第70話 透明なありす

文字数 7,336文字

 グニャグニャとした文字が動き出す。やがて、オドロオドロシイ音楽と共に形を成していく。その文字は、「恋文Q」

 もう……「不思議の国のアリス」の意味論から、金沢時夫は逃れることは決してできないのだ。その上物語とは違い、未来永劫、目覚めることのない夢の中に閉じ込められている。いいや、これは夢なんかじゃなく、まさにこれが伏木有栖市恋文町の現実なのである。「不思議の国のアリス」なんかよりも、厳しい現実がそこにはあった。イヤハヤ、もはや一体「何」が現実で、そうでないんだか------。
 時夫は悩んでいた。思春期! 「思い悩む春」と書いて思春期! いやいやそういうことじゃない。
 老若男女、誰でも悩むはずだ、こんな状況。誰か、この状況を的確に説明してくれる人求ム!
「違うわよ金時君。思春期の『思春』は、恋心のことを意味するのよ、少なくとも世間じゃネ」
 ハッ、しまった。俺はいつの間にか声に出していたらしい。古城ありすの顔が目の前にあった。
「……私が何とかしなきゃいけないんだ。『不思議の国』を脱出するのは、結局アリスの役目なんだから。君に、何としても東京に行ってもらわなくちゃ」
 ありすはそう言って、ウーが作り置きした恋文セントラルパークのどんぐりで作った縄文クッキーを一口かじると、再び腕を組み宙を睨んでいる。
 ありす達は、寺フォーミングの進む幻想寺の捜索を打ち切った。
 巨大化の進む構造物で何が起こっているのか、ありすにも判断がつかなかったせいだ。そこで、綺羅宮神太郎の新しい科術が始まっているのかもしれない。
 天才科術師・古城ありすをして「お菓子な国現象」及び、この町で進行しつつある様々な現象に対応不能となっていた。八方塞の中、全てはありすが現在解読中の古文書にかかっているといえた。
「はぁ……」
 思い悩んでるのは時夫だけではなかった。ありすの眉間のしわが事態の深刻さを表している。
「ちっくっしょぉおおー!」
 ウーが唐突に絶叫した。
「どーした!?」
「ドーナツの穴って……どーやって食べればいいんだぁ!?」
「は?」
 またバカな事を。
「何であんたがあたしの感情を横取りするのよ!?」
 吐露するタイミングを逸したありすは怒髪した。
「はぁっ、し、知らないし」
「あんたの悩みなんてくだらない」
「くだ……くだらないって何よ。高尚な哲学的問題なんだから」
「どこが高尚なのよ! ドーナツの穴を食べるなんて超簡単でしょ。厳密には穴の中には気化したドーナツの成分が香りとして充満している。その微粒子空間をパクリとすれば、『ドーナツ』の『穴』を『食べた』事になる」
「あ、そっか」
 さすが意味論使いの科術師だ。屁理屈に磨きが掛かっている。
「ちょっと出てくる」
 時夫は一時避難中の「半町半街」を出た。
「傘、持ってきなさいよ」
 外は飴が止んでいたが、古文書とにらめっこしている古城ありすはお店の傘を時夫に持たせた。

 曇天だが、空に浮かんでいる雲は全て綿菓子だ。
 いつ何時、降飴が再開するか分からない。だから、科術の結界つきの傘を持たなければ時夫も砂糖と化してしまう。
 恋文ビルヂングに戻って、外からアパートを眺めると、もうそこは自分の部屋じゃないような気がした。
 二階を見上げると、外見上は静かだが、中で何が行なわれているか知れたものじゃなかった。一人でここに長居したくないので、停めてある自転車にまたがると、いつか真夜中に発見した貨物線を目指した。
 あの線路の謎は、未だ解けていない。一体、どこに繋がっているのだろう。地図にも載ってなかった気がする。ひょっとしてこの町を脱出する唯一の解決策、それがあの貨物線ではないだろうか。
 恋文セントラルパークを横目に、中央道路をひたすら漕いでいく。木々は飴細工と化して、何もかも飴のように光り輝いていた。飴のように、ではなく「飴」そのものだ。恋文はわいの煙突が遠くに見えた。こちらの煙は出ていない。
 もしも飴が降ると、傘を差しながら自転車を漕ぐことは困難を伴う。横殴りの飴が、時夫の身体に降りかかってしまうからだ。だから急がなくてはいけない。
 途中、恋文はわいの横を通り過ぎた。ありすが閉鎖して以来、休業に追い込まれていた恋文はわいは、改装中らしく白いシートに覆われていた。
 だがあの夜、迷子になった挙句、偶然発見した貨物線を時夫が見つけることは結局叶わなかった。
 時夫は諦めて自転車をアパートへ置くと、ひとり恋文町の住宅街をぶらついて、恋文銀座の端っこに位置する洋品店へと来た。
 遠くに白彩工場の煙突が見え、こちらは相変わらず白い爆煙を吐いていた。
 随分久しぶりに、この洋品店のショーウィンドウを眺めるような気がする。右から順にマネキンを眺めていった。

 石川うさぎ。
 古城ありす。
 白井雪絵。
 そして真灯蛾サリー。

 このマネキン達、彼女たちにそっくりだ。やっぱりそうだ。時夫が出会った順に、左から並んでいる!
「ありす、ウー、そ、それに雪絵……」
 時夫は急に嫌な予感に襲われた。ありすやウーは、俺が作ったキャラクターたちだったのか。暇な俺が作った美少女キャラ達。
 まさか。もしそうだとしたら、これまでに起こった出来事の全てが自分の、俺の中の妄想だったとしたら……そうだとしたら、白井雪絵は?
 冬休み初日、俺は風邪を引き、暇だった。
 部屋を飛び出し、何の気もなく普段歩かない恋文町を散策した。この平凡な町を、だ。その瞬間から、全ての不思議現象が始まったのだ。
 時夫が体験した、あまりに荒唐無稽な出来事の数々。
 しかしその全ては自分の妄想であり、現実ではなかったのかもしれない。時夫の想像力が全てを生み出しているだけで、この町で不思議なことは何も起こってはいない……。
 今この瞬間も、町の全てが飴のように光っているのも、雨後で時夫の瞳にそう映っているだけなのかもしれない。
 飴なのか、雨なのか。
 「飴」なはずがないじゃないか! もしそうだとしたら、やっぱり彼女らは本当に存在しないのだろうか? ついさっき分かれたばかりの古城ありすとの会話が、時夫の、心象風景の中の出来事でしかなかったとしたら------。
「ありえない。そんな、そんなこと絶対ありえない……!」
 時夫は焦燥感に襲われて辺りを見回した。景色が、ぐにゃぐにゃと歪んでいく。
 時夫はめまい、動悸、夜泣き、疳の虫を起こした。
 くだらないことを考えた。
 もしこれまでの出来事が幻ではなく本当だったとしても、意味論が支配するこの町じゃ、こんなことを考えた暁に、本当に全てが消え去ってしまうかもしれないのに。
 それはある意味、時夫の現実への帰還を意味するはずだろう。だがその代わりに、彼女たちにはもう二度と会えない。だって時夫の創作なのだから。
 ------ダメだ、考えちゃいけない。
 時夫は急ぎ「半町半街」の方角へ向かって走り出した。

 目の前から佐藤うるかが歩いてくるのが見えた。
「あっ……、また会いましたね?」
 うるかは一応普通の少女である。だから、実在しても不思議じゃない。今はそれどころではない。
「君か。すまないが今、急いでるんだ」
 時夫が立ち去ろうとしたとき、目の前を大型トラックが通り過ぎていった。トラック・オブ・ザ・イヤー。明らかな軍仕様。
 これは、J隊のトラックだ。荷台に土砂を積んでいる。その土砂の形状は、「富士山」だった。富士を積んだトラック……実際はそっくりな形に積まれた土砂だが……それを、パトカーが追いかけていく。
「コラーッ! 前のトラック、何を積んでるんだー。違法だぞ!! 止まれーッ、止まりなさい!」
 乗っている警官は、あの恋文交番の警官だ。死んだはずがまた復活してる。その正体が茸であることは確実だ。
「富士山なんか積んで走って、もし丸ごとお菓子になったらどうするんでしょうね」
 うるかは、笑えないことを呆れた声で時夫に言った。
 直後、選挙演説カーが後追いしていった。
 演説内容は、ありすをディスったビラの内容と同じだった。おそらく、茸人が運転しているのだと思われる。
「大変なことになりましたね。本当にこの町。一体、何がどうなってるんですか。お兄さん知ってるんですよね。教えてくださいよ」
 そんなことを言いつつ、うるかの声はそれほど「驚いていない」ようにも聞こえる。
 なら、大変なこととは何なのか聞いてみたい気もするが、少女の平然とした様子では、うるか一家はまだ無事のようだった。
 いやそれだけでなく、うるかの表情は何か町の事情を知っていて、あえて時夫に訊いているようでもあった。
「こっちこそ聞きたいことがある。君は……俺が知らないこの町の秘密について、何か、隠してることがあるんじゃないのか?」
 うるかはこれまで、何冊かの本を時夫に渡した。それも決まって、大きな闘いが起こる前に、だ。そしてそれらの書籍は、毎度敵を倒す有効な科術として発動した。闘いの行方を左右した意味論の「武器」を提供したこの少女は、一体何者なのか。
 佐藤うるかは、科術師である可能性があった。
「君は……知ってるんじゃないのか、この町が、なぜこんなことになっているのかを!」
「ハイコレ。コレが最後の一冊です」
 三つ編み少女うるかは謎めいた微笑を口角に浮かべると、カバンからまた文庫を取り出した。それを問答無用に時夫の手に押し付けると、スタスタと駅前の方へ向かって歩いていった。
「お兄さん、だってこの町自体、『不思議の国のアリス』の本の世界に入り込んだようなものじゃないですか!」
 彼女は今、白彩の方へ歩いていったようだが-----。
 あの店に何か「用」でもあるのか? そう思いつつ、時夫は渡された本を凝視した。

 カフカ「変身」

 最後の一冊、だと……? そりゃ一体どういう……。
 やはりあの眼鏡っ娘(こ)の正体は------。いや、それだけじゃない。「佐藤うるか」。名前だ、あの少女の名前。
「ちょっと待て、『砂糖(を)売るか?』 だって? オイ!」
 すでに、うるかの姿は「年末」の恋文銀座の雑踏の中へと消えている。彼女はやはり、白彩の方へ走り去っていったような気がした。
 白彩で働いているのか。それとも、闘いにでも行ったのか。お前何者だ、「砂糖売りの少女」よ。
 まぁよい、後だ。あの少女の詮索は……。
 今は一刻も早く「半町半街」へと戻らねばならない。うるかは実在したが、ありす達の実在はまだ確かめていないのだから。一刻も早く確かめなければ! 彼女達が俺の妄想でないことを証明するために。
 目の前を、杖を突いた老人が通過していった。老人は、明らかに時夫を追い越していった。奇妙だ。時夫の直感がささやいた。あの老人はおかしい。
「あの------もしもし」
 時夫は杖の老人を追った。しかし、まるで追いつかない。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ」
 シャカシャカ、シャカシャカシャカ……。
「ま、待ってくれって!! おーいッ」
 シャカシャカシャカシャカシャカシャカ!!
「待てよ、さてはお前佐藤マズルだな!? おいコラ待ちやがれ!」
 時夫が走っているのに、杖を、両足を、見えない速度で動かしながら、猛スピードで老人の後姿ははるか前方へと消え去った。
「何なんだ……」
 時夫は腹立ち紛れに車道でシャドーボクシングをして、後ろからクラクションを鳴らされた。そこが歩道でない事に気づくと、戻ってトボトボと歩き出した。

 ワォオオオーーーーン……。

 どこかで飼い犬が遠吠えしている。

「ウー、古城ありすは……!?」
 「半町半街」に駆け込んだ時夫は、「薔薇喫茶」とここを行ったり来たりしている石川ウーの姿を見つけて駆け寄った。
 とりあえずウーには出会えた。良かった、彼女は実在している。
「何よやぶから棒に」
 冷蔵庫の中を見ていたウーは、一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、また冷蔵庫に視線を戻した。
「ウー、ありすは一体どこ行ったんだ?」
 見たところ、店内に黒ゴスロリ科術師の姿はなかった。
「多分……出かけたんじゃない」
 ウーはありすの所在を確認していないらしい。そのことを、特別気にも留めていないようだった。
「多分って、何処行ったか君も知らないのか? 何も告げずに?」
「焦って何言ってんのよ。コレを見て」
 ウーの差し出したメモ用紙に、水滴の中に丁寧に描かれた魚の絵があった。
「なんだこれは?」
「書き置き? 置手紙?」
「これが?」
「よく見て。一滴鱒(いってきます)、じゃないの?」
 う~ん、なるほど。
「……雪絵さんが居なくなって以来、ありすはあたしに口を聞いてくれなくなった」
「君がドーナツの穴がどうのとか言うからじゃないの?」
「ううん、無口になったの。自責の念にさいなまれているらしいわね」
「行ってきます、か……」
「水臭いわよね。ちっとあたし忙しいから、薔薇喫茶に戻らなきゃ。お店混んでんの。この町の食糧難を救うために。それとマズルも探さなくちゃ。じゃネ、時夫君」
 こっちもつれないな。ま、しょうがない。さっきの超スピード老人のことは、混乱させるだけだから黙っておこう。
 この店……なんで客が全く来ないのだろうか。
 このありすの店『半町半街』は、時夫が一人きりになっても何も問題が起こらないくらい、客が来ない。いや、今まで客というものが訪問したところを時夫は見たことがなかった。……俺以外。
 本来の店長も不在なので、ほとんどありすの「家」と化している。きっと、この店の漢方も扱うチェーン店、コンビニ・ヘヴンの方が儲かってるのだろう。
 時夫はダイニングのテーブル席に腰を下ろすと、壁掛けカレンダーをじっと睨んだ。カレンダーの数字は永遠に年末だった。
 日付が重ねられるごとに、夜空の満月(ホットケーキ)が巨大化してゆく。そうしておそらく「何か」が起こるのだ。もちろんそれは女王の地上での「羽化」に決まっている。そして俺達は出られない。
 まじめな話、この囚われた世界に、永久に閉じ込められるなんて真っ平ゴメンだ。俺は、何としてもお菓子の国を、不思議の国を脱出する!! そして、海賊王に俺はなる!
「決めたわ」
 ガラガラと引き戸を開けて古城ありすが戻ってきた。
「ありす……」
 時夫は立ち上がって黒ゴスロリ科術師をじっと見つめた。
「何、金時君」
「その呼び方、やめてほしいね。時々、自分が金時豆になった気がするんだ。この意味論の支配する恋文町では」
 時夫は微笑んだ。
「今更じゃない? 何言ってんだか。そんなこと気にしなくていいわよ」
 なんて、いい加減な。相変わらずだな。ま、はなから許してやるつもりだったけど。
「それで?」
「白彩の煙突、勢いよく煙が出てた。奴らは雪絵さんを使って、いよいよ実験の最終段階へと移ったのかもしれない。君はどこへ行ってたのよ」
「何とか脱出できないかと思って、いつか見た貨物線を探しに行ったんだ。結局見つからなかったけどサ」
「相変わらずね。無駄なことを」
 そういってありすは腕を組み、大きな黒い瞳で時夫をひたすらじっと見る。
「地下へ、行くつもりなのか?」
「えぇ……。『白彩』に行って来る。連中は雪絵さんまで手に入れた。もう女王と蜂人が地下から這い出てくるのに何の障害もない」
「そんなことやめろよ」
 絶対罠に決まっている。地下の奴等が欲しいのは最終的に古城ありす、お前だ。
「さっき行こうと思って出かけたんだよ、あたし。でも、その前に金時君に一言言っとこうと思って……」
 やけに感傷的だな。あんな手紙では伝えられないとすぐに悟ったか。
「ありす、君の科術は白彩じゃ無効になるはずだろ。それなのに何故行く? 勝機でもあるのか」
「なら、その前に一つお願いがあるんだけど。デートしてくれる?」
 「決めた」と、さっきありすが言ったのは白彩へ突撃することではなかったらしかった。つまり、白彩へ行く前に金沢時夫とデートすることだったらしい。
「付き合ってくれない。話があるの……」
 ありすの顔つきはあくまで真剣だった。声が少し震えている。
「ここでは?」
「ここじゃちょっと」
 今、「薔薇喫茶」に行っているウーに、聞かれたくないことでもあるのだろうか。
「分かった」
 デートか……いいよ。デートでも何でもありすがそれで元気を出してくれるなら。そんなんでいいのならな。
 するとありすは微笑んで、メモ用紙に、サラサラと何かを書き始めた。そっぽを向いて、書いたメモを時夫に渡した。
「ん? 今度は何だ?」
 よく出来た蟻の絵だった。蟻が十匹描いてある。北部で定刻軍と戦ったせいか、ありすは見ないでも正確な蟻の絵を描くことができていた。
「蟻が十匹で『ありがとう』、か」
 随分遠まわしな「ありがとう」じゃないか。字で書いたほうが簡単なのに。
 やれやれ、素直じゃない。

「やだぁーまたお醤油足りなくなったぁ……しょうゆ王国千葉で、それはまずいよね~」
 恋文町のローラー・バニーこと石川ウーが、ローラースケートで「半町半街」に駆け込んできた。
「マズルも居ないシィ~」
 依然マズルと会えなかったらしいウーは、お店の前にポツンと突っ立っている古城ありすを見つけて、
「何してんの? ありす」
 と声をかけた。
 ありすは空を見上げて、ニコンのカメラで雲の写真を撮っていた。電線を避けながら空を撮るのはなかなか大変そうだ。
 ありすはなぜだか揺れている。
「いや……何となく揺れていたい気分なの」
 古城ありすはゆらゆら揺れながら微笑んだ。耳にイヤフォンをしてないので、音楽を聴いている訳でもなさそうだ。
「こんな時に? 何で?」
 店から醤油を持ち出すと、当惑気味のウーは薔薇喫茶の方角へと走り去った。
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