第8話 怪物・ハヤテのコジローはフェラーリのように俊足だった。

文字数 4,871文字

 前述したが、僕は大阪府吹田市の千里というところで少年時代を過ごした。
 その名もずばり『千里ニュータウン』。外角高めでも内角低めでもないストレートど真ん中のネーミングを持つ、同じような四階建ての団地がこれでもかとひしめきあう『超ニュータウン』である。
 千里ニュータウンへの入居は一九六二年から始まった。そこから六十年が経った今も、吹田市域には佐竹台、高野台、桃山台、津雲台などなどといった地区に、豊中市域には新千里東町、新千里西町、新千里北町などの地区には多くの人々が肩を寄せ合うようにして住んでいる。
 僕は第二次ベビーブームとやらの最中に生まれたようで、小学校・中学校のクラスメイトの多くは団地組である。同じ棟に、四・五人の友達が住んでいるということもザラだった。親友の松木が四階に住んでおり、その真下の三階に大嫌いな辻井が住んでいるという、まあそんなような感じだった。
 とにかく、数十メートル置きに誰がしか友達が住んでいた。高級住宅地に住むごく少数派の一戸建て組はクラスで一目置かれる存在ですらあった。
 僕達団地組の結束力は思春期男子の性欲よりも強い。
 たまり場である空き地や駐車場の奪い合いなどで隣の学区との小競り合いが勃発した時、団地組は加速装置のスイッチをオンにしたサイボーグ009もかくや、というスピードで集結する。小競り合いの情報をどこからゲットするのかは不明だが、とにかく集結までものの十分とかからない。かくして、
「何やコラぁ!」
「誰じゃオラぁ!」
「何イチビっとんじゃコラぁ!」
「いつでもやったんどオラぁ!」
 という口喧嘩がはじまる。
 下町ではないが、決してガラがいいわけでもない。
 それぞれ手には木製のバットやデッキブラシといった武器を持っている。中には百円ライターと殺虫スプレーを組み合わせて作った凶悪な火炎放射器や、兄貴のジッポライターのオイルで作った火炎ビンなどをかまえているつわものもいる。そして何を勘違いしたのかホッチキスを大上段にかまえてカスタネットのようにかちゃかちゃ鳴らしながら渋みをきかせているやつや、トマトケチャップをぴゅっ、ぴゅっ、と間欠的に放出して威嚇しているやつもいる。目に入ると痛いという理由だろう。
 まあそういった小競り合いが実際の戦いに展開することは滅多になく、大抵はにらみ合いに終わる。下校時刻を告げる『コンドルは飛んでゆく』の哀切なメロディーがどこかの学校から流れてくるくらいのタイミングで、
「うぅ」
「らあぁ」
 などとうめいて睨み合いながらじり、じり、とお互いの団地エリアに後退していく。そしてカラスと一緒に家に帰り、夕飯のカレーライスを三杯おかわりして宿題もせず、『オレたちひょうきん族』を見て腹筋が痙攣するほど笑い、兄貴と共用の三畳間に置かれた二段ベッドで眠りにつくのである。
 そんな風土・環境だから、学力の差などはみんな目くそ鼻くそである。高本のような勉強ができるやつは別格として、気の合う仲間は大抵考えられないような行動をとるバカばっかりだった。
 中学二年生の学級文集で『私のすべて』という半自伝的エッセイを書くやつ。
 同じく文集で『汚れっちまったおれ』という自己啓発文を書くやつ。
 スカートめくりに情熱のすべてを捧げ、女子から毒虫のような扱いを受けるやつ。
 伝書バトを肩に二羽乗せて登校するやつ。
 校舎にマジックで卑猥きわまりない落書きをするやつ。
 下剤と正露丸を同時に大量に飲んで、どんな大便が出るか実験するやつ。
 パラシュートふうにビニール傘を開いて団地の三階から飛び降りて足を折るやつ。
 猫の交尾を三十分間、飽くことなくじっと見ているやつ。
 柿をもごうとして登った木から足を滑らせて頭から地面に激突し、あやうく首をもいでしまいそうになるやつ。
 顕微鏡を分解して殺人レーザー光線の開発にいそしむやつ。
 蟻の巣にロウソクを垂らして出入り口を固め、にやにやしているやつ。
 毛虫を百匹集めて、百匹すべて蛾に孵化させるやつ。
 かくいう僕も松木や高本らと竹やぶに入って、湿気で波打ったエロ本を川口浩探検隊よろしく何時間もかけて捜索し、ヤブ蚊に刺されまくりながら食い入るように眺め回しては鬼のように興奮していた。
 とにかく何というかバカの集まりだった。
 そんな中、隣の学区だったので友達というわけではなかったが、『ハヤテのコジロー』と呼ばれていた伝説の不良少年がいた。はたして本名が『コジロー』だったのかどうか今では確かめるすべもないが、間違いなく『ハヤテ』ではあった。
 とにかく、イタリア製高級スポーツカーのように足が速い。
 ドロップタイプの自転車(正式名称なのか定かではないが)、といえばお分かりだろうか。十二段変速くらいのギヤを持っていて、競輪選手がレースで使用するようなハンドルがくにゃりと手前に湾曲した、あれである。なだらかな下り坂などでスピードが乗れば、時速五十キロくらい出る。
 コジローはあれに追いつく。
 仲間内でもドロップタイプを持っているヤツは何人かいた。
 ある時そいつに乗って、僕と松木と高本は隣町までコジローをからかいに行くことにした。
 コジローの家も団地だったが、コジローが住んでいる周辺はまるでスラムのようで特に荒んで見えた。しかもコジローは学生服の下にいつも同じスウェットを着ていて、ぼろぼろのコンバースを履いていた。そしていつも饐えたような匂いを振りまいていた。そんなコジローの家の前に行って叫ぶのだ。
「おーいコジロー。××××××!」
「おまえの××××××って××××××かぁ?」
 二十年前の少年達は世紀末覇者ラオウか、はたまたモンキー・D・ルフィのように怖いもの知らずだ。今では放送も執筆もできないようなスラングかつ超差別的文言を日常会話で軽やかに口走る。
「んじゃコラぁ!」
 勢いよくドアが開き、コジローが玄関から飛び出す。裸足だ。
「わーい」とばかりに僕達は自転車のペダルに全体重を乗せ、思いっきりこぐ。猛こぎ、というやつだ。
 その時点での僕達とコジローの距離、およそ三十メートル。猛然とコジローはダッシュするが、僕達自転車チームとの距離は五十メートルに開いた。もう絶対に追いつけない、はずだった。
 しかし、だ。ここからが『ハヤテのコジロー』の本領発揮である。
「ぼおおおおおおおおおおおおおお」
 V8エンジンのごとき唸り声を上げながら、コジローのスピードは上がってゆく。懐かしのテレビ番組『ビートたけしのスポーツ大将』の名物人形・カール君が、百メートル競走で後半五十メートルを過ぎるとにわかにスピードアップするように、ぐん、ぐん、ぐん、という感じで、コジローは走れば走るほど加速していくのだ。今となっては正確なデータなどわかりようもないが、おそらく最速時は百メートル十秒フラットくらい出ていたと思う。まさに一陣のつむじ風。
「ぼおおおおおおおおおおおおおお」
 それはそうと、どうしてあんなに大声を出しながら走ることができたのだろう。謎だ。しかしその体力とポテンシャルは中学生のそれをはるかに凌駕しており、もはや半ば怪物化して見えた。
 当然僕達はあせった。ペダルを踏んでも踏んでも、コジローとの距離は開くどころかどんどん狭まってゆくのだ。
 その後、五百メートルくらいはデッドヒートが続いた。
「ぼおおおおおおおおおおおおおお」
 なおも唸り声を上げながらコジローは走り続け、やがて最後尾を走っている松木に追いついた。
「おおおん」
「ぎゃああ」
 コジローはモモンガのように軽やかに飛翔して松木の首ったまにかじりつき、そのままアントニオ・ホドリコ・ノゲイラも舌を巻く鮮やかなチョークスリーパーで松木をころりと絞め落とした。倒された松木自慢の最新型自転車の後輪だけが、からからからからとむなしく空回りしていた。
 松木が人質に取られたら、僕達も止まるしかない。あきらめて自転車を止め、コジローの方へ歩み寄った。
 コジローは白目を剥いて舌をだらりと垂らしている松木の首根っこを持ってずるずると引きずり、僕達の前に立った。
 息一つ乱れていなかった。驚異的な身体能力だ。
「つかまえたでぇ。タカチューのカスども」
 僕はふて腐れながらも一応頭を下げた。
「……ごめん、コジロー。そいつ、返してくれ」
 コジローは失神している松木をちら、と一瞥し「タダでは返せんなぁ」と、口元に余裕たっぷりの微笑をたたえて言った。
「何が望みや。金か」
 高本が言った。こいつの家は比較的裕福だ。金品で解決を迫られるケースにおいて役に立つ可能性が高い。
「そうやな……食い物や」
 コジローはこともなげに言った。
「……食い物……」
「そうや。なんか腹にたまる食い物持って来い。この辺はもうおまえらのエリアやろ。三十分待ったるわ。三十分過ぎても現れへんかったら……」コジローはちらりと僕を見た。「こいつの肩外すぞ」
 僕達はぞっとした。さっきコジローの手腕を見たばかりだ。足だけではなく、腕にも自信があるようだ。
 それにしてもなんてやつだ。中学生にしてまるっきりチンピラの言い分だ。とりあえず僕達二人は高本の家に行き、冷蔵庫を漁った。そして、
「これやったらアイツも満足するやろ」
 と言いながら、お中元で贈られてきたと思しき真空パックの高級ハムのかたまりを手にコジローが待つ場所へと向かった。
 松木はとっくに意識を取り戻し、コジローの足元でぼんやりと正座していた。そして僕達の姿を認めるや否や、イエス・キリストの像おまえにした敬虔なクリスチャンじみた、すがるような、それでいて気恥ずかしそうな目を向けた。
「おう。早かったやんけ」とコジロー。
「これで勘弁したってぇや」
 僕はおずおずとハムを差し出した。コジローはハムをひったくった。
「ふーん。まあええやろ。ほれ」
 コジローは松木の背中を蹴って僕達の方へ押しやった。松木はふらふら、と僕達にすがりついた。
「……ありがとう。ほんまありがとう」
 松木は言った。
 こいつの根性も、コジローにかかればかたなしだ。僕は倒れたままになっていた松木の自転車を起こしてやった。
「……ほな」
「……ごめんな」
 僕達はきびすを返した。コジローは僕達に興味を無くし、ハムをじっと見ている。
「おい」
 不意にコジローが大きな声を出した。僕達はびく、と固まった。
 しまった、やっぱりクッキー詰め合わせ(缶入り)の方を選ぶべきやったんか? だって腹にたまるもんてゆうたから……。
「……何?」
 コジローは眉根を寄せて言った。
「これ、どないして食うたらええねん?」
 予想だにしなかった質問に、僕達はたじろいだ。
「……さあ……ぶ厚く切って焼くとか……」
 高本が答えた。
「そうか。やっぱりそうやろな。いや、こんなすごいもん丸ごと見たの初めてやからさ。食い方がようわからへんかってん」
 なぜかそこでコジローは、照れたような人懐こい笑顔を見せた。僕達はそんなコジローの笑顔に少し戸惑い、何も言えなくなってしまった。松木だけが、
「おれの身柄はハム一つと引き換え……おれの命の価値って一体……」
 といつまでもぶつぶつ呟いていた。


 当時僕が住んでいた団地は三十年ほど前に立て替えられて、今はもうない。
 松木が住んでいた団地や高本が住んでいた立派な一軒家は残っているが、松木や高本当人達はもちろんもうそこには住んでいない。コジローとデッドヒートを繰り広げた道も残っているが、コジローが今どこで何をしているかなんてことは誰も知らない。四年生までおねしょ癖が治らなかったかつての友は今や国際弁護士となり、世界中を飛び回っているという。
 知っているのはそれくらいだ。
 あんなに熱く、激しい時間をともに過ごした仲間は時間の流れとともにばらばらになり、それぞれの道を歩んでいる。
 僕にできるのは、ただこうしてあの頃の熱く激しい、宝石のかけらのような時間の一部を切り取って『少年時代』とラベリングされたアルバムに貼り付けることくらいだ。


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