プロローグ その4

文字数 2,665文字

「お前ら……」
 部屋に入って来た俺達を見た喜多岡先輩は呆れた様に呟いた。
「女子寮、覗きに行こうとしたのか? あそこ、ドーベルマン居ただろう? それに警備員さんも居る。普通に考えれば女子寮に行くなんて馬鹿だろ」
 犬はドーベルマンだったか。あれ? ドーベルマンってどんな犬だっけ。
「女子寮の生徒だって、共学だと聞いているはず。男子の俺達が女子生徒を見たいと思っているなら女子だったそうだ。もしかしたら、そこからロマンスに。む、ムフフ。だ、だったら、危険を冒しても行くべきじゃないか! そうだろ?」
 最後、湯村は俺に向かって声を大にして唱えた。その勢いに押され、「あ、あぁ」と頷いてしまった。
「馬鹿野郎!」
「あいたぁ」「ぐっ」
 湯村と俺の頭に鉄拳を一発ずつ貰った。
 喜多岡先輩は丸められたユニフォームを二着分投げて寄越す。
「あのなぁ。そんなこと考える位なら、俺達のパンツでも洗ってろ」
 土や砂で汚れたユニフォームを抱えると渋々と部屋を後にする。
          ***
 この学園の野球部寮には洗濯機は無い。どうやって洗うのかと言えば、目の前に置いてあるタライとその脇に何枚か置かれている洗濯板を使うのだ。
「今時、タライで洗濯とかどこの田舎?」
 この一週間、練習が終わり先輩たちの入浴後にこうして洗濯をしている。この部ではずっとそれが行われているらしい。だが、表立って反抗した所で痛い目しか遭わない事は目に見えている。
「仕方ないよ。野球部の部費から洗濯機を買うわけにもいかないしさ」
「そ、そうだけどさ」
 湯村は納得していなさそうだ。
「ササっと終わらせるぞ」
 ホースの先をタライに入れ、蛇口にホースを突っ込む。あとは蛇口を回す。水を流し始めた所で背後から砂を踏む音が聞こえた。
「なんだ。お前達も洗濯に来たのか」
 大きく荒い声は山岡鉄山だ。
「おう。少し早めに来たから俺と湯村だけかと思ったが」
「そうそう。先輩たちは早めに風呂に行ったから」
 背後でタライが地面に置かれた音を受ける。更に山岡はホースを掴んで俺の隣にやって来た。
「早い内に終わらせておくに越したことはない。それに俺達はまだ満足に練習させてもらえないからな。こうやって時間を作るしかない」
 そうは言っても山岡は他の皆と違って先輩の球を受けにブルペンに入っている。そして、練習が終わればメモを取り、バットを持って何処かに行っていた。
「真面目だな」
 湯村は少し呆れた様に言う。
「は? 湯村、お前はここに何をしに来たんだ? まさかとは思うが、友達作りか?」
 山岡が声を荒げると任侠映画のワンシーンを思い出した。
「お、落ち着くんだよ。色々と根を詰めすぎると駄目だって」
 隣から嫌な空気を感じて視線を流して見ると山岡の目がつり上がっている。更に顔も僅かに赤く、ヒートアップしている。
「待て待て。こんな所で言い合いをして何になる。時間がもったいないだろ」
 時間と言う言葉で山岡は言い合いを止めた。それでもあからさまな不機嫌オーラは出し続けているが。
「甲子園」
 山岡は甲子園と呟いた。
「行きたいな。そして、真紅の大優勝旗を」
 高校で野球をやる人間の殆どが憧れる甲子園。更に優勝となればその世代で一握りしか味わえない。
「ま、しばらくは洗濯係だがな」
 山岡はタライに洗剤を入れると笑っていった。
「少し熱くなり過ぎた。けど、言った言葉は撤回しない」
 山岡は割と分かりやすい男だと思う。彼は目標に向かってひたすら努力し、走り続けられる人間なのだろう。だからこそ、目標を同じくすると思っていた人間が自分の考えや邪魔になるかもしれない奴にはきつく当たるのだろう。
「そう言えば、二人は軟式野球からか?」
 山岡は不意に別の話題を持って来た。先ほどまでの雰囲気と違って別にそれを気にしているからでは無いみたいだ。
「あぁ、別に他意は無い。単に俺がお前達を見た事が無かったからだ。それに軟式だからと遠慮する必要は無いしな」
 急に優し気な口調に俺と湯村は顔を見合わせ、それから山岡を見た。
「おいおい。そんな顔をするな。確かにさっきはきつい事を言ったけどさ」
「俺は軟式だ。それに湯村も同じだ。けど、シニア出身の奴に負けるつもりは無いさ」
 湯村は俺の言葉に続くよう頷いた。
「ふっ、そうか。その言葉が偽りでは無い事を祈るよ」
 洗濯の半分を終えた所で山岡が顔を上げる。そして、何かに気が付いたのか湯村の方を見た。
「湯村だっけ? 眼鏡、割れてないか?」
 湯村は片方のレンズが割れた眼鏡をそのまま掛け続けていた。と言うか今まで気が付かなかったのか?
「今さら?」
 湯村は泡にまみれた右手を水で流すと手を払ってからテンプルを摘まんだ。
「いや、気が付いてた。ただ、さっきまでは別の事を話していたからな」
「女子寮……」
 湯村がぼそぼそと呟いた。
「は?」
 山岡がきつめの口調で突っ込む。傍から見ているとカツアゲの現場を見ている様な嫌な気分に包まれた。
「だから、女子寮を見に行こうと思ったんだよ」
「プッ、クッ。アハハハは」
 山岡は俺のイメージとかけ離れた笑いを爆発させた。
「いやぁ、悪いな。やっぱりもお前も男だったか。で?」
 湯村は首を振った。
「それが見られなかった。途中でドーベルマンに見つかって必死に逃げた」
 山岡は笑い続ける。それでも馬鹿にしているという感じでは無く、更にその話を掘り下げるために促す。
「そうか、そうか。何処まで行けたんだ?」
 二人の話を聞きながら俺が女子寮に向かった時を思い出す。
 木々の開けた場所。そして、やや奥側につまりは女子寮か女子校舎側にベンチが置かれていた。そもそも、あの場所のベンチが不自然なのだがそれは別に良い。
「森の中に開けた場所があったんだ。そこまで言った所で遠吠えが聞こえて、それで何かと思って周囲を見ていたら」
「ドーベルマンが居たと」
 今思い出せば木の匂いに混じって海の匂いも感じた。二つの道の内、一つが海に通じているのか? もしかして、あそこの森を抜ければ外に脱出できるのでは?
「湯村はまた行くのか?」
「流石に行かない。ドーベルマンに見つかったら監督と寮長から叱責を受けるだろうし」
「だったら、最初に女子寮まで行った奴はヒーローだな」
 山岡が茶化しているのか、真剣に言っているのか分からないトーンで呟いた。それに同調する様に湯村も頷いた。
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