

保障される、と言ったのだ。そしてそのためには十分鍛えられていなければならない、と。そうでなければ君は一瞬で破滅するだろう、と。

 だとすると、僕は今すぐにでも自分を鍛える作業に入らなければならないはずだった。そう思うと、なんだか八年なんてあっという間な気がしてきた。こんなところでオカマ音頭を踊っている場合ではないのだ・・・。

 もっともそんなことを考えたところで、急に人間が変わるわけではない。体力以上のことができるわけでもない。僕はそのことをよく知っていた。ということで、荷物をまとめてなんとか部屋に帰り着き――どんな道筋を通ってそこに辿り着いたのか、もはやまったく覚えていない――泥のように眠った。僕は一度液体となり、シーツの中に染み込んだ。そしてちょうど十二時間後に、個体として復帰した。シャワーを浴びて身体を隅々まで洗い、姿見に全裸のまま自分の姿を映した。そこにいたのは、予想外にも昨日までとまったく同じ自分自身だった。僕としてはもう少しくらい変わったところがあるんじゃないかと期待していたのだ。でもそんなことはなかった。世の中はそんなに甘くはないのだ。もっともそう思って髪の毛を乾かしているときに、例の(つの)を発見した。たしかにこれだけは変化といえるな・・・。それが良いものなのか、悪しきものなのかは分からないが、とにかく変化は変化だ。僕はこの新しい自分とともに生きていかなくてはならないのだ。とりあえず二十八までは。

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