十二

エピソード文字数 5,875文字


 ある日のこと、室橋という男が、わが家に高級ワインのボトルをぶら下げてふらりと訪ねてきた。いいワインが手に入ったので、一緒に飲まないかというのだった。
 もともとは、得意先の紹介で知り合ったのだが、あるイベントの集客プランを提案させてもらい、それが当たったのがきっかけで親しく付き合うようになったのだった。
 彼の会社、サロン・ド・室橋の支払いは、実にきっちりとしていて、糸偏産業ではあったが、わが社の扱いではAクラスにランクインさせていた。糸偏産業といっても、アパレルはもとより宝飾も扱えば、輸入毛皮も扱う、いわば女性ファッションの総合商社だった。
「やあ、社長。今日もきてしまいましたよ」
 如才なく振舞う社長は、その後も、なにかと口実を設けてわが家を訪れた。その都度、妻は慌てふためいて、即席の手料理で対応しなければならなかったのだが……。
「でも、あなた。あのひとには気をつけたほうがいいわ」
 テレビで格闘技を観戦していたとき、あまりにも風貌の似ている男がセコンドにいた。それで、このセコンド、あの室橋社長に似てるねと言ったところ、彼女が洩らしたのが、このことばだった。
 このところ、ヨシダ・ワークスの二本柱が順調に伸びていたこともあって、わたしはかなり天狗になっていた。
 なにかことを起こすにも、かつてのようには真剣に妻にアドバイスを求めなくなっていたし、自分だけの判断でことを進める場合のほうが格段に多くなってきていた。
 実を言うと、わたし自身が、そういうことに無頓着な性質にできていた。根っからの無精者なのであった。
「社長、お時間、大丈夫ですか」
 室橋が珍しく、日の高いうちに会社へ顔を出して訊ねた。
「おやおや。室橋さんとしたことが。どないしはったんですか、こんな真っ昼間に。ま、どうぞ、あちらへ」
 わたしが冗談交じりに言ってソファに腰を下ろすと、室橋は書類の束を取り出しながら、今度、うちが手がけようと考えているブランドでしてね。面白いのがあるんですよ。絶対、損はさせませんから、聞くだけは聞いてやってくださいというのだった。
 室橋によると、日本でもっとも人気の高いブランドにオルド・パルムというのがあるが、そことサロン・ド・室橋が業務提携し、サロン・ド・室橋が日本における総販売代理店としてオルド・パルムの全商品を国内販売できるようになったというのであった。
「これが、その契約書とクオリフィケーション、つまり資格認定書なんですが、ここにもありますとおり、わが社は晴れて日本での独占的販売権を認められたことになるんです」
 室橋は、英文で書かれた証書を見せながら言った。「ここまで漕ぎ着けるのに三年を要し、相当のお金も使いましたが、損はしないと思っています。なぜかというと、それくらいの金はすぐに元が取れるほど、このブランドは売れてくれるんです」
 事実、わたしの知るかぎりでも、オルド・パルムのバッグや毛皮、あるいはコートを欲しがる女性はわんさとおり、とくに夜の女性たちは、仲間内と競い合うためか、そのブランドには眼がなかった。
 幸いヨシダ・ワークスのクライアントは、そうしたブランドが大好きな女性たちを従業員として雇用しており、いわば職域販売の形で商品を持ち込みさえすれば、あとは横のつながりで相当な数がさばけるのではないかというのである。
 しかも国内の総販売窓口は、サロン・ド・室橋だけなのだ――。
「社長が正規特約店になってくれれば、ワンアイテムにつき二十五パーセントのロイヤルティを支払いますよ。
 しかも、購入者には五パーセントの割引をしていただいてもいいんです。ま、消費税が要らないというだけのことなんですがね。でも、デパートなんかの正規ルートで買えば、そんなことは絶対してくれませんのでね」
 室橋は、得意げに告げた。
「ご承知のとおり、オルド・パルムなら、どんなアイテムでも百二十万円以上はします。ですから、一点を右から左へ流すだけで、三十万円のロイヤルティが社長の手許に入ってくるんです。
 しかも販売やローンなどの事務手続きはすべて、サロン・ド・室橋の男性スタッフがやります。彼らは、この道のプロです。ですから、社長はなにもしなくていいんです。
 ただし、どの女性がどんなアイテムを欲しがっているかの情報だけはいただかなくてはなりませんが……。
 でも、そんなのは、顔の広い社長のこと、すぐにでも情報は集められるでしょう。オピニオンリーダーになっている女性にターゲットを絞ればいいだけのことです。
 ご存知のように、彼女たちは飽きっぽいときています。一生ものというよりは、ファッション感覚で、つぎからつぎへと購入して行くんです。一種の買い物依存症といってもいいでしょう」
 室橋は、熱っぽく続けた――。
 特約店といっても、オーダーがあってから仕入れるのだから、在庫リスクは一切ないこと。数が一定以上になれば、ロイヤルティのパーセンテージが増すこと、ノルマの類いはなく、いつでもどこでも自分のペースでやれること、などなど……。
 わたしは、迷った。彼には、すぐに返事はできない、暫く考える時間をくれといって帰らせた。
 現金を動かさずにできるのなら、なにも迷う必要はなかった。
 だが、正規の特約店になるには、与信担保として二千万円の保証金をサロン・ド・室橋に預けておく必要があった。こちらの責に帰すべき瑕疵や支払い能力不足、ないしは契約の更改といったことさえなければ、契約期間が満了した時点で戻ってくる金であった。
 妻に相談すれば、猛然と反対されるのはわかっていた。
 彼女は、室橋という男が生理的に嫌いだった。そんなことは訊ねてみずともわかっている。なにせ妻とは、二十年以上も一緒に暮らしてきたのだ――。
 わたしは、ひかりにやらせてみようと考えた。
 ちょっと見には軽そうだが、彼女なら、これまでも優秀な人材を紹介してくれていたし、水商売の女性たちの間でも結構な信頼をおかれていた。ロイヤルティの半分もやると言えば、喜んで引き受けてくれるだろう。
 二千万円といえば、額面でいえば、十七人ほどに売りつければ完済する額だ。彼女には、それだけの力がある。
 わたしは決意した。
「ちょっと、ひかりに頼みたいことがあるんやけど……」
 ベッドでのいつもの儀式が終わって一息ついたあと、わたしは横にいるひかりを見るともなしに言った。「オルド・パルムていうブランドあるやろ」
「うん、知ってる。うち、大好きや。バッグも三つ持ってるわ。中古やけどね」
「それ、売ってみいひんか」
「え。売ってほしいの」
「いや。ひかりの持ってるバッグやのうて。新品のバッグや」
「なんのことか、ようわからんのやけど……」
「実はな。日本でただひとつのオルド・パルムのホールセーラーになる会社から、特約店になってみいひんかて言われてな」
「特約店いうのはわかるけど、ホールセーラーてなんなん」
「ま、問屋さんいうことやけどな。そこが、オルド・パルムとライセンス契約結んで、独占的に国内販売することになるんや」
「ふーん」
「それで、ひかりがそれ売ってくれたら、二十パーセントのキックバックするいう話なんやけどな。どやろ」
「オルド・パルムいうたら、安うても百二十万はするやんか。二十パーセントていうことは、二十四万円も入ってくるいうこと」
「そや。しかも、買うてくれるひとには、五パーセントの割引もできる。百貨店なんかで買うと、正規の値段でしか売ってくれへんしね。多少は、売りやすいと思うんやけどな」
「わかった、パパ。うち、やるわ。やらしてもらう」
「そうか」
「うん。任しといて。うち、そんなん好きやねん。売って売って売りまくるわ」
 商談成立! とばかり、わたしは内心喜んだ。彼女が本気になってくれれば、短時日のうちに売上二千万円だって夢ではない。
 彼女が頑張ってくれれば、一~二週間のうちに一回くらいは、何十万かの金が転がり込んでくることになるのだ。いずれ売れ行きは下がって行くだろうが、仮にそうだとしても、それが数ヶ月間も続けば御の字ではないか。こんなにいいことはない。
 翌日、室橋に電話を入れ、特約店契約を結ぶことを伝えた。
 ただし、例の二千方円は現金では払わず、手形を百二十日サイトの四回に分けて支払うことにした。最終の五百万円を迎えるのは一年後となる。室橋が即金で全額欲しければ、割り引いて使うしかない。ヨシダ・ワークスの手形は、それなりに実績があり、銀行も割り引いてくれるほどの値打ちになっていた。
 その条件が飲めないようであれば、この話はなかったことにしてくれというと、室橋は慌ててオーケーを出した。
「いやいや。なにを仰います、社長。せっかく乗り気になっていただいたというのに、水を差すようなことは言いませんよ」
 割り引いてでも、まとまった現金が欲しいのか、それともなにかの決済のために、手形をそのまま流用したいのだろう。
 わたしは思ったが、そんなことはどうでもよかった。
 要は、こちらが儲かればいいだけの話であって、相手がどのような経営状態にあろうと関係なかった。慢心のときというのは、そういうものである。目先のことでしか眼に入らず、それに向かってのみ自分勝手な思考と欲望は膨らんで行く……。
 ひかりは、その翌日から、室橋が届けてくれた豪華なパンフレットを使ってディーラー活動を開始した。
 売上第一号は、その翌日に成立した。ひかりが仲良くしていた祇園のホステスに話を持ちかけたところ、一番に買うと約束してくれたのであった。しかも、ひかりちゃんのことやから、今払うといたげるわと、その場でポンと現金をくれたのであった。
 室橋に連絡すると、その日の夕方、若い営業スタッフが注文の品を押しいただくようにしてヨシダ・ワークスにやってきた。そして今回は特別なのだが、スタッフに説明に行かせる必要がなく、集金もする必要がないということで、売上の二十五パーセントにあたる三十万円とプラス一万五千円を渡してくれたのであった。
「ただし、社長。これは特別な措置なんですよ」
 サロン・ド・室橋の若い営業マンは、爽やかな笑顔を振りまきながら言った。「今回のヨシダ・ワークスさまとのお取引は、あくまでも予約販売をしていただくというのが基本になっておりまして、室橋も申し上げていたかと思いますが、御社には注文をお取りいただくだけでいいのです。商品のお届けや集金、ローンのお手続き等のややこしいことは、すべて当方がさせていただきますので、社長さまには決してお気遣いなきよう……」
 そして契約上は月末に締めてから十日後にご請求分をまとめてお支払いするという建前になっているのだが、今回は初回成立のご祝儀ということで、特別に先払いさせていただくというのだった。つまり、今回のプラスアルファ一万五千円は、スタッフの手間賃を差し引いた特例中の特例というわけであった。
 わたしは、約束の二十四万円にその一万五千円を上乗せして、ひかりに渡してやった。
「わぁーっ、こんなにくれるん」
 ひかりは、その金をかき抱くようにして言い、紙幣を数え終えて訊ねた。「けど、パパ。これ、ちょっと多いんちゃう」
「ああ。プラス分は、キャッシュで売ってくれたさかい、その分オマケつけといたんや。ただし、こうやって先渡しできるんは、今回だけ。これからは、月末締めの翌月十五日払いやしな」
 日曜・祭日、土曜日のあることも考慮に入れ、入金から支払いまで五日間のタイムラグをおいたのだ。
「それと、現金持ち歩いてると、いつなんどき変な目に遭わんともかぎらん。極力、CODで注文とるようにせなあかんな」
「シー・オー・ディーて、なんなん」
「キャッシュ・オン・デリバリーいうてな。現金と引き換えに商品を渡すいうこっちゃ」
「なんや。代引きかいな。それやったら、知ってるわ」
「ま、そうもいうけど。いずれにせよや、注文とること以外、お前は何もせんでええ。予約さえ取れたら、あとはみな、サロン・ド・室橋のスタッフがやってくれるさかいな」
「わかった。うちは注文だけ取ればええんやな。オッケー。頑張って注文取りするわ」
 自分への分け前は薄く、実働部隊には厚く。
 そうすれば、ひとは動く――。
 当時流行っていたマーフィーに倣ったのではないが、この四年間で築き上げた、わたしのゴールデン・ルールのひとつだった。
 考えてみれば、派遣業自体がそうであった。派遣会社はスタッフがもらう給料から、多くても十五パーセントないし、十パーセントのマージンをくすねているに過ぎない……。
 そうすると、やはり人間というものは不思議なもので、ひかりはますます販売に精を出した。ときには、三アイテムもの購買予約を同時に取ってくることもあったし、坊主だったこともあった。
 コネがコネを呼び、口コミが口コミを呼んだ。
「パパ、また売れたで」
「そうか。よかったな」
 彼女は東奔西走した。月末二日前には、予約販売点数が四十三アイテムに達していた。なかには八百万円もするコートもあったし、サロン・ド・室橋が取り扱う別のブランドの宝飾品もあった。
 彼女の売上は、実に六千万円もの金高になっていた。
 そして驚くなかれ。最終的に、彼女は二十日足らずで、ヨシダ・ワークスの二~三ケ月分の売上に相当する金額を、たった一人で稼ぎだしたのである。しかもその粗利たるや、彼女が千二百万円で、わたしが三百万円であった。
「あたしって、なんて凄いひとなんやー。たったの一ケ月で、年収の倍も稼ぎだすんやもん。天才やろか」
 ひかりは、自分でも驚いたのか、感動の面持ちで言っていた。確かに凄いことであった。わたしは舌を巻いた。
「ほんまや。この調子やったら、億万長者も夢やないで」
 この数字が不変ではないとしても、彼女なら、ひと月に十アイテムくらいはコンスタントに売り続けてくれるのではないか……。
 わたしは夢のような気持ちで思った。彼女にやらせたのは、実に正解だった。これからも頑張って売ってもらねば――。
 その夜は、彼女と楽しい祝杯を上げたのはいうまでもない。
 しかし、妻には、そんなことは一切話していなかった。すべては二人だけの秘密ビジネスだったのである。
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