本編

文字数 9,834文字

 みんな、自分の学校以外の制服ってどれぐらいわかる? すれ違った時に学校名まで思い出せちゃう制服はどれぐらい?
 あたしは、ひとつだけ。ひとつだけはっきり覚えている。

 『彼』を初めて認識したのは球場で。好きな野球チームの試合観戦に行った日、あたしの前に座っていたのが『彼』だった。
 その時は私服で、名前だってわからない。後ろ姿を眺めながら『この子、ここでよく見かける』とか『応援がやかましい子だ』なんて考えていた。実際に彼とは球場でよく会う。挨拶するほどお互いを認識しているわけじゃない。ただ一方的に、遠くに彼がいてもあたしが気づくというだけで。

 それからしばらく経って、球場以外で『彼』を見つけた。繁華街を歩いていた時にすれ違ったのは、制服だったけれど彼だった。同じ高校生であることが嬉しくて、その時に見た制服からどの高校なのか調べた。だからその制服だけは、覚えていたんだ。

 球場で隣に座った時もしくは繁華街ですれ違った時に声をかけて、恋に発展する未来はあったんだろうか。今は考えても遅くて。
 出会ってしまった時には遅かった。この恋は実らない。
 あたしたちは、奇跡なんて呼べない切ない出会い方をしてしまった。

***

 彼と初めて声を交わしたのは、球場でも繁華街でもなくて――自宅から遠く離れた場所、『恋する週末ホームステイ』の初日。
 息を呑んだ。まばたきもした。それでもそこにいる『彼』の姿は変わらない。球場で見た時の姿や繁華街で見た時と同じ背格好、笑い方だって同じ。

「オレはコウタ!」

 知りたかった彼の名前をこんな風に知ることができるなんて。恋ステの奇跡に感謝しつつ、彼の自己紹介に耳を澄ませる。

「好きな色は黄色と黒。好きなスポーツは野球で好きな野球チームは……」
「ジャガーズファンでしょー!?」
「大正解! ってお前も!?」
「あたしもジャガーズ好きでさ。仲間仲間」

 ジャガーズファンだろうと言い当てれば彼は喜んでいた。偶然を装っているけれど違う。球場で見かけていたから、確信を持っていた。初めましてのふりをしたけれど、本当はあなたのことを知っている。

(あい)とは気が合いそうだなー。仲良くなれそうじゃん、オレたち」

 コウタは太陽のようににかっと笑ってそう言った。
 遠くから見ていた『彼』は隣に並ぶとあたしより少し背が高くて、声は想像よりも低くて。くるくると変わる表情は見ていて気持ちがいい。
 まもなく。この感情が『恋』なんだと気づいた。恋ステで出会ったから好きになったんじゃない、もっと前から。球場で彼のことを見かけた時から、好きだったのかもしれない。

 緊張と奇跡の初日。もっと一緒にいたかった二日目。そして三日目に――あたしは、この恋の末路を知った。

***

 恋ステ三日目。あたしたちはベンチで休憩していた。両隣には男の子が座っていて、一見すれば両手に花って言われそうだけど違う。現在このベンチは恋ステの余り物チーム待機場所だ。
 女子参加者は三人いるけれど、二人は2ショット中。桃希(ももき)は今日追加されたメンバーのシオンと。美柑(みかん)はセイジと2ショットに出かけてしまった。残ってしまったあたしとコウタ、リョクの三人は寂しくベンチで休憩中だ。

「今頃、2ショ組は何してるのかなー」

 隣に座るコウタがふて腐れたように言った。本当はあたしもコウタを2ショットに誘おうかと迷ったけれど、あたしとコウタが二人で出かけてしまえばリョクが一人になる。それは申し訳ない気がして、2ショットを申し出せず三人行動のままだった。

「せっかくだし、三人だから話せること話そうぜ――ってことで、リョクはどう? 気になる子できた?」

 コウタに話を振られてリョクが苦笑いした。突然、いわゆる恋バナというやつで。

「なんだよ。探り入れにきてんの? 大丈夫だよ、お前の好きなやつとかぶってないって」
「かぶってないなら教えてくれたっていいじゃんかよ」
「ナイショ」

 にたりと緩めた唇にひとさし指を当ててリョクは答えた。
 リョクは何を考えているのか掴みづらいタイプで、口元は笑っていても目は笑っていない時がある。爽やか優等生に見えて恐ろしいやつ。ここで内緒と答えてしまうのもリョクらしいなと思った。腹黒策士タイプって感じだもの、簡単に腹の内を見せてやくれない。

「じゃ先にコウタが教えろよ。相手の名前を聞く時は自分が名乗ってから、だろ?」

 説得力があるようなないような。首を傾げたくなる理論だけど、コウタの気になる人を聞き出そうとしたリョクに心の中で拍手を送る。

「オレは――」

 その間が、苦しかった。どきどきと胸が騒ぐ。すぐ隣にいるのはわかっているけれど、コウタの方へ視線を向けることができない。

「桃希かな」

 一度しか言っていないのに。何重にも繰り返されて鼓膜を揺らす。冷たいものが頭の奥に刺さってしまうみたいに。
 コウタは桃希が好きなんだ。がらがらと足元が崩れて、気持ちが落ちていく錯覚がした。

「桃希ちゃん、人気だな」
「だよなー。セイジも桃希狙いっぽいし、シオンもだろ?」
「それにお前を足して三人が桃希ちゃんか……モテモテだな」

 リョクとコウタは普段通りに話している。あたしも普通に笑いたいけれど。
 桃希は同性のあたしから見ても可愛い。目元はくりっとして大きいし、髪の毛だって毎回可愛らしいアレンジをしてくる。雑誌モデルをしている子だ。女子力を数値化したら、あたしなんて絶対敵わない。桃希みたいな可愛い子に、敵うわけがない。
 セイジなんて会った時から桃希にデレデレしていたし、シオンも桃希狙いだと思う。そしてコウタも。
 あたしは、リョクの好きな子が誰なのかなんとなく察している。たぶん美柑(みかん)のことが好きだと思う。美柑がセイジを誘って2ショに行ってからというもの、ため息をついたり考えごとしたりと落ち着かない様子だったから。

 つまり。セイジとシオンとコウタが桃希を好いていて、リョクは美柑。美柑と桃希の気持ちは未知数だけど――頭の中で相関図を作り、そしてため息。この恋愛劇の中でひとりだけ、ぽつんと浮いている人がいる。

「藍? どうした?」

 コウタに顔を覗きこまれて、はたと気づく。沈んだ顔をしちゃいけない。強ばった表情筋を無理矢理引き上げた。
 楽しみにしていた恋ステが、急に遠く感じる。一人だけ置いて行かれたような疎外感。あたしだけ恋愛に関わっていない切なさ。

「ちょっと考えごとしてただけ」
「オレは話したから次は藍だろ。気になる人できた? 進捗どう?」

 その気になる人はコウタ、あんたのことだよ。
 素直に言えれば楽なのに。桃希が気になると聞いてしまった直後にそんなこと言えなくて。

「あたしは……いいや、もう」
「なんだよそれ。やる気ねーなー」
「そう言うコウタだって進捗最低だろ。桃希を2ショに誘えばいいのに。俺はコウタほど進捗悪くないぞ」
「オレだって誘いたいんだけどさ……はあ……」

 ちらりとコウタの方を盗み見る。頭を抱えて落ちこみモードに入っていた。

「はあ……今度こそ桃希に声かけよ……」

 ぶつぶつと反省してばかりであたしのことなんて気づかない。

***

 平日はいつもと同じ通りで、学校があったり友達と話したり。普通すぎる平日に飛び込めば、恋ステの週末は特殊なものだと再認識する。
 恋ステに参加しなければみんなと出会うことはなかった。桃希も美柑も出身地はここから離れているから、もしかすると一生会わなかったかもしれない。そう考えると恋ステは奇跡だ。出会わないだろう人たちを繋げる週末。

 ため息をついて机に突っ伏す。まだ水曜日、恋ステの週末までは遠い。先生は黒板に向かって数式を書いているけれど頭には入らない。真剣に勉強しなきゃいけない時期なのに、今は数字さえも疎ましい。

「藍、放課後って予定ある?」

 前の席についていた友達が振り返る。放課後どこかに行こうってお誘いかもしれないけど、あたしは首を横に振った。

「ゴメン、用事あって。ジャガーズ見に行くんだよね」
「また野球か。ほんっと好きだねー」

 小さい頃から仲良くなるのは男の子ばかりで、いつのまにかあたしも野球が好きになっていた。友達と一緒に行くこともあるけど一人でも見に行く。テレビ越しで見るよりも現地で見るのが一番。
 チケットは二枚残っているから今週末の恋ステが最後。今週の日曜日、あたしはみんなに別れを告げているだろう。カップルでじゃなくて、一人で。
 なんだか寂しい気持ちになりながら窓へ視線を移す。午後の憂鬱な空。今日の試合観戦で気分を入れ替えよう。


 球場でその姿を見つけるのは簡単だった。たぶん恋ステが始まるよりも前から、その後ろ姿を見つけることに慣れていたから。
 いつもなら姿を見つけただけで終わっていたのだろう。でも一方的に知っていただけの関係は恋ステによって知り合いに昇華していた。その背が振り返り、目が合った瞬間。唇が動く。

「藍じゃん。お前も見に来たの?」

 駆け寄ってきたコウタはにかっと笑った。
 今日は水曜日。恋ステじゃない。なのにコウタに会ってしまっていいのだろうか。そんな迷いがあるのはあたしだけで、コウタは気にせず懐っこく話しかけてくる。

「どこで見るんだ? オレは外野席」

 あたしも、だけど。
 心の中で答える。恋ステはまだ終わっていないのに、平日にこうして会ってしまうのはずるい気がしたから。あたしは俯いてコウタの横を通り過ぎようとし――そこで、ぐいと腕を掴まれた。

「おーい、無視すんなって」
「無視じゃないけど」
「じゃあなんだよ」
「恋ステじゃないのに、会っていいのかなって」

 素直に理由を明かすとコウタの目が丸くなった。驚いて、それから。

「そう言われりゃそうだな。週末じゃないのに会ってるって、ずるいことしてるみたいだ。ははっ」

 どんな反応をするのかと思いきや、盛大に笑い飛ばすときた。

「気にすんなよ、友情に週末平日関係なし! お前も外野席なら一緒に見ようぜ」

 あたしは、友情だと思いたくないんだけど。でもコウタと一緒にいられる喜びとルール違反の後ろめたさを天秤に掛ければ、一緒にいたいと思ってしまう。友情でもいいから好きな人と一緒にいたかった。
 どうやらコウタも一人で見に来たらしい。一人で来た同士ちょうどいいってことで並んで座る。外野席は熱狂的なファンが多くて、通路の方では応援団が準備をしていた。

「やっぱ外野で見るのが一番だよなー。応援してるって感じがするじゃん?」
「わかるわかる。応援楽しいよね。あと七回裏のはじまりが好き」
「ジェット風船目当てかよ。子供か!」
「あれ飛んでくの見るの楽しいじゃん」

 ここでは恋ステじゃなくて、共通の話題で盛り上がっている。
 それはあたしの理想だった。好きになる人は同じ趣味の人がいい。同じものを見て同じものを好んでいける人を好きになりたくて――だから恋ステにコウタがいた時はは運命があるんだと思った。この人だと予感した。

「お、背番号十八! オレと一緒じゃん!」

 その予感が当たっていると示すように、あたしたちが持っているユニフォームは同じ背番号が入っていた。コウタも同じ選手を応援している。おそろいが嬉しくて口元を緩めると、コウタはあたしの顔を覗きこんで笑った。

「やっと笑った」
「そう?」
「今日会った時も恋ステの時も、落ちこんでるっつーか元気なさそうだったからさ。藍は笑ってる方が似合うと思うぞ」

 似合うとか、そういうこと言われると恥ずかしい。顔が赤くなりそうだったからユニフォームを着るふりをして隠す。

「……ありがと」

 ぼそっとお礼を呟くと、隣から「おう」と穏やかな声が聞こえた。



 ナイトゲームが終わって球場を出るまでコウタと一緒だった。よく一人で見に来るとかどの選手が好きとか他愛もない話をしながら、球場を出る人の波に飲まれてはぐれないようお互いの位置を確認しながら歩く。

「帰りはどっちの方向?」
「あたし、バスだから」
「じゃ別だな」

 コウタは駅の方を指さしていたから、きっと電車に乗ってしまう。今日はいつもより時間が過ぎるのを速く感じて、もうすぐお別れだと思うと名残惜しくなってしまう。もっと一緒にいられたらきっと楽しいのに。
 あたしが抱く寂しさと同じものは、コウタの心にあるのだろうか。きっとない。だからコウタは楽しそうに笑って今日の試合について語り、歩く速度だって緩めてはくれない。

「また見に来ようぜ。ジャガーズファン仲間だしさ」

 頷きたいけどできないのは、この言葉が恋愛じゃなくて友情として存在していることを知っているからだ。
 もしも普通に知り合っていたのなら。すれ違う時に勇気を出して声をかけ連絡先を交換していたのなら、あたしはコウタの気持ちを知らず、また来ようねと約束をしていたのだろう。
 でも今は恋ステによって、コウタの気持ちを知っている。

「なあなあ、時間あるならちょっと寄ってこうぜ」

 コウタはそこで歩道の端へと移動した。試合終わって帰る人の波から外れて、球場外のベンチに腰掛ける。

「藍って、最初の頃は楽しそうにしていたのに、最近元気ないじゃん?」
「元気は……ないかもしれない」
「なんかあったら相談しろよ? オレでよけりゃ話聞くから」

 その悩みごとがコウタに関わることだとは言えなかった。彼の好きな人を知ったから苦しんでいるなんて、口が裂けても言えない。

「オレ、恋ステでお前に会えてよかったと思ってるよ」
「……うん」
「好み同じなのも奇跡だなって思うけどさ、恋ステがなかったらこうやって話すこともなかっただろ?」

 そう。認知していたのは一方的であって、コウタはあたしのことなんて知らなかった。すれ違う糸を奇跡のように繋いだのは恋ステだ。

「だからお互い頑張ろうぜ。お前のこと応援してっから」

 清々しいほどの笑顔に告げられれば、何も言えなくなる。辛くて瞼が熱くて、堪えなければこのまま泣いてしまいそうだ。こんなに辛くなるのなら出会わなければよかった。

「コウタは、桃希でしょ」
「おう! 好きっつーか気になるっつーか、もっと話したいんだよなあ」

 きっと週末、コウタは桃希に声をかけるのだろう。2ショットに誘って、もしかしたら告白をするのかもしれない。ああでも。あたしが参加できるのは今週の週末が最後だから、いなくなってから告白してほしい。目の前で、好きな人が違う人に告白しているのは想像するだけで辛すぎる。

 別れの挨拶をした後、それぞれの方向に歩き出す。
 どこか遠くへ向かってしまうコウタの後ろ姿は見慣れていた。
 あたしの恋ステはこの週末で終わる。恋ステが終わってしまったら、あたしたちの距離感は元に戻るのだろう。姿を見つけても声をかけられない他人の距離に。

***

 週末がやってきた。リョクと美柑がカップル成立して旅を抜けたので、残るメンバーは五人。今日の目的地である水族館についたところで、さっそく皆が動く。
 チケットの枚数も減ってきたし好きな人がいついなくなるかわからない不安。三週目になれば皆が積極的だった。それはもちろんコウタも例外じゃなくて。

「桃希、2ショット行こう」

 コウタが桃希を誘う。桃希が頷いたあたりから、あたしは二人を見ないよう俯いていた。好きな人が他の子と並んで歩くところを見てしまえば、また泣き出してしまいそうだから。

 残ったのはあたしとセイジとシオン、だけど。

「あたし一人で見てくるよ」

 頭を冷やすためにも一人で行動したかった。セイジとシオンを置いて、一人で水族館に入る。
 薄暗い館内、ガラス隔てて向こうでは海の生き物たちが呑気に泳いでいる。周りでは家族連れやカップルもいて、水槽を眺めてはあれこれと楽しそうに話をしていた。自分から一人行動を選んだといえ、ひとりぼっちなのはあたしだけだ。
 今頃、コウタは桃希と一緒にいるのだろうか。想像すると胸の奥がきりきりと苦しくなる。

「……一緒に、見たかった」

 ため息をついても、ガラス向こうにいるカラフルな色の魚は答えてくれない。泳いでいるだけ。再び涙腺がゆるんで涙が出そうになる。
 泣いてちゃだめだ、と目元を拭った時――声がした。

「藍!」

 その声が鼓膜を揺らして、頭が認識するよりも先に体が動いていた。
 振り返って、その人物を確かめる。

「コウタ!? どうして」
「お前が泣いてたから戻ってきた」
「な、なんで……っていうか桃希と2ショットしてたんじゃ」

 コウタはそう言って、ため息をつく。

「……お前がそんな様子だったら、気になって2ショットできないって」
「せっかく桃希と一緒にいられたのに」
「ほんとな。オレもバカだと思う。でも藍が一人で泣いてんのは……嫌だったから……」

 コウタを応援するのなら『今すぐ桃希のところに戻って』と言わなきゃいけないのだろう。でも、あたしのところに駆け寄ってくれたことが嬉しくてたまらない。

「……ありがと」
「おう。泣くなよ。お前がそんなんだったら、オレも恋ステどころじゃなくなる」
「心配かけてごめん、あたしは大丈夫だから」

 安堵したのかコウタは笑って、それから手を差し出す。

「ほれ。手」
「は? なんで」
「今さら桃希のとこ戻れないだろ。お前も一人なら一緒に見ようぜ」

 手を繋いでも、いいのだろうか。悩みながらも彼の手を取る。あたしより少し大きくて骨ばった手だ。その手のひらにすっぽりと包まれて、あたしたちはゆっくり歩き出す。

「うわ。藍の手冷たい」
「寒かったの! 文句言うな」
「わかったから引っ張るなって! ほら、タコ見に行こうぜ。たこ焼き食いてーな」
「たこ焼きの話しながらタコ見るのってどうなの?」

 あれほど沈んでいた気持ちが不思議なほど明るくなっていく。このまま一緒にいられたらいいのにと願ってしまうぐらい。

「魚も見たいけどなんか飲みたいな……藍は?」
「あたしも温かいもの飲みたい」
「ここ冷房効いてるもんな。次のタコ見る前に温かいもの飲んで休憩しようぜ」
「タコ見るのは譲れないんだね」
「おう。たこ焼き好きとしては大事だろ」

 好きな人と手を繋いでいる時間が幸せで、あたしはこの喜びを忘れることがないだろう。
 もし明日コウタが桃希に告白しても、あたしの旅が明日終わったとしても。コウタと一緒に過ごせたこの時間は宝物だ。

***

 翌日。
 いつか使う日がくればと願った告白チケットは使うことがなかった。今日が最後であることを隠して、バスに乗りこむ。

「藍、昨日の試合結果みた?」
「見た。サヨナラ逆転ホームランでしょ?」
「スマホで結果見て叫んだよ。現地で見たかったよなあ」

 隣に座るコウタは今日が最後なんて気づいていない。今日はどこに行くんだろうな、なんて呑気なことを話している。

「ねえ、コウタ」
「ん? なんだよ」
「今日、桃希を2ショットに誘うの?」
「まー、そのつもりだけどな。昨日途中で抜けちゃったからあんまり話せなかったし」
「そっか」

 改めてコウタを見る。
 恋ステで出会う前から知っていた人、出会って好きだと認識した。最後は、ちゃんと笑えた。

「頑張ってね」

 あたしの言葉にコウタは目を細めて、それから大きく頷いた。

「おう!」

 それが、最後の恋ステの日。
 皆に別れの挨拶はしなかった。あたしがいないところで『藍の旅は今日で終わり』だと皆に告げられているのかもしれないけれど。
 誰とも結ばれることなく、告白することもされることもなく。あたしの恋ステは平凡に終わった。

***

 過ぎ去ってしまえば、あの週末は不思議だった。各地にいる高校生たちと知り合って週末だけの旅をする、滅多にない貴重な経験だったと思う。

「……あ、打った」

 わあ、と遠くで歓声。ジャガーズと対戦中のチームがホームランを打った瞬間だった。打球はぐんぐんと伸びて、反対側の外野席にすっぽりと落ちていく。
 試合は九回表。相手チームの攻撃。ジャガーズは一点差を追いかけていたけれど、このホームランで追加点が入って二点差へ。ハラハラしながら祈るように見守る。
 恋ステが終わってもあたしの趣味は変わらなくて。相変わらず野球観戦が癒やし。テレビで見る時もあるけどやっぱり球場で見るのが一番。

 隣の席に座っていた人は少し前に帰ってしまった。ジャガーズが負けるところを見たくなかったのかもしれない。気持ちはわからなくもないけど。
 その時、隣の席に誰かが座った。さっきの人が戻ってきたのかな、なんて思ったけれど。横目でその姿を確認し、息を呑んだ。

「おう。元気にしてた?」

 同じ背番号のついたユニフォームを着たコウタ。顔を合わせるのは恋ステ以来だった。

「……来てたんだ」
「まーな」

 コウタは頷いた。マウンドの方に視線を向けたまま呟く。周りは騒がしいはずなのに、コウタの声だけは鮮明に聞こえてしまう。たぶん、まだコウタへの気持ちが残っているからだ。

「オレ、桃希に告白しなかったんだ」
「もったいないねー。告白すればよかったじゃん」
「いいんだ。これは『違う』ってわかったから」

 相手チームの攻撃は終わって、チェンジ。試合は九回裏へ。ベンチから選手たちが出てきて入れ替わる。外野席も少し騒がしくなった。

「オレさ、次の週末も藍がいるんだと思ってた。なのに突然『藍の旅は終わりです』って言われるし、連絡先もわかんねーし、探したって全然会えない。球場に通ったらいつか会えるかなって思って、探してた」

 周りが応援のために立ち上がってあたしたちも立ち上がる。その時、コウタが一枚の紙を取り出した。

「遅くなったけど、いなくなってからわかったんだ。オレはお前と一緒にいる時間が楽しかった」
「は……え、これ、って」

 その紙は恋ステで配られた告白チケット。コウタの名前と連絡先が横に書いてある。紙とコウタを交互に眺めていると、少し赤い頬が恥ずかしそうに横を向いた。

「オレが好きなのはお前だから。次に会う時は告白するって決めてたんだ」
「す、好きって……」
「お前がオレのことそんな風に思ってないなら、友達からでもいい。だから……お前がいない週末は嫌だ」

 そっぽを向いているけれど、それは照れているのだと気づいた。その姿に小さく笑った後、あたしもカバンから、大事に残していた告白チケットを取り出す。

「……じゃあ交換しよ」
「交換? ってかなんでお前もそれ持って――」
「恋ステ終わってから後悔してた。好きな人に告白してからいなくなればよかった、自分から好きだって言えば良かったって」

 告白チケットの端に、コウタと同じように連絡先を書き込んで。それをコウタに渡す。

「恋ステ延長戦、ってことで。一緒に見ようよ」

 コウタはしばらく驚いた顔をしていたけれど、あたしも告白しているのだと理解したらしく、「おう!」と笑ってチケットを受け取っていた。

 九回裏ジャガーズの攻撃。外野席は騒がしくなって、でも隣にコウタがいる。

「ねえ。ジャガーズ勝つと思う?」
「二点差だろ。そうだなあ――」

 同じユニフォームを着て、水族館の時みたいに手を繋ぐ。

「もう少し一緒にいたいから、延長希望で」

 コウタが笑顔の提案をして、それに答えるように白球が勢いよく宙に浮かぶ。その球の行き先を目で追うことはしなかった。

 恋ステが始まる前に彼を見つけて、恋ステで出会って、恋ステの後で結ばれた。奇跡みたいな恋は延長戦に突入して、あたしたちは手を繋いだまま微笑んだ。
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