第1話

文字数 5,000文字

拝啓

 突然手紙を送りつける無礼をお許しください。
 差出人のない封書が届き、訝しんでおられることと思います。しかし、私が何者かというのは、あなたにとって重要な問題ではありませんし、むしろ知らない方があなたにとって良いであろうと判断し、素性は伏せさせていただきます。ただ、どうかこの手紙を「不審な手紙」と断じてゴミ箱に捨てるのはもうしばしお待ちください。どうか、最後までお読みくださいますようお願い致します。あなたにどうしてもお伝えしなければならないことがあるのです。それは、おそらくあなたが今、行方を捜しておられるG氏にも関わることです。
 先ほどの記述と矛盾するようですが、まずは、この手紙があなたと一定の関わりを持つことをご理解いただくために、私自身のことを述べさせていただきます。初めに断っておきますと、私は、あなたのお知り合いの中の誰かというわけではありません。あなたは私の顔も名前もご存じないはず。しかし、実はあなたと私とは十三年前に一度だけ面識があるのです。あなたにとってはささいな出来事だったに違いありませんが、それは、私にとっては生きていていちばんの忘れがたい日でした。
 忘れもしません、二〇〇五年の冬の日のことです。中学3年生だった私はその日、高校受験のために一人で受験会場に向かっていたのですが、その道中で、当時私をいじめていた同級生たちに待ち伏せをされました。彼らは、私を路地裏に連行し、鞄の中身をぶちまけ、筆記用具と受験票を奪っていきました。私の鞄に小便をひっかけて、いつものように、高笑いをしながら去って行きました。私という人間は、自分ではまったくそんなつもりはないのですが、またそれが、容姿のせいなのか、振る舞いのせいなのか、発言のせいなのかもわからないのですが、どうしようもなく他人に不快感を与えてしまう星の下に生まれてしまったようで、幼少の頃からクラスが変わるたびに、程度の差こそあれ、いつもいじめの対象になっていましたので、大概のいじめ行為には耐えうるようになっていたのですが、その日ばかりは私は、その場に泣き崩れました。いい思い出など一つも無い学生生活でしたが、せめて第一志望の高校に受かって、同級生たちを見返したい、両親を喜ばせたい、そんな思いだけで勉強だけに没頭してきたからです。
 本当に、この世に救いはないのだと、呆然としている私の横に、気づけば、一人の女の子が立っておりました。制服姿から、同じ受験生だとわかりました。あなたは、私にやさしく声をかけ、汚れた鞄の中身を拾ってくれ、小便で濡れた鞄をハンカチで拭いてくれさえしました。
「私もN高の受験生だから、一緒に行こう」
 あなたは、私を受験会場に連れて行ってくれ、係の女性にいっさいの事情を説明し、受験票が再発行されるまで付き添ってくれました。私の手続き完了を見届けて、あなたは去って行きました。頑張ろうね、と笑顔で拳を握ったその姿を、いまでも鮮明に思い出すことができます。
 私はまともにお礼も言えなかったどころか、あなたの目を見ることすらできなかった自分を恥じました。高校に入ったら必ずあなたにお礼を言おう。デパートであなたにお返しするためのハンカチも買いました。しかし、ご存じの通り、それを渡す機会は訪れませんでした。私は入学試験に落ちたのです。
 これが、私があなたとお会いした一度きりの機会でした。覚えていらっしゃいますか?あの時は言えませんでしたが、この場で言わせてください。あなたの振る舞いに、笑顔に、私は救われて、今日まで生きてくることができました。ありがとうございました。

 ここまでのお礼の言葉だけでこの手紙を終わらせることができればどんなにいいか。実際、私はここで手紙を終わらせようともしました。しかし、やはりどうしても告白しておかなければ、まっすぐに生きていらっしゃる、あなたの道を、私が不当にねじ曲げたことになるのではないかと思い、ここに真実を記します。どうか、これから知ることでご自身を責めることだけはしないでください。事の原因はすべて「私」と「あなたの周囲」にあり、あなたのうつくしい魂は一片も汚れてはいないのですから。

 高校受験に失敗して、あなたに再会する機を逃した私は、一つの決意を固めました。この先の人生であなたに困難が訪れたら、必ず私があなたのことを助けよう、と。お金が必要になったら貸してあげられるようにと、入学後すぐに近くの工場でアルバイトを始め、貯金をしました。暴漢を撃退してあげられるようにと筋力トレーニングに励み、独学で合気道も学びました。ここで一つお詫びをしておかなければならないのは、あなたを守るという目的を達成するためには、便宜上あなたを見守り続けることが必要だったということです。あなたのご実家はS町の閑静な住宅街にあり、最寄り駅からの帰り道で人気の少ない場所を数カ所通過しなければなりませんでしたので、勝手ながら、バレー部の練習帰りに夜道を帰宅されるあなたを、少し離れた場所からまいにち見守っておりました。余談ですが、高校時代にお付き合いをされていたKくんは大変良い方でしたね。マイペースなところはありましたが、爽やかなスポーツマンで、バレーとあなたのことしか頭にないような、そういう純朴な青年でした。あなたがKくんとお付き合いを始めた高校2年生の秋、あらゆる手段を尽くして彼の身辺調査を行いましたが、あなたを思うあまりあなたが高総体のお守りとして渡したクマのぬいぐるみに毎晩頬ずりをしているといった微笑ましいエピソードこそでてきましたが、それ以外に一片の埃も出てこないような方でした。さすがはあなたの選んだ男性だと、感服いたしました。あなたの上京をきっかけにお二人が別れてしまったことが返す返すも残念でなりません。
 あなたが東京の大学に進学されましたので、私もあわせて上京いたしました。その頃までには、あなたのご友人の数名と交友関係を築くことができていましたので、あなたの転居先を知るのは難しくありませんでした。私はあなたが借りたアパートのすぐ下の部屋に転居しました。高校時代の反省から、あなたを日夜しっかりと見守るためには、同じ場所に住んでおくことがいちばんだと考えたからです。特に、大都会における女性の一人暮らしは危険がつきものですので、何があっても飛んでいける距離にいることが必要でした。その後、大学を卒業されてN区に引っ越された際、つまり今あなたがお住まいのマンションでも、私は隣の部屋に住み、あなたの生活を見守っておりました(今の入居先は先週引き払いました)。
 正直に申し上げますと、この十三年、何度、あなたに自分の存在を明かそうかと思ったか知れません。決して、自分の薄汚い恋心を受け入れてほしいわけでも、あなたを守る努力を知ってもらいたわけでもありませんでした。ただ、もう一度あなたが私に声をかけてくれたら、私に向けて微笑んでくれたら、どんなに幸福だろうかと、いつも考えてしまいました。しかし、もちろん、私などという薄暗い生涯を送る人間が、あなたの光溢れる人生に登場することなど許されないのです。私は、そんな衝動に駆られるたびに、歯を食いしばって、自分を押しとどめてきました。その結果、結局このような手紙という形で、やむを得ずあなたの人生に関わっていしまうことを、本当に心苦しく、申し訳なく思います。
 そろそろ本題に入らねばなりませんね。この手紙でお伝えしたいのは、G氏のことです。きっといまあなたは、G氏と連絡が取れずに大変心配をされていることと思います。その真実をお伝えせねばなりません。
 G氏とあなたがお付き合いを始めた昨年の冬から、私は彼の身辺調査を続けてきました。彼の友人、同僚、上司、部下、あらゆる関係者とつながりを作り、彼自身の行動も何度か追跡し、鞄からスマホを拝借して探りを入れ、彼の人間性を探るためにあらゆる手段を講じました。結論を申し上げると、あなたに申し上げるのは大変心苦しいのですが、彼は人を人とも思わぬ屑野郎だと判明いたしました。そんな男にあなたがだまされてしまっていることを思うと、私はこの一年間、日々心臓が握りつぶされているかのように、胸が痛みました。
 まず、妻子ある身でありながらあなたをホテルへと誘い込んだ時点で、私は心が燃えさかるような怒りを覚え、彼に徹底的に制裁を加えなければならないと考えました。しかし、その後も定期的にあなたの部屋に訪れるようになったので、あなたもGを受け入れているのだという悲劇的な事実を受け入れざるを得ませんでした。友人の一人を介して、彼が妻帯者であることをあなたに伝えましたが、承知の上でのお付き合いだと知りました。私がどれだけ身勝手に怒り狂おうとも、あなたが望んでそうしているのであれば、私がねじ曲げることは許されない。あくまで優先されるべきはあなたの幸福なのであって、私の独りよがりな正義をあなたに押しつけることなど、絶対に許されないのです。私は彼を殴りつけたい思いを抱えながら、耐えることにしました。しかし、引き続き彼の調査は進めていきました。
 あなたが今回のことで無用の良心の呵責にさいなまれぬよう、その調査で明らかになったGの正体を一部ここに記しておきます。まず、これは彼を追跡し始めてすぐにわかったことなのですが、彼はあなた以外にも複数の女性と並行して関係を持っていました。あなたの元を訪れるのは水曜日の夜でしたが、他の曜日にはそれぞれ別のマンションを訪れるのです。
 先月のとある金曜日、その女性うちの一人のマンションの前で彼を待ちぶせていると、救急車が来て、その女性が運び出されるという事態がありました。後から調べたところ、女性は覚醒剤を服用していたようです。彼は救急車だけ呼んで裏口から脱出したのでしょう、マンションの外へは現れませんでした。私は、小雨のけぶる中、救急車へと担架で運び込まれる女性の様子を、植え込みの陰から盗み見ていましたが、涎を垂らし、小刻みに身体を震わせ、白目をむいておりました。私は戦慄いたしました。このような恐ろしい出来事があなたの身の上に起こるようなことは、決してあってはならない。この命に変えても阻止しなければならない。
 その女性の調査を進めていくなかで、彼女の性行為の動画がインターネット上に拡散されているのも発見しました。もはや一刻の猶予もならない。私は早急に、害虫を駆除する決意を固めました。あなたが私を救ってくださったあの日からずいぶん時がたってしまいましたが、ようやくあの時の返礼ができる時が来たと、思いました。
 ここから先は、おそらくあなたのご想像の通りです。先週の火曜日、私はGを殺害しました。昨日、奥様が警察に失踪届を出されて、Gの捜索が始まりましたので、おそらく、あなたの元へも警察が行くことになるでしょう。その時までには、この手紙は燃やしておいてください。念のため、男の腕力でしかなしえない方法で殺害しておきましたし(筋力トレーニングがはじめて役に立ちました)、私の髪の毛や体液や指紋も現場に残してありますので、女性を実行犯として疑わないはずですが、あなたがこの事件と少しでも関係があると疑われるようなことは避けてください。私はGと表面上なんのつながりも無い人間ですので、彼らが私にたどり着くには少し時間を要するかもしれません。たどり着いた頃には私はこの世にいません。自供は書面で残し、遺体の横に添えておくつもりですのでご安心ください。
 私が願うことは、Gなどという男のために、私が身勝手に起こしたこの事件のために、あなたの光り輝く人生をどうか失わないで欲しいということだけです。ああ、できることなら、あなたのこの一連の出来事に関する記憶をすべて消し去ってあげたい。あの男とあなたが出会っですぐに、早めに手を下さなかった自分の判断の鈍さを悔いるばかりです。
 どうか、あの男のことなど、私のことなど、忘れてしまって、あなたにふさわしい光り輝く人生を歩んでいってください。くれぐれも、読後、この手紙は燃やしていただきますよう、お願い申し上げます。

敬具

高野紀子 様
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