…水森当真はじっと息を殺して、奴らが来るのを待っていた…今日は一学期の終業式。これより、生徒達は待ちに待った夏休みへ突入するのだ。
あと一時間もすれば、学園側が用意したバスが到着し、皆を駅まで送り届けてくれる。HRを終えた教室では、生徒達が夏休み前の最後の時間を、友人との会話に費やしていた。
そんな中、一人学園の裏山へと入っていった当真。彼は現在、裏山の中腹から頂上にかけての7~8合目辺りにいた。この学園は全寮制で、学園そのものが山の中にある。
山の中にはあるが、裏山は便宜上、裏山と呼ばれていた。その裏山の頂上付近、やや傾斜が緩くなっている場所。当真はそこで汗と土にまみれながら、掘り下げた落とし穴の最終調整を行っていた。
平地よりも多くの養分を含んだ、強い土の匂い。それが掘り返す度に立ち昇ってくる。鼻腔の中へ入ってくるモワッとした土の匂いに、少年は顔をしかめて口呼吸に切り替えた。
その途端、口の中に入ってきた小さな土の粒を唾と共に吐き出す。腐葉土と呼ばれる、味も匂いも濃い山の土。それが穴を堀り広げる度に、パラパラと当真の顔に掛かってくる。
どうやっても避けられない土の攻撃を受けて、少年は泣きそうな表情を浮かべていた。髪には土が混じり、それが耳の中にまで入ってくる。すでに当真の顔面は、土の粒でコーティングされていた。
首元からシャツの中へと入った土が、汗に溶けて当真の身体を流れていく。靴の中は、とっくに爪先まで土だらけだ。この3ヶ月の間、少年はこの苦行とも言える作業を行ってきた。
出来上がった落し穴のサイズは、直径5メートル弱、深さ4メートル弱。ヒトの背丈より、ずっと深い穴だ。
彼は作業の最終的な仕上げを済ませると、手早く作業道具を片付けて草むらへ隠れた。
そうして、水森当真はじっと息を殺しながら、ここで奴らが来るのを待っているのだ。
気のせいだろうか? さっきまであれほど五月蠅かった鳥や虫の声。それが今は聞こえてこない。まるで、山全体が不気味に静まり返っているみたいだ。しかし、気にしている暇はない。
あと少しすれば奴らが来るだろう。少年は静かにその時を待ち続けた。やがて、ガサッ、ガサッ、ガサッ…と草むらの向こうから足音が聞こえてくる。
これは生い繁った草の中を歩く音。あの三人が近付いてくる音だ。当真は奴らの足音を聞きながら、左手の甲で額の汗をそっと拭う。
しかし、直ぐにジワリと汗が吹き出てきた。7月の終わりといえば夏真っ盛りだ。当然、何もしていなくても汗は出てくる。
当真はタメ息を吐きながら、止まらない汗を拭い続けていた。そうしている内に、奴らの足音が徐々に自分の方へ近付いて来る。
これからやる事を思えば、汗もかくだろう。だが、やめるわけにはいかない。もう準備万端、しっかりと整っている。
今日こそは、奴らの傍若無人な態度を戒めるのだ。そう考えるだけで、自然と笑いが込み上げてくる…そう、だってアイツらは…
その時、地響きと共に当真の身体がぐらりと揺れる。彼はハッとして思わず地面に手を付いた。しかし、手をついた地面自体がグラグラと振動している。
周囲の木々も震えていた。まるで怯えるように、バサバサと枝をしならせて葉を舞い散らせている。
その証拠に、当真はその場から立ち上がる事が出来ない。次にドンッ! と大きな音と衝撃が来て、彼の身体が浮き上がる。
その小さな身体がバランスを保てずに、地面から跳ね飛ばされて転がってしまう。地震の揺れは凄まじく、裏山全体が鳴動して震えていた。
最後に、一際大きく裏山が揺れて地震が終わる。当真は地面に転がったまま、じっとその場から動かずに辺りの様子を窺っていた。
この頃は雨も降っていない。たぶん、土砂崩れ等の二次災害が起こるような事もなさそうだ。
当真はほっと安堵の息をつく。見た限りでは落とし穴も無事みたいだ…しかし、一つ問題が起きた。
舌打ちとともに、当真の耳に奴らの声が聞こえてきた。
これで奴らが帰ってしまったら、せっかく立てた計画が水の泡だ。
だが当真の願いも空しく、バサ、バサ、バサ…と草を掻き分けながら、三人の足音が遠ざかっていく。
当真は、ぐっと唇を噛んで両手を膝に打ち付けた。内心で、舌打ちをしたいのは、こっちの方だと奴らに文句を付ける。
代々、中高等部の男子に取って絶好の覗きスポットである、とされてきた裏山。そこには唯一、更衣室をピンポイントで狙える地点があると噂されていた。
今まで、誰も見付ける事が出来なかった秘密の場所。奴らはそれを知りたいはずだ。最近、当真の後を尾行したりして、色々と嗅ぎ回っているのはその為だろう。
生徒達を乗せたバスを見送り、全ての建物の戸締まりを済ませた後、若い女性教員達は更衣室で一斉に着替えを始めるのだ。
これは毎回恒例の動きだと、当真は先輩方から教えて貰っていた。もし、その現場を覗く事が出来たら、さぞかし圧巻だろう。もう間もなく、そのイベントが始まろうとしている。
だから、あの三人はすぐに戻ってくるに違いない…そう考えた当真は、諦めずに奴らを待ち続けた。
大嫌いなあの三人を待つことは、当真にとって物凄く長い時間に感じられる。しかし、チラリと見た時計の針は五分と経っていなかった。
そう心の内で当真は叫んだ…その時、彼の耳に再び足音が聞こえてきた。それは、ドスドスという重たい足音だった。
当真はぐっと拳を握る。足音が段々と落とし穴の方へ近付いている。今度こそ、奴らは落とし穴に落ちるはずだ。
何故か、ふと違和感を覚えた。さっきとは何かが違う気がする…その事に引っ掛かりを覚えながらも、当真は奴らの足音に神経を集中させる。
馬鹿な奴らめ…普段は威張っていても、オツムの具合は所詮その程度。焦り過ぎだろ、と当真は思わず鼻で笑ってしまう。その時、奴らの足音が激しさを増し、ドッドッドッ! という駆け足に変わる。
でも、これはこれで好都合だ。焦っているなら注意力が散漫になり、足元が疎かになるだろう。
当真は地面に伏せた状態で、草むらに隠れて事の成り行きを見守った。
大きな音と共に、カムフラージュ用に被せて置いた葉っぱが派手に舞い上がる。
そして、驚きと悲鳴がない混ぜになった声が当真の耳に届いた。
そう叫ぶと、当真は素早く草むらから飛び出す。そして、両手で引き摺るようにポリタンクを持って、落とし穴へと駆け寄っていった。
落とし穴へ向けて、用意したポリタンク内の液体を一気にぶち撒ける。更に両腕で容器をしっかりと抱えると、穴の中心を目掛けて思いっきり回し掛けてやった。
重いポリタンクを持ち上げながら、当真は、これでもかと中身の液体を奴らに浴びせてやる。
「アッハッハッハー! くせーだろっ!? こいつは3ヶ月濃縮ブレンドもんだぞっ!」
奴らの苦しむ声が聞こえてくる。当真は良い気味だと笑って、空になったポリタンクを真後ろへ放り投げた。
そして当真は、準備をしておいた竹槍を持つと狙いも付けず、落とし穴へ突き入れる。
「オラオラ オラオラ オラオラーッ! 榛名春奈先生のおっぱいは、俺のものだっー!」
内部をかき混ぜる感じで、メチャクチャに竹槍を振り回す。ゴツゴツ! ゴツゴツ! ゴツゴツ! と穴の中で、何度も固いものを打つ感触がする。だがそれに構わず、当真は竹槍を振るい続けた。
「オラオラ オラオラ オラオラーッ! わかったかーっ! このクソ野郎っ!!」
当初の計画とはだいぶ違うが、これは仕方がない。当真の中にある怒りと、榛名春奈先生への熱い想い。
「こんのっ、エログチがぁー! よくも今までやりやがったなー!」
この二つの感情が、自分でも制御出来ないくらいに、当真の中で大きくなっていたのだ。
「いつまでも、調子に乗ってんじゃねぇーぞ! オラァー!」
更なる一撃を加えようと、当真が竹槍を大きく振り上げた次の瞬間、落とし穴の内部で凄まじい怒号が響いた。
彼がそう言うのと同時に、落とし穴の中からズルリ…という重たい物を引き摺るような音が聞こえてきた。
得体の知れない何かが、落し穴から這い上がってくる。その事にまだ当真は気付いていない。
そして、唐突に悲鳴を上げながら姿を見せたのは、奴ら三人の内の誰でもなかった。
いやそもそもソイツは、人間の格好をしてはいなかったのだ。