第15話 蜂の国の女王サリー 地中に花咲くリザンテラ

文字数 20,787文字

地下の国へ

 臨時閉店の張り紙が、風でひらひらと揺れていた。
 ありすは薔薇喫茶の勝手口から堂々と侵入すると、自分の店のように厨房に入り、長い睫の瞳で床を見下ろしている。
「ねぇ金時君。この店に来たのは何回目?」
「……今で三回目、かな」
「これまでで何か、気づいたことってある?」
「う~ん。さぁな。……客としてきただけだし」
「でも、恋文図書館で、あの立体機動集密書庫の秘密を解き明かしたんでしょ?」
 石川ウーをよく知っているはずのありすよりも、時夫の推理力の方が期待できるというのか? いやいや、それはないだろう。
 図書館では変な情熱が出たのは確かだったが、わずか一日で、そう何度も沸き起こるほど時夫は都合よく出来ていない。
「あたしみたいに、しょっちゅう来てる人より、君みたいな町の新参者の方が何か気づくかなーと思ったんだけど。人間、思いもしないところで才能を開花させるものよ」
 ありすはチラ見してきた。だから、期待されても。
「そうだな……」
 時夫が気づいたことといえば、昼時なのに自分しか客が居ないことと、ウーがバニーガールの格好をしていることくらいしかない。
「最初来た時、店主の姿は見えなかったけど、料理を作っていた。二度目の時は、うさぎがピアノを弾きながら一人で接客して、料理も作ってくれた。けど……結局、僕はうさぎの姿しか見ていない」
「そうか……。ウーは、最初君に店長が居るように見せていたようだけど、ホントは店長はしばらく前から不在だったんだ。あいつ、店長よりも料理が得意なの。科術の力で料理を作りながら、ピアノを弾くなんて芸当を平気でやってのける」
「えぇ……ホントかよ」
 うさぎはピクルスの瓶を時夫に開けさせた。それは、うさぎが男を振り回すタイプだからではなく、男手がなかったからだ。
「ホントだよ。だから留守を預かってるんだよ。ずっと店長が居なかったことを、君に知られたくなかったんじゃないの? この店も店長不在で、ウチと同じようなものね。他には?」
「って言われても……あ、そうだ。コウモリがちょうどそこの天井に留まっていた」
「コウモリが?」
「うさぎは近所の森から来たって言ってたけど」
「そんなはずないわ。この店に地下への入口がある証拠よ!」
 灯台下暗し。
 どうやら防空壕の一つは薔薇喫茶の地下だったらしいが、ありすはその可能性に気付いていたのかもしれない。だがまだ、親友の裏切りを認めなくない気持ちがあったのだろう。
「ステンドグラスか……」
 ありすは窓際に近づいた。
「見て」
 ありすが指差す先に、時夫は一瞬巨大な虫の顔が見えてぎょっとした。蜂だった気がする。それは光の角度を変えると、一瞬で消え去った。
「今のはなんだ?」
「地下の生き物よ。ウーはこの店から地下へ出入りしていた。コウモリだけじゃなく、『彼ら』と周波数が合ったステンドグラスに、その残像が残った」
 ありすは店内のピアノの前に立って、カバーを開いた。
「フム……匂うわね」
 鍵盤に鼻を近づけて、鍵盤を叩いた。涼しげなピアノの音が店内に流れた。
 厨房から、カチッという音が響いてきた。
「Cmaj7のコードよ。これらのキーだけ、和四盆の甘い香りが強く残っている。おそらく、雪絵さんを触った手でキーを弾いた。ウーはきっと、急いでいたんだと思う」
 ありすが厨房に戻ると、床が回転して開き、地下への階段が現れるところだった。穴からヒューッと風が吹き上がり、ありすのスカートがふんわりとめくれた。
 ピアノ・カバーを空けて、一度目にこのコードを弾くと開くらしい。
 ありすは防空壕へと続く螺旋階段をゆっくりと降りていった。時夫はその後ろに続いた。最初時夫はうさぎを追いかけなかった。けどありすがうさぎを追って穴の中へと入る。やっぱりうさぎを追うのはアリスの役目だ。
 羽音と共に、せわしなくコウモリが数匹飛び去っていった。
 下からの緑光の薄明かりで、かろうじて足元が見えている。まるで、人の体内に入っていくような感覚で薄暗く、生暖かい風が吹いている。
 しばらく降りると、本格的な地下空間が出現した。手前こそ店の物置になっていたものの、そこから先は倉庫などではない広大な空間が広がっている。
「まるで秋芳洞(あきよしどう)だ……」
 巨大鍾乳石のツララが林立していた。
「秋芳洞って実は全長十キロあるんだよ。知ってた?」
「えっ」
 人間が知っている地下の世界はほんの一部なのだろう。
「これは……きれいだな」
 物凄く巨大な水晶柱があちこちで輝いている。それも色とりどりに。
「この水晶、地下にだけある天然の琥珀糖で出来た、巨大角砂糖よ」
「へ!?」
「白彩で売ってる宝石チップスは、これが原料なの」
 琥珀糖は和菓子の一ジャンルだが、まさか天然ものだったとは。
 もうここは、防空壕ですらありえない。
 ありすによれば、恋文町にはこのような防空壕がいくつか存在するというのだが、それらは驚いたことに地下で全てつながっているらしい。そもそも防空壕の場所も全容解明はなされておらず、セントラルパークのもののように、もうすでに埋められてたものもあるという。
 石川うさぎことウーが、いつもここから出入りしているのは確かなようだ。

 地下に、ボンヤリと輝く、黄緑色の薄明かりの巨大空間が広がっていた。
「明るいな。どこに光源があるんだ?」
「あそこを見て。この国の花は光るのよ」
 巨大な花形のライトが野球場のナイターのように何ケ所も見えた。それらが、広い地下空間を照らしていた。
 まばゆく地下を照らす巨大なライトの正体は、馬鹿でかいひまわりの花だった。
 ライトから照らされる白い光は、空気中のダイヤモンドダストを輝かせた。
「ホントだ……光ってる」
 地面は広い花畑だった。その全ての花がライトのように輝いていた。こちらは間接照明のような柔らかい光だ。だがその光は、人工物ではない。この巨大な花々は、すべて自然のものだった。
 他にも、ランプのようなライト茸が、同様のルミネセンスの働きで光を灯している。もしかすると、恋文セントラルパークの光る茸も同じ原理で光っているのかもしれない。
「ホワイトアスパラガス……でかっ!」
 白く巨大な大木が林立している。
「巨大ウドだよこれ」
「巨大植物が生い茂り、巨大キノコがあやしく光る地下空間……こんな、SF小説みたいなことが」
「そんなに、不思議かな? 金時君、これが恋文町の足元にある現実なんだよ」
 地上の公園に群生する茸は青白い光のベールが覆っているだけだが、ここのライト茸はとても巨大で、ハロゲンライトのような強い光を発している。
「なんだか、夢の中を歩いているみたいだ」
 地下へ来て、時夫は遂に世界観の転換を迫られていた。
 十五年しか生きていない浅い人生経験の範囲ではあるが、まさか足元に別世界が広がっているとは、まさしく夢にも思わなかった。
「最近、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を読んだばっかりなんだ」
「へぇ~そうなんだ。金時君って、読書好きなの? そういえばアパートに、本がいっぱいあったね」
「あーうん……十九世紀のSFはかえって新鮮で、面白いよ。科学万能主義って感じで、何もかも、すべての物事が論理的に進むんだ。イギリスのライバルのH.G.ウェルズも好きだけど。一方で『不思議の国のアリス』はすべてが非論理的に進むから、ヴェルヌやシャーロック・ホームズとは対極的だね」
「非論理の中にも、隠された論理がある。それを見極めることよ」
 ありすは薄明かりの天井を見上げながら、言った。
「それが、『蓋然』か?」
「えぇ……」
「でも、一番好きなのはラブクラフトかな」
「……」
 ラブクラフトの名を聞いて、ありすは一瞬黙った。
 まぁもっとも、普段読むのはラノベばっかだけれど、それは口にしなかった。今度アパートにありすが来た時、本棚を観察されてなきゃいいけど。
 しばらく経ってから話を続けた。
「ジュール・ヴェルヌの信奉者の一部には、彼の作品はすべて真実を書いたものだと考えている人たちがいる。その人たちは、『ヴェルヌリアン』って呼ばれている。SF作家は、現代の預言者なのよ」
 ヴェルヌも、日本の千葉県にそれが存在したことまでは、気づかなかっただろう。
「小学生四年の頃、地下室を作ろうと思って、友人と三人でせっせとシャベルで庭に穴を掘ったんだ。自分だけの秘密基地に憧れてね」
「で、結局どれくらい掘ったの?」
「三十センチくらいかな? 幅は一メートル」
「フーン……。でも高校生になって、その夢がこんな形で実現したなんて、ねェ?」
「ま、秘密にしちゃデカすぎるし」
 ヴェルヌの作品にも巨大茸が出てきたが、巨大な温室のように巨大な植物が生い茂り、その中を歩くとまるで自分が小人にでもなったような気分になる。
 外界に比べて、地下はずいぶんと暖かかった。ここは常春の国だ。
 湿度は高く、酸素カプセルの中にいるみたいだ。そのせいで地下に入ってからずいぶん元気になった。
 二人の目の前で、虹が花畑から誕生していった。

 ガサガサと大きな音がした。
「伏せてッ!」
 ありすと時夫は植物の陰に隠れた。
「何だ?」
「しっ」
 巨大な二足歩行の蜂達が列をなして歩いていた。
 細長い身体は身長二メートルを超えている。およそ二メートル二十センチ。背に、巨大な透明な羽を折りたたんでいた。その面構えは、スズメバチによく似ていた。
「うわっ、な、なんだこんなのが居るのか? こ、恋文町の地下に!」
 時夫は「それ」を見て驚嘆した。薔薇喫茶のステンドグラスに写っていた生物だ。
「静かに。女王が操る兵隊よ。緑色の眼をしている」
 蜂人たちは宝石のように輝く巨大な目を持っていた。エメラルドの眼だ。身体も動くステンドグラスか、エミール・ガレのガラス製品のように美しい。
「働き蜂は青い眼をしている。光の乏しい地下では蜂人の目は必然的に大きくなる。
彼らはカリバチとハナバチの両方の習性を持っている。緑の兵士蜂の槍に気をつけてね。致死率1000パーセントよ」
「帰らせてくれ!」
「大丈夫、私の『女王連プロポリス解毒湯』なら回復率10000パーセントよ」
 ザルかッ! その計算。
「……追いかけるわよ」
「えっあいつらを?」
 危険と言った矢先に。
 蜂人たちのたどり着いた場所は、栽培所だった。
 青い眼の蜂が、地下で巨大キノコを栽培している。ありすによると、これらのキノコからも、砂糖が採れるらしい。
 蟻の一種が巣穴で茸を栽培するのを、時夫はテレビで観たことがある。しかし彼らの面構えは蜂そのもの……羽蟻でもない。想像できるのは、地中に巣を作るタイプのアナバチか、ジガバチの仲間か、ということくらいだ。
「虫もこんなに巨大なのか」
「酸素濃度が地上よりずっと高いのよ。太古の地球のようにね。それで、何もかも巨大になる。顕花植物は約一億年前に出現し、ハナバチはカリバチから進化した。彼らは社交性に優れるようになった。でも虫というより、もはや蟲というべきね」
「ははは……」
 道具を使っているので、一見して知的生物だと分かった。何を考えているのか全く分からない。蜂はポーカーフェイスで、表情というものがなかった。
 時折、「ヴーン」と羽音が辺りに響いていた。
 彼らは沈黙の世界にいた。
 耳を澄ますと、口元が静かにズー、ジーと囁いていた。その意味は分からないが、時夫にはコミュニケーションを取っているようにも見えた。
「彼らは超個体なのよ。一匹一匹が独立した存在じゃない。個が全体と繋がっている。個は全体に寄与し、全体は個を育む。だから、一匹に見つかれば、全体に見つかったのと同じことになる。もちろん、女王にもよ。ここの植物ともテレパシーで話すことができるわ……」
 ありすによると、蜂人は人間では女王以外とは喋らないという。
 当然、発音しようにもキシキシ、ギーギーとしかいわない。だから、彼ら同志はテレパシーで交流している。女王ともテレパシーで交流し、その命令を聞くらしい。しかし、女王蜂だけが人間なのは、一体なぜなのだろう?
「なんだか宇宙人みたいだ」
 時夫はこれが地球上の出来事だとは、到底思えなくなってきた。
「地球の生物よ。地下には、こういう地下にしかいない生き物がいる。滅びゆく種族で、世界中でここにしか存在しない。貴重な生物なの。だから、彼らは種の保存に必死になっている」
「蜂人のサンクチュアリか」
「うん。蜂人の目的は女王の子供、つまり自分達の子孫を育てること。ただそれだけよ」
 ありすによると、蜂人たちは女王よりもずっと以前からここに棲んでいたらしい。
 女王サリーが防空壕を開拓していった結果、蜂たちと出会って国を作ったと、ありすは言った。
 どういう訳か、女王は蜂人の社会の維持に協力しているようだ。それが魔学の力によるものか何なのか、たぶんお互いの利益が一致した結果だろう。
 これが、「蜂の国」だ。
 そこは、エミール・ガレのステンドグラスの中に入り込んだような、キラキラとした緑色の美しい世界だった。

「……人質たちだ」
 蜂人たちに混じって、地上世界から連れて来た人々の姿が見えた。
 彼らは「ドナドナ」の歌を髣髴とさせる足取りで、うな垂れて一列に歩き出した。全く奴隷たちそのもので、おとなしく蜂たちに連行されてゆく。
 ありすと時夫は植物の陰に隠れながら、その後を追った。
 巨大植物の森を突きぬけると、突如近代的な白塗りの建物物が現れた。
 鉄筋コンクリート製らしく、壁面を無機質なパイプが伝っている。こんな地下に、いったい誰が造ったのだろう? まさか、蜂人が自分たちで? それとも女王だろうか。
 人質の列は、その建物の入り口に吸い込まれて行った。
 二人も後から忍び込んだ。
 蜂人は背後へ回りこむと死角ができるらしく、時夫達の気配にほぼ気づかなかった。二足歩行のせいかもしれない。
 人質達の列は、空港のゲートのような門をくぐり抜けていった。
 一人ひとりが通過するたび、門は白い光を発した。
 その直後、人質の姿があっという間に崩れ去った。
 透明なゼリーが床に広がり、斜面を流れていった。門の床には、服と靴だけが残された。その衣類を、門番の蜂人が槍で回収する。
 斜面の先には、パイプの吸い込み口があった。
 時夫がパイプを目で追っていくと、機械のトンネルに吸い込まれていった。
 機械を経由して、出口から白い固形物がベルトコンベアーに載って出てきた。
「あのバランス栄養食みたいな奴は何だ!?」
「地上から浚った人質たちの成れの果て。最初のゲートをくぐるとスープにされて、さらに固形食へと変わる。つまり砂糖。ここでは誘拐された地上の人間が、ハチパンや、ロイヤルゼリーになるのよ。……昔、『ソイレント・グリーン』ていう映画があったけど、まさにそれが恋文町の地下で行われている現実なの。いわば、ソイレント・ゼリーね」
 ありすの言った映画は、近未来を舞台としたディストピア映画である。人口爆発によって、世界は深刻な食糧難に見舞われている。そんな中、殺人事件を追う主人公の刑事が、ある工場で人間が食料になる秘密を知ってしまう。
「でも、特別なロイヤルゼリーはここでは作れない……」
 それが、恋文セントラルパークの光るキノコの群生地なのだった。
 地上の月の光が成長に必要不可欠な、あの公園のキノコでないと特別なロイヤルゼリーは出来ない。それらを、女王は地上の白彩店主に作らせていた。
 様子を見ていると、固形食として梱包されるものと、ゼリー状のまま、土壌へまかれているものとに分かれているようだった。
 土壌の一部からは、新たに茸が生えていた。
「茸人に変わっている……?」
 茸の中には、人の形にそっくりに成長しているものがあった。
「そうよ。ここでも茸人が作られている。それも、地上よりもずっとスピードが速くね」
 二人は、工場内を探し回ったが、ありすはこの建物の中には雪絵の匂いがしないと言った。二人は工場の裏手に出た。
 工場から、一本の太いメタリックなパイプが森の奥へと続いている。

 目の前に、広大な白いキャベツ畑が広がっていた。
 二人が近づいてよく見ると、それはキャベツではなかった。
 白い卵が地面から突き出ていた。地中から五十センチほど表れている。大きさ一メートルの卵が、おそらく千個くらいは並んでいた。
 「それ」は畑の中に栽培され、青い眼の蜂人たちが世話をしていた。
「蜂人の卵の栽培所よ」
「蜂人……勤勉だな」
「ミツバチと同じよ。働き蜂の仕事は食品加工と門番よ」
 時夫が隣のありすの顔を見ると、なぜか慈しんでいるかのような優しい表情をしていたので、これまた別の意味でぎょっとした。
「家の庭の藤の花に三匹ぐらい凄い爆音で集まっていたけど、おとなしかったな」
「巨大で温厚な熊蜂。-------単独行動の蜂だからネ」
 しかしここの連中は「真社会性」の蜂。危険性をはらんでいる。
 畑には、細長いパイプが縦横無尽に張り巡らされ、大きな二階建て程度の建築物へと繋がっていた。
「あそこに何かいる。-----音がする。入りましょ」
 低い機械音がかすかに響いている。音がする建物内へ入って間もなく、時夫はぞっとして立ち止まった。
「うぐっ……この匂い。強烈なQMPが充満しているわ。奴がいる」
 女王蜂フェロモンのことである。
 巨大な、黒光りする放射状のトゲを持った怪物がそこにいた。いや、それはピクリとも動かなかった。ただただ美しく、暗闇の中で青白く発光していた。
 翼のような物体の横幅の大きさは十メートル、高さは三メートルはあった。
 恐ろしくでかい蜘蛛、あるいは蝙蝠のような怪物の中心に、半裸になった真灯蛾サリーが鎮座していた。細い身体、腰まで伸びた長い黒髪。間違いなく、図書館で見たミステリアスな美女だった。
 どうやら真灯蛾サリーは、この「怪物的オブジェ」のような装置に半身埋め込まれ、眠っているようだった。そしてその周りに仕えている四人の蜂人たちが、忙しく機械を操作していた。
「蜂に、------囚われているのか?」
「そうじゃない。ここは女王の間よ。あの黒いドレスは、蜂人たちの卵の栽培所と、パイプで繋がっている」
 ありすの説明によれば、栽培所の卵に接続されたパイプから、女王のパワーを注入しているのだという。
「確かに女王だ、真灯蛾サリーはホントに女王蜂だ!」
 時夫は心底ゾッとした。
 その姿は、時夫に映画「エイリアン2」に登場するエイリアン・クイーンを彷彿とさせた。時夫は宇宙船で対峙するリプリーのように戦慄し、全身を恐怖が包み込んでいった。
 一刻も早くこの建物から、いやこの地下空間から、地上へと脱出しなければ命の保証はない----。
 時夫は焦燥感に囚われながら、右足と左足を同時に動かそうとして、つんのめった。
「しっ、静かに……別にサリーが産んでるわけじゃないわ」
「すまん。だが、女王が卵を産んでないなら、この栽培所の卵は何なんだ?」
 時夫は震えが止まらない体を、必死に押さえ込んでありすに訊いた。
「作り物よ。本当に人間の女王が蜂人の卵を産む訳じゃない……けど、彼女がエネルギーを送り込んでいるから、ほとんど同じような意味を持っているのよね」
 隣のありすの声は、あくまで冷静だった。ほぼ同年代くらいなのに、どんだけ場数を踏んでいるのだろうか。
 ありすによると、蜂人たちは地上の菓子屋が作った菓子で出来た卵にDNAを加え、サリーが魔学を掛けて孵化させているらしい。
「そうか……あれ見たことあるぞ」
 時夫が白彩工場で目撃したお菓子の巨大な卵から、本物の蛇が誕生したときと全く同じ、命を宿す仕組みだった。
 女王のエネルギー源として、やはり固形食と化した砂糖人が利用されているらしい。砂糖人の元は、すべて地上から浚って来た佐藤姓の住民達だ。
「女王蜂は、オスの蜂と交配しないのか?」
「----ああ見えても一応人間だし。人と蜂、異種族間同士の交配は、白彩の魔学の力を借りた、いわば自家発電なのよ。卵を産むのに、オスは介在しない。だから、恐ろしく体力を消耗するという訳」
 ありすはずいぶんと詳しい解説をした。
「しかしこのままでは卵を単独で産む事も難しくなる……」
「なぜ異種族同志が?」
「蜂と人間とは昔から協力関係にあったわ。両者は持ちつ持たれつ……バビロニアの時代から、養蜂は行われてきた。だから別に驚くほどじゃない」
 驚くわッ!!
「つまりありすによると、女王は世界最大の養蜂家という訳か?」
「exactly(その通り)」
「にしても------ビザールなドレスだな」
「悪趣味ね」
「君と同類のファッションモンスターか」
「い、いや、いくらあたしでもあんな派手じゃないと思うんですけど! あれだって、元はシックだったはず。あ、いや、そうじゃなくて……、きっと、元はもっとトラディショナルだった……んじゃ、……ないかな……」
「何だそれ、何か知ってるのか? あの、ドレスの事」
「ううん……初めて見たけど」
 ならなぜ、ムキになって否定する?
「……あのドレス、どうやら着脱可能らしいわね」
 青白い光は次第に弱まり、サリーはバチッと大きな目を開けた。
 時夫はギョッとして身をすくめた。
 サリーはまだ二人に気づいていなかった。ゆっくりドレスから、身体を外しにかかった。スレンダーな身体がすべて露になる。だが、美しさより恐ろしさが勝っていた。
 黒ゴスロリ漢方師は慎重に部屋を見渡しながら、鼻をくんくんと動かした。白井雪絵がここに居ないと判断したようで、ありすはさっさと外に出た。

「見て! 孵化してる。作り物の卵が生命を宿したようだよ------」
 卵の一部から、巨大な幼虫が顔を出し、世話係の蜂人に餌を貰っていた。やはり、映画「エイリアン」の一シーンを髣髴とさせる。
「あれ? 幼虫達が食べてるのは、例の固形食じゃないみたいだぜ?」
 時夫は気づいた。
 世話係たちは、キラキラと黄金色に光る蜜を幼虫に与えていた。それは、不透明色のあのカ○リーメイトとも、その原材料のゼリーとも明らかに違っていた。
「よく気づいたわね。幼虫の餌は、ここに群生している巨大植物の花の蜜よ。成虫も花粉を食べていて、固形食は食べないの。例外は琥珀糖よ。人質たちから作られるソイレント・ゼリーは、みんな女王の食べ物なのよ」
 工場で作られていたものは、全てロイヤル・ゼリーだったらしい。
「なるほど。この地下の温室のような環境と、生態系がないと、彼らは生きられないな」
 サリーは人間を喰らい、栽培所の卵に魔学で生命エネルギーを送り込んで、子供を作るのだ。そのプロセスを経て、地下で蜂人たちが続々と誕生していた。
「この巨大植物群にとっても、受粉を蜂人に頼っているので蜂人が必要」
 二人は、畑の周囲をぐるりと一周したが、ありすはどこにも雪絵の気配が全く感じられないと結論した。
「一体どこへ?」
 手がかりはない。
「くっそウーのやつ、どこ行ったのよ? 捕まえたら絶対吐かせてやる」
 そういえば、石川うさぎもこの地下に居るはずだ。
 足元の枝がガサッといった。
 ヴーンヴーン……。
「警戒音だッ!」
 蜂人たちが一斉にあふれ出し、宙を舞った。 巨大な眼がじっとこっちを見ている。
「8の字で踊ってる!! 見つかったッ!」
 蜂のコミュニケーションはダンス、フェロモン、羽音、テレパシーである。その情報伝達で、あっという間に女王に伝わるはずだ。
 槍が襲って来たが、それで終わらなかった。
 バシィ!
 鞭のように舌が一メートルも伸び、宙でしなった。巨大な花から蜜を採るので舌も長いのだッ!
 二人は茸の森を縫うように走って逃げた。
 巨大なシダの影に隠れる。幸い、蜂人は畑に戻っていった。
「------冷たっ!」
 時夫の額に、水滴が振ってきた。
 右手で触れると、黒い液体だ。匂いをかぐと、どうやら醤油だ。
「お二人さ~ん」
 突然、木の上から女性の声が聞こえてきた。
「何!? 今、何か言った?」
 時夫は辺りを見回した。
「こっちこっち!」
「誰ッ!?」
 ありすも声の主を探す。
「何もいないけど」
「蜂か?」
「蜂がしゃべる訳ないっしょ」
「君こそ腹話術はやめろよ」
「ヤッテナイヨ」
「あなた方、地上から来たんでござんしょ?」
 中年女性の声だが、とても小さな声だ。
「どっから声が聞こえてるんだ?」
「上ですよ上!」
 おかめの面……それも、正月の福笑いのように崩れた白い能面が、シダの枝に引っかかっている。それが風でゆらゆら揺れながら、言葉を発していた。
「その壊れっぷり、ぬれ煎餅かと思った」
 鼻から、マンガレベルの大きな鼻水が、ぶらーんぶらーんとぶら下がっている。
「ぬれ煎餅じゃございません!」
「ひょうたんつぎ?」
 ありすも便乗した。
「ひょうたんつぎでもございませんワ! どーやら、そのお召し物を拝見したところ、単に誘拐されてきた訳じゃなさそうですワネ」
「なぜそれを……」
 ありすは怪訝な顔をした。
「あぁ、俺たち白井雪絵を探しに来たんだ」
「アホッ。言わなくていいの!」
 それもそうだ。
「白井雪絵ならここに居ませんコトヨ。……さっき城へと運ばれていきましたカラ」
 安易には信じられない。敵か? 味方か?
「あっ……見たことがあるぞ!」
 この崩れた顔。どっかで見た。それもつい最近。
「それ!」
 おかめがなぜか同意する。
「あぁ!」
「それそれ……」
「なんで通じ合ってんのよ、あんた達-----」
 ありすが腕を組んで訝しがった。
「醤油の瓶に描かれているおかめマークだ!」
 時夫は叫んでから、口を覆った。あまり大声を出すと、蜂人に見つかってしまう。
「そぉですよ。おぺんぺんって呼んでくださいね」
「おぺんぺん醤油だ!」
「元は私の似顔絵だったんでござんす。こんなに崩れてませんけどね~。ほーほほ。わたしはしょうゆ屋の女将・佐藤敏子と申します。よ・ろ・し・く」
 千葉といえば醤油の名産地として知られる。おぺんぺん醤油の瓶は、時夫の部屋の食卓の上にも載っていた。
「佐藤か……」
「あなたも捕まったの?」
「左様でございます……、九ヶ月くらい前に」
「今まで何を?」
「しばらくは城に仕えておりましたわネ。長く壁掛けのおかめの能面として過ごしました……」
 そういうと、おぺんぺんは遠い眼をした。
「私は女王のアンティーク人間の一種でございました。なにせ、女王の趣味はアンティークでござんすから。最初、私はゼリーにされて、その後城に運ばれ、そこでアンティークとして再成型されたという訳なんざんす」
「他にも、あなたみたいなのが?」
「そうですわね。フランス人形少女とか、城にはいろいろな人間たちがいるざんす」
「ゾッとしないわね」
「えぇ……」
「『ソイレントグリーン』のラストの台詞で、人間を飼うようになる……っていうのがあるけど、女王はそれを地でいっているわね」
 ありすは忌々しそうに首を横に振った。
「まさしくその通り。女王は人間を『飼っている』んでござんす。城には知識をそらんじるだけの本人間や、座るだけの椅子人間、ベッド人間なんかも存在しているざんすのヨ」
「江戸川乱歩の世界だな……もはや」
 時夫は、嫌でも「人間椅子」を連想した。
「で、その後は?」
「私は、四ヶ月前、何名かのアンティーク人間の尊い犠牲を経て、命からがら、仲間達と城を脱走いたしました」
「そいつらは?」
「この地下の森に、私たちの仲間が潜んでおります。骨董レジスタンスの仲間がね」
「やるわねェ。その反骨精神、嫌いじゃない」
 ありすがにやけている。
「で、女将は雪絵を見たのか?」
 時夫は質問した。
「はい。仲間の情報によると、今は城内にいるはずでござんす。あなたたちに協力致しますわ。女王はさっき、城へと戻っていきました。この近くに広い道があるざんす。女王の城へと繋がっている道です。道なりに城へ行って、ぜひ、女王の野望を邪魔して下さいまし。では、お二人のご健闘を祈って。ほおーっほっほほほほ」
 おぺんぺんは鼻水と笑い声だけ残し、風に乗ってフワフワと飛んでいった。
 二人は落下してきた鼻水を避けながら、やれやれという顔をした。
「脱走したアンティーク人間の一種だって。まるで、チェシャ猫みたい」
 時夫は呆れた。
 おぺんぺんとの出会いは、一体何を意味するのか?
「というか、さっきの奴、本当にチェシャ猫みたいに適当なことを言ってるだけ……っていう可能性もあるんじゃないの? 城へ行ったところで、変な帽子屋のお茶会だとか、荒唐無稽なクロッケー大会が待ち受けてるなんてごめんだぜ。これ以上、変な事に巻き込まれるのは」
 時夫は地下へ、ありすという名の少女と降りてきた。「不思議の国のアリス」の展開そのままに。おまけにハートの女王の性格とくれば、何かっていうと「首を切れ」と連呼する激烈な奴。これからサリー女王の城へと向かう道中、時夫に不安が募っていた。
「その可能性もありうるわ」
 と言いつつ、城を目指す古城ありすの目に迷いはない。
「でも、チェシャ猫とか、あまり余計なことは言わない方がいいわよ。首を切られたくなかったら。ジャバウォックとか出てきたらどうするの? これ以上、『不思議の国のアリス』の意味論を発動させないためにね」
 ジャバウォックとは、「鏡の国のアリス」に登場する龍の名だ。……白彩店長がその名を口にしていた。
 ガラガラと車輪の音が響いた。
 木々の向こうに広い道が伸びているのが見えた。そこを、人力車のように蜂人が引く幌馬車のような荷車が通過していく。例の固形食を、城へと運んでいく途中らしい。
「……行きましょ」
「う、うん……」
 道すがら、ありすは地下にしかないという漢方の原料を、鼻を利かせて採取している。手際がよかった。地下のどこに何が生えているか、あまりにも的確に見つけているように時夫には見えた。日ごろから、作業に慣れているせいかもしれないが。

         *

 長い黒髪が水面に広がって、ゆらゆらと揺れている。
 洋館の広いローマ風呂に、たった一人で、この地下帝国の支配者・真灯蛾サリーは浸かっていた。
 水面から出た頭はうなだれ、身動き一つしない。
 鋭利なあごからしずくが滴る。
 蜂の子どもを一人で産むたび、サリーの身体エネルギーはカスカスになってゆく。
 大きな眼をカッと見開き、湯船の一点を見つめたまま------。
 栽培所から城へ帰ってくると、いつも恐ろしく体力を消耗した。こうして、風呂に直行するのが日課となっていた。
 風呂は天然温泉で、沸きあがる大地のエネルギーに漬かっていると、身体の気力を充電してくれる。
 サリーはいつも、最低限身体を動かせるまでに、およそ二十分を要した。
 もうもうとした白い湯気から上がると、腰まで伸びたストレートの黒髪を溶かし、脱衣所で純白のバスローブを羽織った。
 廊下を裸足でピタピタと歩いて、これまただだっ広いレクリエーション・ルームへと入った。サリーはエマニュエル夫人風のマッサージチェアーに腰掛け、白くスベスベした足を大理石の床に投げ出した。
 地上からかっぱらったタブレットを手に、ピコピコと音を立てて遊び始める。
 部屋の中には、贅を尽くした調度品が並んでいた。
 多くは地上から手に入れたものだったが、手に入らないものは人質たちから製造した。ブルジョア趣味があり、世の中のありとあらゆる美しいものをかき集めるのが好きな孤独な女王。
 真灯蛾サリーこそ、まさに地下帝国のキング・オブ・クイーン!

         *

 エミールガレの緑色のステンドグラスのように美しい森を抜けると、ありすと時夫の眼前に、壮大な城が出現した。
「何だアレは-----」
 明治時代風の巨大洋館が、森の中に建っていた。四階建ての立派なネオ・バロック様式の建築だ。赤坂の迎賓館に少し似ている。
「ここが地下帝国の中心地で、あれが女王の城」
 ありすは終始冷静で、無言で周囲を見渡していた。心なしか、懐かしそうな顔をしているように見えた。
「ずいぶん古そうだけど、いつからここに建ってるんだ?」
「おそらく百年は経過してるわね」
 外見はまさに「古い城」だ。サリーが何歳なのか知らないが、ひょっとするとサリーより前に誰かがここに建てたのかもしれない。それなら一体誰が?
「素材は何で出来てるんだ」
「蜜蝋よ。樹脂と蜜の混合物。蜂のアスファルト、蜂(バチ)ューメンよ。コンクリートより硬いわ。この城も蜂人が人間の女王のための『女王室』として造った」
 ありす詳しすぎ。
「けど、前より増設した形跡がある」
 時夫は、「古城ありす」という名と、この城が何か関連があるような気がしてきた。ありすは、以前にもここに来たことがあるのではないかと察した。ありすの表情は、暫く来ない内に環境の変化に驚いている、そんな風に見えるのだ。
「本当に行くのかよ? ------不法侵入で罰金ガム宮殿じゃないの」
「面白くないわよ。くだらない意味論を発生させないで!」
「食いねぇ、蟲食いねぇ!」
「だからくだらない意味論を-----」
「俺じゃないよ」
「千葉っ子だってねェ。……蟲食いねぇ!」
 唐突に足元近くから、巻き舌のべらんめえ調が響いてきた。
「今度は何だ?」
 足元に生えてる大きめの茸が揺れていた。
 茸の傘の下から小さな手がニュッと伸びて、自分で傘を取った。
 身長約三十センチに満たない二等身の和人形がしゃべっていた。茸ではなく、陣笠だった。外見は江戸時代の渡世人風で、片目がなかった。
「まーた変なのが出てきた……」
「お宅らの話は、おぺんぺん様から全部聞いてるぜぇ」
「えっ、じゃあんたって骨董レジスタンスの一味? ……にしてもずいぶん小っちゃいわねー」
 ありすはにやりとした。
「ってやんでぇ! オレッチのタッパがどうしたってんでェ、蟲食いねえ!」
「蟲は結構よ。じゃあオチビサン、骨董レジスタンスの親分の名は?」
 ありすは屈んで訊いた。
「お控えけェなすって! 親分は『岩清水の紋白蝶』、手前は岩清水一家のモンでござんす! ……蟲食いねえ!」
 これまで遭遇したところ、どうやらアンティーク人間は、割とクセのあるしゃべり方の奴が多いらしい。
「そっか、森の蟲松か! 確か千葉の銚子が舞台の『天保水滸伝』だと、清水の次郎長が駆けつけるのよ。ねぇ蟲松ー、白井雪絵がどうなったか知らない?」
 幕末アウトローとして有名な、清水の次郎長一家の森の石松を模したアンティーク人間の一種、江戸時代の土人形人ではないかと、ありすは推察を時夫に述べた。
「雪絵はまだ、女王に食われちゃいねぇよ。けど雪絵は早晩サリーに利用される。というのは、女王蜂は地上へ出るための、恐ろしい計画を持っているんでぇ」
「それは?」
「地上の恋文町へ、蜂人たちのガキ供を直接送り出す計画でぇ! お宅らにゃ何としても女王を止めてもらわなきゃいけねぇ! ……さぁ、右足と左足を交互に動かしてさっさと行きなせぇ。ここにとどまってちゃ危ねぇ」
 二人は、蟲松と別れた。
「信じていいのか? あんなアンティーク人間の言うことをホイホイと」
「真実の匂いがする。ああ見えて、彼らは元人間よ。おぺんぺんだって、結局ホントの事言ってたじゃん?」
「匂いねぇ……」
「匂うわ……この城のどこかに、雪絵さんは確実に運び込まれている……」
 ありすは裏手に回ると、躊躇することなく裏口から内部へと不法侵入した。

         *

「許せないわ! 私の城に勝手に入ってくるなんてェエ。どいつもこいつも、電柱にしてくれるんだから!」
 サリーが叫んでいるのはありすたちのことではない。
 ゲームの中の状況だ。
「あ、そうだ、こんな事してる場合じゃなかった」
 サリーはタブレットの画面にクロスワードパズルを映し出した。
「とっとと解析しないと」
 パズルは、恋文図書館の立体機動集密書庫から持ち出して借りた「火蜜恋文」の巻末に掲載されていたものである。タブレットには、それを解析するためのアプリが入っていた。
 サリーと時夫が手に取ったとき、「火蜜恋文」は、肝心なページがごっそりと破り取られていた。何かヒントを得て、パワーアップを図りたいが、このままでは分からない。
 サリーは本を調べていくうち、「恋文全史」同様に、「火蜜恋文」の本文中にも、巧妙な暗号が仕掛けられている可能性に気付いた。
 それが巻末に掲載されたクロスワードパズルだった。
 だが、クロスワードにしては当のクイズの文章が見当たらなかった。その代わり、各ボックスの右上に小さな数字が書かれていた。
 この奇妙な数字は、「恋文全史」同様、本文ページを表しているに違いなかった。
 該当ページを一つ一つめくってみると、文章の中に数字が載っている単語があった。
「ウ”……」
 千葉の地名の漢字だった。しかし-----。
「よ、読めない。変な地名ばっかり」
 サリーは本を眺めながら、固まった。全てが難読地名だったからだ。
 その読み方さえ分かれば、巻末のクロスワードパズルを解読できるはずだ。
 地下での情報収集は限界があった。タブレットはネットには接続されておらず、地上の恋文図書館にはもう行けない。ある程度は、限られた『資料』である「本人間」たちで調べることができた。だが、しかし-----。
「私には、到達できない領域があるっていうの? 認められない!」
 呆然と本とタブレットを眺める。
「-----なんですって?」
 サリーは途中で気付いた。
「恋文町に……これとは別に、本があるのかもしれない……?」
 部分的に解明できた暗号を文章に並べると、次のようになった。
『秘密の一冊は、恋文町の……』
 これは、もう一冊の重大な本の存在を示唆する一文だ。
 サリーが探している情報が、そこに眠っている可能性があった。その本は、恋文町のどこかに、隠されているらしい。
 どうしても読めない。漢字が、地名が難しすぎる。
 結局、そこから先は分からなかった。
「あぁもう! 時夫さんさえいれば……」
 「恋文全史」を鮮やかに解き明かした金沢時夫なら、きっと解明してくれるはずだ。
(……あぁ早く、地上に出たいなぁ。)
 周囲にはしゃべれない蜂人しかおらず、女王は退屈だった。真灯蛾サリーはこの地下世界の引きこもりなのだ。
 しばらくして、部屋にエメラルドの眼を持った蜂人の兵士が現れた。
「何、反乱分子を捕えた? ちょうど五人ね? よーし、いっちょ1ゲームするか!」
 サリーは兵士を見やって、長くて白い足を折り畳むと、スッと立ち上がって部屋を出て行った。

         *

 およそ三十秒後、赤じゅうたんが敷き詰められた廊下を進んで、入れ替わるようにしてありすと時夫が、リラクゼーション・ルームへと侵入を果した。
 中は無人だった。
 甘いアロマの香りが漂っている。 
 ありすは勝手知ってるように見えて、城内を行き当たりばったりにうろついていた。
 城内のあちこちを英国風のアンティークや意匠が埋め尽くし、それをありすがいちいち立ち止まって眺めるので、肝心の雪絵の捜索はおろそかになりつつあった。
「どうよ?」
「ここよ。さっきまでサリーが居た気配がする」
「-----え?」
 時夫は身構えた。それが本当なら長居は危険だ。
 キングサイズのベッドを二つ合わせたようなベッドがドーンと置かれていた。
「女王の超巨大ベッドだ。金時君用じゃない?」
「やめろよ」
「ミツバチは一妻多夫。けれどサリーは一妻一夫。サリーが人間女王であるが故」
 ありすは端から本棚を眺めている。漫画が目立った蔵書だった。
「まるで漫画喫茶だ、ここ。あっ、------エマニエル夫人みたいな椅子がある!」
 ありすはなぜか眼を輝かせて、椅子をナデナデしている。
「匂いがする。ここに奴は座っていた」
「やっぱり、この中にもアンティーク人間が?」
「えぇ。でここに裸で座って、金時君を女王フェロモンで誘惑するのね」
「だからヤメロって」
「この椅子も、ひょっとしたら----」
「『美女と野獣』の城内みたいだ。おぺんぺんの言ったことは、本当だったのか------」
 ここまで来て時夫は、城内で見聞したものを思い返した。
 あれもこれも人間だったかもしれないなどと思うと、時夫はますます震えが止まらなくなってきた。自分がそうなった時の運命を、嫌でも想像してしまう。
 古道具に魂が宿ったつくも神のようにも思える話だが、ここではルールが逆だ。人格を持った人間が、古道具になっているのだ。
 棚に、変な造りの怪獣のソフビが並んでいた。
「ガーガメルのゾッキ怪獣じゃん。こんな千葉の片田舎にあったなんて」
「何これ?」
「ウルトラマンなんかの怪獣の、パチモンスターだよ」
 ある意味、モドキである。どうやら地上製らしい。
「オー……オイ、……」
 棚の奥から、ひそひそ話し声が聞こえてきて、二人は本棚に身を潜めた。
 声のする方向へと進むと、本棚の一角から、途切れ途切れに小さな声が聞こえていた。
「オーイ……俺を積ん読にしないで~。そこの人、頼む、頼むから、そこの人、俺を読んでください……」
 本が、情けない中年男性の声を発している。
「ねぇ……君、こっちこっち、こっちに来て、私も手に取ってェ」
 今度は若い女性の声だった。
「お願い……」
 時夫は切なくなってきた。
 この本達は、一体どれくらいサリーに読まれてないのだろう。
 きっとここには、一度も読まれることのなく収められた積読書籍が、大量に眠っているに違いない。本たちに同情すると、果てしのない絶望感にかられる。
 ------いや、問題はそこではない。
「この本たちは、きっと本人間ね。女王は、入手できなかった本を、知識のある人間をさらって本にして、ここの蔵書にしているのよ」
 ありすによると、すべてが本人間ではないらしいが、多くの蔵書が漫画であることと、関係があるかもしれない。
『頼む。俺なら他の本より地名に詳しいぜ。そう女王に言っておいてくれないか』
 地名?
「彼らを救うためにも、私たちの活動がある-----」
「なぁ、そろそろ行こうぜ。雪絵を見つけないと」
 時夫は一刻も早く、忌まわしいマンガ喫茶を出たかった。その時----、
「イエーイッ」
 外から女のキョウ声が響いてきて、二人はギョッとした。

 二人は廊下の窓ガラスからこっそりと外を覗いた。
 城前の広場の芝生に、栽培所で見たサリー女王が、びたっとした黒いドレスに着替えてはしゃいでいる。アオザイか、ノースリーブのチャイナドレスのようだ。蜂人たちをはべらせ、一人で歓声を上げていた。
「サリーだ。いつの間に……」
 サリー女王はクロッケー……ではなく、
「ゲートボールしてるぞ!」
 サリーも若いのに、-------いやまぁ、外見ほど若くもないのかもしれないが、どっかで覚えたゲートボールに熱中している様は、まさしくここが英国ではなく日本だったことを、かろうじて時夫に思い出させてくれた。
「もともと日本で戦後の物不足の中で、クロッケーから考案されたものよ。今でこそ高齢者のためのゲームとして定着しているけど、昔は子どものための遊びだったな」
 ありすはやたらと昔のことに詳しい。
「私に勝ったら、地下から出してやるぞ、反乱分子の田中和夫よ!」 
 対戦相手を見ると、人質たちのチームだった。皆一様に暗い顔をしている。そのリーダーが田中というらしい。
「キャーッ!」
 1プレーごとに、女王の歓声が響き渡る。サリーは絶好調だ。
「消える魔球!!」
「スクリュードライバー!!」
「宇宙統一赤方偏移!!」
 めちゃくちゃな技の名前……。
「詳しい!!」
 なぜかありすは感心した。
「マハリー*マ・ハー*タ・ヤンバラヤ*ヤン*ン♪ サ*ー♪ *リー♪ 魔法*いサリー♪」
 何せ、女王側の蜂人チームは物静かだ。もしかしたら、テレパシーで阿諛追従(あゆついしょう)しているのかもしれないが。
 人質たちも一様に青い顔をしていて、無言でプレーしていた。
「ずいぶんと真面目にやってるわね」
「『不思議の国のアリス』に出てきた、ハートの女王のクロッケー大会とは大違いだな」
「まぁ、蜂人や人質相手に威張ったって、虚しいだけだシ」
 それなら、性格も原作の女王と大いに異なっていることも切に願いたい!
「あっ……カメラだ。蜂人がカメラなんか持ってるぜ! グラビア撮影会みたいだ」
「ライカッ。なんていいカメラなの? じゃ、なくてその通りなんじゃない? あいつはゲームそのものより、自分を映させて悦に浸ってる。さっきの漫画喫茶もどきといい、あいつは、基本地下から出られない引きこもりだから、いつか、地上に出てやってみたいことを蜂人相手にやってるのね-----フフ、フフフ」
 ありすはニヤニヤと観察して言った。こっちの方が、チェシャ猫かもしれない。
 しかし人質の田中のプレーが、ゲームの行方を変えた。
「なるほどねー。ゲートボールでは、相手チームのボールにぶつけることで、全員アウトボールにして形勢逆転することが可能なのよ」
 ありすは興奮気味に言った。
 試合は人質チームの勝利で終わった。
「イカサマ? 今、イカサマしたわねッ!? あんた、許さない!!」 
 一瞬で険がある顔つきに変わったサリー女王が怒鳴ると、蜂人はたちまち男の両腕を捕まえた。
「詳しくない!!」
 ありすはさっきと違って呆れかえった。
「し、してないシ!」
「田中和夫! ……直ちに電柱になりなさいッ!」
「ちょ、待て。俺はイカサマなんかしてない、俺はしてないぞ! あんたホントにゲートボールのルール知ってんのか」
 男は髪を振り乱してバタバタと抵抗した。
「千葉のローカルルールにないことを勝手にやられても困るんだけど! 田中ッ!」
「た、助けてくれ。女王、ゲートボールをもっと勉強してくれェェ! や、やめ……、やめ……、ヤメロォォォッ!!」
 両足が容器の中に押し込められる。
「電柱、Want柱(you)! Get柱(you)!」
 女王の身体が電気を帯びた。女王の腕から稲妻が走り、男の隣にある巨大な真空管が眩く閃光がほとばしった。
「うげ……がごげきぐぐ……ぐ……。うううう、うぎゃぁああああああーーー……、ガボゲキグガガガ・ガ・ガ……ギッ……ッッ」

 バチバチバチバチ!

 芝生の上を、ニューッと男の影が伸びていく。その人形の影は、すぐに電柱へと形を変えていった。
 いつの間にやら田中が居た芝生あたりに、電柱が突っ立っていた。
「立派な電柱になったものだ、田中和夫よ!」
 サリーは満足げに叫んだ。
「ほほほ……はーっはっはははははは……!!」
 サリーは大きな地図をバッと広げて、赤ペンでマークした。
「恋文町月丁目に建てといて! あそこ無駄に電線地中化が進んでるから」
 サリーが笑うと、前には見えなかったものスゴイ犬歯が見えた。まるで般若か、吸血妃カミーラを髣髴とさせる。
「これは……ハートの女王どころじゃない。サリー女王は……、ハートの女王よりイカれているぞ。打ち首の方がまだマシだ! 生きたまま電柱にしてしまうなんて。あんな姿で一生生きろっていうのかヨ!?」
 残虐極まりない。図書館のときと性格がまるきり違う。恐るべき処刑を目の当たりにして、時夫は固まった。
 他の人質達はシンと押し黙っている。抵抗する気力もないのだ。
「落ち着いて……見つかるわ」
「すまない……。田中か。……佐藤じゃないんだな」
「そっか、そうだわ! 『田中』は『でんちゅう』と読める------。どうりで、地上の電柱に田中が多かったわけだ!」
 このゲームは、正々堂々とした勝負でないに決まっている。田中は、女王のゲートボールの理不尽で身勝手なルールで電柱にさせられたのだ。
「とんでもない暴君だ。ハートの女王のクロッケー大会以上だ」
 こうやって、人質たちの一部を家具やインフラにしているのだろう。
「あれが魔学の力よ。魔学者はマッドサイエンティストなの」
「…………」
 見てはイケないモノを見た。時夫には、それ以外の言葉が思いつかない。
「なぁ……気付かないか。俺たち今……」
「分かってる。これは……完璧に『不思議の国のアリス』の意味論の中に、私たち、嵌ってしまってるわね!」
 古城ありすは、やけくそな言い方をした。
 イカレ和菓子屋、うさぎという名の少女、地下の国、女王のゲートボール大会。
「『不思議の国のアリス』に、ヒトモドキなんて出てこなかったがなぁ」
「いいえ、海がめもどきって奴が出てくるよ。その生き物は、泣きながらありすに身の上話をするの。さっきのおぺんぺんて奴は、チェシャ猫みたいになんだか笑ってたけど。ともかくそれで、モドキ生物のオンパレードが起こっているのかも」
「モドキ生物って-----?」
「たとえば、さそりに擬態したサソリモドキ、ウッカリカサゴに、タマゴタケに似たタマゴタケモドキ。それにアゲハモドキにウメモドキ。そして究極は、ニセクロホシテントウゴミムシダマシなんてのも」
 擬態で欺くモノ達もあれば、人間が勝手に命名の都合で、似たものを「モドキ」とつけてるものもあるらしい。
「蜂も出てこなかったがなぁ」
「あまり知られてないけど、『鏡の国のアリス』の方に出てくるわ」
「あまり知られてないって?」
「挿絵を描いたテニエルが、スズメバチのエピソードにイチャモンをつけたので、ルイス・キャロスが削除したの。一九七四年に校正原稿がオークションに出されて、今では収録されている翻訳本もある」
 ごく最近の話である。
「削除された章……」
 いわばアリスの秘密のエピソードである。それも、ルイスが経験した事件なのだろう。
「この後はきっとお茶会ね。女王は、軽い運動の後で食事をするはずだから」
 クロッケー大会ならぬゲートボール大会。その後は、お茶会ならぬ-----。
「雪絵は……雪絵は今どうなってるんだよ! 早く見つけないと。もしも、女王のお茶会に運ばれてしまったら-----」
「行こう」
 広い廊下を進み、二人は明かりの漏れた扉から、厨房へと侵入した。
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