随分と、時間がかかりました

文字数 4,368文字

 全ての始まりは、貴方の終りでした。

 貴方がいなかったなら、そして貴方が終わらなかったなら、私の全ては始まる事もなかったでしょう。
 私は、ようやく天寿を全うします。二人の子供と、三人の孫と、六人のひ孫に見送られながら、私は永遠に眠りにつきます。私が愛おしい彼らと出会う事ができたのは、間違いなく貴方のおかげでしょう。貴方がいなかったのなら、私は今日までいられなかったでしょう。
 戦時中、本隊とはぐれてしまった私にとって、友と呼べる者は貴方しかいませんでした。異国の地にたった一人となってしまった私に、貴方だけは手を差し伸べてくれました。もしも私を見つけたのが貴方でなかったのなら、私は今日まで生きられてはいなかった事でしょう。貴方の国が当時、敵国兵にどのような扱いをしていたのかは寡聞にして存じませんが、あの時の私の精神状態では捕虜よりも自害を選んでいただろうと思います。
 貴方は言葉もわからない私に手を差し伸べてくれたどころか、食料と着替えまで用意してくれました。お腹を空かせているだろうと、軍服ではまずいだろうと、そのような気遣いだったのだろうと思います。きっと、貴方は裕福な暮らしではなかったでしょう。それどころか、ひどく貧しい生活を送っていたのだろうと思います。毎日同じ服を着て、それもボロボロで穴が開いていました。いつもお腹をならせていて、腕なんかは私の半分の太さもない。
 だというのに、私にくれる服はほんの少しのほつれもないようなものでした。食べ物も、カビの生えていない真っ白なパンをくれました。
 その気持ちが、どうしようもなく嬉しかったです。いつもいつも、涙を流しながら食事をしていた理由を、貴方は最後まで分かっていないようでしたね。私のところにくるたびに何かを話す貴方の顔を見るのが、何よりも嬉しい事でした。パンを半分こで食べようとしても決して受け取らない貴方が、私は大好きでした。
 きっと、私たちの間には友情があったと思います。

 ある日、我が軍の攻撃が開始されたようでした。本当ならば喜び勇まねばならない場面であったというのに、私はひどく不安になりました。当然、貴方の事がです。
 もしもその事を本土の人間に気が付かれたのなら、私は厳しく処罰されていた事でしょう。非国民であるとして銃剣の尻の部分でしこたま殴りつけられる者は何人も見てきましたし、私自身殴りつけた事もあります。しかし、私は貴方の身を案じずにはいられませんでした。
 遠くの方で、轟音が響きます。一度ならず、二度ならず、幾度も幾度も聞こえてきました。私は貴方の家がどこにあるのか知りませんでしたので、どの方向から聞こえた音も貴方が命を落としたものに聞こえました。近くの音も、遠くの音も、後ろの音も、前の音も、全ては私の不安を掻き立てる要因でした。
 意外かもしれませんが、自分の心配はしていませんでした。自分の事よりも、貴方の事の方がはるかに心配だったからです。どこに貴方がいるのかもわからない私は、しかしその場にじっとしている事もできずに近くをウロウロと歩き回りました。
 やがて、悲鳴が聞こえます。その代わりに轟音が止みました。軍が地上に降りたのだと、確信しました。
 もしかしたら彼らは、私を捜索しているのかもしれない。任務中に行くへ不明となってしまった私の事を、わざわざ探しにきてくれたのかもしれない。心のどこかでそんなはずはないと思っていながら、私は悲鳴が聞こえる方へと走り出していました。
 私を見つけた軍人が、「見つかったぞ、任務終了だ」と言ってくれる事を望んで、私は一心不乱に走りました。
 たった一人に、そこまでするわけないと。そんなのは今だから言える事です。その時はまともな判断力など持ち合わせておらず、どうしても何かをしなくてはならないと思っていました。
 悲鳴の聞こえる方からは、悲痛な表情をした現地民が何人走ってきます。なりもふりもかも構わずに、まるで溺れるように走っていました。
 貴方の姿を探す事は、自然な事でした。むしろ探さないはずがないではありませんか。探さないでいる事など、できないではありませんか。貴方と近い背格好の人影が視界の端に映るたび、視線は必ずそちらの方に流れます。彼でもない、あの人でもない。その時の私は、もしかしたら泣いていたのかもしれません。貴方の顔を見れない事で、これほど不安になってしまうとは思っていませんでした。貴方がどこにいるのかわからない事が、これほど恐ろしいとは思ってもみませんでした。
 しかし、貴方を見つけられるはずなどなかったのです。なにせ、貴方は走ってなどいませんでした。座り込んでいました。立ち上がれずに、体を震わせていました。
 銃剣を突きつけられ、屈強な軍人に囲まれていたのですから。言うまでもなく、私の仲間でした。我が国の、我が軍の人間でした。
 待て、と。私は叫んでいました。叫ばずにいられるでしょうか。私が叫ばなかったのなら、貴方はその時点で殺されていた事でしょう。そんな事は、私には我慢できませんでした。
 泣きそうになりながら、私は仲間の前に立ち塞がりました。明らかに自分の立場を悪くする行動です。ともすれば、それだけで敵対行為と取られても仕方がない事でした。しかし保身など考えてはいられません。なんとしてでも、友人である貴方を守らなくてはならないと思ったのです。
 その時に見せた仲間たちの顔は、今でもハッキリと覚えています。訝しげで、冷たく、およそ人間に向けるような視線ではありませんでした。人間が草を刈る事にまるで罪悪感がないように、彼らは目の前に立つ私を熱量のない瞳で見つめるのです。もしかしたら私も、今まで非国民だとされてきた人物に同じような視線を向けていたのでしょうか。もしそうだとしたら、私はあまりに残酷な事をしていたのでしょう。
 彼らは、私が立ち塞がった程度では銃剣を収めようとしませんでした。それどころか、その切っ先を私の方に向けてきます。敵国民を殺すための障害物程度にしか認識されていなかったのだろうと思います。
 当然ですが、死にたくは、ありませんでした。故郷には残してきた家族もあります。やり残した事もあります。決して、死にたくは、ありませんでした。
 しかし、後悔はなかったと記憶しています。ゆっくりと振り上げられる銃剣を眺めて、恐ろしくもなぜだか清々しい気分になりました。その銃剣を突き立てられ、血を流し、寒々と死んでいこうとも、何一つ心残りはありませんでした。
 だというのに。
 貴方は、なんと私に飛びかかってきました。よく覚えています。自分の爪が剥がれる事も御構い無しに、貴方は私を引っ掻きました。仲間たちは、何が起こったのかと唖然としていた事でしょう。私は何が起こったのわからずに、ただひたすらに頭を伏せる事しかできませんでした。たとえ何があろうとも、貴方に反撃などできようはずもないからです。
 私は、目から血が流れている事に気がつきました。おそらく、貴方の指が擦ったのだと思います。
 そうなってからようやく、仲間たちが貴方を私から引き剥がします。
 よく覚えていますとも。昨日の事のようにどころか、今まさに目の前で起きている事のように思えます。仲間たちに殴り殺される貴方が、仲間たちに嬲り殺される貴方が、今私の目の前にいるようです。私は、血の流れる片目を押さえながら、残った無事な方の目で貴方の事を見ていました。
 痛かったでしょう、苦しかったでしょう。しかし、貴方は死の直前に私を見ました。決して見間違いではなかったろうと思います。
 貴方は、達かに私を見て笑っていました。
 あまりにも屈託のない、驚くほど純粋な笑顔でした。いつも私に何かを話してくれる時のような、私と一緒にパンを食べている時のような、そんな時に見せる優しい笑顔。とても、死に直面した人間が抱く感情を感じさせるようなものではありません。
 貴方はすぐに動かなくなりました。私に向けた笑顔も、血液に溺れてすぐに消えてしまいました。けれども、仲間たちは動かない貴方をさらに何度も殴りつけました。
 なんて、なんて、恐ろしい光景だったでしょう。やがて気が済んだ仲間が、貴方に銃剣の切っ先を突き立てるまで、私は瞬き一つしませんでした。
 刃を突き立てられても動かない貴方を見て、仲間たちはようやく貴方が死んだ事に気がついたようです。怒りに満ち満ちた表情を私に向け、冷たく吐き捨てるように言いました。
 これが蛮族である。我ら誇り高き帝国軍人がほだされるようなモノではない。私は静かに、はいと答えました。それ以外は、答えられませんでした。
 貴方があの時、私に襲い掛からなければ、私はあの場で命を落としていた事でしょう。私は、おそらく帝国軍人として死んでいたはずです。墓石には名誉の戦死だとか当たり障りのないような事を書かれ、プロパガンダの一部として使われていたに違いありません。
 あの時をもって、私は人間になりました。貴方のおかげで、私は人間として生を受けたのです。右目の視力は終ぞ回復する事はありませんでしたが、貴方が私の片目をあの世に持って行ったような気がしてなりません。
 私という人間の始まりは、貴方の終わりでした。私が人間になるために、貴方は欠かせない存在でした。
 私という人間の全ては、この出来事を無視しては語れません。貴方がいなかったなら、私は誇り高き帝国軍人のままでした。
 私の全ては、貴方が作りました。あの日から、私は帝国軍人ではありませんでした。

 全ての始まりは、貴方の終わりでした。

 貴方の終わりが、私の全ての始まりでした。
 私は今から死にます。貴方から貰った命を、ちゃんと全うします。願わくば、死後の世界で貴方にもう一度会えたいです。一人で先に逝ってしまった貴方に、私はどうしても伝えたい事がありました。
 勝手に先に逝ってしまった事が、どうしても許せなかったのだと。一人で残された日々が、どれほど辛かったかと。
 生きてるうちに溜め込んだ想いを全て吐き出して、そしてゆっくり酒でも飲もうと。

 全ての始まりは、貴方の終わりでした。

 私は貴方のおかげで始められたのだと、そう伝えたいのです。
 すでに朦朧としていた意識が、とうとう消えていくように感じました。自分が目を開いているのか開けているのか分からない不思議な感覚を覚え、家族たちの声が随分遠くに聞こえます。
 あぁ、貴方から貰った全てが、ようやく終わろうとしています。
 今、終わろうとしている全てが、貴方の終わりから貰ったものなのです。
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