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文字数 2,484文字
〈通報します〉
事情を告げると、ブログを見た雄大は、受話器の向こうから噛み付きそうな勢いでそう言った。
〈親会社がどうとか言っている状況じゃないですよ。僕が責任とります。通報します〉
「でも……」
〈早紀さん、今何処にいますか?〉
「まだ会社だけど」
〈周りに人は?〉
言われて、早紀はフロアに誰も残っていないことに気付いた。残業規制の実施で、全社的に帰宅時間が早くなっている。
「居室の人はみんな帰った。他の部屋は知らない。なんでそんなこと訊くの」
〈自宅に帰った方がいいと思います。もう少ししたらそっちの居室まで行きますから、一緒に帰りましょう〉
「久遠坂が本気で殺しにくるっていうの?」
〈いや、そうじゃない。奴も悪ノリしているだけだとは思う。でも気をつけた方がいい。けど焦らないで大丈夫〉
そう言う自分の方が焦っていることに気付いたのだろう、雄大は言葉を途切れさせた。深呼吸を一つする音が聞こえた。〈すみません。落ち着きます〉
柄にもなく焦っている雄大の様子に、逆に頭が冷えてきた。いつもの調子を取り戻したくて、つい、そこまで心配してくれなくても大丈夫だよ、と軽く応じた。不本意そうな沈黙が返った。
憮然とした声で、
〈そりゃ心配もしますよ。こんなこと書かれて〉
「……ごめん」
〈いいんです。僕が心配性なだけなのかもしれない。騒ぐようなことじゃないのかもしれないし、それで早紀さんに迷惑をかけたくはないです。……でも、心配なんです〉
今度は素直に、その言葉を言えた。「ありがとう」
〈やっぱり一一〇番しちゃうと、いろいろ大事になっちゃうかもしれませんね。大学の同期に警察に入った奴がいるので、なんとかできないか、相談してみます。警察にお灸据えてもらえば、ネット弁慶の小心者なんか、すぐに黙りますよ。早紀さんはそれまで気をつけて。一人にならないようにして〉
早紀を安心させるのが自分の職務だというように、付け加えた。
〈大丈夫ですから〉
ネットの殺人予告なんかより、その一言の方が強かった。
恐怖心は薄らいでいた。ありがとう、ともう一度言って、早紀は電話を切った。
パソコンを見やると、モニタの上には、まだブログが表示されたままだ。しばらくその画面をみつめていた。
恐怖心は薄らいで、代わりに怒りを連れてきた。
――舐めてるんだ。
久遠坂和之の顔を思い浮かべた。あの一見優しげな風貌で、表ではそつなくこなしながら、裏では醜悪な顔を堂々と晒して隠そうともしない。
舐めてる。でも悔しいのは和之のことだけではない。世の中、こんな奴らばかりなことだ。自分が何か偉いとでも思っているのかと、和之は早紀に書いた。自分が何か偉いとでも思っているのかと、早紀は和之に思う。皆が皆そう思ってふんぞり返ったまま、誰とも話をしていない。こんな顔ばかり、見たくない。
早紀はメール作成画面を開くと、和之のアドレスを打ち込んだ。面接結果のメールは、合格用と不合格用で、定型文の名前部分だけ置き換えて送信することになっている。不合格用の文章をコピーし、本文に貼り付けて編集した。
【久遠坂和之 様。今回は弊社の入社面接をお受け頂き、まことにありがとうございました。慎重に討議を重ねました結果、今回は、久遠坂 様のご希望に添えかねる結果となりましたことをお知らせ致します。】
追伸、と続け、キーを打ち込む。
和之のブログアドレスをコピーした。
【久遠坂様のブログを拝見致しました。近年、WEB上での殺人予告から、逮捕に繋がる事例が増えております。例えほんの悪戯心のつもりであっても、世間的には問題となる行為でありますことをご理解ください。今後、改善が見られない場合は、相応の手段に出させていただきますことをお知らせ致します。】
不合格を知らせるメールには、最後に学生の今後の活躍を祈る文を付けるのが慣習だ。
【今後の 久遠坂 様の益々のご活躍をお祈りしております。】
少し躊躇したが、叩くようにマウスをクリックした。ダイアログが表示され、瞬く間に送信が完了する。
やってしまった、と大人気ない挑発行為に一瞬だけ後悔がよぎったが、振り払った。言ってやらねば、気付くまい。
もう、ブログで何を書かれようが構わない。見たくもなかった。これ以上関わるつもりもない。
ブラウザを閉じようと手を伸ばした。
と、デスクががたがたと鳴りはじめた。
早紀はマウスに手を伸ばしたまま、机の上で震えるPHSをみつめた。液晶画面に「外線」と文字が表示され、番号が表示されている。会社支給のPHS番号は、問い合わせ対応用として受験者に公開している。
いやな予感がした。
デスクの上に、履歴書を閉じたファイルが置いてある。一番上から和之の履歴書を取り出し、携帯番号の欄を確認した。それからもう一度、PHSの液晶に目をやった。
久遠坂和之の番号だ。
鳴るままに放置しておくと、やがて止まった。
しばらく、液晶をみつめたままPHSを握り締めていた。――ネットから電話へ、距離を詰めてきた。
と、パソコンのスピーカが、ピコン、と電子音を発した。
見ると、モニタにポップアップが上がっている。新着メールだ。
差出人は【久遠坂和之】。
件名は【Re: 選考結果】。
ひたひたと何かが歩み寄る足音を聞いた気がした。
見つめていると、数分もしないうちに、またポップアップが上がった。
【久遠坂和之】
【Re:選考結果2】
またPHSが震えはじめた。和之の番号だ。
自分で自分の身体を抱くと、鳥肌が立っているのがわかった。糸に引かれるように、PHSに手を伸ばす。着信ボタンにかけた指を押し込む勇気が湧かない。
どうにでもなれ。思い切って押しこんだ。バイブが止んだが、切れたのか通話が繋がったのかわからなかった。
おそるおそる耳に当てると、焦ったような和之の声が飛び込んだ。
〈――違うんです!〉
事情を告げると、ブログを見た雄大は、受話器の向こうから噛み付きそうな勢いでそう言った。
〈親会社がどうとか言っている状況じゃないですよ。僕が責任とります。通報します〉
「でも……」
〈早紀さん、今何処にいますか?〉
「まだ会社だけど」
〈周りに人は?〉
言われて、早紀はフロアに誰も残っていないことに気付いた。残業規制の実施で、全社的に帰宅時間が早くなっている。
「居室の人はみんな帰った。他の部屋は知らない。なんでそんなこと訊くの」
〈自宅に帰った方がいいと思います。もう少ししたらそっちの居室まで行きますから、一緒に帰りましょう〉
「久遠坂が本気で殺しにくるっていうの?」
〈いや、そうじゃない。奴も悪ノリしているだけだとは思う。でも気をつけた方がいい。けど焦らないで大丈夫〉
そう言う自分の方が焦っていることに気付いたのだろう、雄大は言葉を途切れさせた。深呼吸を一つする音が聞こえた。〈すみません。落ち着きます〉
柄にもなく焦っている雄大の様子に、逆に頭が冷えてきた。いつもの調子を取り戻したくて、つい、そこまで心配してくれなくても大丈夫だよ、と軽く応じた。不本意そうな沈黙が返った。
憮然とした声で、
〈そりゃ心配もしますよ。こんなこと書かれて〉
「……ごめん」
〈いいんです。僕が心配性なだけなのかもしれない。騒ぐようなことじゃないのかもしれないし、それで早紀さんに迷惑をかけたくはないです。……でも、心配なんです〉
今度は素直に、その言葉を言えた。「ありがとう」
〈やっぱり一一〇番しちゃうと、いろいろ大事になっちゃうかもしれませんね。大学の同期に警察に入った奴がいるので、なんとかできないか、相談してみます。警察にお灸据えてもらえば、ネット弁慶の小心者なんか、すぐに黙りますよ。早紀さんはそれまで気をつけて。一人にならないようにして〉
早紀を安心させるのが自分の職務だというように、付け加えた。
〈大丈夫ですから〉
ネットの殺人予告なんかより、その一言の方が強かった。
恐怖心は薄らいでいた。ありがとう、ともう一度言って、早紀は電話を切った。
パソコンを見やると、モニタの上には、まだブログが表示されたままだ。しばらくその画面をみつめていた。
恐怖心は薄らいで、代わりに怒りを連れてきた。
――舐めてるんだ。
久遠坂和之の顔を思い浮かべた。あの一見優しげな風貌で、表ではそつなくこなしながら、裏では醜悪な顔を堂々と晒して隠そうともしない。
舐めてる。でも悔しいのは和之のことだけではない。世の中、こんな奴らばかりなことだ。自分が何か偉いとでも思っているのかと、和之は早紀に書いた。自分が何か偉いとでも思っているのかと、早紀は和之に思う。皆が皆そう思ってふんぞり返ったまま、誰とも話をしていない。こんな顔ばかり、見たくない。
早紀はメール作成画面を開くと、和之のアドレスを打ち込んだ。面接結果のメールは、合格用と不合格用で、定型文の名前部分だけ置き換えて送信することになっている。不合格用の文章をコピーし、本文に貼り付けて編集した。
【久遠坂和之 様。今回は弊社の入社面接をお受け頂き、まことにありがとうございました。慎重に討議を重ねました結果、今回は、久遠坂 様のご希望に添えかねる結果となりましたことをお知らせ致します。】
追伸、と続け、キーを打ち込む。
和之のブログアドレスをコピーした。
【久遠坂様のブログを拝見致しました。近年、WEB上での殺人予告から、逮捕に繋がる事例が増えております。例えほんの悪戯心のつもりであっても、世間的には問題となる行為でありますことをご理解ください。今後、改善が見られない場合は、相応の手段に出させていただきますことをお知らせ致します。】
不合格を知らせるメールには、最後に学生の今後の活躍を祈る文を付けるのが慣習だ。
【今後の 久遠坂 様の益々のご活躍をお祈りしております。】
少し躊躇したが、叩くようにマウスをクリックした。ダイアログが表示され、瞬く間に送信が完了する。
やってしまった、と大人気ない挑発行為に一瞬だけ後悔がよぎったが、振り払った。言ってやらねば、気付くまい。
もう、ブログで何を書かれようが構わない。見たくもなかった。これ以上関わるつもりもない。
ブラウザを閉じようと手を伸ばした。
と、デスクががたがたと鳴りはじめた。
早紀はマウスに手を伸ばしたまま、机の上で震えるPHSをみつめた。液晶画面に「外線」と文字が表示され、番号が表示されている。会社支給のPHS番号は、問い合わせ対応用として受験者に公開している。
いやな予感がした。
デスクの上に、履歴書を閉じたファイルが置いてある。一番上から和之の履歴書を取り出し、携帯番号の欄を確認した。それからもう一度、PHSの液晶に目をやった。
久遠坂和之の番号だ。
鳴るままに放置しておくと、やがて止まった。
しばらく、液晶をみつめたままPHSを握り締めていた。――ネットから電話へ、距離を詰めてきた。
と、パソコンのスピーカが、ピコン、と電子音を発した。
見ると、モニタにポップアップが上がっている。新着メールだ。
差出人は【久遠坂和之】。
件名は【Re: 選考結果】。
ひたひたと何かが歩み寄る足音を聞いた気がした。
見つめていると、数分もしないうちに、またポップアップが上がった。
【久遠坂和之】
【Re:選考結果2】
またPHSが震えはじめた。和之の番号だ。
自分で自分の身体を抱くと、鳥肌が立っているのがわかった。糸に引かれるように、PHSに手を伸ばす。着信ボタンにかけた指を押し込む勇気が湧かない。
どうにでもなれ。思い切って押しこんだ。バイブが止んだが、切れたのか通話が繋がったのかわからなかった。
おそるおそる耳に当てると、焦ったような和之の声が飛び込んだ。
〈――違うんです!〉