千早子の本懐

文字数 1,899文字

 「きらい」と面と向かって云われたことは初めてだった。こんな幸せなことがこの世界にあるんだ。僕はそんなことを思った。

 僕は人から「嫌い」と云われないために多くの時間を費やしてきたけれど、千早子の云う「きらい」という言葉の意味するところは「嫌い」とは別の何かだってなんとなく判っていたので、たとえばこの後、喫茶店の床に突っ伏してえんえんと泣くことはなかった。

 千早子は僕のことを嫌いではない。と思う。だって、僕が笑い話に花を咲かせようと冗談を云ったとき、興味がなさそうにアイフォンをいじる振りをして、画面に隠れて必死に笑うのを我慢していたし、千早子の好きそうなレストランで食事をしたときも、体調が悪いと云ってサラダだけしか頼まなかった(そのサラダの味にもケチをつけた…)のに、「あなたにしてはがんばったほうじゃん」と最後には褒めてくれた。

 千早子が「帰る…」と突然云いだす。ごめんって」と僕が云うと、振り返って何も云わずににっこりとこちらを見やる。「帰んないでよ」と云うと、さらに喜んで、待ち伏せしていた足が駆け寄ってくる。それは千早子が書いたドラマの台本。家族で見ていたら顔を赤くするひどいドラマ。しかし、誰が見るわけでもない凡庸で退屈なシーンのくりかえしは永遠に終わらない夢そのものだった。

 千早子の誕生日の夜、僕は中年の男性に地下鉄で因縁をつけられて殴られた。「足に当たった」というどうしようもない理由だった。周りの人や駅員さんが警察を呼んでくれたのはよかったが、どこを殴られたかを確認したり、裁判沙汰にはしないという念書を書かされたりして、約束の時間はとうに過ぎていた。千早子には電話で理由を説明し、後日改めて埋め合わせすると伝えたが聞き入れてもらえなかった。

「今すぐ、来て!もう時間過ぎてるよ、待たせるとか人としてどうなの?」
「ごめん…でも……今警察も来てて動けそうもないんだ……また埋め合わせはするから…ごめん……」
「…や、ごめんじゃなくて、そんなのいいからはやく来てよ!いいから!わたしの誕生日にそんなことに巻き込まれないでよ!もう立ってるの疲れたんだけど!!」

 僕は少し腹が立った。ちょっとはこっちの状況を理解してくれてもいいのではないか。暴行を受けたのは不可抗力で僕には何の過失もないのに。

 ことが済んで待ち合わせ場所に行くと、千早子がいた。電話での雰囲気と違ってすごく大人しい。大きな声でわんわんと叫ぶこともない。千早子はそのままどこに行くかも告げずにすたすたと歩き出す。方向的に帰りの駅に向かっていた。「怒ってる?」と聞いても黙ったまま首を縦に一回だけ振る。「お腹空いてない?何か食べる?」と聞いても答えは返ってこない。駅に着いて帰りの電車賃を渡したとき、千早子は何秒間かうつむいてから僕の方を一度だけ見た。見たことのない小さな少女と目があった。でもそんな一瞬はぱっと通り過ぎ去って、気がつくと改札へ入っていく千早子の後ろ姿があって、いつまでも後ろ姿は後ろ姿のままだった。

 千早子と連絡を取ったり、会ったりすることはその日からなくなった。無理にでも会おうとかそういう気持ちにはなれなかった。ほんとうに帰るときには「帰る…」と云ってくれないのだなと思ったし、「帰る…」と云ってくれなかったら「帰んないでよ」とも云えないということにも気づいて、足が宙に浮くので、少しのあいだ目を閉じることにした。



 千早子と間違いさがしをする。深夜のファミレスでドリアとペペロンチーノを待っているあいだ、ふたつ並んだ絵を開いてふたりでながめてさがしあう。間違いは10個。シャツの柄、遠くに見える山の数、雲の大きさ、線路の位置、目の閉じ具合、帽子の色、星の形、ストローの長さ、崖の幅………………。

「……あとひとつが分からん」
「ほんとこう云うの苦手だよね。ほとんどわたしが見つけちゃったじゃん」
「千早子は早いんだよ。時間をかければ僕も見つけられる」
「あっそう…じゃあ見つけてみなよ。わたしもう10個目分かってるけどね」

 夢を見ていた。あったかもしれない日の夢。それはくりかえされる夢だった。このままここに閉じ込められて、同じ日をくりかえし、僕だけが歳をとって、外にいる千早子の年を追い越して、そのまま一生が終わるのもいいと思った。この夢が覚めてから起こる全てのこと、千早子にはもう会えないことを夢のなかの僕は知っている。

 10個目の間違いは見つかりそうにない。見つからないほうがいい。こんなに幸せなことはこの世界に何ひとつとしてないのだから。
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