第13話

文字数 1,926文字

 部屋に取り残された丹野は呆然としていた。「距離を置きたい」と言われたのも初めてなら、日頃から大人しい結衣が激昂した姿を見たのも初めてだった。

「貯金しなければならない、その為には・・・」

 そう考えると頭痛がしてきた。さっきまで、吸いたいと思っていたタバコも吸ってしまうと、頭痛に吐き気が加わりそうな気がして止めた。もう寝てしまおう。そう思った時、丹野が見つめていたのは角の折れ曲がった岡田の名刺だった。そこには「有限会社 アトム 代表取締役」という肩書が書かれていた。肩書に頼るわけではないが、頼みがそれしかないように丹野には思われた。転職しなければ・・・。


 翌朝、この日は夜勤なので、早起きする必要などないのだが、両親も結衣も誰もいない場所で一人、もがき苦しむという夢を見てしまったせいか、夜中に起きてから一睡もできていない。頼るところがなくなってしまった時の心細さがこれほど苦しいとは思わなかったというのが丹野の本音だ。10時になったら、岡田に電話をかけようと決心して、それまでテレビを見たり、スマホをいじったりして、やり過ごした。そうして過ごしても、時間の経つのは遅かった。ぼんやりとテーブルに向かっていると、丹野は結衣のことを思い出してしまう。

「俺は結衣に甘えていたのかな?」

 そう口に出して言うと、まだ完全に別れた訳じゃないのに、まるで結衣が自分の隣からいなくなってしまったような気がして、泣きたくなった。涙をこらえると、ウトウトし始め、その度に目を覚ますといったことを繰り返した。気が付くと、10時を30分ほど過ぎていた。


 丹野は冷蔵庫からお茶を取り出して飲んだ。目を覚ましてから、岡田の携帯に電話をかける。
「はい、岡田ですが」
 という掠れた岡田の声が聞こえた。
「あの、特養やまびこの丹野と申します」
「丹野さん・・・」
「覚えておられませんか?」
 丹野が藁をも掴む思いで問いかける。
「思い出しました。喫煙室でお会いしましたね。その節はありがとうございました。大変失礼いたしました。どういったご用件でしょうか?」
「実は、転職を考えているのですが、どのようにするのがいいのかと思って、相談させていただいきたく、電話をしました」
 岡田は実に冷静な声で、
「ああ、そういったことはまずハローワークに相談された方がいいですね。あなたはまだ若い、その気になれば、まったく業種を変えることもできます。これから結婚して家庭を作るかもしれないあなたには、私が手掛ける派遣ではいけません。何しろ、やまびこみたいに契約を切られてしまう可能性だって大いにあり得ますから。そうなるのであれば、正社員を目指す方がよっぽどいい」
 と話した。“その気”とは何なのだろうか?「もう三〇代だぞ!」と叫んでしまいたかった。「やまびとこの契約を切ったのはあんただろ!責任転嫁するなよ」そう怒りを表明したかった。しかし、丹野はそれらを飲み込んで、
「分かりました。ハローワークに相談します」
 と力なく話した。
「力になれず申し訳ない。また何かあったら電話を…」
 岡田が台詞を言い切る前に電話を切った。きっと、こういう厄介な相談を受けた時の常套句にしているのだろうと思った。後から冷静に分析できたと自画自賛した。

 丹野は事務室を訪ねた。永野施設長はデスクで作業をしていた。彼は丹野のことを待っていたという風に、立ち上がった。
「おお、丹野君、待っていたよ。例の件だね」
「はい、そうです」
「こっちで話そうか」
と小会議室に案内された。その間、彼はふと葛西を介助していた日々を思い出した。葛西の一挙手一投足から目が離せない時、風呂に入れた時、わずかでもしゃべろうとしていた時、それらの記憶が走馬灯のように駆け巡る。でも、葛西はもう施設にはいない。
「で、ユニットリーダーの件、検討してくれたかな?」
施設長に聞かれた丹野は間髪入れずに、
「はい、お願いします。ぜひ、やらせてください」
と話していた。
「そうか、ありがとう。ただでさえ、人が少ないときに苦労するとは思うけど、よく引き受けてくれた。フォローは十分にさせてもらうよ」

 施設長は相変わらず、軽薄だった。できもしない約束をしているように思えた。もう引き返せない、そう丹野は思いながら、どこか充足感を得ていた。結衣との結婚は、貯金は、転職はそれぞれどうするのか。もう丹野は先の事象を見据えることが出来ずにいた。まるで、放浪する旅人のようでもある。

 一通り、施設長に話をすると、彼は喫煙所へ向かい、紙巻タバコを吸い始めた。
「久しぶりのタバコだな」
そう言うと、じっくりとタバコを味わった。

 丹野が見せたのは覚悟ではなく、自暴自棄な自分の姿なのかもしれない。



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