2章

文字数 11,190文字

 【ホースト・ビジョン】
 東京代々木に事務所を構える声優事務所である。
 社長室。艶やかな木製の家具が並ぶ。木の匂いがぷーんと部屋中を漂っている。アリセ、サキ、ミル、マコの4人は社長の前に一列で並んでいた。
 重々しい空気。皺のないツイードの背広をきた中年男性。社長の牛島が静かに口を開いた。
「競艇場のイベント、降ろされたから」
「えー!!」と意外そうな顔をするアリセ。「あんにゃろう」と憤るサキ。「やっぱりな」と淡々と言い放つミル。泣き崩れるマコ。4者4様の反応。
「どうしてですか?約束では5月いっぱいはやらせてくれるって」
 一歩前に出るサキ。
「昨日、トラブルを起こしたそうじゃないか」
「あれは、アリセがうまくワンカップの瓶を避けれなかっただけで!!」
 反論をするサキを牛島は冷たい目で見る。サキはその反応を前にし、声を収めて一歩下がった。
「それが無くてもクアトロのショーによる集客力はほぼ0だそうだ。それではギャラは払えんというわけだ」
 牛島はそっと椅子から立ち上がった。
「まぁこれにめげずに頑張ってくれよ。どんどん下の世代で勢いのいい新人が出てきている。君らもカッカしないと危ないぞ。この世界はそんな甘い世界ではないのだからな」
 横に並んだ四つの顔。しょんぼりとしぼんでいた。


 加藤実瑠が高2の時、担任教師と今後の進路について2者面談を行った。
「私、大学には行かず声優になろうと思います」
 ミルは平然と淡々と、まるで業務連絡のような口調で言った。担任教師は口をあんぐりと開けるしかなかった。
「高3になったら受験勉強はせずに声優の養成所に通おうと思っています」
 ミルの学校は進学校。ほとんどの者が大学に行く。ミルはその中でも学年トップの成績を納めている。東大合格すら順当な位置にある。そして生徒会にも属し真面目に活動を行う、優等生中の優等生だった。
「なぁ加藤……なんでだ?」
 担任教師は汗を拭きながら聞いた。
「私、今まで先生にもみんなにもそんな素振りは見せたことがなかったので、意外かもしれませんが、実はアニメーションが大好きなんです。そして、どうしても声優になりたいと思ったんです」
 シンプルにミルはそう答えた。このセリフにいっさいの嘘も誇張も入っていない。そして彼女の視線は力強い。
 担任教師は「……そうか」としか言いようがなかった。

 ミルのはじまりは中2の時にした夜更かし。たまたまテレビに映った深夜アニメーションが異常に面白かった。すぐにネットの検索サイトをフル稼働させ、ガシガシキーボードを叩いていた。
 知的好奇心の申し子。アニメーションそのものに関して、それをとりまく環境について、調べて脳みそに取り入れている内にすっかり魅入られてしまった。
 長身でクールな黒髪美少女は日々レンタルショップでアニメソフトを借り、日々ネットで考察サイトを閲覧し、日々関連書籍とにらめっこする日々が続いた。
 ミルがアニメグッズなどには興味をしめさず、ひとりひっそり知識欲を楽しむタイプであったことから、誰も彼女がアニメオタクであることに気がつかなかった。友人や家族ですらである。
 周囲の唖然をもろともせず、高3になると同時にミルは声優の養成所に通い始めた。
 最初のオリエンテーションの時、ひどくミルは落胆した。あまりにも他の養成所生たちにやる気が見えなかったからだ。
 自分の二つ左に座った、養成所に入っただけで自分がプロの声優になった気分に浸り、白昼夢らしきものを見ている、いかにも脳みそお花畑な女の子。自分の左隣に座った、緊張で今にも泣き出しそうな怯えきった表情を浮かべる金髪ハーフの女の子。特にこのふたりは論外だと思った。
 まわりの皆がふわふわとほうけた雰囲気であったことがミルを落胆させた。ぺちゃくちゃだらだらとだべりまるで緊張感がない。眼差しに熱い気持ちがない。きっと真剣ではなく人生の時間つぶしにここに来ているのだろうなと思った。まぁ、感情を表に出さない私もまわりからはそう見えているのかもしれないが、とも思ったが。
 右隣の席に至っては空席だ。大事な最初のオリエンテーションなのにも関わらずだ。はぁとため息をつくミル。なんだ、こんな所か。落胆を隠せない。
 オリエンテーションも中盤、こそこそと自分の右隣の席に腰掛けようとする人物がいることに気づいた。
「まじぃまじぃ、いきなり寝坊っちまった」
 独り言が聞こえる。迷惑そうに目をやるミル。このダレた生徒たちの中でも一番の不届きもの。その顔を拝んでやろうと、ミルは視線を向けた。
 ミルはハッとした。
 そいつの眼差しが他の誰よりもギラギラとしていた。その相手は、ミルの視線に気づくとにこりと笑って言葉を返した。
「あっ、悪りいな、騒がしくて」
「……ああ」
 なぜかミルは気恥ずかしくなってしまった。
「私は木塚咲って言うんだ。これから一緒に頑張ろうな」
 無造作に手が差し出された。苦手なタイプ。そして苦手なタイプのコミュニケーション。それなのにミルは、その手を握りかえして言ってしまった。
「加藤実瑠だ。今後よろしくな」


「なんだよ、あのシャレオツくそダンディー!!説教するくらいだったら仕事の一本や二本あてがえってんだ」
 ハイボールを片手に憤るサキ。二日連続の居酒屋。しかもまだ外は明るい。
「サキちゃん。『シャレオツくそダンディー』って微妙に悪口じゃなくない?いや、悪口じゃなくていいんだけどさ」
 口を挟むアリセ。
「ごちゃごちゃうるせえよ」
 パシリと頭を叩く。
「ちょ、かさぶたできたばっかなんだから叩かないでよ」
 大げさに頭を庇うアリセ。
「おいサキ、社長は良くしてくれてると思うぞ。競艇場の仕事だって社長が頭を下げて取ってくれた仕事だ」
 ミルが冷静にいなす。彼女はコップを片手に目をテーブルの下に落とす。股の上には本が乗っていた。
「なんだよミル。てめえあのシャレオツくそダンディーの肩を持つのか?」
「だから『シャレオツくそダンディー』って悪口じゃないって」
「事実を述べただけだよ。仕事が来ないのは、単に私たちにもう商品価値が無いからだ」
 ミルの言った言葉。実にミル的な言い方だった。
「商品ってなんだよ?人をモノみてえに言ってんじゃねえよ」
 サキはそれが気に入らない。
「モノなんだよ。私たち声優はその身自体が商品なんだよ。だから用済みになったらそれまでってこと。残酷だが当たり前のことだ」
 ドンッ!!机の上の食器が震える。ビールの表面が波立つ。立ち上がったサキは思いっきり平手を降ろしていた。
「ミル……イラつくんだよ……。お前の、世の中全部がまるっと見通せています、みてえな上から目線の発言がよお」
 サキの目は座っている。マコは嫌な予感をいち早く察知し「ひっ」と身をひいた。
「サキちゃん、怒らない怒らない。飲も飲も。私たちは仲良し4人組のクアトロプリンセスなんですから。あ、そういえばミルちゃん。さっきから何の本読んでるの?」
 アリセが明るい声で聞いた。
「ああこれ、英語の参考書だよ」
「え?」
 なぜミルがそんなものを読んでいるのか全く分からないアリセ。絵に描いたようなマヌケ面でぽかーんとする。
「ああ、最近異常に暇なんで大学にでも通おうかと思ってな」
 ミルは視線を本に落としたまま言った。
「「え、ホント!?大学!?スゴイ!?頭イイ!?」」
 アリセとマコが声をハモらせて褒める。
「まだ入学してもいないよ。受験勉強をはじめたばかりだ。数年間ブランクあるんで大分キツいがな」
 ミルの言葉を受けて羨望の眼差しをかけるアリセとマコ。
「大学に入ろうとするだけですごいよ。私英語の教科書見ただけで卒倒してたタイプだから」
「私も……英語で50点以上取ったことない……」
「え?マコちゃんハーフなのに!!」
 アリセが驚く。
「うん、お父さんアメリカ人だけど暮らしてたのはずっと日本だから。それに性格も暗くて人見知りだから、偽アメリカ人って呼ばれてた……」
 過去を思い出して急に落ち込むマコ。
「あわわ、いいじゃん別に何人だってさぁ」
 よくわからないフォローをするアリセ。サキは3人のやり取りを静かに見ていた。コップをこつんと机に置くと、黙ってられないとばかりに口を開いた。
「ミル、てめえ何考えてんだよ?」
 突き刺すような声。アリセとマコの表情が固まった。ひきつった笑顔で。
「……」
 ミルは黙っている。
「お前……やめるつもりか……声優?」
 アリセとマコの顔が揃ってどよりと曇った。
「別にやめるつもりはないさ…ただ最近あまりにも空き時間があってな。それならそれを有効活用しようと思っただけだよ」
「おいおいミル。お前らしくねえじゃねえか。そういう下手な取り繕いは一切しないのが加藤実瑠様だろう……」
 サキは前のめりになってガンを飛ばす。
「はっきり言えばいいじゃねえか。もうてめえらと一緒にバカやってるのはうんざりだ!!自分は一抜けしますってな!!」
 サキはミルの目をじっと見据えている。ミルはその目をいっさい見ない。
「サキ、お前もわからんなあ?どうせ毎日こうやって酒を飲んでぐちぐちやってるだけだ。その時間を有効活用したいだけだ」
 ミルの口調はまるで起伏がない。
「そう言って、てめえは声優を辞めちまうつもりだろうが!!」
 反してサキは激昂していた。
「ねぇねぇサキちゃん、別にミルちゃんやめるなんて一言も言ってないよ」
 アリセはふたりの間にたって取りなした。
「ああ、その通りだよ」
「へ?」
 アリセの背中から聴こえた肯定のセリフ。
「私たちはもうどん底だ。そしてそこからはい上がる目は限りなく薄い。別段技術があるわけでもルックスがいいわけでも、何かコネがあるわけでもない」
 ミルの言葉の温度が上がっていく。
「サキ、お前も色々考えた方がいいんじゃないか?」
 ミルは今日はじめて、サキの目を見た。
「てめぇ!!」
 サキは烈火のごとく怒った。テーブルに飛び乗り、ミルの胸ぐらを掴んだ。勢いで、いくつかの食器が激しく床にぶちまけられる。
「もういっぺん言ってみろ。要するに私たちが声優としてもう終わったってことだろ、てめえが言いたいのは?」
 サキがミルにグッと顔を近づける。
「おいおい、はっきり言わなきゃわかんないのかド低脳」
 珍しくミルがサキに買い言葉を示した。
「……なにぃ?」
 サキの顔に青筋がたった。アリセ、今度は無理やりふたりの間に割って入る。
「サキちゃんもミルちゃんもやめてってば!!ほらほら、私たちは仲良し4人、クアトロプリンセスでしょ」
「はわわはわわ」
 マコはただただ、口元に両手をやりうろたえている。
「クアトロプリンセス……?」
 サキはアリセのその言葉に反応する。
「そんなもん、とっくの昔に終わってんだよ!!」
 サキは床に灰皿を叩きつけた。灰皿は床をバウンドしてゴロゴロと転がる。彼女はそれを尻目に店の外へささっと出て行ってしまった。
「はぁあ……今日は解散だな」
 あくまで冷淡に。ミルも身体についたタバコの灰をパンパンと払い、店の外に出ていった。
「サキちゃん、ミルちゃん、機嫌直してよー!!」
 アリセが慌てて二人を追いかける。
「はわわ。はわわ……」
 気がついたらマコがひとり店に取り残されていた。ぐちゃぐちゃにぶちまけられた料理と酒。割れた食器。かき乱された心。彼女は立ちつくすことしか出来なかった。
 ぽんぽん。
 誰かがマコの肩を叩いた。
「はわ?」
 ゆっくりと振り返る。
「あのー、すみませんもろもろのお会計をお願いしたいんですが?」
 背の小さな丸顔のおっさん店員、そっと伝票を渡した。マコはゆっくりその紙に目を通した。
「…………。はうわっ!!」
 マコはショックのあまり固まった。食事代に、食器の弁償代金。記載された伝票の額は多大なものだった。


 外はいつのまにか雨になっていた。どしゃ降り。結局ふたりを止めることができなかったアリセ。傘も刺さずに歩いていた。びしょ濡れの彼女は幽霊のように街を素通りした。

『クアトロプリンセス?そんなもん、とっくの昔に終わってんだよ!!』

 サキのセリフがずっしりと重りとなってのしかかっていた。自然と彼女の首を下へ下へともたげさせる。前髪から水玉がぽたぽたと滴った。
 サキとミルのケンカは別に今日がはじめてではない。というより彼女たちの小競り合いは日常茶飯事で、ひとつも珍しいことではない。アリセが冷や汗を流しながら仲裁するのもいつものことで、翌日には何事もなかったかのように軽口を飛ばしあっている。だからこそアリセは彼女たちのケンカに深く問題意識を抱いたことはない。けれど、今日は特別だった。
 ふたりは今日、決定的なすれ違いをしたように思えた。お互いでお互いの一番深いところを斬りつけあったような感があった。もはや修復しがたいまでに。
 壊したのはふたりに関してだけではない。彼女たち四人全員の、さらにはアリセの一番大事なところまでもだ。
 アリセは放心状態で歩みを進める以外に何もできなかった。
 彼女はパチリと目を見開いた。ももに重みを感じた。アリセは自分のジャケットのポケットに見慣れない膨らみがあることに気づいた。
 ポケットをまさぐってみるとカツンと指に何かが当たった。それを取り出してみる。
「あっ、これ入れっぱなしだったんだ……」
 疲れた笑顔を浮かべる。それは昨日拾ったハートプリンセスの変身ペンダントだった。
 アリセは自然と昨日会った女の子のことを思い出していた。自分をハートプリンセスだと分かった時の満面の笑顔。それを見た時の弾けるような胸の感触が反芻される。
 アリセの首は、徐々に上へと向いていった。
 あの子は、今もまだあんなにクアトロプリンセスのことを好きでいてくれている。そういうコが、まだこの世の中にいる。
 背筋はピンと貼り、彼女の顔は斜め上を見据える。
「よーし!!」
 アリセは自分に喝を入れる。垂れさがった前髪を手でかき分け、しっかり前を見えるようにした。
 目の前には、閉まっている不動産屋のウインドウ。中が暗いため、しっかりとアリセの姿が鏡のように映っていた。
「ん?」
 当たり前だが、ウインドウの中の自分の右手には変身ペンダント。アリセ。何かを思いついたようにむふふと笑う。
 アリセは身体を躍動させる。肩幅に両足を開く。ペンダントを持った右手の手首を左手で握る。それをバッと天に持ち上げる。勢いよく振り下ろし、胸の前に差し出した。
「【プリンセス・アリヴァーレ!!】」
 大声を出すアリセ。変身ポーズを決めた彼女の姿がしっかりとウインドウに映っていた。
「……なんてね」
 アリセは恥ずかしそうに頭を掻いた。

 それはそれで終わるはずだった。単なる馬鹿げたおふざけ。それはそれで終わるはずだった……。

 ハート型のペンダントがパカッと開いた。キラキラと中心に輝く小さなハート型の宝石が光る。どこからともなくピンクのハートの大群が現れる。それがアリセの身体を包んだ。
「ちょ……なに?これなに?」
 アリセは当然のように狼狽した。いくら夢見がちなアリセと言えど、この現象は想像の遥か外にあった。
 ピンクのハートたちはアリセの身体を変えていく。実はアリセはこの不思議なハートたちに見覚えがあった。見覚えがあるなんてものではなかった。それはあの【変身エフェクト】なのだから。
 アリセがハッと気がつくと、ハートたちは消えていた。びしょびしょのアスファルトにお尻をつけてへたり込んでいる自分。
「なんだったの……今の?」
 貧困な語彙で違和感を口にする。しかしまわりを見ても疑問に答えてくれる者は誰もいない。ただ、街中で地べたに座りこむほど驚いている自分に苦笑をした。
「ん?」
 アリセが最初に感じた違和感は皮膚感覚だった。さっきまであった、びしょ濡れの服が肌に張り付く感覚がなくなっている。あれ?と自分の身体を見てみる。
「…………!?」
 彼女は言葉を失った。首下の大きなピンクのリボンがふるりと揺れた。
「……なに……これ?」
 ピンクのフリフリとしたロングスカート。ベスト状のシャツとセパレートで先に向け末広がった袖。おへそと肩の肌色がしっかり露出している。髪の毛の上に金色のティアラ。胸にぶら下がるのはピンクのハートのペンダント。
 アリセは顔を静かに上げた。もしやと思い、ショーウインドウを見た。
「え!?」
 彼女はへたり込んだまま、腰を抜かしそうになった。虚ろになる目。
 そこにいたのは川村有瀬ではなかった。そこにいた人物。それは紛れもなく愛の戦士【ハートプリンセス】だった。

 目が点になった。比喩表現などではなく。誰であろうとこんなことがあればそうならない方がおかしい。
 アリセは本当にハートプリンセスに変身してしまっていた。
「な?な?な?な?な?」
 ウインドウに映るハートプリンセスが自分であることを確かめるために、身体を動かしてみる。
 右手、左手、右足、左足、見事に連動して動く。アリセは確信せざるを終えなかった。
 アリセはショーの時にハートプリンセスの衣装をつけることが多々あるが、その姿とは根本的に違う。。アニメのハートプリンセスそのものがそこに立っている。
 実写とアニメの合成。まるでメリーポピンズの世界のようにアリセの目には映る。ぞくっとするほど奇妙だった。
 アリセはハッとまわりを見渡した。相変わらずその場所に人通りはない。アリセはホッとした。
 この姿を人に見られるのはなんとなくまずいと思ったアリセ。早く元の姿に戻ろうと考える。
「えーと、戻る時はたしか……」
 先ほどは変身することきの呪文を唱えたのだから、元に戻る時の呪文を唱えればいい。アリセはそれを実行しようとする。が、
「……何だっけ?」
 人差し指を頭にやるアリセ。変身シーンは毎回アニメで出てくるが、戻るシーンはとんと記憶にない。
 いつも敵を倒すと、いつのまにか元に戻っていて、【一件落着】的なシーンとなる。思いだすのはそこばかり。何度アニメを脳内再生させてもお望みのシーンにたどり着かない。
「もしかしてあたし……」
 アリセは両手を頬にやった。
「ずっとこのままーー!!」
 アリセの絶叫が雨の街に響いた。

 恐れていたことが起きた。
「お、おいあれ!?」
「あ、アニメだ。アニメが浮きあがってる……」
 若い男性2人組がハートプリンセスの姿を見つけてしまった。戸惑いながらアリセを指さしている。やはり今のアリセの姿は相当浮いて見えるらしい。
「まずい!!」
 キョロキョロとまわりを見るアリセ。脇のゴミ捨て場に大きなダンボールが捨ててあった。アリセはこれ幸いとそれを被った。
「ふん」
 人差し指で中からダンボールを付き、覗き穴を開ける。ダダッと、戸惑う彼らを素通りし、雨の街をダンボールは全力疾走していく。
 アリセはとりあえず自宅に帰ろうとした。ここからは地下鉄に乗って30分くらい。とにかく駅に急いだ。
 駅に近づくとさすがに人通りが多くなってくる。人の波をかき分け疾走するダンボール。人々は奇異の目でそれを見た。
 地下鉄の入り口から階段を降り、人が行き交う構内を疾走し、なんとか改札前までたどり着いたアリセ。
「よし」
 アリセはスカートのポケットからIC改札券を取りだそうとした。
「あれ?」
 ポケットに入れてあったはずのIC改札券がない。
「おかしいなあ。どっかに落としたかなあ……。しょうがない、切符を買いますか」
 券売機前にダンボールは進む。ちょこんと顔を出し小銭投入口を確認。しかし、肝心の財布が入ったバッグも無くなっていることに気づく。
「え?なんで!?」
 ポケットをいくらまさぐっても何も出てこない。状況判断能力の弱いアリセはようやく気づいた。ハートプリンセスへの変身により、元々所持していたものがすべて無くなっていることに。
「ど、どうしよう……」
 もはや自分ひとりではどうしようもない。サキ、ミル、マコの誰かに連絡して、来てもらおうと考える。けれど……。
「……携帯もない」
 当然のことだった。次に公衆電話を使うことを考えたが、無一文ではそれを使うお金すらない。
 絶望。電話すら出来ない現状。ハートプリンセスへの変身は、アリセにお金の大事さをこれでもかと痛感させた。
 アリセは何かを思いつく。飲料の自販機までささっと進み下を覗き込む。小さな手を下の隙間に入れて、ガサゴソと動かした。
 小銭を漁っていた。
 愛の戦士。女のコたちの憧れ。そのハートプリンセスが小銭漁りをしている。
 非情にも、小銭が落ちている気配がない。

「うえーん!!」
 突然泣き声が聞こえた。
 駅の構内、多くの通勤客が行き交う中で、小さな男の子が膝小僧を押さえて泣いていた。どうやら転んで膝をすりむいてしまったらしい。
 親らしき人は横にない。そして男の子が大声で泣き叫んでも誰も取り成す大人も誰もいない。怪訝な顔で見て通り過ぎるだけだった。
「うん」
 アリセは頷いた。ダンボールは静かに男の子に近づいていく。アリセ。彼女は今の自分ができる唯一のことに気がついた。
 自分の目の前に近づくダンボールを男の子はキョトンとした顔で見つめる。アリセはそっとダンボールの端をちょいと持ち上げた。男の子はダンボールから顔を出したアニメ質感の人間にギョッとした。
「大丈夫。心配しないで。私ならこのケガ、治してあげられるから」
 アリセは微笑むと、右手を虚空に差し出した。
「【ベキーユ】」
 そう言うと、ピンクのステッキが空中に現れた。それをがっしり掴む。やっぱり想像通りだ、と彼女は喜ぶ。そのままピンクのステッキの先を男の子の膝小僧に向けた。
「【ハート・フェティオーネ】」
 アリセがそう唱えると、キラキラとしたハートが現れた。血のにじむ傷口にそれは取りつく。男の子の傷はみるみる消えていった。
「わぁ」
 綺麗になった膝。男の子は笑顔になった。
「ふふ」
 アリセも微笑んだ。ハートプリンセスの魔法。それは癒しの魔法。人々のケガや病気を治癒させる魔法だった。
「お姉ちゃんありがとう」
「どういたしまして」
 頭を下げるアリセ。
「お姉ちゃん。ところでなんでアニメみたいかんじなの?なんでダンボールかぶってんの?」
「そ、それは……色々と深い事情がありまして」
 ギョッと顔を背ける。
「ふーん」
 まじまじと見つめられる。アリセはただただ気まずかった。
「そうだ。ケガを治してくれたお返しに何かあげようか?」
 男の子が勢いよく言った。アリセの顔はパッと明るくなった。やはり親切はするものだと思った。
「ホント!?」
「うん、なんでもいってよ。僕ができることだったらなんでもするよ」
 アリセは即答する。
「それなら僕、ちょっとお金貸してくれないかな?」
 満面の笑顔で。
「え!?」
 男の子の表情が凍った。
「お金。お金よお金。わかるでしょお金?」
 ニヤーと笑って男の子に迫るアリセ。
「その……あの……」
 震える声。
「10円でもいいから持っていたら貸してくれないかなあ?」
 男の子の目からはアリセの微笑みがこちらを威圧するものにしか見えない。男の子はぶるぶると唇を震わせた。
 愛の戦士。女のコの憧れ。そのハートプリンセスによるカツアゲが実行された。
 男の子の恐怖は想像を絶するモノがあった。
「お姉ちゃん……ごめん……僕お金もってないよ〜〜……ぴょんぴょんってとんでも、音ならないよお……」
 目元に涙を溜める男の子。
 「へ?」という顔になるアリセ。そして間もなくその顔はサーっと青ざめる。やっと自分の言っていることの恐ろしさに気がついた。
「……あっ!?ち、違うの!!ちょっと財布がなくなっちゃったから、電車に乗るお金か電話するお金が欲しくて……ちゃんと後で返すから」
 手をばたばた動かし悪意がないことを必死に弁解する。その甲斐あって男の子は冷静さを取り戻した。
「お姉ちゃん電話したいの?」
「うん」
「だったら、これ。お母さんとの連絡用の携帯。良かったら使っていいよ」
 男の子は自分の首にかけられた携帯電話をアリセに差し出した。
「いいの!?使って」
「うん」
「や……やったー!!!!!!!!」
 アリセは思わず両手を上に突き出した。勢いでダンボールが宙に飛んだ。バッとそちらを見る駅内の客たち。アリセは慌てて押さえて隠れた。
 男の子に差し出された携帯。それを目の前に涙が出るほど喜ぶアリセ。助かったと胸を撫で下ろしていた。
 しかし、彼女は気づいているだろうか?
 電話があっても、サキやミルやマコの番号を暗記しているわけではないアリセが、3人に連絡することなど不可能だということを。


「もしもし、どちら様ですか?」
 富山在住の50歳女性。川村丈子(かわむらたけこ)は、テレビに映る時代劇の再放送を尻目にのそのそと受話器を顔につけた。
「もしもし、ママ?」
 おずおずとした声が聞こえる。
「なに?アリセ!?しばらく連絡せんと元気にしとるんけ?」
 聴き慣れた娘の声。北陸訛りの言葉で返す。
「ごめんなさい心配かけて。私は元気」
「どうしたん?いきなり電話かけてきて」
「……あの、ママしか頼れる人いなくてさ」
 アリセがそらで覚えている電話番号は実家の番号だけだった。
「何?頼み?あんたがこまってるんだったらお母さん何でも力になるよ」
「じゃあちょっと迎えにきてもらえるかな」
「どこに?」
「東京まで……」
「いつ?」
「今すぐ……」
「……」
 テレビの音。飼い猫のにゃあという鳴き声。それだけが鳴っている。
「それはさすがに無理だわ。遠いし、お父さんのご飯つくらなきゃいけないし」
「……だよね」
 アリセはうなだれた。
「じゃあさ、ママ、変な質問なんだけどさ」
「何よ?」
「私がやってたアニメの役で【ハートプリンセス】ってあるじゃない」
「うん」
「その【ハートプリンセス】が人間の姿に戻る時の呪文ってママ知ってる」
「……」
 受話器の先が無言になる。流石のアリセでも自分が相当おかしなことを聞いているのが分かった。
「ごめん、知らないよね……」
「……プリンセス・トルナーレ。だよ」
「へ!?」
 アリセの言葉を遮って返ってきた言葉。
「だから【プリンセス・トルナーレ】だよ」
 まさかの即答だった。
「どうしてえ!?なんでママ知ってるの?」
「32話の【あまーい誘惑?風雲おかし城】の回に出てきたでしょ」
「そうなの!?」
 やっているアリセですら忘れていた事実。
「だからなんでそれをママが知ってるの?」
 再び問いかける。
「あんたの出ているアニメは何回も見るからだよ。【俺と中二病の巫女さんと地方行政書士オンライン】のぱっくんうさぎちゃんも毎週見てるよ。あの『ぱっくん』毎週ちょっとづつ違うんだね。感心したよ」
「ママ……」
 感激で言葉につまるアリセ。
「まぁそっちもそっちで大変だろうけど、また何かあったら連絡するんだよ」
「うん!!」
 アリセは元気よく受話器に声をかけた。
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