神秘、いずこに。

文字数 1,023文字

妊娠は、もっと神秘的なものだと思っていた。

弓の様に反った妻のお腹に、夫婦二人の手を添えて、
「動くかなぁ、動かないかなぁ」なんて言いながら微笑み合う。
はたまた人気セラーの絵本や、授業でしか習わないようなクラシックの名曲をお腹に向けて聞かせて、
「まだ早いんじゃない?」なんて言いながら微笑み合う。
勿論、食べる料理にも細心の注意を払い、
ほうれん草やアボカド、牛レバーのような葉酸の多い食材を吟味し、
「お腹の子もおいしいって言っているかなぁ」なんて言いながら微笑み合う。
そんな、歯の浮くような生活が待っているものだと思っていた。
別に、現実の妊娠が平凡で退屈なのだと訴えたいわけじゃない。
ただ、妻の様子を見る限り、僕のイメージは到底的外れなものだったということだ。
だけど、少しだけ。
ほんの少しだけ、夜中の独り言に、誰か付き合ってほしい。

24時50分。
今、妻がきゃははと笑いながら、ミニトマトを左手でつまんでいる。
ここはベッドルームだ。
笑ったのは、惰性で流れているテレビ番組にではない。
お腹の子に横っ腹を蹴られたのだ。
それがこしょばくて(※1)、いつも「うはっ」とか「きゃは」とか言いながら笑うのだ。
こしょばし(※2)に対する耐性の無さは昔から知っていたのだが、
外的なこしょばしと内的なこしょばしとでは、どこか感覚が違うのだろうか。
とにかく突発的に笑いだすもんだから、前に一度驚いて、僕は飲みかけのお茶を拭いてしまったことがある。
一方、気になるミニトマトだが、口が寂しいのだとか。
実はつまんでいるのとは別に、予備としてもう一つ、ミニトマトが枕の上に転がっている。
“ベッドルームのミニトマト”
いつ見てもその組み合わせは、一つ短編小説が書けてしまいそうなほど、ユニークでアンバランスだ。
それに、寂しいと訴えるその口は、さっきポテトチップ一袋をペロリと平らげていたではないか。
お腹の子も「こんな夜更けにトマトかよ」とぼやいているハズである。

そんな事情で、妻の起きている間というのは、純粋無垢な心で生命の神秘に触れることができない。
妻を寝かしつけた後、布団に潜って、妻のお腹に手を添えるのだった。

...お、少し動いた。
明日は栄養あるものを食べてもらうようにするからね。

そんなことを考えながら、僕は布団から顔を出す。
すると、「ごごご」と、妻のいびきが聞こえたりする。



※1 こしょばくて:「くすぐったくて」と同義。その関西弁。
※2 こしょばし:くすぐること。その関西弁。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み