第1話 桟橋に立つ少女

文字数 4,765文字

 最初に目についたのは彼女の小さな足だった。裸足で桟橋に立つ少女は黒い瞳でぼくたちをじっと見つめ、何かを(とが)めるように、そして何かの言い訳をするかのように、小さな唇を真一文字にしっかりと結んだ姿でぼくたちの前に現れたのだ。
 肌に貼りつく淡い緑色のワンピース。
 日に焼けた健康的な肌。
 水を含んだ肩まで届くか、届かないかの黒い髪。その毛先では重力を蓄えて落ちる(しずく)の一粒一粒がまるでダイヤモンドのように輝き、この世界の時が確かに動いていることをぼくたちに伝えようと必死になっていた。それでもぼくたちの(そば)に切り離され取り残された時間は落ち着きを失い、おかしな具合に狂い始め、最後には修復することを諦めたらしい。
 そうして真夏の空の下、ぼくたちの時は動きを止める。
 世界は白かった。
 空も海も、真っ白だった。
 色を忘れた世界に立つ少女は(まぶ)しかった。
 ぼくたちは言葉を忘れ、呼吸を忘れ、そして自分たちの存在も忘れて、ただひたすらに、ただ一心に、何かの象徴のようにそこに立つひとりの少女を見つめ続けた。
 たぶんあの時のぼくたちは音を失い、その瞬間まで、心も失っていたのではないだろうか。
 世界は動きを止めてしまったのだ、衝撃という名の呪いを受けて。
 静寂に閉ざされた世界でぼくらは為す(すべ)を持たなかった。もしもあの時あの勇者が現れなければ、ぼくらは今でもあの世界に閉じ込められたままだったのかもしれない。もっとも、救国の気概など一切持たずに(あお)い海の底で悠々と暮らすその能天気な勇者は、おそらくあの時ぼくたちを助けたことに気が付いてもいなかったに違いないのだが。
 すべてはあっという間の出来事だった。
 勇者は桟橋のすぐ近くから水面(みなも)に張られた結界を破って天に跳び、真夏の光を反射しながらゆったりと放物線を(えが)き、そして軽々と少女を飛び超えて海へと帰っていった。残された(みず)飛沫(しぶき)の残像にぼくたちは音を思い出し、色を思い出し、そして、時が動いていることを思い出した。呪いは容易(たやす)く破られたのだ。
 ……そうだ。
 あの日、ぼくたちは確かにあの場に存在していたのだ。
 ぼくたちの過去はあの刹那の時の中にはっきりと刻み込まれて、二十年後の今へと繋がっていく。
 そこからの展開はさらに速かった。
 呪いが解かれて戸惑うぼくたちの目の前で少女は不意に口元を緩め、何かに勝ち誇ったように得意げな顔をした。けれども、彼女はぼくに何かを感じる余裕も与えず桟橋から海へと飛び込み消えてしまったのだ。
 ああ、そうだ。そうだとも。
 ワンピースの下に白いパンツがちらりと見えて、あまりの衝撃にぼくは一瞬で凍りついたのだ。凍った次には瞬時に融けて、激しい熱とともに蒸発したのだったか。
 そう。そうだとも。思い出した。あの夏はそういう夏だった。──

 ぼくは溜息以上の深い吐息とともになんとか気持ちを(なだ)め、視線を前に固定した。(りょう)くん、どうしてだよ、という思いが幼い自分の声となって心の中を駆け回っていた。
 ぼくはあの夏の苦い記憶を何度も消し去ろうとしたはずだ。別のもので上書きしようとしたはずだった。けれどもできなかったのだ。そして思い出すたびにあの白いパンツを脳裏に思い描いてしまうぼくは、苦さ以上の恥ずかしさに(おのの)き、最後には耐えられなくなり、結局は強引な手段で自分の記憶に蓋をしてしまったというわけだ。それは本能がそうさせたというより、理性が保身のために敢えてそれを選んだのだということも今ならわかる。
 あの頃のぼくには、それ以外の選択肢がなかったのだから。
 そうして忘却の小箱に入れたその夏の思い出は、何年もかけてゆっくりとぼくの中の海に沈んでいった。
 けれども、どうやら涼くんの方は違ったらしい。ぼくが恥ずかしく甘酸っぱいあの夏をなかったことにしたのとは反対に、涼くんはあの夏を何年も何年もかけて意識の底で咀嚼し続けたようなのだ。
 ぼくは不思議に思って首を(かし)げた。
 ここまでぼくらは真逆の性格をしていたのだろうか。いや、そうだったのかもしれない。涼くんはぼくとは違い、いつでも特別なのだ。そう無理矢理納得させた。
 それからぼくは、溜息とともに軽く頭を振った。振ったくらいでは目の前の現実は消えてくれない。驚きを通り越して感情がぐちゃぐちゃしている。ぼくは振った頭を真っ直ぐに戻し、あの時見た彼女のように唇を真一文字に引き結んで顔を(しか)めた。
 二十年の時を経た今になって、あの過去が容赦なくぼくの前に現れたのだ。あの時と同じ、いや、あの時以上に暑苦しい日々の続く夏の日曜日、夕暮れの明かりが差し込む画廊の一角に。
 銀座の画廊の一角を借りて開かれた小さな個展の会場に。
 一年前にとある美術館が主催した絵画コンクールで入賞を果たした涼くんの、その(ささ)やかな個展の展示物のその中に。
 まったく、とんでもない不意打ちというほかはない。
 こんな事態は想像さえしていなかった。
 まさか咀嚼し続けた思い出がすっかりと涼くんの体内に吸収され、血となり、肉となり、彼の指を動かして再びぼくの前に戻ってくるなんて。
 こんなこと想像できるはずがない。ぼくは不満の気持ちを押し殺して、それでも意地を張るように正面を見つめ続けた。
 そこにある一枚の油絵。タイトルは『桟橋に立つ少女』。
 彼女だった。()(なつ)がそこにいた。
 それに気付いた瞬間からぼくの封印の小箱は「存在を思い出して」と激しく主張を始め、ぼくの心の準備と許可を待たずにがばりと勢いよく蓋を開けてしまったというわけだ。そして飛び出した無数の記憶と痛みを飲み込んだ海が濁流となってぼくのすべてを翻弄し、そんな荒波の中で揉みくちゃにされながらもぼくは、この絵を見つめ続けることを余儀なくされていた。
 どんなに目を背けても、すぐに視線がここに戻ってきてしまう。それくらいの衝撃と余りある魅力をこの絵は確かに(たた)えていた。
「……ほら、君は気に入ってくれると思ったんだ」
 と、ぼくが彫像のようにその絵の前に立ち尽くしていることに気が付いた涼くんが、そう言いながらゆっくりとぼくに近付いてきた。声を掛けられたことでわずかに身構えたぼくはぎくりと振り返り、
「普通、こういうところには……」
 と、辛うじて残った理性の火を灯して声を絞り出し、苦々しい顔を涼くんに向けた。
 画廊の一番奥。中央。最も目立ち輝く場所。そこに飾られた一際(ひときわ)大きな人物画。
 発表済みの作品じゃないことはすぐにわかった。ぼくは涼くんの描いた絵のことなら一通り頭に入れていたつもりだし、こんな絵があると知っていたらもっと早くに動転していただろう。そしてきっと、今日の個展には顔を出さなかったはずなのだ。
 それにしてもこの絵はなんだろうか。未発表の作品を個展のためにアトリエから出してきたのだろうか。それとも、個展に合わせてわざわざ新しく描いたのだろうか。
 最初の衝撃が去ったぼくの頭の中に残ったのはとんでもない違和感だった。
 千夏の絵がそこにあるから感じたものではない。そもそも涼くんは風景画を専門にしているから、彼のこれまでの発表作品に人物画なんて一枚もなかったはずなのだ。そして何よりもの謎は、涼くんがどうしてこの絵をここに飾ることにしたのかということだ。いくらなんでもおかしい。そう思った途端にぼくは不貞腐れた気持ちになった。だってこういう場所であればこそ、普通なら……「賞を取った作品を飾るものじゃない?」
「うん確かに、一般的にはそうなんだけど……」
 ぼくに言われて涼くんは恥ずかしそうに頭を掻き、静かにぼくの横に並び、ぼくから視線を外してその絵を見つめた。言い訳のような小さな声がぽつりと(こぼ)れたのは、それからしばらく経ってからのことだ。
「ぼくはね、それでもこれを中央に飾りたかったんだよね」
「どうして?」
 問われて振り返った涼くんは、雄弁に瞳を輝かせて頷いた。「あっくんがびっくりすると思ってね」
「だからなの?」
 ぼくは言う。
「何が?」
 と、涼くんは首を傾げた。
「だから」と、ぼくはもう一度言った。「涼くん、何度も電話してきたじゃないか。今日、ぼくがここに来れるか来れないか」
 それを聞いた涼くんは、無言のままにやりと口角を上げる。その意味深な表情を見てしまえば、ぼくも「ああ、もう、意地悪だな」と、そんなことを(つぶや)きながら視線を正面へと戻すしかない。
 ほら、どうしても視線はここに戻ってしまう。吸い寄せられるように視線は絵画へと戻っていく。たった数分の間に、ぼくはすっかりこの絵の(とりこ)になってしまっていた。
 桟橋に立つワンピース姿の少女。
 体にぴったりと貼りついたずぶ濡れのワンピース。
 透けた服の下にはツンと上を向く胸の膨らみ。
 そのあまりの印象深さに、ぼくはどうしても彼女の胸から目を逸らすことができなくなる。これはぼくの記憶にはない光景だった。涼くんだけの記憶の情景なのだ。子供のぼくが見ていなかったその景色が、涼くんの手を伝って大人になったぼくの前に立ちはだかったというわけか。
「つまりあの時、涼くんは千夏の胸ばかり見ていたってこと?」
「え? 胸?」
 と、驚いたように涼くんは目を(みは)り、それからすぐに、「ああ、そこね」と、何かに合点したような顔をしながら(うなず)いた。
「そうだよ。ぼくはあのおっぱいに釘付けだった」
 仕方ないでしょ、と、それから涼くんは弁解をするように笑った。「あの頃は、ぼくだって君と同じように思春期の業火に焼かれていたんだよ。あれがぼくの中で初めて出会う(なま)めかしさだったんだ。そしてあれを超える官能的な美しさにぼくはまだ出会ったことがない。あれはぼくの出会った最初の本物だった」
 などと言いながら、涼くんは意地の悪い顔をぼくに向けた。
「あっくんのパンツと一緒でしょ?」
「でもパンツは一瞬だった!」
 ぼくはびっくりして思わず声を上げ、その瞬間に周囲の人々の視線がこちらに集中したことを感じて身を(すく)めた。ぼくは声を(ひそ)めて不平を漏らす。
「なんだよ、あの時はぼくのこと散々笑ったくせに、そんな涼くんは彼女のおっぱいしか見ていなかったんだね?」
「思春期のど真ん中で自分という存在にまだまだ狼狽(うろた)えていたあっくんより、ようやく自分に諦めがついて思春期の出口を模索していたぼくの方が大人だったし、存分にエロかったわけだよね?」
 涼くんは目尻に笑みを湛えたまま絵に視線を戻した。
 ただひとり、少女だけが描かれた絵。
 海も空も何度も塗りこまれて白に戻っていた。少女の上をまたいだ流線型の美しいイルカの姿も、光り輝いた水飛沫も、あの時感じたふわりとした気持ちの揺れ動きや時の流れでさえ、全部この白い絵の具の下に隠されているのかもしれない。
 本当はあるんだけど、秘密なんだ。
 あの夏はぼくたちの秘密だから。
 だから涼くんはわざと消したのだ。
 ぼくにだけわかるように、わざと、消したのだ。
「仕方ないよ」
「仕方ないか」
 ぼくたちは銘々に呟き、含んだように笑った。
 千夏。
 そう絵に呼びかけると、絵の中の千夏が笑い返したような気がした。ぼくは目を閉じ、静かに深い息を吐き出した。
 あの夏、ぼくは無限の一瞬を空に捧げ、抱きしめるには重すぎるあの思い出を海の底に沈めたのだ。
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登場人物紹介

嶋末昭利(しますえ・あきとし)

 主人公。従兄姉たちからは「あっくん」、千夏からは「あきちゃん」と呼ばれている。

 中学3年時の千夏との思い出を拗らせたまま大人になった。

 田中匡樹の高校時代のクラスメイト。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

それは空の下 海の上 あるいはぼくらのこの手の中

千夏(ちなつ)

 昭利の祖父母の家の2つ隣の家に遊びに来た少女。

 昭利に大きな影響と傷を与えた。


(登場作品)

それは空の下 海の上 あるいはぼくらのこの手の中

嶋末涼(しますえ・りょう)

 昭利の従兄。画家。


(登場作品)

おかしな神社の不思議な巫女たち

それは空の下 海の上 あるいはぼくらのこの手の中

ばーちゃん:

 昭利の祖母。引っ込み思案の昭利にとって、一番の理解者だった。


(登場作品)

それは空の下 海の上 あるいはぼくらのこの手の中

嶋末紗江(しますえ・さえ):

 昭利の従妹。


(登場作品)

それは空の下 海の上 あるいはぼくらのこの手の中

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