後編(了)

文字数 7,004文字

 青い空。白い雲。
 ただそれだけが永遠と続いて、私はその中を翼を広げて飛んでいた。
 きっと願望の具現。背から伸びたそれは、赤くてあまり可愛い見た目ではないけれど、間違いなく翼だ。
 なんとなく、夢の中にいることはわかっていた。明晰夢というものなのだろう、意識ははっきりとしていて何なら現実より明瞭な気すらする。
 この空は下を向いてもどこまでも青くて、地面が無くなってしまったかのようで。刹那に見てしまったあの景色を無限にコピーして貼り付けたようで。
 いや、事実そうなのだろう。私の記憶には、あの忌々しい青しかないのだから。
 重たい翼をはためかせる度に赤い羽が舞う。それは私を追い越して、継ぎ接ぎの空の向こうへと消えていく。
 そこでやっと私は、飛んでいるのではなく"落ちている"のだと気が付いた。
 墜落、どこまでも無限に。
 かのイカロスは無茶な挑戦をして太陽の前に羽を溶かされたという――この空に太陽はないけれど。
 落ちていく羽に目を凝らせば、それは羽なんかでは無く焼け焦げた灰だということがわかった。
 翼が消えていく。私の体も灰になっていく。まるで自分という存在が徐々に小さくなっていくように、パラパラと。
――夢ですら、自由はなかった。
 目を覚ました時既に部屋は薄暗く、僅かに零れる月明かりだけが床を照らしていた。早い時間に寝てしまったからだろう、変な時間に目を覚ましてしまった。
 月明かりは冷たいなんて言われるけれども、私にとっては唯一浴びることを許された自然の光だ。
 けれどあの包み込むような光の元にすら、自力では辿り着けないのだと思うと、酷く憂鬱だ。
 
「……変な夢だったなぁ」

 青空の夢を見るだろうとは思っていたけど、あの赤い翼は何だったのだろうか。やはり深層心理の奥深くに根付く、自由への渇望の発露なのか。
 しかしそれにしては、あまりに具体的な形として現れたように思える。そんな本も映像も、見たことはないのだけども。私にとって赤といえば、この腕に繋がれた点滴であるし。

「そう言えば、これってなんなんだろう」

 容器を満たす赤い液体。無理やり引き抜いた時に腕から流れた血液と同じ色をしている。
 けれど血が足りていない訳では無いから、きっと何らかの栄養剤なのだろうけど。自分の体のことなのに、あまり多くは理解していなかった。
 虚弱体質やアルビノのことを知ってから、それ以上を知ろうとしてこなかったのだから仕方もないのだけれども。だって仕方ないじゃない、知ることこそ罪の私にとって、知識なんて自分を苦しめる毒にしかならないのだから。
 もしかすれば、自身でも知らない病気に掛かっていることすら有り得るだろう。神さまに見放されているから。

「これ以下になんて、ならないけれどもね」

 例えどんな難病だとしても、私はこの箱の中でしか生きられないことには代わりがないのだから。
 夢の感覚がやけに色濃く残る。未だに背中に翼が生えているかのようにむず痒い。けれど人間に翼なんて有り得ない訳で。
 たとえ悪夢だったとしても、あの夢幻に囚われていれば私も飛べたのだろうか。
 いや、あの夢は神さまからの警告だ。この身体の枠を超えて願った私を咎めていたのだろう。
 無謀な行いは己が身を焦がすだけである、と。
 
「想い描くことすら、奪わなくてもいいのに」

 最早メルヘンな幻想は想い描けない。想像よりも遥かに鮮明な"青"が私の現実を塗り潰したから。
 右の手首が痛む。無理やり点滴を引き抜いた痕は、今はガーゼで手当されて隠されている。
 それをゆっくり剥がしてその下を見れば、僅かな裂傷が残っている。きっと明後日には塞がってしまうだろう。
 私の小さな小さな冒険、その唯一の軌跡ですら二日で無かったことになってしまうのだ。

「私が生きる意味って、何なのだろう」

 暗がりに呟いても何が返ってくる訳でもなくて。静寂が『お前に価値無し』と言っているようだった。そんなことはないと否定したかったけれど、私自身が自分の価値を見いだせなくて。
 今この瞬間に私という存在が消えてなくなったとしても、それでも世界は正常に回り続けるとしか思えなくて。歯車ですらないのだと自覚しただけであった。
 例えばこの右腕の点滴を再び引き抜いてナースコールをすれば、私は必要とされるのだろうか。
 また体を床に投げ出せば、この存在を認められるのだろうか。それが例え迷惑でしかないとしても、その瞬間にこの身を観測してもらえるのなら――この存在に価値はあると言えるのではないだろうか。
 そんなことはないと理解していても、空想することを奪われた私は不確かなことに縋らなければ生きることが出来ない。
 想い描くことを奪われた人間は、ただの人形になってしまうから。
 点滴の管を掴む。引き抜く時は痛いだろうけれども、それだけでここに居ると認められるのなら。
 指が震えて上手く力を込めることが出来ない。昼間はなんの躊躇いも無かったのに。
 
「……大丈夫。だってさっきは出来たんだから……大丈夫、大丈夫……」

 そう自分自身に言い聞かせても、震えは収まらなくて。このまま無理やり引き抜けば、大きな傷になってしまうだろうと、傷付くことなんて最早怖くないはずなのにそんなことを恐れてしまって。結局管から手を離した。
 こんなことすら出来ないほどに、私は矮小無価値だったのか。あの青は、空想と共に勇気をも奪っていってしまったらしい。
 或いは夢想自体が勇気そのものだったのかもしれない。きっとそうだ。
 
「……空っぽね」

 私という存在は"夢想すること"によって構成されていて、それを奪われた時に自分ですらなくなったのだろう。残された"これ"は白ですらない無色の抜け殻なのだ。きっと今なら鏡にすらこの姿は映らないだろう。
 点滴が落ちる。いっそこの赤色に染まってしまいたいと思った。この袋を破って中身を浴びれば、私は色付くことが出来るのだろうか。
――ホー、ホー……。
 梟の鳴き声が響く。それは私を哀れんでいるかのように聞こえた。

「本でも、読もうかな」

 スタンドライトの明かりをつけて、枕元に積んである文庫本を一冊手に取った。一週間に一度親が買ってきてくれる小説は、私の世界を広げる数少ない手段だった。
 私の世界はもう、あの一色に染められてしまったのだけれども、気晴らしにはなるだろうか。
 未読だったその小説は吸血鬼の女の子の話で、日光を浴びられないということに親近感を覚える。
 決して陽の光の下には出られない主人公の女の子が虹を見る為に旅をするというストーリーで、その旅路で色々な素敵なものと出会い、最期には虹を見ながら『次の人生があるならこの想い出を、陽の光で照らしてあげたいな』と呟いても灰になってしまうのだ。
 一緒に旅をした青年が様々な試行錯誤をして、どうにか彼女が消えてしまわない方法で虹を見れるように努力していたのにも関わらず、だ。
 あんまりだ。こんなの誰も、救われていないじゃないか。
 だけど、私には女の子の気持ちが痛いほどにわかる。目の前に、手の届く場所に想い描いた理想が落ちていたら、例えそれが罠だとしても私は手を伸ばすだろう。
 伸ばしたその先に転がっていたのが太陽で、眩しすぎてこの身を焼き尽くすとしてもだ。
 次の機会を待つことなんて出来る訳が無い、だって今までも待ち続けていたから。夢想し続けて居たのだから。
 青年にとっては"次がある"としても、女の子にそれがあるかどうかは分からないのだ。夜にしか歩けない彼女は、虹を探すことが出来ないのだから。
 逃してしまえば、二度とカーテンが揺れることはないのだ。だから女の子はその身が灰になることを知っていながらも虹を――夢を叶えたのだ。
 嗚呼、ダメだ。この物語は今の私には魅力的に過ぎる。だって、二度と訪れることが無いかもしれないチャンスで命を賭した彼女と違って、少なくとも私は火傷や病魔に犯されることはあっても直ぐには死なないのだから。
 青色に染められた筈の夢想が疼き出す。このままここに居てもどうせあの空にうなされるだけだというのなら、外に飛び出して世界を知りたいだろう、と。
 部屋の隅の車椅子。せめてこの病室の中でだけでも動ける様にと親が買ってくれたそれは、絶望しか与えてはくれなかったけれど、私に覚悟が足りなかったからなのだろう。あれにさえ乗れれば、ここを飛び出すことすら出来るはずだ。
 次は誘われたからでは無い。この意思で、外の世界を見てやるのだ――ッ!
 廊下で足音が響く。この聞きなれたリズムは、いつもの看護婦さんだ。間も無くして扉が開かれた。

「おはようございます、起きていたんですね。体調は大丈夫ですか?」
「はい、先程はご迷惑をお掛け致しました」
「あれはこちらの不手際ですから……これからは私以外には換気を任せないようにしますので」

 窓を開けたままにしたのは、この人とは別の看護婦さんだ。きっとかなり怒られただろうけど、その看護婦さんには感謝しなくてはいけないな。

「うん、特に異常もなし。それでは――」
「待ってください。お願いがあるんです」
「お願いですか?」

 バイタルの検査や点滴の入れ替えを終え、退出しようとしたのを引き止める。心臓の鼓動が速くなっているのを感じた。
 この喉の奥で言葉が詰まる感じが、緊張というものなのだろうか。

「車椅子に、乗せてほしいんです」

 驚愕で理解が追いつかないだろう、固まってしまっている。車椅子に乗りたいと言ったのは初めてであるし、向こうから見れば私はいつも暗い女の子だ。
 
「ダメ、ですか?」
「そんなことはないです! やっと、なんですね」
「な、なんで泣くんですか……」

 看護婦さんの目尻で雫が煌めいていた。
 もう十年以上もの付き合いがあるけども、涙なんて見たことは無かった。 

「嬉しいからですよ。少しでも前に進もうと思ってくれたことが」

 少しどころではない、とは言えない。外に脱走してやろうと考えているなんて口に出せば、止められてしまうのはわかっている。
 私なんかのことで泣いてくれる彼女には申し訳ないとは思うけれども――もう決めたことだから。
 腰に回された腕は、この体とは違い暖かかった。
 持ち上げられた体が車椅子に降ろされる。

「動かし方は分かりますか?」
「大丈夫、ですっ」

 車輪に手を掛けて、前に押し出す。電動の補助があるとはいえ、この細腕ではそれなりに重たかった。少しずつ、動いていく。たったそれだけなのに、感動してしまう。
 私自身の力でも、前に進むことが出来るんだ!
 
「今日は遅いので、これ位にしておきましょう」
「……はい」

 車椅子をベッドの横に停めて、自力でベッドに戻る。部屋の中は何も変わらないというのに、白地すら輝いて見えるようだ。

「また明日、一緒に頑張りましょう!」
「はい、よろしくお願いします」

 この会話が守られることはない。深夜にここを飛び出すから。この看護婦さんは、私が居なくなったら悲しむのだろうか。
 例えそうだとしても、決意が変わることは無い。吸血鬼の女の子のように、夢を追いかけたいから。
 足音が遠がかっていく。間も無く消灯の時間だ。深夜の見回りはあるが、此処は特殊病棟――頻度は少ない。
 それでも一時間に一回は警備員が通るのだけれども、それだけの時間があればきっと大丈夫だ。
 夜であれば、日光で火傷することもないし。
 照明が消える。消灯だ。

「――よしっ」

 車椅子に乗り込み、ベルトを締める。楽しいドライブの始まりだ。
 早鐘――ドアノブに震える手を掛けた。
 開けばその瞬間から、病魔に犯され始める。どれだけの景色を見ることが出来るかは時間との戦いだ。
 
「3――」

 息を吐き出す。

「2――」

 ノブを捻る。

「1――ッ」

 息を吸い込む。

「――ゼロッ!!」

 点滴を引き抜きドアを思い切り押し開けて、部屋を飛び出す。ここは都合のいい事に一階、一気に外まで――。

「君! 止まりなさいっ――!?」
「邪魔ッ!」

 警備員なんかに私が止められるかッ!
 電動のアシストも加えて廊下を駆け抜け、警備員を抜き去る。一度は私を絶望させたこの重量が今は頼もしかった。
 伸びるように加速、ぐんぐんと。そのままエントランスを抜け外へ――。

「なんで、なんで開かないの!?」

 何故か開かない扉。自動ドアの筈じゃ。
 ボタンを押しても手をかざしても開く素振りを見せず、やがて警備員が追いついてくる。

「……その扉は電気制御。朝まで、開かないよ」
「嘘、だ……」

 また、なのですか。神様。
 貴方はそんなに、私を嘲笑いたいのですか。
 籠の中の小鳥だって羽を動かすことは出来るのに。その狭い中でも飛び回ることは出来るのにッ!
 
「……部屋に戻りなさい。君のことは言わないでおくから」
「…………」

 月明かりはこの身体に届いているのに。たった一枚のガラスに阻まれて、あの空を見上げることすら許されないの?
 ただ一つ、純粋な悔しさの感情を込めて自動ドアを殴り付けた。

「どうして、どうして……」

 それでもガラスすら揺らすことの出来ない拳。叩きつけても叩きつけても、割れるわけなんてなくて。ただ、痛い。心が、痛いよ。
 どうせ閉じ込められるのなら、せめて、病院の前の景色だけでもこの目に――。

「……あ、れ……?」

 夜闇を背後に、ガラスが鏡のように警備員の姿を映している。警備員の姿"だけ"を。
 直ぐ近くに居る私の姿は目を凝らしても映っていない。車椅子は映っているのに。

「あ、あ、あ……ッ!?」

 警備員の様子が何だかおかしい。まるで怯えているような、理解出来ないものを見ているような。
 背中が、熱い。
 心臓の音が煩い。
 右腕から流れる血が――勿体ない。
 
「……そっか、そうだったんだ」

 赤い点滴は紛れもなく血液だったんだ。私はアルビノでも虚弱体質でもなんでもなかったんだ。下半身不随だけが本当のこと、否、"不随にされた"のかもしれない。私を病室に留める為に。
 血液、日光に弱い、鏡に映らない――そんな存在を閉じ込める為に。

「人間ですら、無かったなんてッ!」

 服の背を突き破り、赤い双翼が現れる。
 月明かりを背に受けたこの姿は正しく――吸血鬼。
 警備員は気絶してしまっている。非現実的な光景を見たのだ、無理もないか。
 何より私自身の理解が追いついていないけど、それよりも手に入れた自由に気分が高揚していた。この世への不条理も神さまへの怒りも全て、この翼を広げた時に吹き飛んでしまったようだった。
 そう、今ならあの窓からだって飛び出せる。何処へだって行けるっ!
 病室へ飛ぶ。締め切られたカーテンを思い切り開け放って窓を開いた。
 涼しい風が心地良い。エアコンとは全然違う自然の風だ。
 十数年此処にいて、一度も見たことがなかった外の景色。海が見える病院だってことも今初めて知ることが出来た。
 窓から体を乗り出して、飛び出す。とび方なんて知らなかったけれど、今正に自由の体現者となった私にはそんなことは枷にもならない。
 住宅地を飛んで、夜遊びをしていたお兄さんを驚かせて。公園のブランコの間を抜けて、そして砂浜に出た。
 憎き空の色とは全然違う、深くて落ち着いた青色が何処までも広がっている。今なら神さますら許してしまえる、そんな気がした。
 潮風と波の音。私の吐息より透き通って、バイタル音より不規則で――故に心地良い。
 吸血鬼という存在は、日が当たると灰になってしまうらしい。ならば私はもう、そんなに長くは生きられないだろう。
 けれど、急に飛び出したことを後悔はしていない。そうしなければ結局、私は永遠に"死に長らえる"ことになっていたのだから。
 戻ることも出来ないし、何より隠れて生きるのはもう嫌だった。
 
「世界は広いんだね……」

 生きている間に見て回れるのなんてきっとほんの僅かでしかなくて。折角自由を手に入れたのに、それは少し残念だった。
 吸血鬼と言うからには吸血で生き長らえることが出来るのかもしれないけれど、私は人間として生きてきたのだ。せめて心は化生には落ちたくない。
――だから、私はここで終わろう。
 このまま朝日を待って、灰になって砂浜と一緒になるのだ。そうすれば、波に攫われて色んな所に行けるから。
 世界の何処かにはきっと、青い鳥だって居るのだから。どれだけ長い長い時間が掛かろうと、何時か出会えると信じて。
 私は自ら、希望の為にこの翼を溶かすのだ。

「海は全てに繋がっているから」

 
――ある朝、天から幾重もの光が砂浜に射していた。空気中の塵に反射して砂浜全体が光り輝くその景色は光のカーテンが幾重にも揺らめいているように見えて。
――『カーテンの庭』と呼ばれたという。
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