三、夢を追えと神(ネコ)が言わずとも

文字数 4,008文字

 ──実際のところ、猫探しは容易ではなかった。
 松尾が電話を切った後すぐに可愛い黒猫の画像が届いた。まったくの余談だが、僕はどちらかと言えば犬派だ。
「鈴付きの青い首輪で、左の後ろ足と尻尾の先だけ白いんだって」
 しばらくしてやって来た小林が補足的に特徴を教えてくれる。
「名前はセツ。もうおじいちゃんらしいから、そんなに遠くには行ってないんじゃないかって予想」
「了解。ところで、小林って相川さんと仲良い?」
「いや全然。俺も三組の奴から連絡来て、一組と二組の講習終わり暇な奴呼んでって言われただけ」
「なんだ」

 小林は去年まで一組にいたが、成績が奮わず三年生から二組になった。特進コース内ではお互いの成績は常時晒されているようなものなので、進級時に何人か交代があるのも想定通りで驚きはなかったし、関係性も今まで通り変わらない。一方で相川さんは、顔と名前が辛うじて一致するものの、会釈を交わしたことすらない。僕は松尾と違って休み時間も自分の席からほぼ動かないので、交友範囲はせいぜい二組までだ。
 したがって、相川さんの猫ちゃんに思い入れも無ければ手伝う義理も無いのだが、その場の空気を悪くしてまで断る理由も無かった。家に帰っても勉強ぐらいしかやることはない。

「見つけたら俺に連絡して」
 みんなで行動しても意味がないと小林が言うので、それぞれバラバラに別れた。
 毎日のように使っている駅なのに、駅前から少し離れるだけで知らない街の知らない道で、そのことにちょっとわくわくした。申し訳ないけど猫はどっちでも良い。手伝うと言った以上、もちろん故意に探さないなんてことはしないけど、そもそも炎天下の昼下がり、日陰も多くない時間帯のせいか一匹の猫にも遭遇しない。
 駐車場の車の下、公園のベンチの下、家と家の細い隙間などを一つ一つ見ていく。日陰で横たわる野良猫もいない。小学生が楽しそうに遊んでいる他は、蝉の鳴き声ばかり五月蝿い。
 神社の境内、歩道の脇の低木の茂みの中、飲食店裏のごみ箱、荷卸し中のトラックの下、自販機の取出口、郵便ポストの投函口、そんな所にいるはずもないのに。
 猫も歩き回って移動している可能性を考慮して、一度探したところも二周、三周する。やはり簡単には見つからない。松尾のせいではないが、面倒な事を引き受けたものだ。何より単純にひたすらに暑い。猫ちゃんも冷房の効いた部屋でゴロゴロしてれば良かったと後悔しているに違いない。もう少し日が傾けば探しやすいし猫も出てきやすいだろう、というか、暗くなるまで探すんだよな……。

 ところで、駅前から随分離れてしまったかもしれない。適当に歩いてきたし、高架線路が遠くに見える。目の前には幅十メートル足らずの整備された水路。小林の話では老猫らしいから、この川を越えてはいない気がする。
 胸までの高さの鉄柵に沿って駅の方向へ歩く。猫なら余裕で通れる幅の隙間があるのが気になって、水が嫌いならわざわざ入らないだろうと思いつつも、念のため覗き込むように確認しながら進んでいく。──橋がある。前言撤回、老猫でも川越えしたかもしれない。
 橋幅は車が通れるぐらいで、公園の入口にあるような「∩」の形のアレが設置されている。
 さて向こう側を探すべきかどうか。銀色の∩字型の侵入防止柵に軽く腰掛けて一息つく。

 思うに、誰も口にしなかったけど、良くない想像だけど、老猫が姿をくらますのはつまりそういうことなんじゃないか。真偽は知らないけど、矜持なのか気分なのか、最期を見せないようにいなくなるのが猫なんだろう。人間の方がいなくなればいいのに。
 向かいのブロック塀の「ネコと和解せよ」の貼り紙に思わず頬が緩んだ。まさに今そうしたいよ。
 とりあえず駅前に戻ろうかな。あれだけ喧しかった蝉もブレイクタイムなのか黙っていて、空を見上げると嫌味なほど爽やかな青が広がっている。

──チリリチリン。小さく軽い鈴の音が聞こえた。

 ハッとして振り向く。あ、と思わず声が出た。
 黒い猫が歩いている、というよりむしろこちらへ歩いてくる。探していると見つからないのに、探すのをやめたとき見つかることもよくある話。焦る気持ちを抑えて、セツか否かと目を凝らす。首輪がちゃんと見えないものの、鈴が鳴るということは野良じゃないと思う。そうだ尻尾の……先端が白い!
 ──セツだ。
 黒猫が僕を見てピタリと歩みを止める。おいおいここで逃げられると困るんだ。アスファルトの地面にゆっくりしゃがみ、そっと右手を差し出して、小さくチチチと舌を鳴らした。
「セツ……おいで」
 やはり人馴れしている。何でもないことのようにこちらに近づいてきた彼は、伸ばした僕の右手に、匂いを嗅ぐように顔を近づけて──そして、そのまま僕の横を通り過ぎて行った。橋を渡る黒猫の後ろ姿を見送って、音を立てないようゆっくり立ち上がる。見れば、左足の先から三センチ程が白い。

「セツ、どこまで行くの」
 川を越えた先の住宅街をよく知った場所のようにすたすた歩く黒猫の、すぐ後ろをついていく。猫撫で声で話しかけるも、止まってくれる様子はない。逃げ去る様子もないがこうなると仕方がない。追いかけながら、とりあえず誰かに連絡しようと通学鞄から携帯電話をごそごそと取り出したところで、猫は公園に入って行った。
 その公園は、隅の方に遊具があるものの三分の一は何もない広場で、それを取り囲むように大きな木が並び、全体的に日陰が多く閑静な印象を抱く。ざっと見回しただけでも繁々と葉を湛えた桜の樹が何本もある。春には美しい公園であるに違いない。ここを暫定的な住処としているのだろうか。
 公園の入口で突っ立っている僕のことを振り返りもせず、セツはタッと駆け出して、茂みの方へと消えてしまった。慌ててそちらへ近寄って、そっと覗き込む。
 ……いない。あれ?
 目を凝らして耳を澄ますが、草葉も揺れないし鈴の音も聞こえない。どこに行った?
 制服でこういった茂みに入るのは気乗りしないがやむを得ない。雑草を掻き分けて進んでいく。草を踏む音とセツを呼ぶ声で、せめて逃げる動きでも感知したいのだがおかしい、どこにも気配がなくなってしまった。
 少し離れて全体的に周囲を見渡す。

 ──そこでようやく、異変に気付いた。
「またこの夢……」

 一体いつから、どこからだろう。もう少し早く気付くべきだった。
 ここまで黒猫だけを見て追いかけてきたが、思い返せば住宅街なのに誰一人すれ違っていない。夏休み期間の晴れた日の児童公園に、誰もいない。さっきから蝉が鳴いていない。大樹の葉が揺れていない、というより風が吹いていない。なのに僕は汗すらかいていない。
 こういうことは初めてじゃない。最近、似たような夢を見るようになった。ただ、いつもの夢であれば学校とか駅とかよく知った風景で、しかもこんな日常と地続きでは無かったから、まさか夢中で黒猫を追いかけているのが文字通り夢の中だとは疑いもしなかった。

 ……戻るか。いつ醒めるかは分からない。途方に暮れて独り言ちて、項垂れながら公園を後にする。


『ネコと和解せよ』

 ──顔を上げると見覚えのある貼り紙が目に飛び込んできた。驚いて振り返ると、∩字型のアレがそこにある。公園はない。まだ橋を渡っていない。
 混乱して整理しきれない脳に蝉の声が、金槌を打ち付けるようにゴンゴン響いた。

 そこからはあっという間だった。
 考えるのは後にして急いで橋を渡り、ついさっきセツに案内された道を慌てて公園まで引き返した。確証のない胸騒ぎというか、ただの夢じゃないという予感──どちらかと言えば悪い予感とともに、あの見失った茂みへ分け入っていく。膝まである雑草と低木の茂みに覆われた岩の陰で彼を見つけた。

「──あ、小林?うん、そう現在地送った。みんな連れてきて」

 最初に松尾が来て、西山、小林と続いた。少ししてから三組の面々と相川さん──その後ろに母親と思しき女性がやって来た。僕は小林に何も言わなかったから、まだ何も伝わっていないはずだけど、彼女はちゃんと覚悟していた。そういう表情だった。
 松尾、西山、小林が離れて場所を開ける。それで全員察したんだと思う。相川さんは一人で僕の立つ場所へ来て、茂みの底から彼をすくい上げた。友人らの前で泣くまいと唇を噛み締め──しかし、堪えきれない涙が溢れる彼女を見て僕は、何もできずに立ち尽くしていた。


 駅前で解散して帰路についた。日中の茹だるような熱が落ち着き始めた健全な賑わいの中で、僕らの一角だけ静まり切っていた。それでも夕焼けは公平に街全体を橙に染める。
「あの……ありがとう」
 帰り際、彼女は泣きながら言った。どうあれ、見つけられてよかった。

 ホームで電車を待つ間、松尾もずっと黙っていた。彼にしては珍しい。部活帰りだろうか、猫探し御一行以外にも、うちの高校の制服を着た生徒が何組かいる。
「夏祭り誘うどころじゃなかったな」
 松尾がぽつりと呟いて、そりゃそうかと自嘲する。
「三組女子に顔は売れたんじゃない?」
「……お前はな」
 俺が見つけたかったよと拗ねたように言う。

 電車が到着してドアが開く。混んではいないものの座席は埋まっていて、乗り込んだ方と反対のドアに寄りかかる。そのドアの小窓から外を見た松尾が、あ、と何かに気づいて指をさす。
「高槻さん」
 そちらを見ると、反対のホームの端の方に談笑する女子生徒が二人いた。長い棒状のものを携えている。なるほど、確かに元気で明るい──どちらかと言えば僕は苦手な、美人だ。

 見惚れる松尾を引き摺るように電車が走り出す。今日はとても疲れた。良いことをしたような充足感と、何とも言えない物寂しさがある。
 僕に世界は救えない。猫一匹すら救えない。それでも、前を向くしかない。夏期講習第一タームも明日で終わる。今日はよく眠れそうだ。
 
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