そとわこまち

文字数 3,570文字

 ある日、あるところに、一人の老婆が歩いていた。老婆はげっそりと痩せこけており、召し物はいかにも貧乏人のそれであった。腰は曲がり、杖をつき、何をするにしても見る者を疲れさせる、嫌な雰囲気を醸し出していた。京の都よりずっと南。今はとうに朽ち果てた平城京。そのさらにはずれの荒れ寺へと参り、仏の加護を賜ろうとする途上。老婆は歩くのに憂いて、近くの朽ち木に座り込んだ。
 すると急なこと、辺りがひんやり静まり返り、なにやら恐ろし気なうめき声が近づいてきた。老婆の前に現れたのは一匹の鬼であった。赤黒い肌に、鋭いまなざし。頭部には角のような突起物。醜悪な笑みを浮かべた鬼がこの世のものとも思えぬ響きで老婆に語り掛けた。
「おい、そこの醜女(シコメ)。貴様、神仏の祟りが恐ろしくはないのか」
 その声は子供が聴けば震えあがって失禁し、大人であっても歯ががちがちと鳴るのを隠せはしないほどの恐怖を含んでいた。しかし老婆はさしたることもなさげに返事した。
「神仏の祟りは恐ろしゅうございます。なれど、この身はすでに朽ちかけております。この上いったいどのような祟りがなされるというものでしょう」
「神仏の祟りに貴賤も貧富もあるまい。貴様の行い一つ、いかようにも祟られるであろう。貴様、おのれが何を尻に敷いておるか、よう見てみろ」
 老婆は鬼の言うままに朽ち木を見た。するとそこにあるのはただの朽ち木ではない。卒塔婆であった。死者を供養するためのものに尻を載せるなど、なるほど確かに罰当たりと思われた。
「これは、気づきませなんだ。土を払い、手を合わせることにいたしましょう」
「そのように拝めば済むというものでもあるまい。その罪には罰が与えられるべきであろう」
「はて、罪とはどのような」
「何をしらじらしい。貴様は仏に参ろうと言う身で、仏の大事とする卒塔婆を尻に敷いたのだ。罰が与えられるに十分な罪ではないか。しかしここには坊主も仏もおらぬ。ならば鬼のこの身が変わりに罰を与えてくれよう」
 鬼は老婆に顔をぐっと近づけて息を吐きかけた。腐臭が漂ったが、老婆は顔色一つ変えはしない。むしろひょうひょうとこう言って返すのだ。
「我らの住まうこの地は仏の住む世界とは異なります。もしここが仏の世界であれば、卒塔婆ひとつとってまことに触れがたきものでしょう。なれどここは京よりも遠く離れた地にて、この卒塔婆とて朽ちるに任せておかれます。そのような不行き届きこそ罪であり、さりとて罰せられるほどの罪とも思えませぬ。そうなるとこの身が卒塔婆に誤って乗ったことも仏罰が下るとは考えにくい。物事には、順序というものがございますゆえ」
「ふむ。確かに貴様の言うことはもっともだ」
 鬼は案外あっさり引いた。
「だがそのようなことはどうでもよい。これは方便だ。俺が貴様を食らうためのな。祟りか俺の食欲かという違いでしかなく、貴様はいずれにせよ死ぬ」
 老婆は目を瞑り、土の上に正座して頭を垂れた。
「すでに我が世は終わりも同然。鬼に抗う術もなし。どうぞご自由になされませ……。と申したいところですが、一つお願いを聴いてはいただけないでしょうか」
「なんだ。今生の別れゆえ、かなうものならばかなえてやらんでもない。さあ、言うてみい」
「実は、私の身にはすでに怨霊が取り付いてございます。生前、私に懸想した男が夜な夜な私を苦しめるのです。もしこの場でこのまま鬼の腹におさまれば、わたくしはこの怨霊のお仲間にされ、死してなお苦しむはめとなりましょう。そのような苦しみを味わうことのないよう、寺に参って念仏を唱えねばなりません」
「それは難儀なことであった。しかしいつまでも待つわけにはいかぬ。ならばさっさと寺に参ってその念仏とやらを済ませてしまえ。明日の朝、貴様の身をいただくとしよう」
 そう言うと鬼は霧のように姿を消した。老婆の耳に音が戻り、カラスが山に戻る声が聞こえた。老婆は杖によりかかって立ち上がり、寺に向かった。
 住職もおらぬ荒れ寺で老婆は思案した。怨霊の話は嘘であった。その場しのぎの命乞いである。しかしこのままでは明日の朝には食われてしまう。逃げようとすれば、すぐに気づかれてしまうだろう。どれほど考えても生き延びる術はなく、もはやここまでと観念するより他なかった。
 観念してしまえば意外に気が楽になるもの。老婆は残された時間をどのように使うかということを考えた。
 灯台の上の皿にはまだ油が残っていた。それを用いて灯りをともし、手持ちの紙と筆を用意する。
 手紙を書く。残された時間の有意義な使い方はそれしかないと思い定めた。
 しかし困ることがあった。かつて世話になった人の多くはすでに身まかり、身内と呼べる身内も少ない。ならばいったい誰に手紙を書くべきだろう。老婆は紙の前では別人のように、姿勢正しく座っていた。その立ち居振る舞いは決して市井のものではなく、生まれ育ちの良さを物語っていた。
 老婆は意を決し、筆をとり、書をしたためた。夜が過ぎ、朝となる。
 寺の中に鬼が現れた。神仏を畏れぬ鬼なのか、はたまた荒れ寺ゆえに構わぬのか。鬼は陽が昇るのとさほど変わらぬ間に老婆のもとにやって来た。老婆はその少し前より身支度をして鬼を出迎えた。
「どうだ。怨霊とやらはどこぞへと去ったか」
「はい。ひたすら御仏に念仏、お祈りしましたところ、すぅと肩が軽くなる思いがしました。きっと怨霊も成仏なされたのでしょう」
「では心置きなく、貴様も成仏できるものよな」
「その前に一つ、願いを聴いてはいただけないでしょうか」
「なんだ。まだあるのか。貴様の願いは昨日聴いた。これ以上はならん」
「すぐに済む話でございます。これをあなたに詠んでいただきたいのです」
 そう言って老婆は一枚の紙を鬼に差し出した。そこには一首の和歌が流麗な筆致でしたためられていた。
「本当はどなたかに最後の手紙をと思いましたが、この身はすでに朽ち果てたも同然。出す相手が思いつかぬまま、朝を迎えてしまいました。今生の別れを伝える相手もおらぬというのはまことに寂しい限り。あれこれと悩むうち、私の最期を看取るのは鬼のあなたであると思いいたりました。我が身の、死の間際の、心の持ちようを。どうかそれを知りつつ、私を食ろうていただきたい」
 その程度のことであれば容易かろう。鬼はそう思い、一片の和歌を手に取った。何の気なしにそれを読む。一読し、改めてそれを詠む。鬼は恐れおののいた。和歌とは、これほどに力を持つものであったか。これほどに魂を揺さぶるものであったのか。老婆の詠んだ歌は世のあわれを歌いながら、生と死の激しく揺れ動く情念を抉り出す見事なものであった。
「人麻呂とてこれほどとは思えぬ。貴様、なんというものを詠ませてくれた。これではとても貴様を食い殺すことなどできぬ。何故なら、貴様を食いたいという欲求よりも、さらに多くの和歌を詠みたいという欲求が勝っているのだから」
「お恥ずかしいこと。この身は時を待たずして朽ちるもの。さほどの歌を残せもしませぬ」
「ならばこの蟠桃を食すが良い」
 鬼が一つの小さな桃を老婆に差し出した。老婆は少々困惑したが、無言の圧力を受けて桃を受け取り、言葉に従ってそれをひと齧りした。
 するとなんとも不思議なこと。見る見るうちに老婆の姿が若返っていく。背筋は伸び、肌のしわが無くなり、白くなった髪がつややかな黒に染まっていった。そして現れたのは傾国とも呼ばれかねぬほどの美女であった。
 その美しさに鬼は面食らい、思わずひれ伏してしまった。しかしひれ伏すのが自然なことのように感じられもした。
「どうか、その若さを保ち、良き歌を詠んでくれ。そのためであれば、この俺がいくらでも手助けしよう。それと、いつまでも貴様呼ばわりは心苦しいゆえ、そなたの名を教えてはくれぬか」
 男が名を聴き、女が答えるのは婚姻の証である。しかしそのような風習は貴族社会だけのものかもしれない。少なくとも目の前の、歌を解する鬼はさほど気にした風でもない。
 老婆、いな美女はあまりの展開に思考が付いて行っていない。しかし、脳もまた徐々に若さを取り戻しているのか、少しずつ事態を把握できるようになっていた。なんとも不思議なことがあるものよ。美女は若さに似合わぬ老齢の達観をもって己の右手指先を上にかざして眺めた。とても美しい指だと思った。
 微動だにせず自分の言葉を待つ鬼に美女は答えた。
「私はとうの昔に家を捨て、名を捨てた身。名乗るほどの名を持ち合わせてはおりませぬ。ただ、それでは確かに不便もしましょう。そうですね。では私の姉、町の名を頂戴し、小町と名乗ることにいたしましょう」
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