第12話 万葉集

文字数 1,060文字

 部屋でのろのろと制服を脱いでいると、早くも車が出て行く音がした。増永もご苦労なことだ。
 今頃、藍はどうしているだろう。大学棟の研究室とやらで、あのキザな新任教師と微笑み合っているのだろうか。
 そう思っただけで、胸がギリギリと痛む。藍の「お手伝い」は始まったばかりだというのに、今からこんなことでは体がもたない……。
 
 部屋着に着替えてしまうと、ほかに何をする気にもなれず、翔はソファにうずくまり、ただ藍が帰って来るのを待った。今にも増永の車の音がしないかと、耳をそばだてながら。
 ときどき、ソファから伸び上がって窓の外を確かめながら、永遠とも思えるような時間を過ごしたが、実際には、翔が洋館に着いてから、ほぼ一時間後に、藍を乗せた車が戻って来た。
 
 
 木立の間の道を、車が滑るように近づいて来るのを認め、翔は、部屋を飛び出した。階段を駆け下りて玄関ホールに着くと、ちょうど藍が入って来たところだった。
「あら、翔。ただいま」
 息を弾ませている翔を見て、藍が微笑む。
「おかえり」

 一緒に階段に向かって歩きながら言う。
「今日は何をしたの?」
「まだ、これと言ったことはしていないわ。初日だもの。いろんなものの場所を確認したりしていたら、あっという間に時間が経ったわ」
「そう」

 階段を上りながら、藍がカバンをちょっと持ち上げて言った。
「万葉集の初心者向けの解説書を貸していただいたの。これから読まなくっちゃ」
 藍は、とても楽しそうだ。
「そう……」
 三階に着くと、藍は自分の部屋に向かって、さっさと歩いて行ってしまった。
 
 
 夕食の時間も、藍はずっと、万葉集について話し続けた。
「万葉集って、日本最古の和歌集なのよ。知っていた?」
「それは、まぁ」
「万葉集には、いくつくらいの和歌が収められているか知っている?」
「えぇと……四千、いくつだったかな……。わからないよ、いくつ?」
「四千五百……その先はちょっと忘れたけれど、とにかくそれ以上よ」

 今のところ、藍の万葉集に関する知識は、翔のそれとあまり変わらないようだけれど、これから勉強するということなのか。
 万葉集というよりは、万葉集の研究をしている鮎川に興味があるのではないかと思ってしまうのは、翔の偏見だろうか……。
 
 
「ねぇ、後で……」
 夕食が終わり、部屋に戻る途中で、翔がそう言いかけたところで、藍が口を開いた。
「これからまた、解説書の続きを読まなくちゃ。お手伝いをするつもりが、知識不足で返って先生の足手まといになったら困るもの」
「そう……」
 翔は、口をつぐむしかなかった。
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