第2話

文字数 2,108文字

 私にはどうしても大学院で研究したいテーマがあった。
 移民である。
 きっかけは小学校3年生のときに転校してきたブラジル人の女の子だった。グレーのパーカーとジーンズを着ていた彼女と偶然近くの席になった。徐々に遊ぶ仲になったのだが、彼女が声をたてて笑ったところを一度も見ていない。半年ほどで彼女はまた転校してしまった。父親の仕事の都合だとクラスの担任は説明していたが、今思えば日本語があまり得意ではない彼女と彼女の両親が日本での生活に馴染めていたのか疑問だった。
 大学院では「シンガポールにおける移民NGOの形成と役割」をテーマに移民労働者について調査することにした。初めてシンガポールに訪れた際、東京23区よりやや広めの国土に多民族が暮らしていることが印象深かったからだ。
 シンガポールは就労パスにより他国からの労働者の受入れの基準が明確化されている。同国で働く出稼ぎ労働者の実態を知ることは、日本で働く他国からの労働者の問題の参考にもなると考えた。
 シンガポールで出稼ぎ労働者を支援しているNGOの一つを介して労働者の方々に取材をする機会を得た。その一人が、バングラデシュ出身のAさんだ。Aさんは故郷には年老いた両親と八人の兄弟がおり、二人の姉妹は既に結婚して家を出ている。
 長男から三男のAさんまでは海外で働きながら故郷に送金をして
いる。四男から六男は地元の学校に通っている。日本でいう専門学校を卒業しても、地元での就業率はわずか五十%に過ぎない。
 Aさんはビルの建設現場で働いていたが仕事中に腰を負傷し、怪我が原因で会社を辞めざるを得なくなった。出稼ぎ労働者が健康保険に加入しておらず、高額な医療費が払えないため母国に帰らざるを得ない事例は決して珍しくない。
「退職を告げられた日から三日三晩泣きっぱなしだったよ」
 Aさんは喉から声を絞り出すように呟いた。私は溢れそうな涙をぐっと堪えた。私とAさんの間にしばらく沈黙が続いた。やがてAさんは顔をゆっくりあげ、私の目を見た。
「悲観的になっても何も変わらないんだ。前向きに人生を歩むしかないんだ」
 Aさんの力強い一言に胸が詰まった。目頭が熱くなり、一瞬でも気を緩んだら涙がこぼれそうだった。しかし、私が泣いても何も変わらない。泣く暇があったらAさんの想いをしっかり受け止めて日本に持ち帰るべきだと思った。
 インタビューを終えたときAさんは曇りもない澄んだ目で真っすぐ前を見つめていた。お互いに握手を交わし、私は心の底から「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えた。 
 帰国後、私は指導教授の許可を得て、他大学で移民の研究をされている先生方にお会いすることにした。2年という修士の短い期間で、単独で情報を収集するには限界があったからだ。
 先生方の話は、大変参考になった。中でもバングラデシュの出稼ぎ労働者を長年研究されているB先生先生の話が衝撃的だった。
 B先生は、バングラデシュで撮影した写真をパソコンで沢山見せて下さった。そのうちの一枚に私は目を止めた。その写真にはタミル語で「日本に出稼ぎに行くと沢山稼げる」と書かれていた。しかも看板のデザインが色鮮やかでかなり目立つ。
 次の写真には、農村の風景に不釣り合いな御殿が二棟写っていた。
「海外で出稼ぎに成功した労働者が、帰国してから建てた豪邸だよ。百人が出稼ぎに行ったら約 一割が成功しているらしいけどね」
 そして、B先生の次の一言に凍りついた。
「出稼ぎで成功した一部の人が人材斡旋業者になって、若者を他国に労働力として紹介するん 
 だ」
 技術・語学研修、就業先を紹介する斡旋料、等々。出稼ぎに行くために資金が大変かかる。その額は人材を送る送出国や性別により金額は異なる。一例としてあげるなら、バングラデシュから出稼ぎに出るためにかかる費用は、日本の国立大学・文系の約一年分の学費に相当する。費用を家族内で賄えず、親戚や近所からお金を借りることもある。費用に違いはあるが、他国に出稼ぎに行く女性労働者にも共通している。
 家族を養うため何よりも自分が生きるために必死なのだ。生きていくにはときとして非人道的な仕事に手を出さざるを得ない。社会が抱える問題は根深く複雑に絡みすぎて、ボタンの掛け違いで成功する人としない人にあっさり分かれてしまう。
 平等な世界を目指す。
 しかし、それは現実的ではない。法の下の平等があるならとっくの昔に世界中の人々が自由で平等な生活が送れている。
 では、弱者は弱者のままなのだろうか?
 いや、違う。キーワードは思いやりと行動だ。
 みんなが自分らしく生きられる世界をチャットで様々な人と語り合ってもいい、移民の問題に取り組む団体のホームぺージを見て自分なりの考えを持ってもいい。どんなに小さな一歩でも、積み重ねれば大きな影響を持つはずだ。
 諸事情によりNGOの活動から離れているが、コロナが落ち着いたらまた参加したいと考えている。母国に帰れず日本に留まる選択肢以外ない移民がいることを知り、いてもたってもいられない。せめてSNSを通じて問題提起し、移民問題に関心を持ってくれる方が増えたら幸いである。
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