第2話
文字数 3,617文字
当時、ボクの家の百五十メートル先にバー・レストランがあった。
毎日、付近の人々や観光客が、そこに集まっていた。そこのシーフード・パスタは評判が良かった。ボクは、時々そこで働いて、ちょっとばかり小遣いをもらっていた。そこでのボクの役割は、シェフの買い入れを手伝う事だった。市場で買い入れる海の幸を、車に積み、そして下ろす事……。
その六月、ある女性が、バー・レストランの常連客になっていた。
六月のある日、シェフとの買い入れの後、ボクが車から積み荷を下ろし、持って店内に入ると、彼女はカウンターに腰掛け、ワインを飲んでいた。
彼女の目は、少し切れ長で、髪は黒々として、色白だった。アジアの女性の風貌だ。
ギリシアの女性たちは美しい、と世界中で言われているのを知っていたが、周囲にはギリシア女性がほとんどだったからか、バー・レストランで見たアジアの女性の風貌にボクはたちまち惹かれた。
ボクは彼女の詳細を知りたくなり、荷物を運びながら、彼女とバーテンダーの間で交わされる話に聞き耳を立てていた……。
彼女の名はチャン。
「年齢は三十三才。推定年齢よ…」と彼女が言ったように聞こえた。
チャンは、幼少期の記憶がない、と言った。一度結婚し、離婚後、ある画家とパリで同棲を始めた、ということも分かった。
彼女は、クレタへ長いバカンスを取りに来ていた。
ボクの世代のギリシア人は、なんとか英語を話せる。
チャンは英語で、ボクに話しかけてきた。ボクが、彼女の容姿に惹かれて、ずっと見ていたことも、その原因だったろう。
彼女は唐突に言った、「家族というのは芸術ではない・・・、それは、人生の通過点の美しい瞬間の一つ」
ボクは彼女の言葉を理解出来なかった。ボクは「えっ?」と聞き返した。
「どうでもいいのよ・・・」そういって彼女はグラスに残っていたワインを一気に飲んだ。それから、シーフード・パスタをオーダーした。
「何才?」チャンが聞いた。
「もうすぐ十五…」
ボクが答えると、チャンは少し笑みを浮かべた。
「分かりやすいね…。今年八五年で十五才…。キミは、一九七〇年に生まれた」
チャンがオーダーしたシーフード・パスタが出てきた。彼女はそれをつついた。
ボクは、「それ、美味しいでしょ?」と聞いてみた。
少し食べてから、「食べる?」とチャン。
「いいの? ここのパスタ好きなんだ」そう、ボクが言うと、彼女は何も言わず立ち上がり、カウンターに代金を置いて、店を出ていった。
ボクは確かに、シーフード・パスタが好きだった。
チャンはドアから出る前に、ボクをうつろな眼差しで見た。
ボクはドキッとした。
去っていくチャンを見送りながら、シェフは言った、「バーには色んなタイプの客がくる。だけど、あの人は変わってる…。ロベルト、それ、よかったら食べて」
ボクの養父母は、ほとんどバーへ行くことがなかった。たまに二人で、家のディナー・テーブルに腰掛け向き合って、グラスにワインを注いで味わっていた。
ボクが養父母の白壁の家に来る前、そこに彼らの実娘が住んでいたらしい。結婚後、彼女はマニラで生活している。ボクは、あまり規制を受けずに養父母に育てられ、時々ポケットマネーをもらった。ボクがバー・レストランを手伝うようになったのは、海の香りのする市場の雰囲気が好きだったから……。そうこうしている内に、ボクの貯金は増えた。
ある夕方、仕事を終え、海辺を歩いて、家へ帰っていると、チャンがゆっくりとボクの前を歩いていた。宿泊しているホテルへと向かう途中なんだろうな、とボクは思った。
チャンの歩く後ろ姿は、映画のスローモーションのように見えた。チャンは本当にゆっくり歩いていた。ボクはドンドン彼女に接近してしまった。チャンを追い抜いたボクは、チラッと彼女の方を振り返って見た。その時、彼女がウインクした……。
ボクが立ち止まると、彼女は英語で言った、「ワタシが泊まってるホテルに遊びに来ない?」
チャンのような魅力的な女性に誘われたら断るのは難しい。
……だが、同時にボクは恐くなっていた。ボクは男性経験が豊富そうな女性に、憧れと恐怖の両方を感じていた。実際にチャンが男性経験豊富だったのかボクは知らない。ボクはヘンな憶測をしてしまうのだ。ふとボクは、自分の想像が飛躍していることに、気づくのだった。
ボクは答えた。
「OK」
ボクの親の世代は、あまり英語が分からなかった。ボクたちは、学校で英語を教えられていたから、他国人と会話する時、英語を使って意思の疎通が出来た。
学校は既に夏休みになっていた。クラスメートの中には、集まってキャンプに行く者もいた。ボクも時にはそういう事に参加したが、当時、ボクは大人の世界に惹かれていた。大人の女性に……。ボクのリビドーは活動的だったのだ。
チャンの宿泊しているホテルの部屋を見たい、という気持ちはとても大きかった。十五以上年上のチャンには、女性的雰囲気が漂っていた。
チャンは手招きして、丘の上のホテル「宝石」へとボクを導いた。
チャンは、部屋の鍵を開けて、先に中へ入った。
「カムイン!」とチャンはボクを中へ誘った。
チャンは、ボクが入るとドアを閉めて、ワンピースを脱ぎアンダーウェアだけになった。
チャンは言った。
「一人で、ここに来たんだけどね、退屈しちゃって…」
チャンは明らかに、少年だったボクの動揺を見て楽しんでいた。ボクは思わず、彼女に触れようとしたが、恐怖心もあり出来なかった。
「じゃ…、さよなら!」ボクは、そう言って、急いで部屋を出て行った。
「また、いつでも遊びに来てよ。おもしろい物みせるわ!」
チャンは去っていくボクの後ろで、そう言った。
ボクは丘を走り降り、そして後ろを見ると、だんだんホテル「宝石」は小さくなった。
夕闇のビーチを一人で歩いた。頭の中を整理しようとしていた。
夕闇のビーチに、一人立って海原を見るお尻の大きな少女を見た。彼女は大きなハットを被り、そのハットと共にステキなシルエットを作り出していた。
彼女は、ふとボクの方を向いた。その時、風で彼女のハットが飛んだ。
フワリフワリと、風に乗って、ハットはボクの足元に落ちた。
ボクはハットを拾い上げた。
お尻の大きな少女はボクの元にかけよってきた。
ボクはハットを手渡した。
彼女は「サンクス」と言った、「キミは、この辺に住んでる子? ワタシ、ドイツから来たのよ、お父さんと」
「ボクは、すぐ近くに住んでる。この島には、色んな国から観光客が来るんだ。エーゲ海は有名だから。キミもバカンスで?」
彼女は答えた、「ウン、あのホテルに泊まってるの」
彼女が指差したのは、遠くに小さく見える、ホテル「宝石」だった。
「キミ、何か書くもの持ってる?」と彼女。
ボクは、ポケットをさぐり、安いボールペンを取り出した。
彼女は、ボクのボールペンをサッと奪った。そして、ボクの電話番号を聞いた。それを彼女は自身の手の甲に、ボールペンで記した。
そのドイツ少女が、ボクには、映画に登場するヒロインのように見えた。
当時、ボクは映画が作り出すイリュージョンの虜だった。
白壁の家から三百メートル程歩いた所だったと記憶しているが、キオスクがあった。ボクは、そこでよくジェラートを買い食いした。
キオスクに、アメリカ合衆国やフランス、時に香港の映画スターのグラビアがいっぱいのマガジンが売られていた。ボクは、そんなマガジンが好きだった。
アメリカ合衆国、フランス…、どこもが、クレタ島から遥か彼方だった。
しかし、時どき、それらの国々からのロケーション撮影隊がエーゲ海を訪れた。ボクはまっさきに見物に行ったものだ。
一度、人気のフランス女優がロケーション撮影に来た。ボクは、彼女と握手を交わして、不思議な感激を味わった。
すました顔をしながらボクは、心で女性たちに翻弄され続けていた。
ドイツからの、お尻の大きな少女が、その六月のある夜、ボクに電話をかけてきた。養父母は、サーカスを見に行って留守だった。彼女は、ボクを、宿泊していたホテル「宝石」の部屋へ呼んだ。
心を躍らせながら、彼女の居る部屋のドアをノックした。
ドアが開いた。
ドイツ少女は、ボクを部屋の中に入れた。
「今日は、お父さんが、バーに行ってしまって居ないの」彼女は、やや、笑みを浮かべて言った。
「ワタシさびしいの」
そう言うと、彼女は、ベッドに座っていたボクの傍らで眠りに就いた。ボクも横になり、彼女の傍らで眠りに就いた。
夢の世界に入る前に、ボクは彼女の名前を尋ねた。
彼女は小さな声で答えた。
「クララ。クララ・シュミット……」
毎日、付近の人々や観光客が、そこに集まっていた。そこのシーフード・パスタは評判が良かった。ボクは、時々そこで働いて、ちょっとばかり小遣いをもらっていた。そこでのボクの役割は、シェフの買い入れを手伝う事だった。市場で買い入れる海の幸を、車に積み、そして下ろす事……。
その六月、ある女性が、バー・レストランの常連客になっていた。
六月のある日、シェフとの買い入れの後、ボクが車から積み荷を下ろし、持って店内に入ると、彼女はカウンターに腰掛け、ワインを飲んでいた。
彼女の目は、少し切れ長で、髪は黒々として、色白だった。アジアの女性の風貌だ。
ギリシアの女性たちは美しい、と世界中で言われているのを知っていたが、周囲にはギリシア女性がほとんどだったからか、バー・レストランで見たアジアの女性の風貌にボクはたちまち惹かれた。
ボクは彼女の詳細を知りたくなり、荷物を運びながら、彼女とバーテンダーの間で交わされる話に聞き耳を立てていた……。
彼女の名はチャン。
「年齢は三十三才。推定年齢よ…」と彼女が言ったように聞こえた。
チャンは、幼少期の記憶がない、と言った。一度結婚し、離婚後、ある画家とパリで同棲を始めた、ということも分かった。
彼女は、クレタへ長いバカンスを取りに来ていた。
ボクの世代のギリシア人は、なんとか英語を話せる。
チャンは英語で、ボクに話しかけてきた。ボクが、彼女の容姿に惹かれて、ずっと見ていたことも、その原因だったろう。
彼女は唐突に言った、「家族というのは芸術ではない・・・、それは、人生の通過点の美しい瞬間の一つ」
ボクは彼女の言葉を理解出来なかった。ボクは「えっ?」と聞き返した。
「どうでもいいのよ・・・」そういって彼女はグラスに残っていたワインを一気に飲んだ。それから、シーフード・パスタをオーダーした。
「何才?」チャンが聞いた。
「もうすぐ十五…」
ボクが答えると、チャンは少し笑みを浮かべた。
「分かりやすいね…。今年八五年で十五才…。キミは、一九七〇年に生まれた」
チャンがオーダーしたシーフード・パスタが出てきた。彼女はそれをつついた。
ボクは、「それ、美味しいでしょ?」と聞いてみた。
少し食べてから、「食べる?」とチャン。
「いいの? ここのパスタ好きなんだ」そう、ボクが言うと、彼女は何も言わず立ち上がり、カウンターに代金を置いて、店を出ていった。
ボクは確かに、シーフード・パスタが好きだった。
チャンはドアから出る前に、ボクをうつろな眼差しで見た。
ボクはドキッとした。
去っていくチャンを見送りながら、シェフは言った、「バーには色んなタイプの客がくる。だけど、あの人は変わってる…。ロベルト、それ、よかったら食べて」
ボクの養父母は、ほとんどバーへ行くことがなかった。たまに二人で、家のディナー・テーブルに腰掛け向き合って、グラスにワインを注いで味わっていた。
ボクが養父母の白壁の家に来る前、そこに彼らの実娘が住んでいたらしい。結婚後、彼女はマニラで生活している。ボクは、あまり規制を受けずに養父母に育てられ、時々ポケットマネーをもらった。ボクがバー・レストランを手伝うようになったのは、海の香りのする市場の雰囲気が好きだったから……。そうこうしている内に、ボクの貯金は増えた。
ある夕方、仕事を終え、海辺を歩いて、家へ帰っていると、チャンがゆっくりとボクの前を歩いていた。宿泊しているホテルへと向かう途中なんだろうな、とボクは思った。
チャンの歩く後ろ姿は、映画のスローモーションのように見えた。チャンは本当にゆっくり歩いていた。ボクはドンドン彼女に接近してしまった。チャンを追い抜いたボクは、チラッと彼女の方を振り返って見た。その時、彼女がウインクした……。
ボクが立ち止まると、彼女は英語で言った、「ワタシが泊まってるホテルに遊びに来ない?」
チャンのような魅力的な女性に誘われたら断るのは難しい。
……だが、同時にボクは恐くなっていた。ボクは男性経験が豊富そうな女性に、憧れと恐怖の両方を感じていた。実際にチャンが男性経験豊富だったのかボクは知らない。ボクはヘンな憶測をしてしまうのだ。ふとボクは、自分の想像が飛躍していることに、気づくのだった。
ボクは答えた。
「OK」
ボクの親の世代は、あまり英語が分からなかった。ボクたちは、学校で英語を教えられていたから、他国人と会話する時、英語を使って意思の疎通が出来た。
学校は既に夏休みになっていた。クラスメートの中には、集まってキャンプに行く者もいた。ボクも時にはそういう事に参加したが、当時、ボクは大人の世界に惹かれていた。大人の女性に……。ボクのリビドーは活動的だったのだ。
チャンの宿泊しているホテルの部屋を見たい、という気持ちはとても大きかった。十五以上年上のチャンには、女性的雰囲気が漂っていた。
チャンは手招きして、丘の上のホテル「宝石」へとボクを導いた。
チャンは、部屋の鍵を開けて、先に中へ入った。
「カムイン!」とチャンはボクを中へ誘った。
チャンは、ボクが入るとドアを閉めて、ワンピースを脱ぎアンダーウェアだけになった。
チャンは言った。
「一人で、ここに来たんだけどね、退屈しちゃって…」
チャンは明らかに、少年だったボクの動揺を見て楽しんでいた。ボクは思わず、彼女に触れようとしたが、恐怖心もあり出来なかった。
「じゃ…、さよなら!」ボクは、そう言って、急いで部屋を出て行った。
「また、いつでも遊びに来てよ。おもしろい物みせるわ!」
チャンは去っていくボクの後ろで、そう言った。
ボクは丘を走り降り、そして後ろを見ると、だんだんホテル「宝石」は小さくなった。
夕闇のビーチを一人で歩いた。頭の中を整理しようとしていた。
夕闇のビーチに、一人立って海原を見るお尻の大きな少女を見た。彼女は大きなハットを被り、そのハットと共にステキなシルエットを作り出していた。
彼女は、ふとボクの方を向いた。その時、風で彼女のハットが飛んだ。
フワリフワリと、風に乗って、ハットはボクの足元に落ちた。
ボクはハットを拾い上げた。
お尻の大きな少女はボクの元にかけよってきた。
ボクはハットを手渡した。
彼女は「サンクス」と言った、「キミは、この辺に住んでる子? ワタシ、ドイツから来たのよ、お父さんと」
「ボクは、すぐ近くに住んでる。この島には、色んな国から観光客が来るんだ。エーゲ海は有名だから。キミもバカンスで?」
彼女は答えた、「ウン、あのホテルに泊まってるの」
彼女が指差したのは、遠くに小さく見える、ホテル「宝石」だった。
「キミ、何か書くもの持ってる?」と彼女。
ボクは、ポケットをさぐり、安いボールペンを取り出した。
彼女は、ボクのボールペンをサッと奪った。そして、ボクの電話番号を聞いた。それを彼女は自身の手の甲に、ボールペンで記した。
そのドイツ少女が、ボクには、映画に登場するヒロインのように見えた。
当時、ボクは映画が作り出すイリュージョンの虜だった。
白壁の家から三百メートル程歩いた所だったと記憶しているが、キオスクがあった。ボクは、そこでよくジェラートを買い食いした。
キオスクに、アメリカ合衆国やフランス、時に香港の映画スターのグラビアがいっぱいのマガジンが売られていた。ボクは、そんなマガジンが好きだった。
アメリカ合衆国、フランス…、どこもが、クレタ島から遥か彼方だった。
しかし、時どき、それらの国々からのロケーション撮影隊がエーゲ海を訪れた。ボクはまっさきに見物に行ったものだ。
一度、人気のフランス女優がロケーション撮影に来た。ボクは、彼女と握手を交わして、不思議な感激を味わった。
すました顔をしながらボクは、心で女性たちに翻弄され続けていた。
ドイツからの、お尻の大きな少女が、その六月のある夜、ボクに電話をかけてきた。養父母は、サーカスを見に行って留守だった。彼女は、ボクを、宿泊していたホテル「宝石」の部屋へ呼んだ。
心を躍らせながら、彼女の居る部屋のドアをノックした。
ドアが開いた。
ドイツ少女は、ボクを部屋の中に入れた。
「今日は、お父さんが、バーに行ってしまって居ないの」彼女は、やや、笑みを浮かべて言った。
「ワタシさびしいの」
そう言うと、彼女は、ベッドに座っていたボクの傍らで眠りに就いた。ボクも横になり、彼女の傍らで眠りに就いた。
夢の世界に入る前に、ボクは彼女の名前を尋ねた。
彼女は小さな声で答えた。
「クララ。クララ・シュミット……」