第四十五幕!仄暗い雪の森で
文字数 14,654文字
敵の銃騎兵がぐんぐんと距離を縮めてきていて、今にも追いつかれそうである。 一応スパイクの効いた長靴を履いているが、轍すらはっきりしないこの道で慣れない人間が全速力で駆け抜けるのは酷である。気づけば敵は、50メートルくらい後ろまで接近してきている。彼らはこちらめがけて、ライフル銃で発砲を繰り返す。
紋別騎兵隊は、そこらの蛮族やヤンキーなんかと違って訓練を積み重ねたツワモノ達だ。 狙いは的確で、放たれた銃弾が灯恵の真横をかすめるように飛んでいく。
多分逃げきれない。それでも諦めず生き残るために走る。しかし、無我夢中に進んでいたため、柔らかい雪に足を取られて転倒してしまう。銃騎兵たちは、ここぞとばかりに彼女に接近して、ライフル銃の狙いを定めた。
灯恵は思う。今度こそ本当に終わりなんだと。もはや死を覚悟する余裕さえ残されていない。そう考えると全身から力が抜け、足掻くことすら怠ってしまった。
すると次は、どこからかスノーモービルのエンジン音が聞こえてきた。その音がどんどん近づいてくると、続いて銃声が響き渡った。灯恵は、その銃声が自分に向けられたものだと思い、両手で頭を覆う。そんなことをしても無意味だというのに反射的にやっていた。
もう自分は死んだのであろうか。そう思い顔を上げるが、身体は無事で血液すら見当たらない。恐る恐る背後を振り返ると、さっきまで威勢がよかった2騎の銃騎兵が雪の上にくたばっていた。何が起こったのかわからずにキョロキョロしていると、スノーモービルに見覚えのある男が乗っていた。
「灯恵!無事か!!」
サクである。彼は全身血だらけで、スノーモービルも様々な箇所に銃弾がめり込んでいた。
「サク!!私ならなんとか生きてる!それよりもその傷!」
「こんなもの大したことない!」
彼はキーを抜くと、スノーモービルから倒れるように降りた。
灯恵は、彼の元へ駆け寄り、肩を支えて起き上がらせる。
「一体どうしたんだよ?」
「俺のことなんてどうでもいい!とりあえず、これから話すことを聞いてくれ!!」
灯恵は、それでも彼の容態が心配だった。でも、そんなことをよそにサクは言う。
「いいか。まずお前が向かうべき場所は、網走ではなくて美幌町だ。」
「なんでだよ!一刻も早く、蒼のところへ行きたいのに...。」
「お前の足じゃ、この真冬の大自然を9時間も歩くなんて無理だ。」
「それでも、やらないとみんなを助けられない!」
「最後まで聞け!美幌町にはAIM軍の後陣がある。そこへ行って事情を話せば、網走まで車で送り届けてくれるはずだ!美幌町までは歩いて5時間かかるが網走よりかはマシだ!」
サクは、話し途中に血を吹き出してその場にしゃがみこんだ。背中を銃で撃ち抜かれているのが原因なのだろうか。地面に座り込み握っていた拳を開くと、スノーモービルのキーがあった。彼がそれを灯恵に突き出す。
「お前、スノーモービルを運転したことあるか?」
「ないよ。」
「原付は?」
「えっと、ちょっとだけなら。」
「上等だ。このスノーモービルで美幌町まで行け。ガソリンは持たないかもしれないが、距離は十分に稼ぐことができる。」
スノーモービルなんて運転したことない。それに原付は、仲の良かった不良の先輩に少し運転させてもらっただけで免許すら持っていない。
サクは、戸惑う灯恵に対してぐいっとキーを押し付ける。
「それでも、やらないといけないんだろ??」
灯恵が半ば強制的にキーを手に取ると、サクは話を続ける。
「そして、これが俺からの最後のお願いだ。」
サクがスノーモービルの後部座席を指差すと、そこには気を失った4歳くらいの少女が横たわっていた。灯恵は、それを見て驚く。なぜなら気を失っている少女は、つい数時間前に公園で一緒に遊んだ恋白だったからだ。血相を変えて恋白に駆け寄り、身体を揺すったり声をかけるが何の返事も返ってこない。
「何だ、知り合いなのか?」
灯恵は頷いた。
「なら話は早い。その子を連れて逃げてくれないか?
まだ生きているが、早く病院へ連れて行かないと、最悪のケースになるかもしれない。」
「わかった。恋白を連れて、必ず美幌までたどり着く。」
サクは、その言葉を聞いて安心すると立ち上がり、死んだ銃騎兵が所持していたライフル銃を奪い取る。
「早く行け。騎兵隊がまた追ってくるぞ。」
市街地の方を見ると、敵の応援部隊が数騎こちらへ向かってきていた。
もう行くしかないんだ。灯恵は、目を開けない恋白を優しく見つめ、そして彼女の額に手を当てて誓う。
「絶対に私が守るから。」
スノーモービルにまたがってキーを捻る。激しい轟音とともにエンジンがかかり、車体が激しく振動し始めた。サクが簡単な操作の説明をしてから灯恵に言う。
「蒼に伝えてくれ。俺がバカだったと。」
彼は、自分が犠牲になり2人を逃すつもりだ。
「何言ってんだよ!恋白を抱えれば後ろに乗れるだろ!一緒に逃げよう!」
彼が首を横に振る。
「俺には、まだやることがあるんだ。」
「バカなこと考えるなよ!死んだら復讐も解決も何もできなくなるんだ!早く乗ってよ!!」
「つべこべうるせえガキだな!俺は男として、自分が汚したケツは自分で拭きてえだけだ。もう何も言うな。」
自らの命を自分達の為に捨てようとするサクに対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。それにぶつかってばかりだったが、サクにも良いところは沢山ある。そんな彼にこんな所で死んで欲しくない。
「生意気で悪かったよ。でも私は、もう誰にも死んでほしくないんだ!!」
それを聞いたサクは、力のない笑みを浮かべる。
「ふ、誰にも死んでほしくないか...。」
灯恵が息を荒げる。
「こんなに自分勝手で、如何しようも無い俺でもか?」
灯恵は何度も頷いた。サクは、そんな彼女の頭をくしゃくしゃ撫でた。
「ありがとな。」
「本当に乗らないの?」
「ああ。乗らねえ。」
彼の気が変わることはなさそうだ。灯恵は、そんなサクの目をまっすぐ見つめる。
「絶対に、また会えるよな?」
サクが遠く北見の街を見渡した。
「ああ、きっと会えるさ。」
「じゃあ次あったらどうする?」
サクは少し考えた。目の前には、涙目になった灯恵がいる。いくら生意気なガキとはいえ、彼女も1人の女性だ。最後くらい弱音を吐いても良いかと思いかけるが、そんな気持ちを振り払い最後まで強がり続けることに決めた。
「よし決めた!次に会った時は、アイヌの伝統料理をふるまってやるよ!」
サクが強がっていることくらいわかっていた。彼女は涙を拭い、溢れ出しそうな悲しみを押さえ込むと明るく答えた。
「え、食べたい!約束だぞ!」
サクが小指を立てる。
「おう!指切りげんまんだ!」
灯恵もすかさず腕をあげて小指を交わした。
そうこうしている間に、騎兵隊の鬼畜どもが接近してくる。今度来た奴らは、槍騎兵たちであった。彼らは、汚い笑みと死んだ目をこちらへ向けてくる。
「さあ行くんだ!蒼や先生、それに親父たちに、ここで起きた全てを伝えてくれ!そして、その少女を守り抜いてくれ!」
灯恵は、もう泣いていない。そして力強く頷くと、
「行ってきます!」
そう言ってアクセルを回した。
スノーモービルが動き出す。サクはすでに町の方を向いていた。彼が右手を真横に突き出すと、握り拳に親指を立てる。灯恵もそんな彼の背中をみて、左手で同じく拳を握って親指を立てた。そして、アクセスをフル回転させると猛スピードで美幌町方面へと向かったのだ。
◇
スノーモービルなんて運転したことがない。そんな灯恵だが、持ち前の要領の良さと運動神経でなんとか乗りこなすことができた。恋白に怪我をさせないように気を使いながらも夜の森をひた走る。
森にはたくさんの樹氷が乱立していて、一つ間違えれば衝突して命はないだろう。一回一回のハンドリングが真剣勝負。もう背後の追手を気にしている余裕すらなかった。
20分くらい進んだところでガス欠が起こる。できるだけ先へ進むために、斜面の道を選んで最後の走行を行い、ある程度進んだ先にあった平地で停車。スノーモービルを降りてすぐさま背後を確認したが、もう騎兵隊は追ってきていないようだ。
すると、圧迫されていた心に安堵感が広がり、スノーモービルに寄りかかると深呼吸をして気持ちを整えた。しかし、安らいだ気持ちは、また一瞬のうちに不安へと変わる。
いつ凍え死んでもおかしくない寒気。スノーモービルに取り付けられている温度計は、マイナス10度を指している。 真っ暗な夜の森。美幌町まであとどれくらいあるのかもさっぱりわからない。東へ30キロ進めば着くとサクに言われていたが、携帯も持っていなければ地図すら持っていない。騎兵隊の魔の手から逃れたからといって、絶望的な状況が変わることはなかった。
灯恵は、後部座席の恋白を抱きかかえて降ろす。この気温と強風によって体温の低下が著しく、彼女の顔色は非常に悪かった。このまま先に進んでも生き残れるとは考えられない。とりあえず、体温を取り戻すために火を起こすしかない。
何か火を起こせそうな方法がないだろうか。これまでサバイバルはおろか、キャンプすらしたことがないのだ。なかなか良いアイデアが出てこない。 唯一の明かりであるスノーモービルのライトも、弱まってきているような気がする。焦りを覚えながらポケットに手を入れ、かじかむ手を温めようとした。その時、中にライターがあったことを思い出す。寮にいた時に結夏からお使いを頼まれ、そのまま渡せずじまいだったのだ。
しかし、ライターだけでは焚き火を起こすことは不可能である。灯恵は、スノーモービルの荷物入れを物色して、火を起こす素材になるような物を見つけ出す。それは防寒用毛布である。
毛布は2つ入っていたので一枚を恋白に着せた。それから、もう一枚を丸めて雪の上に置く。そして、燃料タンクに残った水滴程度のガソリンをティッシュで拭き取り、そのガソリンの染み込んだティッシュを毛布の上に設置してライターで着火。見事に火は毛布に燃え移り、小さいが立派な焚き火が完成した。
灯恵は、火から程よい距離に恋白を寝かせる。それから、スノーモービルの荷物入れをさらに確認して、懐中電灯と非常食の乾パンを入手。また、何に使えるかわからないが念のために熊避けスプレーもカバンに詰め込んだ。
作業がひと段落すると、彼女も恋白の隣に座って焚き火で暖を取った。空を見上げると、こんな惨劇の1日にも関わらず、月がハッキリと顔を出している。月の光というものは、あるのとないのでは全然違う。光が真っ白い雪に反射して、真っ暗な森なのにどこか仄暗く、ちょっぴり視界が確保できた。
とはいえ、全く知らない極寒の大自然にとり残されている状況。身体の震えが止まるはずもない。しばらく火に当たっていると眠気が押し寄せてくる。あれだけ怖い思いをして死ぬ気で走ったのだから当然だ。でも、雪山で眠ってはいけないことくらい知っている。どうにかしよう考えるが、思考力も大分鈍っている。灯恵の体力は、既に限界にまで達していた。
このままではまずいと覚悟を決め、力を振り絞って立ち上がると恋白を背負った。落っことさないように自分と恋白に帯を巻きつけてキツくに縛る。そして、スノーモービルのダッシュボードから見つけ出したコンパスを手にとり方角を確かめた。
それから彼女は、身体的にも精神的にもズタボロな身体を引きずるように歩き出す。いつたどり着けるかもわからない目的地へ向かって。
◇
仄暗い雪の森で、灯恵は恋白を背負いながら懸命に前へ進む。人を背負っているから体重も増え、そのおかげで足が雪に埋まって動けなくなりそうな時もあった。
風が時折、強く吹いたり止んだりしている。吹きすさぶ雪の粉が顔に当たると、切り裂かれたような痛みが走る。眠気さえなければ、もう少しだけ火のそばにいても良かったと常々思った。
1時間くらい歩いた頃だろうか。数十メートル先の木陰からモクモクと煙が上がっているのが見えた。構っている暇はないとは言え、このまま進めば凍死してもおかしくはない。
彼女は、焚き火であることを祈りながら、煙の方へ進んでいく。そして、その煙の根元には、赤く眩い焚き火が用意されていた。まるで誘っているのかのように、いやらしく燃え盛っている。それに近づけば近づくほど、暖かさを感じられるような気がした。
灯恵は、吸い寄せられるように焚き火に接近する。けども、寄れば寄るほど、その焚き火に違和感を感じはじめた。異様な匂いが漂っているのだ。まるで戦場のような何か奇怪な匂い。
しかし彼女は、凍死するかしないかに迫られているので匂いなど気にせず近づいた。だが次の瞬間、全身を鳥肌が覆う。
焚き火には、バラバラにされた人の部位が串に刺されていて、まるで焼き鳥のように焼かれている。それに近くに置いてあるペットボトルには、血液のような赤い液体が入っていた。そして枝に吊るされたロープには女性の生首が吊るされていて、既に血を抜かれてミイラ化している。
すぐさまその場を立ち去ろうとしたが、焚き火の奥で何かゴソゴソ動いているものを目撃してしまう。彼女は、恐怖によって金縛りにあっているのか、身体が全く動かなくなってしまった。そして、そのうごめく何かがこちらを振り向いた。
男だ。包丁を持った男が、誰かの内臓か何かを食いちぎっていた。振り向いた男と目が合う。するとその男は、無機質な表情で口角を釣り上げた。
「今日の僕、ついてるなぁ。」
まるで死んだ魚のような目でこちらを見つめてくる。灯恵は、動けない身体を動かそうと、首を思い切り降って金縛りに抵抗する。しかし、なかなか思うようには行かず、その間にも男が少しずつ近づいてくる。
「次はどんな料理にしようかなぁ?
あの男を殺害するために、スタミナつけたいしなぁ。」
灯恵は死に物狂いでもがき、ようやく身体が動くようになったが足の震えが尋常じゃない。
彼女は、恐怖が支配する空間から少しでも遠ざかろうと、後退りをしながら少しずつ距離を取る。
その男は、怯える彼女を見て、よだれを一滴垂らす。
「よし決まり!今夜のメインディッシュは、少女のスタミナ丼にしよう!」
彼は、早歩きで近寄ってくる。灯恵は突然すぎて驚き、その場で転んでしまう。
男は彼女に近づくと手を伸ばす。
「いいねぇ。獲物のそういう絶望した顔を見ると、味も格段に良く感じるんだ。」
薄気味悪い男に足を踏みつけられる。
「気持ち悪りぃよ!離せ変態!!」
「ほお、背中に背負っている小娘も美味しそうだ。」
灯恵は、男が恋白をガン見していることに対して、恐怖以上のこの上ない怒りが湧き上がった。男が迫り、灯恵へ馬乗りとなった。その時、彼女はあることを閃く。
「まずは、生きたまんま味見してあげるよ。」
気持ち悪い御託を並べる男。灯恵は、そんな鬼畜の目を見て言い放つ。
「できるもんならやってみろよ。」
男がまた広角を薄っすら上げる。
「ほお、素直でいい子だ。」
男は口を大きく開けて、灯恵へ顔を近づけた。しかし、灯恵がニンマリ笑うと、
男の顔が曇る。
「何がおかしい?」
灯恵は、バックの中から右手を抜いて、持っている物を男の口に突きつけた。
男の眉間にシワが寄る。
「これは、熊よけスプレー!!」
「死ね。」
彼女がスイッチを押し込む。すると、男の口の中めがけて、ガスが勢いよく噴射した。男は、咳き込みながら後ろへ倒れこみ、苦しそうに地べたでもがき倒れている。彼女が残るガスを全て男にぶちまけると、彼は悲鳴を上げながら目を抑えていた。
灯恵は、男が動けなくなっている間に身体を起こし、全力でその場から走り出す。止まればきっと滅多刺しにされて食い殺される。とにかく逃げねば。
降り積もる雪に足を取られながらも、東へ向かって走った。走って走って走って、たまに滑りかけて、それでも走り続けた。気持ちに余裕が持てずに、懐中電灯をつけることすら忘れて前へ進む。
しかし、無意識というものは凄いものだ。もしかしたら、人間の潜在意識の中にある野生の本能が目を覚ましていたのかもしれない。走り続けている間は、こんな仄暗い森にも関わらず視界がハッキリと映し出されていた。
もう何分走ったかわからない。体感的には、30分以上全速力で駆け続けていた気がするが、身体は限界をとうのむかしに超えていたようだ。全身が破裂しそうなくらい痛い。それに、脈は尋常ではない速さでリズムを刻んでいる。
そんなもんだから落ちていたデカい石に気づかず、足を引っ掛けてその場に転倒。過呼吸のような状態に陥り、しばらくその場を動けなかった。
さっきまで聞こえたいた風の音すら曖昧だ。元から雑音の少ない白銀の世界と全身の疲労によって、聴力すら異常を来しているのだろうか。周囲がまるで、真空の空間のように感じられる。彼女は寝返りをうって横向きに寝そべる。本当は仰向けになりたいところではあるが、恋白を背負っているから仕方がない。
少し休むと荒い呼吸が僅かに落ち着いた。耳も少しずつ元に戻り、風の吹きすさぶ音が聞こえてくる。だけどそれは、恐怖再来の足音に過ぎなかった。
◇
風の音に紛れて、雪を踏みつけるような音が少しずつこちらへ近づいてくる。灯恵は、激しく痙攣する腹部を抑えながら身体を起こすと、目の前にあの忌々しい人食い男が立っていた。絶望のあまりに何も考えられなくなる。もう熊よけスプレーも残っていない。かと言って、武器になりそうな物を他に持っているわけでもない。どうして良いのかわからない。
彼女がまた後ろを振り返り逃げようとするが、今度は足が思うように動かない。慌てて確認すると、さっき岩にぶつけたところが酷く腫れ上がっていた。
そうこうしている間に人食い男は、灯恵の真後ろまでやってきて恋白の肩に手をかける。そして、思い切り後ろに引っ張った。すると、緩んでいた帯が解けて灯恵は前のめりに倒れた。男が恋白の首を掴んで思い切りしめると、恋白が無意識の中で呻き声を上げている。灯恵は、それを聞くと立ち上がり、人食い男めがけて突進してタックルをかます。比較的ヒョロイ男は、恋白から手を離して雪の上に倒れこむ。灯恵が隙を見て恋白を抱きかかえようとしたが、男の動きは早かった。すぐに立ち上がり灯恵に近づく。そして次の瞬間、所持していた牛刀で彼女の脇腹を突き刺した。
灯恵は、そのまま血を垂れ流しながら雪の上に倒れる。最後の最後まで恋白を守ろうと、彼女に覆いかぶさる形で仰向けになって。
脇腹が熱い。まるでドライアイスで焼かれているような感覚だ。手先の雪がヌルヌルし出している。きっと自分の血液なのだろう。真上を見ると、男が死んだ魚のような無表情でこちらを見つめている。そして彼は、血液が滴る牛刀を灯恵の顔の上にかざした。落っこちる血の水滴が灯恵の口の中へ滴っている。
「どうだ?自分の血の味は?」
答えられず、ただ漠然とその死んだ魚のような目を見ていた。もう何も抵抗ができない。ガンつけたくても、目を尖らせる気力すら残っていない。思ったことを何も発せないが、あまりの痛みにより、苦痛の声はいくら堪えようとも自然と出た。
そして頭が真っ白になり、意識が遠のいていく。もうダメだ。この24時間で既に3回は、そう弱音を吐いてしまった。瞬きをすることすら辛い。
死神のような人食い男は、こちらを見下すような視線で見つめている。そして彼は、何かぶつぶつと呟いていた。灯恵には、そんな声すら聞こえてこない。冷静を装っている余裕など、もはや皆無なのだ。
男が包丁を灯恵の方へ向ける。そして、思い切り彼女を目掛けて突き刺そうとした。灯恵は、目を閉じて自分の命運を悟った。刃物がこちらへ向かってくる。こいつの養分になるのは屈辱的ではあるが、それ以外の選択肢なんてない。
先生がこの前言っていた。死ぬときには、三途の川という透き通った浅い綺麗な川が見えるんだと。そして、その向こうからあの世の者が自分の一番好きだった何かに姿を変えて迎にくるのだと。だとしたらきっと、天国にいるであろう気流斗が迎えに来てくれるはずだ。そんな妄想に逃げ込むしか、現実の殺戮と死というものから逃れる術がない。
彼女は覚悟を決めていた。しかし、一向に三途の川も見えてこない。それに、あの世からの迎えも来ない。
先生の嘘つき。そう思いながら、重いまぶたをゆっくりと閉じた。
◇
人食い男こと仁別甚平は、灯恵から牛刀を引っこ抜く。彼女が血しぶきを上げながら地面に落ちていくさまを、まるで芸術作品が完成した時のような満足した顔で見つめた。そして、倒れて悶え苦しみ死に抗おうとする彼女を冷酷な目で見下した。
牛刀を振りかざし、灯恵に狙いを定める。
「リンちゃん。僕ね、また良い食材に出会えたよ。」
それから牛刀を勢いよく突き出す。
しかし、甚平の狩りに突如として邪魔が入った。何処からか飛んできた銃弾によって、牛刀を握っていた右手が撃ち抜かれる。銃声すら聞こえず、全くもって予測がつかない妨害である。更に2発3発と発された弾丸によって、腕と足を撃ち抜かれる。
「うぎょあぁぁぁぁぁ!!!」
甚平は、気持ち悪い奇声を上げながら、その場から離れて樹氷の影に身を潜めた。そして、銃弾に注意を払いつつ顔を出す。すると、地面に倒れる2人の少女の隣に、防弾チョッキを着た背の高い銀髪の女性が立っていた。彼女がスナイパーライフルを片手に、こちらをジッと見つめてくる。
甚平は、あまりにも突然だったので、つい冷静を取り乱していた。けども、深呼吸を何回かしているうちに普段の自分へと戻っていく。そしてまた、確認のために顔を出す。
すると銀髪の女は、武器をライフル銃に切り替えて、こちらを狙い撃ちしてくる。
『あの女は何者なんだ。そして、僕が見つけた最高の食材をなんで守ろうとするんだ。あの女もカニバリズムか。』
そうこうしている間に、銀髪の女は少女達を自分のスノーモービルへ乗せた。そしてこちらを振り返る。
「お前、黒の系譜だな??」
その言葉を聞いた瞬間、甚平は彼女が何者なのかを悟った。そして大きな声で叫ぶ。
「そうか!一目見ただけで見抜くとは、君はメンターの1人かい??」
「さあね。」
「こんなところでメンターにお目にかかるとは、予定が狂うんだよね。」
銀髪の女は問う。
「お前の目的はなんだ?」
「なんで君に教えなくちゃいけないんだい?」
「言わないと撃つよ!」
「言っても撃つんでしょ?」
「態度次第だな!」
銀髪の女は、自分と負けず劣らずの冷酷な殺意を放ってくる。甚平は、熟考した上で投げ捨てるように言う。
「ただの食材探しだ。」
それから隙をついて樹氷の反対側から顔を出し、投げ斧のような分厚い包丁を気絶している少女たちめがけて投げつける。銀髪の女は、その投げ斧をまるでシューティングゲームの感覚で撃ち落とした。そして甚平の方を振り向いたが、彼の姿はもうどこにも見当たらなかった。
ただ薄っすらと北見の方角へ向かう足跡が残っていたが、彼女は追撃することもなく少女の応急処置に当たったのだった。
一方の甚平は、野山を勢いよく突っ走る。灯恵に吹きかけられた熊よけスプレーによる後遺症が彼の身体を蝕んでいた。ある程度距離を稼いだあたりで、岩陰に身を潜めて座り込む。それからポリ袋に入った誰かの内臓をまるでおにぎりのごとく頬張りながら呟いた。
「大好物を目の前で食べられた気分だよ。リンちゃん。」
仄暗い月の明かりが、彼の気味悪い人相を照らし出した。
◇
メンター、黒の系譜、よくわからない単語が飛び交っていた。意識が朦朧としていて視界もぼやけており、まるで夢と現実の間を行き来しているかのようだ。誰かが自分を助けてくれたような気がするけど、それすらも認識できていない。私はもうこの世から消されてしまったのか。そう思っていると、真っ白だった視界が徐々に明るくなっていく。同時に脇腹の激しい痛みも押し寄せてきて、あまりの痛みに声を上げて目を覚ます。
するとそこは、相変わらず白銀で極寒の世界だ。いくつか変わっていることと言えば、人食い男の姿が見当たらないこと。そして、近くに誰かが焚いてくれたであろう焚き火が、黙々と煙を上げていることだろう。彼女は痛みと体温を感じることで、自分がまだ生きていることを認識する。
それにしても、誰が助けてくれたのであろうか。命の恩人の顔も声も覚えていない自分が情けなかった。
ふと恋白のことを思い出し周囲を見渡すと、焚き火から程よい距離に彼女が寝ているのが確認できた。脇腹の痛みを死ぬ気でこらえて彼女の側へ寄った。そして彼女を揺すったが、いまだに起きる気配はなかった。でも脈は正常なので、生きていることは確かである。恋白の横に座り、お互いがまだ生きていることに安堵を覚えた。
しかし、試練は終わったわけではない。ここから街まで、歩いて向かわねばならないのだ。動くだけで、身体が引きちぎられるような痛みが走る。それでも彼女は、恋白を背負って歩き出す。
深い雪の森を10分くらい進んだ時、目の前が急に開けて広大な雪原が現れた。そして、雪原の真ん中に街灯がちらほら目立つ町があることがわかった。風が昨日よりも強く吹きすさんでいる。まるで、彼女に最後の試練を与えているように。
灯恵は、町を見ると最後の力を振り絞り歩き出す。足を雪にうもらせながらも一歩一歩と夜の雪原を進む。寒い上に半端ない激痛。
挫けそうになると毎回思い返すこと。それは、紗宙や結夏、サクの犠牲の上で今の自分がここにいること。そして背中には、恋白という少女の大切な命を背負っていることだ。だからこそ、必ずや町へ辿り着いてみせなければと気持ちを奮い立たせるのだ。
折れそうな骨、引き裂かれそうに痛む腹、凍傷で膨れ上がる指。自分がどれだけズタズタになろうとも、自分が背負っている責任を果たすために前へ進む。またそれ以上に、4人を救いたいという強い思いが限界を超えた彼女の心を突き動かすのである。
30分かけてようやく町へ入る。立ち並ぶ家屋は、どこも電気がついていない。普通に考えてみれば、こんな真夜中に起きている家なんて早々にないだろう。それに戦時中の北海道である。24時間営業のお店なんて、札幌くらいにしか存在しないのだ。
彼女は、サクに言われた場所を探して街をさまよい歩いた。彼の言っていたAIM軍後陣は、深夜でも死傷した兵隊を救護できるように、24時間体制で仕事をしているのだという。
しばらく歩いていると、ついに彼女の足が悲鳴をあげる。ゴリっという音とともに、彼女の身体は地面に崩れ落ちた。あいにく雪が降り積もっていたため、擦り傷を負うことはなかった。けれども足にはとてつもない痛みが走った。もう気が狂って一層のこと死んで楽になりたい。だけども彼女は、歩くのをやめない選択をする。
必死に手探りで何か杖になるような物を探すと、道の隅にあるゴミ捨て場にシャッターを閉める棒が置いてあることに気がついた。彼女は、恋白を背負ったまま匍匐前進で近づいて棒を手にする。それから棒にすがって立ち上がり、それを地面につきながらまた歩き出す。
5分くらい歩いたが、体感では何十分も歩いているようだ。しばらくすると、町外れの雪原に眩い明かりを放っている陣があることを確認。そこには、いくつもの旗が建ち並べられていた。
それはまぎれもなく、AIM軍の旗だった。
◇
美幌町のAIM後陣は、新たなる動きを見せつつあった。俺とカネスケは、網走の本陣にて先生から紋別騎兵隊討伐の許可をもらう。そして、少数ではあるが、軍を引き連れて美幌町まで戻ってきたのだ。
寒風吹き荒れる雪原に敷かれた大規模な後陣。俺は、篝火を見つめながら紗宙のことばかり考えていた。紋別騎兵隊は、獰猛な連中である。彼女がすでに、ひどい目に遭わされているかもしれない。考えるだけで胸が張り裂けそうだ。
カネスケは、紗宙のことしか考えていない俺に呆れている。
「彼女のことを思う気持ちはわかる。俺も暇さえあれば結夏のことばかり考えていたい。でも、危険な状況にあるのは俺たちも同じだ。なんと言っても、あの先生の注告を振り切ってまで押し通した行軍なんだからな。」
「そんなことわかっている!余計なこと言うな!!」
カネスケは、冷静を保って切り返す。
「まあとりあえず、今はどう北見へ攻め込むか作戦を考えようぜ。」
俺は、つい感情的になったことを謝罪したが、特に気にしてはいないようだ。彼は早々に作戦の話へと切り替えた。
「しかしなぜ今すぐ夜襲を仕掛けてはいけない?」
「状況がまるっきり掴めないからだ。俺らは、北見の街が破壊されたことしかわかっていない。一体敵がどのくらいいて、これからどう動こうとしているのか。それにサク軍の現状も。」
「騎兵隊は、AIM軍の関係者やこちらの斥候をことごとく殺しているのだな。」
「だから俺たちも負ければ逃げれる保証は無い。死ぬか生きるかってことだ。」
俺は、色々な意味で騎兵隊に対して激しい憎悪を覚えるのである。そんな会話をしていると、門番の兵士が血相を変えて駆け寄ってきた。
「子供を背負った中学生くらいの少女が、門の前で横たわっております。」
「こんな時間に変だな。スパイかもしれないぞ。」
「それが、どうやら小声で、北生さんや直江さんの名前を呼び続けているのだそうです。」
そんなガキが何で俺たちの名前を知っているのか。初めは不思議でしかなかった。子供をスパイとして敵陣に送り込む。紋別騎兵隊みたいな鬼畜どもなら、やってきてもおかしく無いだろう。
しかし、冷静になって考えた時、ハッと気がつくのであった。北見には灯恵もいた。もし彼女が、ここまで何らかの方法で戻ってきていたとするのなら...。
俺は兵士を押しのけ、カネスケとともに急いで陣の入り口まで向かう。そして、俺たちが到着したそこには、兵隊たちに取り囲まれた死にかけの少女の姿があった。足は変な方向に曲がり、顔や手は霜焼けで腫れ上がり、洋服は血しぶきで赤く染まっている。俺とカネスケは、顔を確認して胸が苦しくなった。その少女は、紛れもなく灯恵である。
俺は、変わり果てた彼女の姿に呆然としながらも、すぐに彼女に近寄ると声をかけた。
「おい!灯恵!しっかりしろ!!」
彼女は、掠れた声で反応する。
「蒼...蒼...な..のか?」
「ああ、俺だ!」
そう答えてから、俺はすぐに灯恵の背負っている女の子をカネスケに背負わせる。そして、灯恵を背負って救護室へ直行。救護室に向かっている最中、彼女は俺に尋ねた。
「恋白...は...無事...?」
「あの女の子なら大丈夫だ!まだ生きている!」
灯恵が微かな笑みを浮かべる。
「そ...か...。安心...し..たよ。」
彼女は血を吐き出しながら、なおも話を続けようとする。
「もう喋らなくていい!楽にするんだ!」
灯恵はそれでも話を続けた。
「紗宙と...結夏が、騎兵隊...に攫われ...た。」
それを聞いた俺とカネスケは、普段であれば冷静さを失っていただろう。けども今は、灯恵の命がかかっている。北見で起こった惨劇のことはとりあえず置いておき、彼女に不安を与えないように冷静になった。
彼女は、吹き上がる血をこらえているのだろうか。口の中から溢れるように、赤い液体が流れ落ちている。
「サク...は、私...を守る...ために...。」
そこまで話たところで何も喋らなくなった。振り返ると、彼女は意識を失っている。俺は、彼女を死なせまいと急ぎ救護室へ連れ込み、医師に手術の依頼をしたのである。
◇
もう夜は明けているというのにまだ夜の闇の中をさまよっているようだ。窓から暖かい朝日が差し込んでいる。だがそんなもので、今の心を温められるはずがなかった。俺は、度重なった悲劇と捲き上る様々な思いから心に整理がつけられずにいた。
出陣まであと30分。それなのに気持ちが切り替えられない。網走攻撃に参加せず、紗宙のそばにいたとしたら。あの日、結夏に北見へ行って良いなんて言わなければ。サクとしっかりコミュニケーションをとり分かり合えていれば。きっとみんなも、灯恵もこんなことにならずに済んだのに。全て俺が悪かったんだ。
そう思うと、悔しさのあまりに壁を何度も殴りつける。腕の痛みすら分からぬくらい心が荒廃していた。そんな時に、カネスケが俺のところへやってくると、ボロボロになった俺の拳を掴んだ。
「使い方間違ってるだろ!」
「離せ!離してくれ!!」
彼は声を荒げる。
「この壁を壊したところで誰も救われねえよ!」
「わかってる!でも、みんながこうなってしまったのは、リーダーである俺の責任なんだよ!」
「違う、蒼1人の責任なんかじゃねえ。俺にも責任はある。」
俺は、投げ捨てるように言う。
「俺は、リーダー失格だな。」
すると、カネスケが俺の顔を思い切りぶん殴った。そして、怒りをあらわにしてこちらを見る。
「その言葉。2度と口にするな。」
俺も反射的にブチ切れる。
「てめえ何しやがんだよ!!」
けどもカネスケの怒りはそれを上回るものであった。
「その言葉は、お前のこと信じてついて来た人間や、関わって来た人間に対しての冒涜だぞ。もう2度と俺の前で言うんじゃねえ!!」
俺は何も言い返せなかった。この人生において、同級生のチンパンジーどもにぶん殴られたことは何度もあったけど、友達から殴られたのは初めてだ。あまりのショックと屈辱感に苛まれ、立っている事すら苦痛に感じたので、気が抜けたように壁に寄りかかってしゃがみ込む。
同じくカネスケも、何も言わず壁に寄りかかった。数分間の沈黙。俺はただ、何も考えずに廊下の床を眺め続けていた。
しばらくすると、少しは気持ちが収まってくる。俺は立ち上がり、勇気を出してカネスケと向き合った。
「俺が間違ってた。ごめんな。」
彼もボソっと答える。
「殴って悪かった。」
俺は、目を合わせているのが辛くなり、廊下に差す朝日に目を向けた。
「過ぎたことを変えることはできない。3人をどう助け出すか。紋別騎兵隊を滅ぼすか。この2つだけを考えることにする。」
「リーダーはそうでなくちゃな。」
「気づかせてくれてありがとう。」
カネスケは、力強く温かい声で言う。
「気にすんな!騎兵隊がどんだけ強い奴らなのか知らねえけど、俺たち2人が力合わせれば何とかなるだろ!」
俺の心は、少しずつ希望に満ちていく。
「ああ。お前と2人なら、どんな壁もぶっ壊していけるはずだ。」
カネスケは壁に寄りかかるのをやめる。
「お互い大事な人を奪われてんだ。必ず助け出そうぜ。」
「当たり前だ。俺はこの腕で必ず紗宙を助け出す。そして、この拳で騎兵隊を地獄に落としてやる。」
彼は笑顔で言った。
「リーダーの腕の見せ所だな。」
俺は胸を張る。
「任せろ。必ずや勝利に導いてやる。」
こうして俺たちは、次の戦いに向けてまた歩き始めるのだ。ズタボロになった拳は、この日の思いを忘れるなと言わんばかりに痛みを放っていた。
◇
カネスケが病院を出てから、俺は1人で灯恵の病室へ向かった。部屋に入ると、ベットの上に包帯だらけの15歳がスヤスヤと眠りについていた。俺は彼女の手を握る。
「本当にありがとな。お前がここまで繋いでくれた思いを俺は絶対に無駄にしないから。必ず勝利してみんなを助け出すから。ここでゆっくり休んでいてくれ。」
一瞬だけ彼女も俺の手を握り返したように感じる。俺は、そんな彼女や関わったみんなの思いを背負い、リーダーとして紋別騎兵隊と戦うことへの覚悟を固めた。窓からは相変わらず、眩く暖かい光が差し込んでいた。それはまるで、俺の冷めきっていた心に火をつけるかのように。
(第四十五幕.完)