あとはあなたの笑顔だけ

文字数 1,999文字

 神宮寺涙子(じんぐうじ るいこ)の前に立つとき、すべての人類は笑顔になる。
 それは、涙子が卓越した話術を持つからでも、変顔を自在に操るからでもない。
 涙子が持つのは2つだけ。生誕時、産院の薔薇が恥じらいのあまり枯れたと伝わる美貌と、江戸より続く巨大財閥、神宮寺一族本家長女という肩書。
 つまりは、この世の全てを手にしていると言ってもいい。
 だから、人は皆、涙子の前で笑うのだ。
 この世の全てを前にできることなど、微笑みを浮かべるぐらいしかない。
 そして、それこそが、涙子にとって最も唾棄すべきことだった。
 
 涙子を筆頭に、名家の子息が集められた私立九碗寺(くわんじ)高校で、似鳥慎二(にとり しんじ)は珍しく一般家庭出身の生徒だった。いつも表情の変わらない四角い顔は、春先から日に焼けていて、サイズの合わない制服の中に筋肉質な体が狭苦しく詰まっていた。
 まあ、そんなことは別にどうでもよかったのだが。
 涙子には直感があった。
 この男だったら、多少傷つきこそすれど死ぬことはなさそうだわ、と。

 涙子の婿選びは、生まれる前から始まった。あらゆる男たちの笑みに相対し、涙子はつとめて真顔でいた。微笑み返せば誰かの人生が変わることを思うと、心底嫌気が指した。
 だから高校では恋人を作ろうと思っていましたの。名目上のね。神宮寺家の思惑も、婚約者候補たちの嫉妬も、全部はねのけるぐらい頑丈な男に守ってもらうの。そして私は平穏な3年間を手に入れる。あなたが手に入れるのは……名声?
 屋上に呼び出された似鳥は、多少迷惑そうな顔をしたが、「アンタもいろいろ大変なんだな……」と言ったきりううむと呻き、最終的には頷いた。
 そしていよいよ、涙子はこの世の全てを手に入れた。
 はずだった。
 
 昼休みになると屋上に二人並んで、シェフ特製幕の内弁当と、68円の菓子パンを食べる。それだけの『オツキアイ』だ。なのに。
 スティックパンを頬張る横顔を眺めながら、この男本当に笑いませんわね……、と思い始めたらもうおしまいで、気づけば涙子は、『オツキアイ』の時間以外も似鳥の姿を目で追うようになっていた。そして、万人に対し不愛想と思っていた似鳥が、それなりに表情豊かなことを知った。女子からお礼を言われた後、口角が少し上がった一瞬など目撃した際は、その場で叫びそうになった。 
 神宮司涙子、生涯初の嫉妬である。
 
「……もう、やめてもいいんですのよ」
 もう何度目かの屋上で、涙子がそう切り出したときも、似鳥の表情筋は微動だにしなかった。
 反対に、涙子の顔は暗い。心労のあまり瞳はよどみ、珠の肌にかさつきすら見える。
 あの日から、涙子は変わった。似鳥の素敵な『カノジョ』たろうと、似鳥の前ではつとめて微笑み、恥じらいながら上目も使ってみせた。
 そのすべてに、似鳥は微笑みかえすどころか、余計に表情を硬くした。
 もういやだ。
 この男といる時は、いつも、涙子ばかりが喋っている。
 鮭おにぎりを片手に持ったまま、似鳥は涙子をまじまじと見つめた。
「こうやって、屋上で昼飯食べるのはけっこう好きなんだが、おれは」
「だからァ……」
 涙子は。
 かつて世界の全てを手にしていた神宮寺涙子は、この男に出会ったばっかりに。今だって、知らなかった感情に振り回されて、屋上で声を張り上げている。
「あなた、ちっとも楽しくないでしょう今。他の女子の前ではニコニコするのに、私の前ではいっつもしかめっ面。とんだ……とんだ軟派野郎!!」
 違う。
 そんなことが言いたいのではない。
 笑っていてほしいのだ。笑いかけてほしい。できれば、涙子だけに見せる表情で。
 唐突な叫びに、さすがの似鳥も呆気にとられた様子で、たっぷり10秒押し黙った。
 もうおしまいだ。
 うつむいたままの頭上に降ってきたのは、消え入りそうな声だった。
「緊張するんだよ……」
「はぁ!!??」
 弾かれるように顔を上げると、こちらをのぞき込む瞳に視線を掴まれる。
 真っすぐな眉を情けなく下げて。逆光でも分かるぐらい、顔を赤くして。
「アンタ、おれの前でいつも、いろんな話してくれるだろ?そういうの、嬉しいんだ。なんだ、その……おればかり好きなわけじゃないんだなって思えて」
 決まり悪げに頭をかきながら、似鳥は言葉を続ける。
「だから、その、ごめん……かっこつけの不愛想で、嫌な思いさせたな」
「い、いやな思いなんてしてませんけどっ!!」
 まだ言葉を咀嚼しきれないまま、それでもとっさに、噛みつくように叫びかえした涙子に。
 一瞬して似鳥は、照れたように柔らかく笑った。
 はじめて見る顔だ。
 絶句したままの涙子を前に、おずおずと付け足す。
「……そういうところが好きだ」
「信っじられませんわ!!」
 いよいよ声を張り上げて、涙声にすらなって。
 それでも最後は。涙子は、生まれて初めて心から、人に微笑んでみせたのだった。

 つまり、神宮寺涙子は世界の全てを手に入れたと言うことだ。
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