第11話 鷙鳥厲疾(後)

文字数 42,434文字

 ソルベが下がり、ヴィアンドが出てしばらくになるが、場は重苦しさに支配され、
「うーむ」
「はぁ」
「ちっ」
 それぞれが溜息混じりの言葉にならない独り言を吐いている。
「ひょっとしてご両家は、余り交流がない、のですか?」
 具衛がフォークを止めて、恐る恐る誰に言うともなく尋ねてみた。
 日仏の大富豪にして世界的大企業の創業家たるフェレール家と高坂家。この両家、実は縁続きである。
 アルベールの妻リエコと、仮名こと「高坂真琴」の母にして高坂家現当主夫人の美也子は、実の姉妹であった。二人とも出自は武家故実大家の旧家三谷家であり、美也子が長女、リエコは三女である。リエコは日本名では「理恵子」と言った。つまり、リエコと高坂真琴は叔母と姪の関係となり
「真琴とは同い年でね。誕生日は僕の方がちょっと遅いからジュウシテイなんだ」
 真琴とジローは従姉弟だった。
 更に言うと、アルベールが大統領時代の駐仏大使は美也子である。そしてその時の日本の首相は、美也子が秘書として仕えた事がある高千穂隆一郎であり、三人は三姉弟と呼ばれる程の関係だった。つまり、
「どの構図でも、高坂家の美也子さんが『姉』なのよ」
 実妹のリエコが盛大な溜息を吐く。
「『三姉弟』で、私は『真ん中』だったが、『姉さん』には中々物を言い辛くてね」
 アルベールもたじたじで、
「『末の弟』なんかはもう、マリオネットだったしね——あ、これは、ここだけにしといてくれないか、はは」
 さり気なくつけ足し、首を引っ込めたものだ。
「それにしても高千穂のヤツ、懲りんな」
 ジローはジローで、あからさまな悪態を吐いて見せた。ここで言う高千穂は、元首相の息子にして外相高千穂隆介の事である。高坂真琴の元夫の醜態は、フェレール家の面々も良く知っているようだった。
「あの子、相変わらずなのね——」
「そのようだな」
 あの子ってどっちだ?
 などと具衛は思ったものだが「はぁー」と夫妻が揃って、また盛大に溜息を吐くものだから聞き出せたものではない。恐らくどっちもクソもないのだろう。先程からぼそぼそ声を潜めて何事か言葉を発しては、盛大な溜息を吐く事の繰り返しだ。
「あなたがさっさと真琴と一緒にならないからよ!」
「え?」
「ぶっ!」
 リエコが突然声を張り上げたかと思うと、具衛が驚く前でジローが噴き出した。
「この子はね、ずーっと真琴に片想いしてたの。それが、いじいじぐずぐずしてるもんだから、高千穂みたいなのに取られて——」
「は、はぁ」
 リエコの淑やかな雰囲気が、突如として仮名に肉薄し始める。
 な、何かこれは——
 そう言えば、リエコは容姿もそうだが、威勢の良い今の雰囲気は、仮名そのもののようであった。
「一度ならまだしも二度までも。何やってるのよ全く!」
「仕方ないだろ! おぼっちゃまは嫌だって言うんだから!」
 先程までの厳かな雰囲気は何処かへ消し飛び、親子喧嘩を呈し始めたそれは何やら、
「何度言い寄っても、ダメなもんはダメだったんだよ!」
 聞いてはならないような事が、よりによって本人により暴露され始める。合わせて先程から言葉も、日本語だったり仏語だったり安定していなかった。感情任せのぶつけ合いの暴露大会である。もっとも具衛も、両方ネイティブレベルであるため、使用言語の観点では全く問題はなかった。が、その感情の起伏の矛先と着地点は、これから具衛がやろうとしている事に大いに支障を来たす恐れがあり、先程からハラハラし通しである。
「その癖未だに独身ってんだから、ほんっとウブよね!」
「いい女がいれば一緒になるわ! ほっとけ!」
「まあ真琴は良い娘だよなぁ。確かに」
 アルベールがのんきに突っ込むと
「くっ——」
 ジローが悔しげに俯いた。
 仏の大富豪の邸宅で、よもや日本語混じりの痴話喧嘩めいた言い争いを耳にするとは予想だにしていなかった具衛である。が、目を白黒させながらも、肉は喰らい続けた。事態が事態だろうが、疲れていれば腹も減る。食える時に食え、は何処まで行っても健在だった。
「しかし、君が真琴と知り合いだとは思わなかったな」
「そうねぇ本当に」
 不意にまた、具衛に話が戻る。
「真琴は——家業を手伝っているんだったよね」
 忌々しげに呟くジローに、
「高坂マテリアルの専務でしたが、昨年末一杯で辞任されました。今はご実家で事実上『籠の中の鳥』かと」
 具衛はストレートに答える。
 仏にいながらもそこそこ身内の事情は分かるようだが、フェレール家の三人は流石に情報が遅れている感があった。
「私は今、広島の片田舎にある山小屋で暮らしていまして——梅雨時って分かりますか?」
「雨季だよね」
 ジローは答えるが、夫妻は答えない。リエコは言うまでもないが、アルベールは日本通で通る男である。説明は不要のようだった。
「はい。昨年の梅雨時に、私の住居の目と鼻の先で単独事故を起こされて——」
「事故?」
 そこでアルベールが反応を示すと、
「まあ、大丈夫だったのかしら?」
 リエコも心配そうな様子を見せた。やはり夫婦だ。息が合う。
「事故渋滞を回避するために、無理をして通り抜けが難しいぬかるんだ川土手の道を走られまして——アルベール・フェレールの特注車で」
「あれは私が贈った物でね。真琴が日本に帰国する直前に」
 高坂真琴が帰国直前まで勤めていた国連軍縮研究所は、スイス・ジュネーブに居を構えている。夏のフェレール家であるイヴォワールは、それこそ目と鼻の先であり、真琴は頻繁に出入りしていたらしかった。
「しかし、あの車で事故を起こすとは。相当な道だったんだろうね」
「物理的に、凸凹道でしたから」
 テクニックを要するものの、抜けられない事はなかった事は伏せる。実を言うと特注車は、オートサスペンションにAWDと言う、現代車では最高水準の足回りを持っていた。それを駆使すれば、短距離ならば走り抜ける事が出来ない道は、本当に物理的に走行困難な岩場などに限られ、あのぬかるみなどは然程問題にはならないのだった。
「そこをあなたが助けたって事?」
「はい」
 前方に突っ込んでボディーが破損していたため、やむなくバックした。でなければそのまま前へ進んで、終わっていた。そこですんなり終わっていたならば、こんなややこしい事には
 ならなかった——
 のだ。
「たったそれだけの事で、ここまで来る訳ないわね」
 リエコは女の勘を働かせ、ある程度の事を飲み込んだようだった。
「まあその辺りの事は、また聞く機会があれば聞くとして」
 アルベールが結論を急ぐように言い回すと、
「君は何故、真琴を解放したい?」
 ストレートに痛いところを突かれた。それこそ「その辺りの事」と言うものなのだが。それをすぐに鼻で笑ったのはリエコである。
「これだから鈍い男は。ねえ?」
 あからさまな失笑と共に、痛烈にアルベールの鈍さを指摘すると、具衛に微笑んでみせた。
「はあ」
 具衛はとりあえず、夫妻の言の両方を冴えない素振りで曖昧に畳もうとする。が、アルベールは、それを許してはくれない。言う事を言うと、じっと答えを待っていた。こう言う重厚さは流石である。俄かに追い詰められた具衛は、
「頼られたから、です」
 と、言ってみた。
「どのように?」
 その一言に、またアルベールが食いつく。まるで、捕獲範囲に獲物が入るのを待っては、突然喰らいつく捕食生物のようだった。
「具体的には、特に」
 詰問めいて来ると、早々と答えにつまる。実際のところ、頼られた事など一度もなく、逆に気遣われてしまった身だ。要するところ、
「君のお節介、とは言えないかい?」
 アルベールに早々と、物の見事に言われてしまった。流石にお見通し、と言う訳である。高坂真琴のような高みにいる人間が、具衛のような弱小を頼みにするなどと、普通に考えれば有り得ないにも程がある、と言うものだった。あっと言う間に追い込まれ、我ながら間抜けな事を吐いたものだ、と、具衛は一瞬で吹っ切れた。
「すみません。回りくどい事を言いました。私にとって、掛け替えのない御仁です」
 これからとんでもない事を頼もうとするのだ。都合良く自分だけ、殻に閉じ込もってはいられない。他人には言った事のないその感情を、具衛はついに口にした。それを受けた斜め前のジローの雰囲気が、瞬間で固くなったように感じる。
「あら、ライバル出現かしら?」
 リエコはそんなジローを、何のためらいもなく、論うように詰った。
「何を——」
「いや、もう勝負はついてるかしらね」
 ジローの反駁を被せたリエコは、忙しく顔色を変え、今度は真剣な表情で具衛を見た。
「具衛さん」
 その冴え冴えとした声が、何処かしら仮名のそれと被り、思わず背筋が伸びる。
「何でしょう?」
 仮名の苦境を打開するために、ここまで来たのだ。それを思い出すと、腹が据わり始めた。仮名は恐らく、今も尚屈辱に晒されているのだ。その推測が、具衛の目を覚まさせる。
「あなた、今でもお父様の負債を負ってるの?」
 具衛の在仏時までの素性は、何処で誰が調べたものか、完璧に押さえられていた。それがすぐに口に出る程、フェレール家は本当に遭難事件を忘れてはいなかった、と言う証左でもある。
「ようやく、先月で完済しました」
「そう。頑張ったわ。でも、お陰でお金全くないでしょ?」
「はい、それは全く」
「やっぱり」
 リエコは声を上げて笑った。
「もう、答えは十分出たんじゃないかしら?」
 怪訝な顔をする他の男二人に、リエコが話を飛躍させる。
「男と言うのは本当に、こう言う事は鈍いわね」
「鈍いも何も」
 アルはお手上げで、
「ライバルも何も——」
 ジローは何処となく恥ずかしそうだ。
「真琴はあの実家で、ずっと自分の意志を貫いて闘い続けていたのよ。あの日本最強の姉を相手に」
 仮名に似た淑女の女傑めいた言い回しに、
 ——よく似てるな。
 具衛は、今度は懐かしさを覚えた。
「それがどう言う意味か、分からないとは言わせないわよ」
 生唾を飲み込む親子を前に、具衛は異国の理解者の存在が嬉しかった。頼れる者など誰もいない、と仮名は言っていたが
 それは——
 只遠くにいて、中々頼れなかっただけなのだ、と思い当たる。
「あの伏魔殿で抗い続けたような娘が、レールを踏み外そうとしない大金持ちのおぼっちゃまなんか相手にする訳がないでしょ!」
 リエコは喉を鳴らしてワインを一気飲みすると、ジローが仰け反りたじろいで見せた。
「不遇を受け入れる潔さ」
 それは、借金まみれの生い立ちだ、とまずは言う。
「人生を切り開く逞しさ」
 それは、今まで命を繋いだ生き様だ、とつけ加える。
「弱気を助ける寛大さ」
 それは、不相応な恩賞に頓着せず寄付をする気前の良さだ、と慈愛を浮かべ、
「強気を挫く肝の太さ」
 それは、理不尽に屈しない今の立居振舞だ、と雄々しく、たん、と音を立ててグラスを置くと、
「愛しき者のために、形振り構わず立回る思い切りの良さ」
 最後は理屈抜きの強い情愛だ、と陶酔するように、リエコは情熱的に語ったものだった。
「真琴も疲れていたんでしょうね」
 次々に声色が変わるそのリエコを前に、具衛はリエコの独自解釈で丸裸にされ、正直むず痒い。
「頼れる男が現れたもんだから、預けてみたくなったのよ」
 男女を語って悦に入った物言いは、情熱的にして淑やかであり、やはりこの辺りの情感は、流石は長年の仏暮らしとしたものらしかった。
「これまでの男達なんて、体裁ばかり気にして無駄にプライドが高いひ弱な連中ばっかり」
 冷笑を浮かべ、ジローを論う女傑めいた言い回しに、密かな直感が芽生える。
 これは——
 頼れるかも知れない。
 最も危惧していた事態は、浅からぬ繋がりのある両家において、仮名が孤立無縁である事だった。フェレール家の財力頼みとは言え、人間社会の事、最後はやはり人頼みだ。いくら金を積んでも、フェレール家が日和見では、仮名は救われない。強いメッセージを与えるには、最後はやはり
 ——人なんだなぁ。
 人と言うものを信用出来ない具衛も、最後はやはり人を頼みにするしかなかった。
 これ程の女傑がいれば、
 あとは——
 金を動かすアルベール公次第である。
「ちょっと性急に見えるけど、思い切るところが真琴らしいわ」
「ちょっと待った」
 勝手に盛り上がるリエコを前に、アルベールがまた冷や水をかけた。
「真琴が解放を望んだとして、その工作を君に求めるとは思えないのだが」
 それはつまり、余計なお世話ではないか、と言う再確認である。弱き者のお節介など、仮名のプライドが許さないだろう事は、男衆なら痛い程に分かる。
「君に危険が及ぶ事は明らかだ。それを真琴が望むとは思えない。中々あれで義理人情にうるさいからな」
「プライドの高さでは、これまでのひ弱な男達とやらに引けを取らないでしょう」
 ジローが俄かに、嫌味を盛り込み同調した。
「だから、少なくとも真琴と対等かそれ以上の男でなくては、あれは喜ばん」
「それもおぼっちゃま以外って言うんだから。我が儘ですよこれは」
 更にジローは、ここぞとばかりの知ったか振りで、お手上げと言わんばかりに首を振る。
「真琴が君に預け切ったと言う、その証拠と言うか証明が出来るかね?」
「証拠、ですか」
 そんなもの——
 丸裸同然の文なしが、そんな物など持っていようがない。
「男ってのはホント理屈っぽいわね。すぐ理論武装して、裸一貫で勝負したがらない」
 リエコがまた、わざとらしく溜息を吐いた。が、少し間を置いて、
「折角だし、何か言えて?」
 具衛に首を傾げる。
 最後の夜の事を言えば、決定的なのだろうが、
 流石にそれは——。
 二人の中の秘部としたい深い情愛、と思っているものだった。大体が、それをどうやって伝えたものか、良い言葉が見つからないし、そもそもこの場で証拠が示せない。
「そうですね——」
 その情に頼るのではなく、
 何か、証拠——。
 リエコの情感豊かな仕種に、少し脳を揺さぶられたような具衛が、それで何か思い立ったように背広の内ポケットから取り出したのは、一通の普通封筒だった。
「足しになるかどうか分かりませんが、私が持っていても仕方がないので。持参していたのを、忘れてました」
 無記名で封が施されていないそれを、そのまま隣接のリエコに手渡す。仮名が最後に置いて行った、あの封筒である。
「中を見ても、良いかしら?」
「宜しければそのままお受け取りください。私には身に余って有意義な使い道が見出せません」
「使い道?」
 僅かに首を傾げたままのリエコは、在中の例の紙切れを確かめるなり、
「これは勝負アリね」
 無遠慮に高笑いをした。
「今の荒んだ世の中でも、こんな事があるなんて」
 今度は何やら感慨深そうにするとまた封の中に入れ直し、部屋の角に控える使用人に僅かに顔を向ける。すると、静かに寄って来た使用人に封筒を預けた。
「何かね?」
「いいからご覧なさいな」
 対面しているとは言え、相手は三mは向こうに座っている。当然自ら立ち上がってどうこうするような不作法はしない。使用人から封筒を受け取ったアルベールは、リエコと同様に一瞥すると、すぐに入れ直して隣席のジローに手渡した。
「何です一体?」
 早速中身を確かめたジローは、流石にその意味をすぐに理解して絶句する。
「小切手なんて余り見なくなったやり方だけど、真琴らしいと言うか。姉さんの呪縛かしらね」
 沈黙したジローが喰い入るように見つめる中、その言を代弁するかのようにリエコが語るその小切手は、右下の振出人欄に高坂真琴の個人名が記入されていた。が、肝心の金額欄が空欄であり、合わせて振出日欄も記載されていない。
「持参人払式小切手ですね」
 ジローが手にするそれは、左上角に特定の記載がなかった。つまりそれを銀行に持参した者なら、基本的に誰でも金を受け取る事が出来るよくある小切手だ。
「自分にかかった養育費を、利子どころか何倍にもして親に返すような娘の当座に、果たしてどれ程のお金があるものかしらね」
 自立心が高く、独立思考の強い仮名の事である。庶民の具衛などが扱える金額ではない事は確かだった。
「当座はよく分からんが、個人資産は——」
 余り金に興味はなさそうだが、あれでも一億米ドルはあるだろう、とアルベールが事もなげに呟く。
「そんなに!?
 ここ何年かの米ドルと日本円の為替レートは、どんなに低くても一〇〇円を下回っていない。つまりは一〇〇億円は下らないと言う事だ。具衛は思わず、その雁首を突き出した。
「確かに——」
 その資産構成の目測がつく様子のジローは、フェレール絡みの慈善団体の日本法人へ、高坂真琴が毎年行う節税を目的とした寄付額などから、如才なく試算した結果をつぶさに語る。
「まぁ、真琴の事になると随分熱心ですこと」
 リエコがその様子を冷やかすと、
「うるさい」
 ジローはすぐさま噛みついた。それ程逆鱗に近い繊細な事のようである。従姉弟の事とは言え、その資産の事にまで即座に目測がつく程に気を配っている、と言うそれは、熱心と言うよりも
 ご執心——
 にしか見えず、その辺りの事が鈍い具衛も、その辺りの迂闊を踏まないようにしよう、と思ったものだった。実質、今のフェレール家を切り盛りしているのは他ならぬジローなのだ。ヘソを曲げられてはまずい。
「まぁ、実家にお金は使いたくないって言ってたしねぇ」
 リエコがあからさまな否定しないところを見ても、そのジローの試算は、何やら信憑性が高いようだが、その額に本気で驚いているのは具衛だけのようだった。他三人は、流石にその程度では平然としたものである。
 貨幣価値の大きさは、それなりに理解を寄せているようだったが、かと言って彼らが保有する資産からすれば、どうと言う事はない程度なのだ。かく言うアルベールの個人資産は、周知されているだけでも一〇〇〇億ドルを優に超えると言われているのだから、仮名のそれは文字通り足元にも及ばない。
 具衛が一人固まっていると、
「そもそもあなたは、真琴がどのくらいの報酬を得て、その職務に就いていたのか知らないとでも?」
 大切な人ならそれぐらいは知っていて当然だろう、と、ジローが痛いところを突いて来たものだった。
「え? ええ、まあ」
 調べておくのだった、と少し後悔する。単なる興味の範疇だ、として、あえて調べなかったのだったが、少しなりとも同じ土俵で話が出来る事に越した事はない。が、経済、経営的な教養はおろか、基礎教養すらままならない具衛は、大抵の事は体当たりの体験型で学んで来た男である。全ての事物は、メディアや書雑誌で接して自己解釈している程度でしかなかった。
 これからやろうとしている事なども、まさにそうした政財界めいた話なのだ。今更ながらに自己の怠慢と迂闊さを呪う。
「公開されているものだけで言うなれば、昨年度の真琴は——」
 高坂総研の取締役として、約一億五〇〇〇万の報酬を得たそうだ。今年度はサカマテの専務も兼任しており、更に報酬は増えるらしかった。
 まさに——
 不勉強と住む世界が違う事を、強烈な嫌味と共に明らかな事実で突きつけられた格好である。
 一昔前の金融庁所管の法改正で、一億円以上の役員報酬を得ている上場企業の役員は、その事実の個別開示義務が出来た。これにより国内の名だたる企業の役員報酬が公開されるようになった訳だが、制度そのものに対する賛否もあれば、報酬の多少に対する賛否もあり、毎年公開時期は中々騒々しい。
 この政策が目指すところは、企業経営の監視と規律ある企業統治機能の強化である。企業の不祥事や、株主の利益を著しく損なう悪質な資本政策など不都合な事実を隠蔽し、一人勝ちしようとする旧来型企業は、利害関係者への説明責任を果たさないどころか、その経営が秘密主義的観点で取り仕切られると言う、まさに騙し合いの詐欺師商法的手法をまかり通していたものだ。その旧来型経営者に対し明白な「No」を突きつけたのだ。株式市場の活性化と、投資家保護のために必要な企業統治評価基準を明確にしようとするその一端である。
 何でこの人——
 こんな事を知っているのか。
 いくら仏の元財務官僚とて、日本の金融政策をこうも簡単に説明出来るものなのか。日本人でも詳細に説明出来る者が限られるような金融法令の解釈をジローから詳らかにされる事で、具衛はまた力のなさを痛感させられるのだった。
「何それ、自慢?」
 真琴オタクみたいで気持ち悪いわ、などと、それでもリエコは容赦ない。
「うるさ——」
「そんな事知ってたところで、何だってのかしらね」
 相変わらずの反駁をみせるジローに、リエコは続け様にジローを突き刺した。
「それであなたは、真琴に何かしてやれた訳?」
 ぴしゃりと言い放つと、口を開きかけていたジローが押し黙る。
 この一族は——
 高坂一族もそのようだが、フェレールも女の方が強いようだ、と具衛は密かに思った。と言うより、現代の両家を型取っている女達の出自は、高坂美也子と言いその実妹リエコと言い、旧家三谷家である。それがどんな血筋なのか具衛は知らなかったが、それが少しは影響を及ぼしているのだろう事は推測に無理がない。
 血は争えない——
 らしい。
 リエコを目の前に、脈々たる女丈夫の系図を肌で感じた具衛が、密かに舌を巻いた。
「真琴はね、資産と呼べるものの一切を家から継いでないの」
 周囲や家内の理解が得られず、孤立した人生を歩み続けた女が、
「得たものは、まさにその中で自らが獲得した不羈独立の強さだけよね」
 富豪の令嬢としては余りにも釣り合わない、物質的栄華とはかけ離れた精神的孤高だった、とリエコは言う。
「そう、なんですか?」
 その精神は、確かに理解出来る具衛だったが、それでたった今耳にしたような財産を構築出来得るものなのか。具衛の声色に僅かな疑いを感じたのか、
「早々に相続放棄してるのよ」
 リエコはあっさりと、分かりやすく言ったものだった。
「相続、放棄」
 確かに——
 やりそうな事だ、と思った。
 本来、生前の相続放棄は出来ない。だから恐らくは、家庭裁判所から「遺留分の放棄の許可」を得ているのだろう。遺留分とは「遺言書などによって法定相続しなかった場合でも、本来法定相続人が最低限受け取れる遺産額」の事を言う。よって「遺留分の放棄」をしたところで、それを持って相続放棄にはならず相続権は失われない。遺留分の放棄の許可を得た事を高らかに宣言して、早々と一族郎党に相続放棄の意向を示しているに過ぎないのだ。
 相続に関しては、具衛も早い段階で直面した身である。負債だろうと資産だろうと、お互い親の財産を相続したくなかった者同士、と言う訳だ。その辺りの感情は理解出来るつもりだった。
 そもそも仮名の場合、元々元手には不自由しない身だ。増やしてしまえばその元手すら不要になる。それどころか、忌まわしさすら感じていた事だろう。それ故、養育費をあからさまに何倍返しにもして問答無用で返却すると、合わせて相続放棄を宣言したようだった。高坂真琴とは、一〇代で弁護士登録したような異才である。手続き込みでそのぐらいの事は朝飯前だろう。
「そうすればあなたも、お父様の負債を負わなくても良かったでしょうに」
 それは、高校時代に武智の顧問弁護士の山下からも勧められたが、
「貸してくれた人は、裏切れませんから」
 具衛はそれを、純粋な仁義を気にしてしなかった。今思えば、本当に若かった、と言う事である。
「酔狂よねぇ」
「でも額が。私は精々一億円がやっとでしたから」
 片や仮名の資産は、その一〇〇倍は下らないと言うから経済センスが知れようものだ。そしてその高い能力の一端は、役員報酬と言う形として公開され、その暴力的なまでの格差に具衛はまた怯む。しかし、
「それ、違うわ」
 リエコはあっさり否定した。
「あなたはコツコツ貯めたお金で、全うな労働でそれをしたの。その年で中々出来るものじゃないわ。真琴のは錬金術みたいなもんだし」
 全うかどうかは、実は相当に引っかかる覚えがある。命のやり取りの末に得た金だ。一応全うな組織に属した上ではあるが、それが手放しに社会に受け入れられているとは到底言い難い。
「全うかどうかは、ちょっと怪しいです」
 時には血で血を洗う、そんな労働をして稼いだ金である。
「それを判断するのは全権を掌握する為政者でしょう。ねえ?」
「そうだな」
 かつて仏国全権を握っていたアルベールが追認した。
「文民統制の根幹だ」
 存在自体が忌み嫌われるのであれば、存在そのものをなくしてしまえば良い話である。だが、それが出来ない事情に目を瞑ってそれをしてしまえば、恐らく
「国は瞬く間に滅びるだろう?」
 それが現実である。
 確かに武力を持たないのは勇気がいるし、平和主義的観点ではこの上ない誉れだろう。が、人間社会はまだその境地に達していない。
「名を捨て実を取るしかないんだよ。今は」
 人類有史、戦い抜いた歴史の末に到達した現代において、その境地は幻に近く、恐らくは永遠の夢物語である。
「軍なんてのは、その犠牲の典型だ」
 戦いを憎み、恐れ、力を持とうとしない者達に忌み嫌われ、その代わりに命を晒し、時には血を流す事を厭わない野蛮な組織。それが軍だ。
「世の中に絶対正義なんてないんだから。あなたは任務の範疇で、あなた自身が思うところの人道に悖らない働きをした。それで十分じゃないかしら」
「人道に悖らないかどうかは——」
「もうつべこべうるさい」
 リエコは具衛を真顔で睨みつけた。
 こうして説教されて、確か昨年末不覚にも唇を奪われた事を思い出し、具衛は密かに勝手に恥じ入る。
「野蛮を語って他人を盾にして、綺麗事ばかり言ってるような面の皮の厚いご高尚な方々より、潔くて良いって言ってるの」
「だから、君はこの場にいるんだろうね」
 人の道には悖らず生きて来たつもりでも、それを判断するのは最終的には自分ではなく赤の他人の都合だ。常に批判に晒されて、それが日常だった具衛が、世の中を諦める一端はそこにもある。大抵は、中身を見つめて貰えず、上っ面だけで判断されて、深い考えもなく一方的に詰られた。何の知恵も心も持たず、野蛮な武器をぶら下げて思う様に敵をなぶり殺す。軍人などその程度にしか見られていなかった。諦めて、かと言って開き直る事を許されず、甘んじて批判の最先鋒となる最前線の哀愁は、経験者でなくては到底共有される事のない屈辱である。
「その上で、あの真琴の殆ど全動産を剥き身で預けられる人間なんて、私はちょっとお目にかかった事ないわ」
「そうだな」
 アルベールも感慨深く、少し溜息を吐いた。
「私達は理解しているつもりで、真琴の事も君の事も、まだまだ理解していなかったようだ」
 しかしもう一人、納得していない人間が斜め前で斜に構えている。
「これを、君は一体どこで——」
 ジローは受け入れられない様子で、相変わらず小切手をまじまじと検分していた。偽物を疑っているらしい。
「聞かない方が良いと思うけど」
 リエコがやれやれと言わんばかりに、また溜息を吐いた。
「最後に山小屋に立ち寄られた時に、何も言わずに置いて行かれました」
「それは、忘れて帰った、と言うのではないのかね?」
「分かりません。確認していないので。その封筒ごと、テーブルの上に丁寧に置かれていました」
「確認の連絡はしたのかね?」
「していません。電話番号を存じ上げませんし。唯一のチャンネルだったメールアドレスも消したので」
「何故!?
「もう、お会いする事もないと思っていたので」
「掛け替えない相手に、もう会わないとはおかしいだろう!」
「会いたくても会えないでしょう。仮に思惑通りになったとしても、お母上様がお許しにならない。それどころか、闇から闇へ葬られるのではないかと」
「ねぇ、私は別の興味があるんだけど、伺ってもよろしいかしら?」
 打ちひしがれるジローを放置して、リエコが目を輝かせながら入れ替わった。
「真琴は、あなたの事を知ってて近づいたの?」
 具衛のような庶民は、高坂真琴に近づく術を持たない、との決めつけを前提としたリエコの言い方は、根も歯もなかったが事実ではある。
「いえ、お互いに素性を伏せていましたので、最後の最後までお互い知らなかったと思います」
「それは真琴が——」
 リエコの目が、また何やら怪しげな熱を帯び始めると、
「剥き身の自分を見て欲しかったんでしょうね、あなたに」
 勝手な艶かしい憶測を吐いたもので、斜め前で斜になっているジローが即座に大きくむせた。言葉の額面通りに、生臭い想像をしたようだ。
「いや、そんな」
 それを見た具衛が、軽く俯きながらも曖昧に答えると、
「まぁ。分かりやすい」
 したり顔のリエコは、的確な解説を始めたものだった。
「素性を明かすと、おかしな虫しか寄って来ないから、あの娘は」
「それは何となく、分かります」
「そうするうちに、あなたの人柄に興味を覚えて。これまで片意地張って生きて来た分、一気に溢れちゃったのね」
「そんなの出鱈目な推測だ!」
「出鱈目じゃない!」
 ジローがついに聞くに堪えなくなったようで、感情任せに叫ぶのをリエコが更に上から被せた。
「じゃあ聞くけど、具衛さんになり代わったとして、あなたにここまで出来るかしら?」
 それはやはり、際どい橋を渡る事になるであろう事を、リエコも理解していると言う事に他ならなかった。
「あなたは今まで、何をもじもじしていたのかしらね? 体裁ばかり気にするおぼっちゃま?」
 言われるなりジローは荒々しく立ち上がり席を外し、物も言わずに退室する。
「あらあら。いい中年男が拗ねちゃって情けない。ごめんなさいね、見苦しいものをお見せして」
「いえ、私如きの事で申し訳なく」
 具衛がそのまま最敬礼で謝すと、
「まああの子も、まだまだ世間擦れ出来てなくて。大目に見てあげてね」
 リエコは柔らかく苦笑しながらも、流石に少し口を歪めたようだった。
「我が家とあなたの事を、真琴は知っているのかしら?」
「私から話した事はありません」
「高坂は勿論この事は——」
「私からは何も」
 そこまで口を動かしたリエコは、アルベールを見て、不敵に微笑んで見せる。
「奇策を打てる素地はあるみたいね」
 言われたアルベールは、ゆったりとテーブルに両肘をつき、神妙に顔の前で両手を組んだ。
「君に何かプランがあるなら、それを聞かせてはくれないかね?」
 顔を引き締め具衛を見ると、やはり答えを待つスタンスで、じっと待ち構え始める。
「はい——」
 具衛は流石に、一度ナプキンを外した。

 最後を締め括るデセールが出て来て、ようやく具衛の見た目にもはっきり名前が分かる食べ物が現れた。
 苺のショートケーキ、メロンとライチと桃とりんごの盛り合わせにバニラアイス。一見普通なのだが一々美味い。食い物の味に然程頓着しない具衛でも、市販の物と出ている皿の上の物との違いくらいは分かる。それを一人黙々と突く中、
「私達は、君を見くびっていたようだ」
「ホント。こう言ってはまた失礼だと思うけど、何処でそれを、って訊いてもいいかしら?」
 前横に鎮座するフェレール夫妻は、呆れた様子で手を止めていた。勿論、具衛によって明かされた奇策の事を言っている。具衛の素性の詳細を知る二人は、字面では読み取れないその半生の存在を察したらしく、素直な驚きを顔に浮かべたものだった。
「字を目で追ううちに、と言いますか——」
「字を、目で追う?」
 リエコが僅かに首を傾げる姿に、具衛が久し振りに胸を締めつけられる感覚を覚える。リエコの仕種は、仮名に良く似ていた。完全無欠の美淑女振りは、将来の仮名を見るようで、思わず見入ってしまう。
「どうかした?」
「あ、いや」
 慌てて軽く顔を左右に振って我に返ると、
「我が家は本当に赤貧で。小さい頃から娯楽と言えば、小さなブラウン管のテレビしかなかったんですけど、テレビは父に占拠されてて——」
 具衛は恥ずかしげに種明かしを始めた。
「たまたま自宅アパートの近くに図書館があって、良く通いました」
「ほぅ」
 それに合わせて、アルベールが俄かに感心を示し始める。
「学校の勉強は嫌いで、行ってもバカにされたりいじめられたりで、勉強は出来ないどころか、ろくに学校に通いもしませんでしたが——」
 具衛は、幼少から本に親しんだ事もあり、本当に本を良く読んだ。おもちゃを買って貰えずとも、同年代の学友達のおもちゃやゲームに見向きもせず、家から歩いて行ける距離にあった図書館に通い詰めた。勉強は嫌いでも本を読むのは好きで、具衛にとっては図書館こそが学校だった。就学期の具衛を救ったのは図書館だった事は既に書いたが、そんな具衛が目紛しく知識を吸収し始めたのは職に就いて以降の読書、つまりは仏軍生活だった。生死に直結しかねない生活の中、生を繋ぐための知識の獲得の必要性は、サバイバル錬成時に嫌と言う程痛感させられた。有りとあらゆる情報を出来る限り蓄え、それを瞬時に使い分けるその様は、机の引き出しと卓上の関係のそれである。下手を打たないよう実学系文献を始め、役に立つと思う物はとにかく読み漁った。知識を得た後は、知行合一の実践あるのみで、しぶとく世事の表裏を体得して行くスタンスは、実に泥臭くまさにサバイバルそのものだった。独学で箔もなく、努めて朴訥に徹しているが、就学期に全く勉強が出来なかった冴えない男が、海外生活で仏語と英語を獲得するなどその片鱗を鑑みるだけでも、如何に日本の教育が彼の水に合わず、また充実した独学を修めたか分かろうものだった。意を決した精錬恪勤の軍生活で、冴えない高校生を博学篤志に変貌させたその原点は、図書館だったのである。
「本を読むのは好きで。図書館がなかったなら、今の私は絶対に存在しませんでした」
「本は知識の泉。人類の叡智の結集だ」
 アルベールが、何処かしら誇らしげに言う。
「その様子だと、相当読み込んだのだろう」
「いえ、そのような事は——」
「はは、謙遜だな」
 一方的に決めつけると、
「君は速読の部類だろう?」
 アルベールは、何やら推理を巡らせ始めた。
「え? まぁ、そうかも知れません」
 朝から晩まで一日読めば、文庫本なら数冊は読む具衛である。どちらかと言うと、アルベールの言う通りだった。そしてそれは、常に切迫していた。
「任務に追われて、次の日に先延ばし出来ない事情が、常につき纏っていたのだろう」
「え?」
 言い当てられた具衛が、理由を訊こうとして口を半分開く。
「どうし——」
 が、途中で理由に思い当たり、小さく溜息を吐いて止めた。
「私も、多くを読み込んで来たからね。もっとも本ばかりではなかったが」
「そう、でしたね」
 元大統領にして、大グループ会長に君臨する男である。ありとあらゆる知識を集め、英断をもってその責任を全うしなくてはならない立場の人間の重圧が、不意に伝わって来た。
「私は、自分の為に読み漁る事が出来て幸せでした」
 具衛とアルベールの読書の決定的な違いは、利益の行き先の割合である。具衛は自分が生き残るために読んでいた。その延長上に国益が存在するにせよ、それは遥か先である。片やアルベールのそれは、国や組織に直結するものだ。
「派兵先の惨状を見る度に、自分はまだ運が良い、と痛感させられたものでした」
「それこそ読書家の特質なのだよ」
 多くの知識を獲得しようとする者は、その深淵に接する度に謙虚になり達観するのだ、とアルベールは感慨深そうに言った。
「そうした者だから、人が放っておかないのさ」
 結局は、それが正しくあろうとする姿勢を導き出す。言うなれば、知と徳の積み重ねなのだ。それがついには習慣化し人生をも変える。
「立派なもんだ。誇って良い」
 実際それで私は救われたのだから、とアルベールは、今度は自嘲しながらも笑みを浮かべて眉を上げた。
「流石だ、と言わせてもらうよ」
「真琴が剥き身を晒す訳ね」
 しばらく黙って聞いていたリエコが急に口を開き、また分かったように生々しく言ったものだ。
 ——ホントに?
 それを知っているかのような断定に、具衛は堪らずどう答えたものか分からず縮こまり、俯き加減に顔を掻く。
「見た目は何処か可愛らしいのに、行動力があるって反則だわ」
 私がもう少し若かったらなぁ——などと、リエコは恍惚めいた表情で具衛を眺め始めた。
「リエコ」
 それを見たアルベールが、窘めるような声を出すが、
「自分の不手際を十何年も家族に押しつけるような人には、何も言わせません」
 リエコはやはり、ぴしゃりと言ってのけ容赦ない。
「真琴はね。姉さんの子だけど、見た目も思考も私に似ててね」
「そうですね」
 具衛もそう思っていたものだったが、それはやはり本人も認識しているようだった。
「ああも一人で何でも出来る人間でもね。寂しいものよ、それは」
 孤高の異能の悩みは、本人からも語られたものである。周りが敵だらけに見え、常に一人で実際に敵だらけの中で成長を遂げた異能の女傑。
「その埋め合わせが、何故——」
 自分なのか。ふとした疑問が、素直に口から漏れた。
「そう言うところ」
「え?」
「そう言うところが可愛いのよ」
 そんなところを、以前仮名から罪だとか言われた事があった事を瞬間で思い出したものだったが、流石に何を言われるものか分かったものではなく、それは黙っておく。
「その癖、何処かしら据わってるのよねぇ。それでいて、全部受け止めてくれそうで。いざとなったら何とかしてくれそうで——」
 今度は恍惚感そのままに、艶っぽくその感情を紐解くリエコの口は、まるで恋に恋した少女の口振りであり、具衛はその呼び水となった自分の疑問を後悔した。正直、痒い。
「実際、今こうして、何とかしようとしているでしょ?」
 これは一つの甲斐性よ、と言ったリエコは、
「立派なものよ。誇って良いわ」
 あの一匹狼が認めてるんだから、などと、あの美女をしれっと狼呼ばわりしてみせたものだった。
「まぁ、後は真琴から聞いたら?」
 と、リエコの顔つきが常の柔らかさに戻ったかと思うと、
「しかし君のプランだと、きっかけが君である事が美也子に筒抜けになるが、本当に良いのか?」
 入れ替わりで、アルベールが顔を曇らせたものだ。
「仮名さんの解放が目的ですから、それをきっかけとして思い切ってやって頂ければ。世の為にもなりますし、高坂グループがこれ以上汚名を被る事がなくなれば、あの人も浮かばれます」
「カナさん?」
 具衛がしまったと思うよりも早く、夫妻が素早く噛みついた。ワンテンポ遅れて顔を歪めた具衛が、思わず右手で目を覆う。
「お互い、素性を隠した交流でしたから、仮の名前で呼び合っていたんです」
「で、真琴がカナ?」
「ええ。そのまま仮の名で仮名と」
「あなたは何て?」
「今の勤め先が、母子の支援施設でして、そこの職員はみんな子供達から先生と呼ばれるものですから、不肖ながら先生と」
「そうなの」
 リエコが嬉しそうに答えた。
「猜疑心の塊だった真琴が、他人とそんな事をするなんてね——」
「ここへ来てまざまざと、真琴と君の交流とやらを見せつけられてしまったな」
 したり顔で意地悪そうな笑みを浮かべるアルベールに、
「いや、そのような——」
 具衛が慌てて手を振り恐縮する。
「帰ったら、本名で呼んでおあげなさいな」
 その横でリエコがふんわり言った。
「呼ぶ機会があれば、の話ですが」
「出来る限りの事はするつもりだよ」
 ようやくアルベールもその気になったようである。
 何とか——
 素地が出来た、と思ったその時、
「ちょっと待ったぁ!」
 大広間の扉を乱暴に開けたジローが、雄叫びを轟かせて乱入して来た。
「あの子はまた一体——」
 リエコが呆れ気味に溜息を吐く中、ずけずけと具衛の傍まで荒々しくやって来たジローは、身体の脇に何やら抱えている。
「真琴を助ける事は賛成だが、君と真琴の仲は認めない!」
 高らかに宣言しながらテーブルに置いたそれは、チェスボードだった。
「潔く勝負したまえ!」
 鼻息荒く駒を並べて始めるジローに、呆気に取られる具衛の周りで、
「御免なさいね、ホント子供で」
「やれやれ、仕方のないヤツ」
 夫妻が苦笑いすると、ややあって具衛が空笑いし始めた。
「何がおかしいか! 真剣勝負だぞ!」
 先程のジローの動揺振りからも、その痴情の縺れから、逆上の上暗躍されて目論見が瓦解する事を恐れていた具衛だったが、
 意外に——
 分かりやすい人間である事を垣間見、密かに安心する。
 その辛気臭い顔つきからは想像が難しいバカバカしい熱意が伝わって来ると、
「一安心したものですから」
 具衛は一緒になって駒を並べ始めた。
「ルールは知ってるようだな。ハンデをくれてやる。私はこれでもFIDEマスターでね」
 FIDEは「フェデラシヨン アンテルナシヨナル デ エシェック」と言う仏語の各単語の頭文字を取った略称で、国際チェス連盟を意味している。単にFMとも略されるFIDEマスターは、最高位のグランドマスター(GM)、その次の位であるインターナショナルマスター(IM)の次の位であり、日本の将棋や囲碁に見られる段位で表すなら、六段程度と言われる高位者だ。つまりは、
 相当強いな——
 具衛ならずとも、日本では余り馴染みのないチェスを少しでも知っている者なら、そう感じて当たり前のレベルである。
「クイーンを落とそう」
 クイーンは最強の大駒で、将棋で言う飛車と角をそのまま合わせた動きが出来る。縦横斜めの全ての方向に、任意のマスに進める事が出来る駒を落とす事は、取られた駒が盤上から除かれ、以降そのゲームが終わるまで使用出来ず、かつ将棋に比べて各駒の動きが派手なチェスでは
「圧倒的に不利じゃない?」
 リエコでなくても、そう思うのが普通である。
「先手を打ち給え」
 それも先手をくれてやるなど、
 ——随分、サービスしてくれる。
 と言うよりは、完全に舐められている、と言う事だった。
「持ち時間は、なしで良いだろう。どうせすぐ終わる。さあ始め給えよ」
 高飛車なジローを前に、具衛は
 何だか妙な事に——
 なって来た、とニコニコしながらポーンに手を伸ばした。

「チェック!」
 鼻息荒く、得意気に、しかして声高に宣言したジローの前で、
「いやぁ、負けちゃいましたね」
 具衛の顔色は、終始変わる事はなかった。一回目はたったの三一プレイ(白が先手で、白一六手、黒一五手)で先手具衛。二回目はジローがナイトを一つ落としたが、やはり先手具衛。三回目は平手打ちになったが、やはり先手具衛。四回目はジローが先手の平手打ちで、ようやく先手ジローの勝利。五回目はジローが後手で始め、八〇プレイでようやくジローが、
「決まりだな」
 アルベールの言葉をもって勝ちを決定づけた。
「はっ! どうだ!」
 ようやく勝ち誇るジローに、
「まぁ、大人気ない」
 リエコが冷ややかに呟く。
 只っ広い大広間の流しテーブルの一角に、四人が固まってチェスボードを囲む姿は何処となく微笑ましいが、その戦績は白熱している。要するに二人は、
「殆ど互角かしら」
 と言う事のようだった。
「そのよう、ですか?」
 リエコの問いかけに答えたのは、具衛だけである。ジローは勝ちを誇ったのも束の間、口を窄めては、何処か心持ちの落とし所を探すかのように盤面を睨みつけていた。平手のFIDEマスターを相手に、具衛のこの戦績は素人レベルでは相当なものだ。
「それにしても強いな」
「重ね重ね失礼を承知で言うと、こんなに強いとは思わなかったんだけど」
 夫妻が素直に唸ると、
「何処で覚えたの?」
 リエコが呆れ顔のまま、大欠伸をつけ加えながら言った。
「安さんに教えて貰いまして」
「あの子もそんなに強いの?」
 具衛とフェレール家を繋ぎ止めていたシャーさんの事は、夫妻も良く知っている。何よりジローが、
「あいつか——」
 リエコがまた首を傾げる傍で、がっくりうなだれた。シャーさんは頭脳戯が得意な男で、在隊時の隊内ではそれなりに名が通っていた男である。
「二人で良くやったもんでして」
 具衛は合間を見つけては、良く指南を受けた口だった。気がつくと、二人がバディを組んでいた三年の間に、二人とも相当なレベルに到達したが、人前に出る事を嫌がりそれを糧の手段には選ばなかった。表に出ていれば、実はそれなりの位を得ている可能性を持つ二人である。
「もう寝ましょうよ」
 気がつくと、仏時間でも午後一一時を回っていた。夫妻は欠伸がちとなり具衛の目も半開きだ。
「寝る前にシャワーを浴びるだろう。案内させよう」
「ありがとうございます」
 目を見開き、一人興奮状態のジローにリエコは苦笑した。
「ほらほら、お客様に余り無理をさせるものじゃありませんよ」
 具衛は当初から、フェレール家にて一宿二飯を賜る予定で来訪していた。
「また、明日の朝にしたら?」
 言いながら傍にいるリエコが、グラスに残った赤ワインを呷る。すっかりお気に入りにされたらしい具衛にべったりのリエコからは、何の匂いかよく分からないものの、仮名と同様に良い匂いが立ち込めていた。それだけでも何かのたがが危ういと言うのに、年齢不相応の美貌にして当の本人からも、ストレートな好意を向けられているものだから、具衛は正直気が気でない。
 ——参ったな。
 ジローが止めると言わない以上、勝手に離れてしまっては、その自尊心を更に傷つけてしまうだろう。しかしこのままだと、夫を目の前にしながらリエコに籠絡され兼ねない。すると困惑気味に苦笑する具衛に、リエコが耳元で囁いて来た。
「こんな堅物なんかほっといて、飲み直さない?」
「い、いや——」
 言いかけた具衛の鼻に、嗅ぎ覚えのある香りが突く。思わず鼻を利かせてそれを嗅ぐ仕種をしてしまうと、仮名に似てやはり如才ないリエコが、
「良い香りでしょう?」
 と、具衛の顔に軽く息を吹きかけた。夫であるアルベールの前で、誘惑めいたその仕種に、その夫が複雑そうな顔をする。何か言いかけるその夫を、
「何よ。自分だけいい思いしておいて、それはないんじゃないかしら?」
 やはりここでもリエコは、その殺し文句を容赦なく吐いた。その息が、また具衛の前で香る。ワインの中に仄かに香る甘やかさと爽やかさ。
「——サングリア」
 それは、仮名が愛飲するそれに近い香りだった。
「それは真琴の中だけの呼び方ね」
 仏でハーブのフレーバードワインと言えば、
「ベルモットよ」
 である。具衛もそれを知ってはいたが、在仏期間は酒を断っていた経緯もあり、飲んだ事はなかった。
「私が作り方を伝授したの」
 と言うリエコは、
「あの子も頑固だから」
 これをサングリアと呼ぶ仏人はいないわ、と失笑する。
「ベルモット——だったんですか」
「フランス人に聞かれたら怒られちゃうわ。次にあの子がフランスに来る時までに、矯正して頂けないかしら?」
 宿題よ、と言ったリエコは、具衛が軽く首を傾げる仕種に、
「んまぁ、可愛らしいこと!」
 何かが極まったらしい。
「お、奥様! い、いけません!」
 難しい顔をして盤面を睨み続けているジローは完全放置のままだ。何処に触れて抵抗したらよいか迷う具衛の腕を掻い潜ったリエコは、酔いの勢いに感けたかのように、夫の目の前で若い燕の首筋に巻きつき、盛大な頬擦りをして見せたものだった。

 明朝。
 朝食前にぼんやりしながらも使用人に案内されて昨夜の大広間に向かうと、朝食が並ぶ中、
「お早うございます」
「良く眠れて?」
 相変わらずリエコは美しく、朗らかな美笑を湛えていた。
「ええ。——それにしても、」
 素晴らしい景色である。
 邸宅の南側に展開する眺望は、リエコ同様に朗らかな陽気であり、曇りがちな欧州の冬の景色とは、明白に一線を画した南仏リゾート地のそれだった。青い空、湾に並ぶヨット、いくつかのビーチと緑豊かな半島リゾートは、昨夜の到着時には見られなかったものだ。が、よく晴れている今朝は、
「冬のヨーロッパとは思えない」
 風光明媚とはこの事である。
 改めて自分がいる所の場違い感が今更ながらに押し寄せる中、今朝はもう一人の妙な出で立ちの者がそれを物の見事に掻っ攫っていた。
「ごめんなさいね。何か暑苦しいのが約一名いて」
 リエコが眉間に皺を寄せるその先にいるのは、何故か日本武道の稽古袴を着用して茹っているジローである。
「何か朝稽古したらしいのよ」
 ホントに——
 何やら対決めいてしまっている。
 苦笑いしながら具衛は着席した。
「チェスでこっ酷くやり込めたそうじゃないですか」
 昨夜、シャーさんから苦情めいた国際電話がかかって来たのは、時差ボケで轟沈していた真夜中の事である。一応海外旅行をするに当たり、一時的に国際ローミング設定していた事が仇になったのだ。何でもジローが、チェスの戦績が気に食わなかったらしい。お陰で朝っぱら(東京時間)から、
「凄い剣幕で電話がかかって来ましたよ」
 との事だった。
「明朝、お手合わせ願いたいそうですよ」
 その中でシャーさんによって語られたのは、ジローの合気道への思い入れである。
 ——参ったな。
 手合わせ、と言う名の試合を申し込む気のようだ、とシャーさんは人ごとのように言っていた。事実、人ごとであり、具衛は何も言えなかったのだが。
 二一世紀を迎え、スポーツ全盛の現代において、合気道がそれと明確に一線を画した格闘技である所以がある。それが、
「合気道は、試合しないんじゃないの?」
 と言う事だった。
 合気道には、基本的に試合と言う概念がない。ひたすら自己を見つめ稽古あるのみ。それが合気の道、の筈だった。
「三〇年選手ですから手強いですよ」
 が、如何にも軽々しく語ったシャーさんが口にしたその年月は、予想外に長く、少なからず具衛の安眠の妨げとなる。
 お陰で——
 眠い。
 結局目が冴えてしまい、リエコへの返事に反し、実は熟睡出来ず朝を迎えたのだった。
 でもまあ——
 帰りの飛行機で寝れば良い。なるべく目立たないよう、具衛は着席後、音も動きも抑え始めた。のだったが、
「朝食の後、お手合わせ願いたい」
 着席早々、いきなりジローに捕まり、面と向かって宣言されてしまった。
「はあ」
 具衛は仕方なく、曖昧ながらも返事を吐く。
「帰りの飛行機の時間は大丈夫なの?」
 リエコが助け船を出してくれたようだったが、往復割引の航空券を購入していた関係で、帰りもミュンヘン経由だ。
「ミュンヘン発は夜でして——」
 そのミュンヘン行きの便は、コートダジュールを昼下がりに飛び立つ予定だった。つまり、
「午前中は、大丈夫です」
 そもそもが、借りを返して貰うとは言え、無茶を言っているのは具衛の方なのだ。ある程度は相手の意向に添う必要を感じざるを得なかった。
「何だか意地になっちゃってねぇ」
 リエコ自身、情緒的な勢いに任せ、殆どジローを焚きつけたようなものだった事もあり、多少の責任を感じているようだ。長年真琴に対して、仄かながらも一途だったジローの事である。それをここ数か月で具衛が奪ってしまった事を、リエコが論破する格好で明らかにしてしまったのだのだから、ジローとしては鬱憤のやり場に困ったものだろう。
「何だか決闘めいて来たな」
「予期せぬ恋のライバル出現に、今更いきり立ってもねぇ」
 つまりそれは、そう言う構図である。無責任な夫婦の言に、他二名は盛大にむせ返った。
「まあ帰りの便は心配せず、思う存分やるが良いさ。身体が動く若いうちに」
「もう結果は出てるってのに、その意気込みをどうして今まで出さなかったのかしらねぇ——」
「やかましい!」
 ジローがリエコに噛みつく前で、具衛は戸惑っていた。恋のライバルなどと、
 ——言われても。
 その明け透けな言葉が、自分の周囲を取り巻く日が来ようとは、夢々思わなかったのだ。バカにされ続けた就学期、生き死にをかけて働いた青壮年期、やっと訪れた自由な余生期、どれをとっても女を巡ってどうとか言う時代は、まるで縁がなかった具衛である。唯一女気を帯びたのは、仏から帰国後の数年でしかない。青壮年期を経て図太くなった草食系の具衛に、世俗で弱り癒しを求め吸い寄せられた柔な女達が何人か近づいた、ぐらいの事だ。その一方的な構図はライバルなど存在し得ず、殆ど惰性と言って良かった。
 その俺に——
 突如として現れた分かりやすいライバル。高千穂のような、手の届かない位置の相手とは全く異なる相手。本来であればジローもまた、その高みにいる人間である筈なのだが、わざわざ立ち位置をシンプルなものにしようとするその潔さは、何処か仮名のような清々しさを感じたものだった。
「お手柔らかに頼むよ」
 そうした向きのジローが、具衛の中で埃を被っていた熱を呼び覚ます。
「こちらこそ、宜しくお願いします」
 結局寝つけなかったのは、そう言う事だった。

「その格好で良いのかい?」
 合気道の稽古袴を着用した精悍な形のジローは、安っぽい私服に着替えた具衛に向かって言った。
「はい」
 日本から来た一見ひ弱そうな賓客は、旧友安の話では外人部隊在隊時「システマ」使いとして腕を鳴らしていたらしかった。旧ソ連の将校によって編み出されたシステマは「ロシアの合気道」と形容される事があるが、それは概ね的を得ている。が、合気道と決定的に違う点が一つあり、特定の型を持たない。一瞬の返し技に圧倒的な強さを誇る一撃必倒の護身術は、まさに日本の合気道に似ていた。
 が、ジローから見た具衛は、それにしては余りにも隙が多そうである。正直なところ、
 とても手練れには——
 見えなかった。
 今も、目を白黒させて、
「リゾート地の豪邸に道場が!?
 などと目を剥いており、どうも間が抜けている。
 家業に身を埋める事になった時、父の秘書となるに当たり、季節毎に本拠を移す父の二つの別荘に、無理矢理道場を作らせたのはジローだった。元々父の日本通が過ぎて、次男と言う事もあり、日本人の男の子にありがちな名前を、仏語の名前になぞらえて命名されたこの男も大の日本通であった。小さい頃から言語を初め、文化習慣に深く感心を示したものだったが、生来運動音痴で、武道だけはその精神のみ触る程度のものだった。それを合気道へと誘ったのは、他ならぬ同い年の日本の従姉弟、高坂真琴の存在だった。
 ジローが初めて真琴に出会ったのは一〇歳の時だ。母リエコの里帰りにくっついて初めて日本に行った時、高坂家で対面した真琴に一目惚れしたジローは、合気道の稽古に没頭するその姿に奮い立たされた。関節技の芸術たるその動きは明鏡止水が如く美しく、それを学ぶ真琴は神々しいの一言だった。
 以来三〇余年。運動音痴のジローが努力に努力を重ね、到達した境地は真琴への片想いの道のりでもあった。
 それを——
 不意に湧いて出たような柔そうな男に奪われたとあっては我慢ならない。ただでさえ諦め切れないにも関わらず、その何て事はない一見してうだつが上がらなそうな、本当に草でも食んでそうなひ弱そうな男に、あっさり奪われたのであっては、
 ——俺の三〇余年は何だったのだ!
 腹が立って仕方がなかった。
 地位も名誉も財も、真琴は全く受け入れようとしなかった。そんな真琴が、この冴えない男の何処に興味を持ったのか。気にもなったし、腹が立ってどうしようにもなかった。そんな男は奇しくも、以前外人部隊で語っていたアノニマが「次郎」と来たものだ。この偶然が、また腹立たしい。自分と同じ名前を持っていたこの男と、自分の違いは何なのか。ジローは、真琴がこの男に感じたものを知りたくなったのだった。
 で、余り学があるようにも見えず、とりあえず知能レベルを推し量ろうとしてチェスをやってみた。対戦型のボードゲームの強さとIQとの間に相関関係は働かない、と言う説があるようだが、それは、
 弱い奴らの僻みだ。
 と、ジローは思っていた。
 頭脳と閃きを駆使するゲームであり、根本レベルでは少なからず頭の良し悪しが影響を及ぼすのだろうとの考察は、自分自身がFMである事が多少は影響してはいた。それはともかく、内心嘲笑うつもりで対戦してみて、その敗戦に驚かされた。チェスの駒の動きは、日本の将棋のそれと比べると派手であり、文字通り一手が命取りになるようなゲームだ。センスも必要だが、やはりそれを理解するある程度の頭脳と、ある程度の訓練は絶対的に必要である、との持論を持っていたジローは、皮肉にも打ち負かされる事で、この間抜けそうな若輩者を認めざるを得なかった。
 世間が羨む自分にあるステータスを真琴が認めようとしないのだから、そんなものでこの男と張り合っても仕方がない。自分に纏わりつくステータスで適う者など限られようものだから、それで競う事が出来れば、こんな男など相手にならないのである。が、それでは余りにも大人気ないし、真琴が評価しないのだから
 ——意味がない。
 だからやむを得ず、誰でも簡単に手を伸ばせる、しかも分かりやすいもので競うしかないと思い、まずはチェスで推し量ったのだ。それをもって知能と言うには余りに乱暴だが、その第一戦は、予想だにしない事実上の敗戦だった。負ける事はない、と思っていた筈が思わぬ負けを被り、到底収まりが、
 ——つく訳ないだろ!
 で、この状況である。
「得手物は何でも好きな物を選ぶと良い」
 と言ってジローが選んだのは、意表を突いた剣だった。実は合気道は徒手だけではない。創始者は剣、杖術共に名人であったと伝わる。
 具衛が選んだのは、杖だった。
「杖か」
 それぞれの得手物は、通常の竹刀のそれである。どんな不利な状況をも想定するため、流石に昨今では普段の稽古でも急所には防具をつけるか、逆にスポーツチャンバラで用いられるような、竹刀よりも柔らかい素材で出来た竹刀や、スポンジ主体の物を用いたりする。一発大逆転の一撃を思わぬところへ繰り出す事もあるためだ。
「せめて防具をつけないか?」
 流石に怪我をさせたのでは、真琴に何を言われるか分からないし、寝覚めも悪い。ジローは武士の情けのつもりだったのだが、この冴えない男は
「お心遣いは有難く受け取っておきます」
 曖昧な表情を浮かべ、それだけ言ったものだから仕方がない。とりあえず型通りの礼を済ますと、徐に双方が間合いを測り始め、自動的に試合が始まった。やる気満々のジローに対し、無防備な具衛の構図は、
「雑念塗れだな」
 道場の片隅で、何となしに見学しているアルベールや、
「どちらが合気の理を修めた者やら分から——」
 リエコが言及しようとした矢先に早速動く。
「やぁ!」
 ジローが飛びかかったかと思うと、その瞬間後、飛びかかった方が板の間にひっくり返っていた。チョークの粉まみれになり、あっさり決着する。
「う——」
 ジローが咳払いするその周囲には、白い煙幕が立ち込めていた。得手物には、打撃判定を分かりやすくするためチョークの粉を振っている。勝敗があからさまに着衣に表れるジローの志向である。
「チョークとは変わってますね。でも確かにこれなら勝負が分かりやすい」
 ジローが衝撃とチョークの粉でむせる中、具衛は静かに端へ下がった。
 何が——!?
 起きたのか。悶えながら、ジローは考えを巡らせたが、思考が脳まで及ばない。
「手加減はいらないようだね」
「はい」
 ジローは防具についたチョークを手で払い退けると、また飛びかかった。が、その後は本当に稽古のようだった。圧倒的な実力差に、対等な立ち合いと言えたものではなく、具衛は指南役のようだった。かかれどもかかれどもジローは歯が立たず、チョーク塗れになり、何度も打ち据えられた。
 後に剣を捨て本式の徒手になると、いよいよ実力差があからさまになった。腕や手を取る事すら出来ず、一矢を報いる事さえ敵わず、思う様に投げ飛ばされ続けた。やはり、実戦経験者は何か違う、と言う事らしい。
 小一時間もすると、ついにジローは動けなくなり畳に大の字になった。
「そこまでに、しようか」
「そうね。ちょっとシャワー浴びて来たら?」
「はい」
 親に促されて道場を後にする具衛を尻目に、
 気を遣われるとは——
 道場に取り残されたジローは、大の字のまま腕で目を覆った。

 昼が来た。
 予定では具衛は既に帰っている筈だったが、何故か昼食に同席していた。何も言わず、何食わぬ顔で昼食を然も美味そうに突いている具衛は、またスーツ姿に戻っている。
 ——美味そうに食うヤツだ。
 本人は意識していないようだが、具衛は一見して本当に美味そうに食事をする、ようにジローには見えた。がっつくのを抑えるように、ゆっくり味わって噛み締めるように、大事に大事に口を動かすその仕種が促すのか、緊張の中にも目元が緩み、頬が踊っているようだった。静謐な空間で、それは決して行儀が良いとは言えないが、それ以上に
「すっかり日本がご無沙汰でね。また行きたいんだが、中々暇がなくてね」
「そうねぇ、ホント」
 賑やかな親がいるので気にはならない。常日頃から賑やかな二人と対照的に、ジローは常に辛気臭く、それは食事時も変わらなかった。
「帰りはヘリをチャーターしたから、まあゆっくりして行くと良いよ」
「少なくとも、洗濯が終わるまではいて貰わないと」
 私服の洗濯のため、と称して足止めをしたようだ。そのために具衛はミュンヘン行きの飛行機を乗り過ごす事になり、ヘリをチャーターする事になったとは、
 随分と——
 大盤振舞だった。
 ジローが鼻を鳴らす目の前で、然しもの田舎者も流石に恐縮に思ったらしく、その早速にして細やかな返礼らしきものが、中々小憎らしかったものだ。一々意外なこの田舎者は、昼食までの待ち時間を使って、案内された別部屋で見つけたアコースティックギターを手に取ったのである。歓待の極々瑣末な返礼、と称して何やら即興で弾き始めたその腕を、両親が中々とみるや、そこからは両親も交えて小さな演奏会に突入し、人手がだぶついて日頃ゆったり仕事をしている使用人達がその音を聞きつけて集まると、昼前の静かな一時を盛り上げたものだった。
 まあ、次々と——
 忌々しくも意外な事である。
 父アルベールはチェロ、母リエコはバイオリンを手にすれば、社交界ではまずまず名が通っている。その腕と遜色なく、英国が誇る往年の世界的バンドの曲を楽しげに弾き語りをするものだから、これまた認めざるを得なかった。その選曲がまた、如何にも受けが良さそうな王道を突いて来ており一々小憎らしい。それにしてもポップスとは言え、
 音楽的素養もあるとは——。
 かく言うジロー自身は、以前真琴が子育てでキーボードを使っている、と聞きつけてからは、それまで聴く専門だった音楽的趣味にピアノ演奏を加えるべく猛烈に練習を重ねたもので、今では両親の演奏に混ざっても遜色ないレベルでは弾ける。が、結局参加せず、遠目で見やる程度に留めた。
 そう簡単に、
 ——懐柔されてたまるか。
 と言う、まあつまらないプライドである。
 とは言うものの、フェレール家として、それも特に両親は、この冴えない男に報いる機会を与えて貰えた事が嬉しいのだ。それによってアルベールの罪深さが消える訳ではない。それは重々理解してはいるのだが、遭難事件時の最大功労者にして随一の恩人である男に報酬を受け入れられなかった事は、無言の抗議のようであり、最終的に想像以上の苦悩となっていた。それから解放される喜びは一入であり、ジローとしてもそれを
 まあ——
 認めざるを得なかった。
 そんな両親は昨夜をもって、家庭内別居も解禁したらしい。朝っぱらから年甲斐もなくベタベタイチャイチャしたものである。昨夜などは早速臥所を共にしたらしく、いつも以上に饒舌なのは、まあそう言う事なのだろう。日頃代わり映えしない顔触れの中で、無理矢理にも滞在を引き延ばそうとするそれは、単にジローの心身の様々な部分を慮っただけではない。やはり具衛はそれだけの価値のある賓客、と言う事だった。でなくてはいくら何でも、
 ヘリなんぞチャーターするか。
 後で分かった事だが、この冴えない男は手合わせの際、殆ど汗をかかなかったらしい。必要以上にジローのプライドを傷つける事を三人は望んでいなかったようで、それが洗濯とチャーターヘリと言うから、
 ——随分と甘やかされたものだ。
 後で知って自嘲したものだった。
 もっともそうした配慮により、ジローと具衛は後に生涯の友となるのだが、この時のジローはそれを知る由もない。それ以前にこの二人には、直近に迫る数奇な運命が待ち構えていたのである。

 同日、昼下がり。
 庭にチャーターヘリが到着した。
「ヘリって、庭に来るんだったんですか!?
 ローターブレードが物凄い勢いで回る中、只っ広い庭先で具衛が傍にいるアルベールに絶叫する。
「これならミュンヘンまで、アルプス越えで一っ飛びだからな!」
 言いながら二人が、握手を交わし始めた。
「今日は西アルプスの東寄りの天気が悪いそうだから少し遠回りになるが、今夜の日本行きの便には十分間に合う!」
 やって来たヘリは、アルベールがグループの本部があるパリへ行く際に良く利用しているグループ関連会社が運行する機体である。一般的な感覚で座席を配置すれば、一〇人弱は優に乗れる広いキャビンを有するそれは、航続距離一〇〇〇kmを超える単発ターボシャフトエンジンの高性能機だった。
「ジロー!」
 父からの思わぬお召しに、風圧で舞い上がる服やら髪を押さえながら傍によると、
「ミュンヘンまで、ついて行っておあげなさい!」
 いきなり随行を下命された。
「しかし——」
 反論しようにも、風や音に邪魔されて、その労が著しい。
「またいらしてくださいね!」
「閣下も奥様もお元気で!」
 その横で、三人はすっかりお別れモードになっている。
「ジロー!」
「はい!」
「私はこれからしばらくの間、寸刻も惜しい。ミュンヘンまで名代を頼む!」
「かしこまりました!」
 そう、返事をする他なかった。
 昨夜具衛から開示されたプランを、早速行動に移し始めるらしい。
「じゃあ行こうか!」
「はい!」
 お互いに風を凌ぎながらヘリに向かった。キャビンの前で繋ぎの飛行服を着た若い男が待っている。二人が乗り込むとドアを閉めて、右側の副操縦席に乗り込んだ。
 キャビンは、パーソナルソファー仕立ての立派な椅子が、向かい合うように四つある。随分ゆったりとした椅子は、リクライニング機能もあり、後席側の椅子の間には大きなセンターコンソールがあった。キャビンと操縦席の間に壁はなく、操縦席とキャビンの前席が背凭れで接している。二人はそれぞれ後席に座った。後席からでもキャノピーが良く見え、前方の景色を満喫出来るようになっているそれは、全て父、アルベールの嗜好である。殆ど専用機のようなものだった。
「坊っちゃん、宜しいですか!?
「いつもお世話になります」
 ドアを閉められると、ようやく風も音も落ち着き、乱れた着衣や髪をなでながら声の音量を落とす。
「じゃ、ミュンヘン行き、出発しますよ」
「よろしくお願いします」
 左側の操縦席に座る機長は、フェレール家では馴染みのベテランパイロットで、五〇前後の快活な男だ。ゆっくり上昇を始めると、具衛が両親に手を振っている間に、ヘリは瞬く間に高空へ飛び上がり、豪邸があっと言う間に豆粒になった。
「コマンダン、ミュンヘン到着予定時刻は?」
「チューリッヒ上空経由で行きますので、遅くとも日没前には」
 コテンパンにやられた後のばつの悪さだが、一応父の名代だ。一応役目は果たすとしたものである。
「搭乗予定の飛行機の時間は?」
「八時ちょうどですから、十分間に合います」
「そうかね」
「はい」
 一方具衛は、微塵もそんな気を見せなかった。この達観振りと言うか飄々振りを年下に醸し出される事が、またジローのプライドに少し障る。
「アルプス辺りは雲がかかってますんで、残念ですが景色は期待出来んでしょう」
 機長が気を回したようにつけ加えると、
「今日も安全運航でお願いします」
「それはもう」
 ヘリは少しばつの悪さを引きずりながらも、一路北を目指し始めた。気がつくと、早くも周辺に薄い雲が纏わりついている。冬の欧州は、地中海沿岸以北は曇天である事が多い。雲が濃いか薄いか、それだけの差である。
「折角のアルプスだったんですがねぇ」
 アルプスを縦断するコースだが、そこもやはり雲に覆われており、山の峰々がちらほら見える程度だった。ヘリはその遥か上空を北へ抜けて行く。キャビンの中も同様に、雲がかかっているようで相変わらずだった。正確にはジローが一人で、勝手にばつを悪くしているだけだ。
「無粋かも知れませんが、高度だけは間違いないように頼みますよ」
 機長とその真後ろに座るジローが、たまに安全運航のスローガンめいた会話をやり取りするだけが、機内の全会話である。機長との会話は、スイッチ一つで椅子に備えつけられているスピーカー越しに行う事が出来た。副操縦席側の後席に座る具衛は、ずっと無言で、何も見えない筈の景色を眺め続けている。無言ではあるが、表情は穏やかだった。
 ——そうだった。
 この男は、山岳兵のエキスパートとして、父の遭難に際し決死隊に選ばれた事を思い出す。今更ではあるが、今飛んでいる辺りなどは、まさに因縁の地であった。
「懐かしい、で、合ってるかね?」
 合わせて賓客である事を思い出し、話しかけてみる。
「え? ええ」
 窓から目を離した具衛は、
「この辺りを、よく駆けずり回ったな、と」
 ジローのわだかまりなど、やはり気にも留めない様子で、具衛は表情そのままに答えた。今更ながらに、この男の命を左右した現場上空である事を最後に思い出し、
「本当に、その節はもう——本当に言葉がないよ」
 何を言っても拙い事を思い知らされる。礼を言われる度、恐縮し続けていた具衛だったのだが、ここへ至ってはそれをしなかった。僅かに笑み、諦め気味に小さく嘆息したように見える。相槌の代わりなのか、照れを隠すかのように、少し首を突き出して見せたものだった。
「本当に——。あの時父が死んでいたら、我が家はどうなっていた事か」
 国の大統領であり、かつ財閥の長だった父が急に消えるなど、今更ながらに後の混乱を考えるだに恐ろしい。フェレール家にとって、具衛の功労の大きさは、本当に語り尽くせる物ではなかった。
 しかし具衛は、しばらく沈黙した後、思わぬ事を口にした。
「実は私にとっては、千載一遇のチャンスだったんですよ」
 人の生き死にがかかった状況で、不謹慎極まりないその言は、これまでの具衛の印象とは明らかに遠退いたものだ。ジローが気色めいたのを感じたのか、
「これで親の負債が返済出来ると、思ったもんですよ」
 具衛は種明かしを始めた。
「殉職すれば、大金持ちの大統領の事、慰謝料は事欠かんだろう、と」
「しかし、生き残った君は、褒賞めいたものの一切を寄付したではないか」
 ジローが思わず顔を顰めて事実を突きつけると、
「あなたと同じです」
 具衛は更に、異な事を口にした。
 実家の負債は、意地でも全うな労働で返済しようと考えていたらしい。父親の放蕩を、それで浄化するつもりだった、とか何とか。だが、その道のりは想像以上に厳しく、若さ故の無謀に後悔したものらしい。だから殉職すれば、それから解放される事に加えて完済も出来る、と喜び勇む向きが、正直なところ少しはあったのだそうだった。それでも生き延びたなら、始めから借金返済に充てるつもりはなかったらしい。
「労働の対価ではなく、褒美ですからね」
 何だその屁理屈は——。
 そんなもの、具衛の身で捏ねてる場合ではなかった筈だが、
 ——頑固なヤツ。
 それをジローは、口には出さなかった。慰謝料だろうと褒賞だろうと、危険手当みたいなものだ。それを見越して決死隊に参加したのであれば、
 素直に貰ってくれれば良かったものを——。
 そうすれば父の踏ん切りは、もう少しは早くついただろうに。そうすれば家庭内の歪も、もう少しは早く改善しただろうに。そう思えて来る。もっとも、それを望んで良い立場ではない事は理解してはいる。してはいるが、生き長らえる限り贖罪は続くのだ。一定の節目やけじめを頼りに生きて行きたい、と思う事は求め過ぎなのだろうか。そんな事を自問自答する。
 それをいくらか見透かしたのか、
「褒美で貰った大金だと、債権者が許してくれませんから」
 具衛は理由を口にした。
「宝くじめいたお金で返済したら、それこそ溜まりに溜まった利子が膨らんでますから、元金が返済出来なくて」
 つまり、棚から得たぼた餅では、正当な利子の上限一杯をふんだくられる、と思っていたらしい。
「だから貰いたくても、貰えなかっただけなんです」
「それは——」
 確かに言えている。
 債務を抱えた者が、一度に大金を得たならば、債権者は黙っていないだろう。しかも金の出所が目立ち過ぎて、とても隠せないとあっては言うまでもない。金が絡むと、人は変わるものであるし、不思議とそうした事は噂となって隠し通せないものだ。だが、口では簡単に言えるが、苦しみを抱え続けるその選択は、普通中々出来るものではない。苦しみから解放される権利を他人に譲るなど、常人では出来ないだろう。その観点からすれば、やはり具衛は中々の男、と認めざるを得なかった。本人はそれを意地、と言ったが、ジローには何処かしら、実父や世に対する恨みめいた当てつけのように見えたものだった。柔に見えるが、そう言う気概のようなものは持っているらしい。
 もっともそれは、具衛がその逆境にもめげず有能な人間となり、富豪とまで言わずとも、通常人を上回る収入を得られるような成功を収めれば済んだ事ではある。ジローからしてみれば、具衛が抱えていた負債など、ポケットマネーの範疇で一瞬にして完済だ。例え経済感覚を具衛のレベルに落としたとしても、自分の能力であれば、そう苦労する事もなく完済させる自信があった。
 が、そこまで考えて、否定的な見解は止めざるを得なかった。人にはその出自故の生き方と言うものがある。それを飛び越し、人格だけを入れ替えて仮定を語るなど、明らかに公平を欠いている。それに、もし具衛が仏軍入隊前に覚醒していたならば、具衛は間違いなく、わざわざ仏軍になど入隊していないだろうし、だとすると父は助かってはいない。
 ——悪い癖だ。
 有能故、つい他人が愚かに見えてしまいがちなジローは、つい他人を否定的に捉えてしまう。この生真面目な紳士は、自己を律する事にかけても人並み外れており、それが更に他人の愚かさを論う原因にもなっていた。が、そんな癖すらもこの有能な紳士は、分別をもってそれを自戒するのである。
 父から、遭難事件の遺族交渉を始めとする後始末全般を任されたジローは、つぶさにその対象を調査していた。多額の慰謝料で有無を言わさず捩じ伏せる中で、唯一思いがけない行動で拗らせた具衛の事は、取り分け印象強く覚えていたし、調査を尽くしたものだ。その柔な為人にそぐわぬ程の軍人としてのステータスの高さに驚いたものだったが、それよりも衝撃を受けたのは成長過程だった。その家庭環境、就学状況など、成長過程から鑑みた具衛は、どう考えても、社会に出たとて大した収入を得られるような人間にはなり得ない、所謂負け組に甘んじるようなタイプにしか見えなかったのだ。それ故本当に、一時期別人が成り済ましているのではないか、と疑った事すらある程である。具衛はハイティーンで天涯孤独となり、明確な身元保証人が既に存在しなかった。その現世との希薄な結びつきは何処か儚く、とても本人には言えた物ではないが、それ故より詳細な調査を、それこそ父の力を行使して日本政府を巻き込み綿密に行ったものだった。フェレール家の面々が具衛の事を良く知る理由は、つまりは成り済まし疑惑が原因だったのである。それは後に疑惑が解消されると、良い意味で興味に転換し、その生き様に感心する事になるきっかけとなったのだったが。
 結論として、成り済まし疑惑は解消されたのだが、それにより両親はこの薄幸の男に魅了されてしまった。特に父などは調子づいて、迂闊にも具衛本人の身すら危うくする程の野放図な恩賞を贈る事を公言してしまう始末で、その後始末を命じられていたジローは、思わず天を仰いだものだった。安一三のアノニマを持つ男をその身元保証人に据え、接触のチャンネルに細工を施したのは、そんな事情があったのである。
 ジローはこの件を通じて、己の浅はかさを学んだ筈だった。万人に言える事だが、人生は何処で何のスイッチが入るか分からない。もしスイッチが入ったなら、人は良くも悪くも別人を疑われる程に変わる事が出来るものなのだ。遅過ぎるも早過ぎるもない。ジローから見た具衛は、まさにその一例だった。
「君は本当に変わっているな」
 人間としては、確かに認めても良い。自分の土俵ではまるで話にならない男であるが、自分にはない人として欠かせない何かを、間違いなくこの男は持っている。それは認めても良い。
 だが——
 やはり、真琴だけは譲りたくなかった。
「だから、あなたと同じです」
 具衛はまた同類を語り、ジローを惑わす。
「私と? どこが?」
「チェスと手合わせです」
「それの——」
 どこが、と言いかけた時、
「うっ!」
 機長が短い呻き声と共に、頭を抱えてがっくりうなだれた。

 アルプスを抜けたヘリは、突如として急降下を始めた。アルプス山中だったなら、山に墜落したかも知れない勢いだったが、通過していた事が幸いした。錐揉み状態になりかけたその時、呆気に取られていた副操縦席の若い男が何とか気を取り戻し、目の前の操縦桿に手を伸ばす。どうにか降下スピードが制御され始めた。
「コマンダン!」
 ジローは叫んだだけだったが、具衛は降下が緩んだと見るや、その瞬間にシートベルトを外している。そして弾かれるように機長席に肉薄した。
 早い!
 ジローが感心するのも束の間、具衛は早くも機長のシートベルトを外している。そこから思わぬ力業で、あっと言う間に機長席から機長を引っこ抜くと、後席の床上に横たわらせた。
 キャビンと操縦席が一体型の内部構造が幸いした。これがそれぞれ独立式だったなら、こうは行かなかっただろう。それどころか、この後の展開を振り返ったならば、直ちに墜落していた可能性が高い。これから繰り出す具衛の采配に、キャビンと操縦席の壁は、著しい障害に他ならなかったからである。
「オートパイロットを!」
 その具衛の指示で、副操縦席の若い男が、おどろおどろながらも反応を示した。操縦桿を安定させようとするが、上手く行かない。若い男はどう見ても二〇代で操作が辿々しく、明らかに動揺の色が動きに出ていた。
「整備士か」
 具衛は軽く舌打ちをしたように見えた。独り言ちながらも、シートベルトをして座っているジローでさえ、上下左右に身体が振られる程の不安定な動きをする機体の中で、横たわらせた機長の衣服を緩め、キャップ帽とワイヤレスインカムを慎重に脱がせている。そのインカムを代わりにつけた具衛は、
「お兄さん変わろう!」
 一方的に宣言して、機長席に滑り込んだ。
 なんと言う——
 対応能力か。流石は元とは言え、鍛えられている軍人上がりと言うべきか。暴れる機体に身を捩りながらも、何処か別の視座の自分が感心をしたかのようなジローは、今一意識の混濁から立ち直れない。
 具衛が猫のように操縦席に滑り込むと、急に機体が落ち着いた。
「お、おおっ!?
 俄かに気を取り戻した整備士が気色ばむ。それに合わせて、
「操縦資格は持ってる! 一〇年振りだが、あんたよりは確かだと思う」
 具衛が流暢な仏語で被せた。
 計器を調整したり確認をしながらも、口は別の内容を吐き出す。
「くも膜下出血の可能性が高い! 急がないと手遅れになる。心拍をチェック! 止まっていたら心肺蘇生を!」
 迷いなく忙しく言い切ると、
「メーデー! メーデー! メーデー!」
 遭難通信を開始した。
 遭難通信は、墜落の危険や急病人が発生するなどの状況下で宣言する最高レベルの非常通信である。これにより遭難通信を発した局(遭難局)の周辺の通信は統制され、一気に遭難局の救難体制が展開される。恐らく具衛の操作によるものだろうが、突然通信がスピーカーモードになった。早速通信内容が機内に流れ始める。舞い上がっているジローが理解出来たのは、具衛がチューリッヒ空港の管制官と交信している、と言う事ぐらいだった。
 後で聞いて分かった話だが、急病人と言う事で途中で割って入ったスイスエアレスキューの管制官共々、具衛の技量と言うよりは、悪天候を理由に、
「最寄りの病院へ受け入れ依頼と、着陸許可を願いたい」
 と言う、具衛のリクエストを渋っていたらしい。それを受けた具衛の通信は、明らかに英語で荒んでいた。
「EASAのCPL(事業用操縦士)、NR(夜間飛行証明)、IR(計器飛行証明)取得済みのパイロットだ。問題ない!」
 空の標準語は英語である。
 EASAとは「欧州航空安全機関」の略称であり、EU(欧州連合)所管の同域内における民間航空分野の各種調整を執行する専門機関だ。EU各国の国籍を有する航空機を操縦するには、基本的に同機関が定める操縦資格が必要となる。ヘリは仏国籍であり、例え具衛の言う事が本当で操縦資格自体は有効だとしても、何せ仏を離れて一〇年と言う男だ。定期的な技能、知識審査や航空身体検査証明の更新など、操縦に付随する必須審査や検査の類いは当然していないだろう。普通であれば、完全な有資格者とは言えない状態である事は想像に無理がなかった。
 因みに航空機にも人間同様に国籍があり、国家間を飛び交う国際線の航空機の場合、その機内で適用される法律は、基本的に国籍国のものとなる。よって操縦資格に関しては、機体の国籍国で有効なものを取得していれば、他国領空を飛行する際もその根拠に問題は発生しない。が、一方で、航空交通管制については統一ルールが存在する。各国の航空機は先の大戦中、国際民間航空を能率的かつ秩序あるものにすることを目的として制定された国際民間航空条約(シカゴ条約)に則り運行されているのである。その事務は、シカゴ条約に基づき設立された国連機関であるICAO(国際民間航空機関)が執行しているのだが、条約に加盟していない国は、当然それに従う義務はない。とは言え現状では、その国を探す方が難しいもので、今や一九〇を超えると言われる国連加盟国で、ICAOに加盟していない国は片手の指以下であり、つまりが世界の航空管制は事実上ICAOのルールで統一されていると言って良かった。
 現在ヘリが飛んでいる空域はスイス領空だが、長年永世中立を貫き国連と一定の距離を保って来た同国も、二一世紀に入ると国連に加盟するなど軟化して来ているようであり、同様にICAOにも加盟している。そのICAO存在の根拠たるシカゴ条約には、遭難救助に対する取り決め条項も当然明記されており、よってスイスの関係機関は、それに基づき発した具衛の遭難通信に対する対応義務を、逃れる事は出来ない筈であった。
 そんな諸事情よりも何よりも、実は周辺空域は、今夕前から急速に発達したブリザードで瞬間的な風速は秒速三〇m近かった、と言うから、然しものスイスエアレスキュー(REGA)も、まだ天候がそこまで荒れていなかった同国西部へダイブアウトさせようとした判断に無理はない、としたものだったのである。
 REGAとは、そのままローマ字読みで「レガ」と呼ばれるスイスが誇るNPOの航空救助隊である。山岳国家として、航空機器による救助サービスの必要性を説いたルドルフ・ブヒャー医学博士の提唱により、一九五二年に設立されたそれは、主に山岳での捜索救難活動と緊急医療支援を行う他、海外で医療支援を受けられない会員などに対しては本国への送還まで行う。
 会員とは賛助会員の事で、全く政府の援助を受けていない民間組織であるにも関わらず、国民の約四割が加入している理由は、レガの救助に対する徹底振りだ。ヘリの機動力を生かして山間部の際どい現場へ向かうなどは当たり前で、加えて高いレベルが要求される夜間飛行や、悪天候下の計器飛行まで行う。会員の救助のためなら海外まで駆けつけると言うその会員に対する年間会費は、日本円で数千円程度であり、それで会員の有事における救助サービスは無料と来るから、加入者が多いのも頷けようものだ。
 余談だが、東日本大震災の折にもレガの航空機は日本に飛来した。スイス政府が派遣した救難隊員の急病に伴う本国送還のため、各国が原発事故の放射能汚染に対する懸念や批判で対応が定まらない中、地震発生後約一〇日と言う緊迫した時期に、スイス政府の依頼で青森県の米軍三沢基地に飛来したのだが、帰国後のクルーは放射能検査を強いられる事となった。依頼のためならどんな現場へも立ち向かうと言うレガの精神は、本部チューリッヒにあるコントロールセンター内に備えつけられた大きな世界地図が物語る。
「速やかに、チューリッヒ近郊での受け入れ先を連絡されたし」
 そんな手練れの救助組織ですら渋る状況下で、具衛は無茶なリクエストをしていた訳である。その緊迫した交信中であるにも関わらず、具衛は操縦モードをさっさとオートパイロットにすると、呆気に取られて何も出来ない他二人を押し退け、心停止している機長の心肺蘇生を始めた。更にその上、
「オートパイロットで、ある程度の所までは引っ張れる」
 他二人に状況を説明すると言うマルチタスク振りである。
 通信が揉める程天候は荒れている。
 スイス中部の古都ルツェルンと、その北東部に位置する北部の国内最大都市チューリッヒの中間付近を飛行中だったヘリは、周囲を厚い雲に囲まれていた。雲はこの時期の欧州では当たり前だが、加えて風が強くその上吹雪いており、視界が悪い事この上なかった。
 さっきまでは——
 もう少しましだったような気がしたものだったが。ジローが訝しむその目の前で、
「地表は荒れてたみたいですね。さっきの急降下で随分高度が落ちましたから」
 具衛は冷静にして、何処か人ごとである。それどころか、一見してブリザードの只中でも、オートパイロットで飛び続けるヘリの技術の高さに感心していた。
「最近のヘリは——」
 言葉を失い、場違いな悠長振りも束の間、
「ごふ!」
 機長の呼吸が回復したとみるや、バイタルチェックを整備士に委ねる。 
「ジローさん! 周辺の大きそうな病院を調べて貰えますか?」
 自身は操縦席に戻りながらも、ジローに指示を出した。
「もう待てない」
 チューリッヒ空港やレガの管制から受け入れ先の病院の連絡は来ない。この緊急時にそれがないと言う事は、着陸許可を出さないと言う事だ。
「分かった!」
 ジローは、嵐の中にいながらも、不思議と平然としているヘリの操縦士の腕前を信じる事にした。早速所携のスマートフォンで検索を始める。あっと言う間に何件か該当があった。
「最寄りは二〇km切っている!」
 すぐに返答すると、
「座標を教えてください」
 具衛がジローの言うポイントをヘリのOSに入力した。これで付近上空までは辿り着ける、らしい。
「OK! すぐに電話を」
「もうやってる!」
「五分かからずに着きます」
「くも膜下出血と見極めた訳は!?
 電話を呼び出しながらそれを確認した理由は、医師が知りたい情報を少しでも早く伝えるためだ。
「飛行中、首から肩にかけて凝りを気にしている素振りがあって。それで急に頭を抱えて卒倒したので」
 具衛の見解は、そのまま既に電話に出ていた電話向こうの救命センターの医師によって、ダイレクトに聞き取られた。英語の無線を聞いて理解していたらしく、既に受け入れ体制を整え連絡待ちだったようだ。スイスでは仏寄りは仏語圏、中央部は独語圏、伊寄りは伊語圏だ。欧州では英語もそれなりに通用するが、本来ならばチューリッヒ近郊ならば独語、それもスイス独自のスイスドイツ語、と言う独語の方言が一般的である。いざとなれば独語を使えるジローが訳すが、実はその方言たるスイスドイツ語は癖が強く、細部はジローも完璧ではなかった。英語が理解して貰えた事は有難い限りである。
「その病院へ向かいます!」
 この迅速さは、幸運だった。後はそこへ向かうだけである。
「周辺の地図が出せますか?」
 言いながら具衛は、体感でも分かる勢いで降下を開始した。
「詳細な物がいるのか!?
「簡単な高低差が分かる程度で十分です」
 その一言で、具衛が着陸に備え周辺地形を把握したい事を感じ取ったジローは、スマートフォンの地図アプリではなく、ネット検索で詳細なものを探し出す。するとすぐに、スイスの国土地理院である連邦地形測量所作成の詳細な地形図を引き当ててしまった。
「これでいいか!」
 白地図に詳細な等高線が記載されたそれは、一見して素人には分かり辛そうである。が、今はぐずぐずしている場合ではなく、とりあえず、チューリッヒ周辺を拡大して具衛に手渡した。すると具衛は、ほんの一瞥しただけで、それをすぐにジローに突き返した。やはり分からなかったらしい。
「やっぱりダメか!?
 只の白地図で、しかも肝心の病院座標は消えてしまっているのだ。それどころか、これでは何処に何があるのやらさっぱりわからない。無理もなかった。
「いえ、読みました」
 が、言うなり具衛は、更に降下させ始めた。
「今の一瞬でか!?
「はい」
 ジローが訝しむのも無理からぬ早業である。その具衛は「感覚で大体把握した」とは、後で本人から聞いた話だ。事前に聞いた病院座標を、地図の経緯度線で瞬間的に読み合わせたらしい。それが落ち着いた卓上なら、話は分からないでもない。が、この時は、嵐の中で揺れるヘリを操作しながら、と言うおまけつきだった筈である。
 どう言う——
 神経をしたものか。
 陸軍出向経験があるジローも、目標周辺地形読み込みの重要性は十分認識しているつもりだった。だから、土壇場の具衛の鋭敏な状況把握や判断は明らかに常識外であり、正直胡散臭かった。だが結局、ジローは終始サポートが精々で、殆ど何も出来なかったのだ。となると結果的に、全ての奏功は具衛の迅速的確な対応で成し遂げられた、と言わざるを得ないではないか。
 ——あの修羅場で?
 と、後になって思い返したジローは自嘲したものだった。
 そうか——
 重大な勘違いをしていた事に気づいたのだ。
 ——こいつは素人じゃなかった。
 で、引き続き嵐の中の機内。
「流石にちょっと揺れます! 衝撃に備えてベルトを」
 結局ジローは、椅子に座ったまま、慌てていただけだった。
 しかし——
 この男にヘリの操縦歴がある事は知ってはいたが、
 ——これ程とは。
 今更ながらにその技に慄く。
「バーゼルへ向かわれたし!」
 すると合わせてスピーカーからも今更ながらに、管制官が行き先を指示して来た。バーゼルはスイス北西部に位置する同国内第三の都市だが、チューリッヒ空域からだと一〇〇km弱ある。現況よりも天気が荒れていない事がその指示の根拠だったようだ。が、
「砲が飛んで来ないなら、只みたいなもんですよ」
 具衛は緊張感なく鼻で笑って見せた。戦場のヘリなど、墜落の危険と常に隣り合わせである。それを思えば狙われずにすむ着陸など、確かに只かも知れなかった。
「当機の独自交渉により、チューリッヒ市内の病院を確保した。緊急事態である事を鑑み、着陸に際しバックアップ願いたい」
 管制を嘲笑うかのように、無線上で高らかに宣言すると、
「着陸許可は降りなくても、当機は遭難発信した遭難機ですから」
 不敵に嘯いた発言同様に、ヘリはホワイトアウトの中で派手に風に煽られながらも無駄に逆らう事なく、かつ大急ぎで目的地の病院へ向かって一直線に荒々しく降下して行った。
「操縦経験豊富だったんだな!」
 急に揺れが酷くなり、軽いシェイカーのような状態の中で、ジローが意識を奮い立たせるために、とりあえず口を開く。そう言えば、遭難事件の前の事は出自の調査のため、調査と言う調査を尽くしたが、その後の事は殆ど、当時の具衛の身元保証人たる安から聞知したレベルだったのだ。加えて具衛が日本に帰国した後の事などは、日常の多忙を言い訳にまるで追跡していなかった。だから突然真琴についたこの虫に気づかなかったのだ。この土壇場で、これまた今更ではある。
「在隊後半の司令部付は、殆ど操縦歴だったんです」
 そんな具衛は、やはり何処となく他人事のような余裕振りで答えたものだった。
 外人部隊は基本的に五年契約だ。契約満了後は、そのまま除隊しても良いし、ある程度好きな期間を設定して契約延長しても良い。具衛は更に五年延長した口だった。日本で高校を中退した具衛は、延長した五年で、代わりに回転翼操縦士資格の獲得とその経験醸成に当てたのである。それは、遭難事件における軍からの褒美のような物だった。金銭的な恩賞を嫌がる具衛に、軍が人事的希望の融通を利かせたらしい、とは後で具衛から聞いて分かった事だ。
 因みに操縦士の養成にそれなりの期間と費用がかかる事は、世界各国の例を見ても明らかであり、それぞれに桁が異なる程の数値的な大差は見られない。仏軍は、具衛に対する「褒美」と言う名のその初期投資を、その後司令部付となり「切り札要員」として奮戦した具衛のその活躍でしっかりと取り返した。それどころか、余りある利益を得たもので、
「そこは流石にちゃっかりしてますよ」
 とは、後にジローが安こと現シーマから聞いた後日談である。
 当時の具衛がバディの安と共に、補給物資を積み込んだヘリを駆っては、砲が乱れる中をあらゆる部隊へ押しかけた、と言うそれは、仏国籍の仏軍人と言う純然たる「正規兵」には命ぜられない、無茶な任務だったようだ。
「オートパイロットを切りましたから揺れますよ」
 だから嵐如きで慌てる訳はない、とは後で分かった事であり、この時のジローはそれを知る前であるからして、
「何でも良いから、無事に着陸させてくれ!」
 詮ない事を口走ったものだった。
「ヘリのオートパイロットは、まだまだ技術の習熟が——」
 技術的にも論理的にも、完全自動操縦は可能だが、固定翼機の完熟度に比べるとまだまだ遠く及ばない。二一世紀を迎えた現代においても、ヘリのそれは信頼に足る素地に乏しく、実際に悪天候下などではトラブルも発生しやすく墜落の原因にもなっている。
「——ので、流石にこの条件下だと地表近くは手動です」
 説明臭い具衛をよそに、他二人は白い嵐の中を急降下し続けるヘリの中で言葉を失い、顔を引き攣らせている。

 機長は一命を取り留めた。
 やはりくも膜下出血だった機長の容体は、早い処置が功を奏したらしい。堂々と独断を貫いた具衛の判断は、関係者の賛否の的となったが、最終的にはやはり「遭難機」だった事が決め手となり、事情聴取は早々にお開きとなった。
「あー飛行機がー」
 病院のロビーの椅子に座り、ガラスの向こうで吹き荒ぶブリザードを呆然と眺める具衛に、
「こう言う時は、パイロットが事情聴取されるもんなんじゃないのか!?
 ジローは恨み節をたれながら、どっかりその横に座った。詳細な聞き取りは日本人の具衛ではなく、ジローに集中した。単に信用度の差が招いた結果だが、その間隙を縫ってその他細々した手配も抜かりなくしていたのだ。多少の愚痴は許される、としたものだろう。具衛などは、早々の更に早々に解放されて、待ちくたびれた口だった。
「あー俺は!」
 何処へ行っても他人の尻を拭くばかりである。ジローの悲しい性であった。
「レガの管制官が呆れとったわ!」
 管制をまかり通した事よりも、その腕前に舌を巻く声が多かった事にジローは驚いた。
「嵐だろうが何だろうが、離着陸さえ気をつければ何とかなるんですよ」
 具衛の言うところ、実は向かい風に関して言えば、ヘリは特に問題にしないらしい。が、それ以外の方向の風は大いに問題がある。特に今夕のチューリッヒ地表付近の風は、主に北西の風が酷く、それでいて変則的に風が巻いていた。管制サイドが最後までダイブアウトを指示したのは、そうした事情だったらしい。確かに着陸に失敗すれば、ヘリはおろか市街地家屋に損害が及ぶ可能性もある。それが人口密集地と来れば被害は甚大だ。一人の命より多数の命を優先した、と言う事だが、責任を有する管制官なら当然の判断と言えた。
「分かりやすく納得の行く説明が欲しいところだな」
 命を預けたのだ。ジローでなくとも、そこはもっともな話だった。
「最大公約数ですよ」
「は?」
「あなたと同じ」
「だから何が?」
 ジローは気取った顔を取り繕わず、盛大に顰めた。先程まで醜態を晒していた身だ。何を取り繕っても今更だった。
「あなたはバカバカしい程の正攻法で、忌々しい男と分かりやすいやり方で決着をつけようとしたでしょう」
 遭難発信する直前の話だ。
「自分の出来る事と、相手が出来る事を推し量って、お互いに出来る事で正々堂々と——それと同じです」
 機長は瀕死の状態だった。ジローと整備士は慌てふためいて殆ど何も出来なかった。それらにヘリと嵐の状態を鑑み、最後に自己の腕前を比較して約数を見出した結果が、
 ——あの判断?
 だったらしい。
「俺は、あなたに対しても機長さんに対しても手を抜くのが嫌だった。それだけです」
 具衛自身の命の事は分からないが、具衛はどう見ても、他人の命を粗末に扱うようには見えない。
「抽象的でさっぱり分からん」
 とは言ってみたものの、要するにそうする自信があった、と言っているようなものではないか。
「あれだけ無茶しといて約数はないだろう」
 とは言え、最小公倍数にしろ倍数だったならば、あれ程の余裕振りはどうしても説明がつかない。つまりは認めたくはないが、出来る事を冷静に棲み分けて対応した約数だった、と言う事だ。
「操縦技術的な事を言っても分からないでしょ? それにそんなもんは感覚なんですよ、俺は」
 具衛はそれでも、殆ど開き直り気味に淡々と言ったものだった。出来ると思ったから、そうした。
「それだけ何ですよ」
 他人を巻き添えにしてまで危ない橋は渡らない、と言い切った具衛は、やはりジローが察したその自信を断言したかのようで、ジローは思わず言葉を飲み込み僅かに怯んだ。その外見は如何にも頼りなさそうであるくせに、実は太々しい程の意外性を武器に、立ちどころに取り巻く者を飲み込んでしまう。
 こんなに——
 腹の据わった男だったのか。
 いつの間にか、ふわふわ浮ついて見えていたその輪郭が、濃く、太く、はっきり見えるではないか。
「例えばこの天候で、そこの道路を車で走る時、アクセルをどのぐらい踏んで、ハンドルをどのくらい切って、止まる時のブレーキはどのくらい踏むとか、説明したところで状況は刻々と変化する訳で——」
 その淡々と語る姿の、何と平然として大胆な事か。
「結局は説明なんてつかないし、自分の身体で限界値を覚えて行くしかないんですよ、人間なら」
 どうしても目に見える形を欲するのであれば、後はコンピューターによる数値化、と言う事である。具衛はそうしたデータに基づく飛行、所謂テストパイロット的な経験はなく、身体で覚えて来たパイロットだ、
「そんな説明は無理」
 として、また開き直った。すっかり言葉遣いも砕けてしまっている。具衛にとってももう今更のようだった。
「——詐欺師だな!」
 ジローは内心で、その妙な魅力に思い当たり、それを勘繰られないよう、盛大な皮肉を込めて明快に言い放った。
「まさか海外でも言われるとは思いませんでしたよ」
 ジローは立ち上がると
「さて、行こうか」
 ぶつくさ不満を独り言ちる具衛を促した。
「どうしてみんな、揃いも揃って詐欺師扱いするものか」
 とりあえず、ジローの愚痴が終わった事を察した具衛は、早速所携のスマートフォンを取り出しネット検索を始める。
「いや俺は、帰る便を探さないと」
 冬の欧州の日没は、日本より緯度が高い分早い。既に外は真っ暗闇だったが、時刻はと言えば、まだ午後六時前である。
 具衛が左手首につけている腕時計でその時刻を確かめる様子に、ジローの目がつい張りついた。それは、日本好きの父アルベールが愛用している世界的日本メーカーが誇る、デジタルアナログ兼用の特注品だった。フェレール家が具衛に贈った見舞いの品である。
 一六年前の遭難事件直後。流石に何日か検査、経過観察入院した具衛をジローが見舞った際、ベッドの袖引き出し上に置かれていた登山用の腕時計が壊れていた。その後、褒美や謝礼の類いを何も受け取ろうとせず拗らせ続けた具衛に、一矢報いるつもりで無理矢理受け取らせたのが、今具衛がつけている物だった。当時最先端だった高規格の登山時計は、今でもそれなりに使えているらしい。父の力を使って無理矢理メーカーに作らせた物だが、贈った甲斐があったと言うものだ。
 ジローは音もなく具衛の左手首を取り、具衛が
「あっ」
 と言う間にその腕時計を取り上げると、裏蓋を確かめる。そこにはアルファベットで、具衛のアノニマが刻印されていた。物品としては、フェレールと具衛の絆を示す唯一の物である。
「十分使い込んでくれたものだが、もう古いだろう?」
 一応、具衛に贈りつけた時には、父アルベールからの見舞いの品の体だったのだが、ジローはもうそれを語らなかった。
「まだ十分使えますよ」
 タフソーラー仕様だから充電電池レベルもそんなに劣化してませんし、などと、具衛が日常的に使い込んでいる様子を語ると、不覚にも少し嬉しくなったものだ。そしてそれは、
「実は、真琴も欲しがってたんだ」
 言いながらジローは、若干油垢染みたラバーバンドを軽く握り、慈しむように親指で摩る。
「そう、だったんですか?」
 女物に比べて機能美を極めた無骨なデザインのそれを欲しがるところなどは、如何にも真琴らしかったが、それを知る程に近い位置にいたジローである。具衛が受け取らなければ、そのまま裏蓋の刻印を変えて真琴に贈ろうと思っていた。が、
「君が受け取らなければ、真琴も受け取らなかっただろう」
 他人の施しを嫌う真琴の事だ。それが手に入りにくい物であれば、尚の事拒む事は間違いなかった。ジローが想いを寄せ続けた女は、そう言う節度にうるさい女だった。
 そんな女が——
 選んだ男は、見た目は如何にも頼りなく、淡白な顔つきの、女受けだけはまま良さそうな薄っぺらさを体現したような印象を帯びていた。そのくせして、実は底に図太い厚みを思わせる、意表を突くかのような
 ——不敵なヤツ。
 鷹揚で飄々として、何処か浮ついていて、それでいて
 強い——
 風変わりなヤツだったものだ。
 つまりそれは、自分にはない人としての基本的なステータスの高さを具衛に認めた、と言う事だった。悔し紛れに脳内で唱えた、風変わり、と言うフレーズにもう悪意はない。自分が認めるような相手でなくては引くに引けないのだから、素直に自分が及ばない部分を認めれば良かっただけの事なのだ。悔しがるのではなく現実を受け止めて、素直に称えればよかったのだ。この男はその事実として、雪山で父を助け、今また墜落の危機から自分を救ったのだから。
「今度は、本名を刻印しないとな」
 独り言ちたジローは、
「今日のミュンヘン便はもう無理だぞ。この時間じゃとても間に合わん」
 腕時計と腕を解放しながら、代わりに容赦ない事実を突きつけた。
「え?」
 そうなんですか、と具衛が即座に萎れていく。ジローがそうした事で、冗談や間違いを言わない事が分かっているのだろう。
「参ったなぁ——」
 仰け反り溜息を吐きながら手で顔を覆った具衛は、
「明後日の夕方までに帰らないと」
 などと、ぶつくさ念じ始めた。
 チューリッヒからミュンヘンまでは三〇〇kmと少しある。この天候ではヘリを捕まえる事が出来ても、飛んではくれないだろう。ヘリがダメでは、他の交通手段では、午後八時発の飛行機にはとても間に合わなかった。
「代わりに明日の昼前のフランクフルト発羽田行きを押さえておいたが?」
 ジローはそれを見越して、事もなげにさらりと言うと、
「本当ですか!?
 具衛は反射のように身体を引き起こし、その言に食いついた。明後日の朝に羽田に着く飛行機なら、夕方からの仕事に間に合うなどと具衛は無邪気に喜んでいる。
「明朝のフランクフルト行きの飛行機も押さえといたから、ちょっとつき合え!」
 痺れを切らしたようにジローは具衛の腕を掴み、引っこ抜くように引っ張り上げると、
「いたたた!」
「誰かさんのせいで心身共に冷やされたからな。ホットウイスキーでも飲まんとやっとられん!」
 具衛の悲鳴をよそに乱暴にその片腕を捩じり上げながら、病院の出入口に向かった。
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