終章・北海の娘

文字数 8,044文字

 交易島でスヴェルトは、島の商人を介して遠い国から来たという者と会った。夏の間に北海の珍しい物品を求めてやってくる遙か遠くの内陸の商人だった。
 景気や商売の話をした。興味はなかったが、肝心の用件の為には必要な事だった。島の商人は、スヴェルトを巨熊(きょゆう)と称される島の戦士の長だと話した。小柄な男はスヴェルトを見上げ、感歎したように礼をした。大陸の一国ではあったが、北海の者はそこまで行く事はないだろうと思われた。小柄ではあっても、中つ海の者と変わらず、柄は大きくとも南溟の浅黒い肌の商人に託すよりはまだ、違和感がないだろう。
 部族がそういった商人達に提供するのは主に、鯱や鯨の骨の彫り物。特に遊戯盤の駒が好まれた。時には駒の意匠を指定して欲しがる者もあるくらいだと言う。それと海獣の毛皮だ。北海独特の文様の毛織物も異国趣味の者には好まれるらしい。島の商人はそう言った商売の話に加えて、スヴェルトに初子が産まれるという話までした。
「それで、こちらとしては一つ、頼み事があるのだが」スヴェルトは話がひと段落すると言った。「若夫婦を一組、そちらで面倒を見て貰えんだろうか。末子の癖に子供を作っちまいやがって、勘当されたので他所で身を立てさせる事になったのだが、信用出来る引き受け手を探している」
 当方をそう思って下さるのなら、是非とも引き受けましょうと男は言った。
 スヴェルトは近くに待たせていた若い男女を呼び寄せた。
 ハザルとクロスだった。
 結局、二人はクロスの父親の嘆願も虚しく法外追放となった。それをジョスが退去の期限まで家で引き受けた。
「お前達を引き受けてくれる者がいる。随分と遠くなるが、そこまでは北海の者が行く事はないだろう。話は通したから、そこで修行して一人前にして貰う事だ。決して、俺達の領域には近付くなよ」
 クロスは脅えたように頷いた。相変わらず勇気も覇気もない男だった。スヴェルトの船でも小さくなっていたが、これは乗員がジョスの味方であったからかもしれない。
「これを持って行け」
 スヴェルトは二人にずっしりと持ち重りのする革袋を渡した。
「奥方からの(はなむけ)だ。感謝するんだな。あって困る物ではないから持って行けとさ。あれだけの迷惑を蒙ったのに、ここまでする女はいない事を忘れるな。赤子には罪がないからだと」
 全く、お人好しだと頼まれた時スヴェルトは思った。家に入れるだけではなく、二人を結婚までさせた。新生活には必要だからと銀まで持たせるとは思いもしなかった。そういう所はジョスは母親に似ているのだろう。
「気が向いたら、次にここへ来た時にでも様子を知らせてくれ。実際には両親も心配しているのだからな」
 次の夏にも同じような時期に訪う事を商人は約した。
 スヴェルトが離れる時、若い二人がその背に深々と頭を垂れた事には気付かなかった。ようやく下りた肩の荷に、安堵するばかりであった。


 島に戻ると、最早あの離れに戻る必要のない事をスヴェルトは思い出した。出航の少し前に新しい館への引っ越しは済ませていたのだが、脚はつい、慣れた道を辿ってしまう。
 集落の外れの静かな場所。戦士の館も市場も遠くはなるが、そこには自由な生活があった。
 ジョスには浜に出迎えに来なくとも良いとは伝えてあったが、念の為にミルドにもそれは頼んであった。そうでもしなければ安心できなかった。
 何をやらかすか、想像も付かない女。
 特に心配事がなければ退屈しないで済むものが、今はそれどころではない。まだ目立たぬが故に、本人が自分が身重だという事を忘れてしまっているのではないかと思う事もあった。
 だが、確かに、今回の子はしっかりと育って来ているようだった。ジョスの悪阻は相変わらず続いていたが、徐々にではあったが治まっている。食欲も出て来ているようだった。背後から抱き締めて眠るのが習慣になって来ていたが、時折、ジョスの腹部にそっと触れてみると、僅かだが膨らみが分るような気がするのだ。
 産まれるのは、冬の厳しい時期。だが、その分、強く育つだろう。
 スヴェルトは何時しかその時を楽しみにしている自分に気付いた。
 館が見えてきた。
 その下には、あの浜がある。
 近くにいるから、寂しくはないだろうと、つい、心の中で思ってしまう。
 恐らく、何人子を持とうと、どれ程の年月(としつき)を経ようとも、ジョスは唯論、自分もあの子の事は忘れることはないだろう。
 ジョスの大切さ、愛おしさを教えてくれた。
 いつか、兄に話す日が来るかもしれない。だが、今はまだ、その傷からは血が流れ続けている。ジョスも――いや、ジョスの傷の方が深かろう。それは、新しい生命が息づいているからと言って簡単に癒えるものではない。そういう心の傷も、スヴェルトは初めて知った。生命を奪う事を生業にしながらも、小さな生命に心を痛める自分に矛盾を感じる事はなかった。そういう生き方より他には知らなかった。
 生垣の所にジョスの姿があった。
 知らず、スヴェルトは笑みを浮かべていた。
 愛おしい女だ。
 自分以外の誰も、あの女を繋ぎと止める事は出来ない。いや、自分ですら、あの自由な心を縛る事は出来ない。
 あれは、空を自由に飛ぶ鳥。海を自由に泳ぐ人魚。
 それを自分が縛ってはいけない。自由であるのが、ジョスの本来の姿だ。それを無理に繋ぎ止めては、いけない。
 まさに、この北海に産まれるべくして産まれた存在だ。それを北海の男が愛さずにいられるだろうか。
 寝床で死ぬのは戦士の恥だと、スヴェルトはずっと思って来た。だが、今は、そうではないのかもしれないと思うようになった。
 ジョスや子供達、もしかすると孫達に囲まれて迎える最期も悪くないかもしれい。
 そう思わせてくれたのも、ジョスだった。
 死して後、詩や炉辺語りに名が残るばかりが生きるという事ではないのだ、と。愛しい者の為に生きるのも、幸福なものであるとジョスが教えてくれた。
 ゆっくりと、スヴェルトは歩みを進めた。

    ※    ※    ※

 ジョスはスヴェルトが近付いて来るのを、じりじりとしながら待った。
 走るのは禁じられた。
 誰もが激しく動く事を禁止する。島ではどれ程、母を嘆かせ、叔母達を怒らせた事か。ジョスの初子の流産を感じ取り、まだ不安定な時期に無茶をしてはいけないと言われた。その次は悪阻が治まるまで無理はしない事を約束させられた。しかし、出産の時期が近付けば、それはそれで早産の恐れがあるから無茶は禁物だと言われた。
 犬や羊のようには人間の身体は出来てはいないと、どれ程ローアン叔母に言われた事か。
 人間は、案外と弱い生き物だった。
 だが、スヴェルトの気遣いと優しさを享受出来るのは嬉しかった。それがあるからこそ、この不自由にも耐えられるのだ。スヴェルトとしては見張っているつもりなのかもしれないが、ジョスには、側にいてくれる時間が何よりも大切だった。
 この夏の終わりには、再び遠征へと出立する。
 それが毎年、行われるのだ。
 だからこそ、共にいられる時間の全てが大事に思われた。
 スヴェルトは、直ぐそこまで来ていた。ジョスは木戸からスヴェルトを迎える為に出た。
 どうしてこの人は、このような笑顔が出来るのだろうかと、ジョスが常に不思議に思う無垢な笑みが満面にたたえられていた。
「お帰りなさい」
 ジョスはそう言いながら、スヴェルトの首に腕を回した。
「ああ」
 短い言葉だったが、ジョスにはそれで充分だった。
「変わりはなかったか」
「ええ、取り立てて」
 ジョスはスヴェルトの目を覗き込んだ。「無事にすみまして」
「ああ、心配する事はない。二度と、あの二人がお前を煩わせる事はない。それ位遠方からの商人に託した」
 スヴェルトの言葉に、ジョスは微笑んだ。
「それにしても、あれだけの事がありながら、よくも許せるものだな」
 呆れたようにスヴェルトは言った。
「何度も話し合ったではないですか。それを、もう一度ここで繰り返すのですか」
「いや」
 スヴェルトは笑った。「お前に意見しても無駄だ。それよりも有益な事があるだろう」
 そう言ってスヴェルトはジョスを胸に抱き寄せ、唇付けた。
 広く、大きな胸に(いだ)かれると、落ち着いた。自分の居場所はここだと、ジョスは思った。何があろうと、この胸は全てを受け止めてくれる。そして、勇気をくれる。
「あの浜へ、行くか」
 ややあって唇を離すと、スヴェルトが訊ねた。
 慌ただしい引っ越しの後、直ぐにスヴェルトは交易島に向かってしまった。あの浜の話をする事も出来ずにいた。
「少し、お休みにならなくても大丈夫ですか」
「気にするな」
 スヴェルトはジョスの腰に手を添え、浜へと下る道を進んだ。
 眼前にありながらも、一人では、到底、行けそうになかった。思いはしても、足を向ける事が出来なかった。一人では、その勇気がなかった。
 岩場を、スヴェルトはジョスを軽々と抱えて危なげなく下りた。
 あの時以来だった。
 浜には、様々な物が打ち上げられていた。ジョスはするりとスヴェルトの腕から下りると、美しい薄い紅色の貝殻に目を留めた。
「きれいだわ」
 スヴェルトは答えなかった。どうして良いのか分らないのであろう。
「冬の嵐で打ち上げられたのでしょうね、きっと」
 ジョスは跪いてその貝殻を拾い、スヴェルトに見せた。困ったような顔に、ジョスは微笑んだ。
「嵐の後には、海神からの賜物が浜に上がり、それを集めるのが島の習慣だったの。美しい物、珍しい物を、大人も子供も拾い集めたものだったわ」と言葉を切り、手の中の貝殻に目を落とした。「でも、こんな風だから、わたしはこの部族に馴染もうとしないと言われるのね」
「それは違うだろう」
 スヴェルトの言葉に、ジョスは思わず顔を上げた。
「俺には難しい事は分らん。だが、お前の考えを変える必要はないと思う。それに、悪い習慣だとは思わんしな」
 スヴェルトも屈み込んだ。そして、白い巻き貝を手にした。
「確かに、海神が嵐の後にこのような小さな贈り物を下さるのならば、恐ろしくはないな」
「あなたがたは、海神を恐れていますものね」
 スヴェルトは頷いた。
「わたしたちは海神の末裔ですから、決してそのような事はありません。むしろ、海神はわたしたちを愛してくださっていると思っています」
「海の民だからな」
「海神の民、です」
 ジョスは訂正した。それは厳密に言えば違う。
「そうか、海神の民、か」
 スヴェルトは言った。その顔には笑みが浮かんでいた。巻き貝の殻をジョスに手渡した。
 この人は自分を理解しようとしてくれている。ジョスは笑みを返した。
「その姿勢は、余り良くはないだろう、少し座ろう」
 そう言って、スヴェルトは岩にジョスを導いた。岩に座ろうとするジョスを制して、スヴェルトは自分の膝にジョスを座らせた。
「岩に直接座ったら、冷えるぞ。それは駄目だと言われただろう」
 ローアン叔母の言葉だ。島から帰る時、二人して様々な注意を受けた。
 ジョスはスヴェルトの言葉に素直に従い、その胸に頭を凭せ掛けた。この方が、良いに決まっている。
 無言でジョスは波音を聞いていた。
 スヴェルトの腕が、ゆっくりとジョスを包み込んだ。
「ミルドとフラドリスは、離れていても大丈夫なようだわ」ジョスは言った。「距離も時間も、あの二人には関係ないようね。何年でも――何十年でも待つそうよ」
「俺は待てない」スヴェルトは言った。「離れるのも我慢ならん」
「それは、わたしも同じだわ」ジョスはスヴェルトの胸に手を添えた。「だから、あなたとの法外追放を選んだのよ」
「そうだな。俺達は待てない者同士だ。なら、待てる者同士がやはり、一緒になるのだろうか」
 ジョスは笑った。
「父は待てない人だわ。母は待てる人だけど」
「海狼殿がそうとは思えないがな」
「あの二人は、似た者同士と言うよりは、お互いに補う関係だわ。だがら、より結びつきは固いのよ。フラドリスは母に似たのだけど、わたしは父に――いえ、話にきく祖父に似たのね、きっと」
 ジョスは両親に思いを馳せた。あの二人のように自分達はなれない。衝突もするだろう。すれ違いもするだろう。だが、結局はお互いしかいない。スヴェルトは優しい。それ故に頑なになる。その優しさに、自分は甘える事になるのだろう。
 では、自分はスヴェルトに何を返せるのだろうか。
 ジョスはスヴェルトを見上げた。その視線は海に向いていたが、やがてジョスに目を向けた。
「どうした」
「あなたが求めているのは自由なの」
 一瞬、スヴェルトは虚を突かれたような顔になった。だが、直ぐに破顔した。
「俺が欲しいのは、お前との日々だ」スヴェルトはジョスの編んだ髪を手に取り、唇付けた。「この生命の続く限り、お前と共に生きて行きたい。出来れば、海狼殿達のように、長く共にいたい。女々しいと言われようと構わん。俺は戦で死ぬ気はしないしな」
 巨熊スヴェルトを戦場で斃せる者などいないだろう。荒れた海で難破でもしない限り、この人の生命を奪う事など出来ないのではないかとジョスは思った。もし、海神がこの人の生命を欲したのならば、自分は生きては行けないだろう。
「それが、あなたの求めるものなの」
「唯論、お前の寵を得る為ならば、俺は竜頭船で誓ったように、この生命を投げ出しても構わないと思っている」
「冗談はよして」
「冗談などであるものか」
 スヴェルトの顔は真剣だった。「俺は、顔も頭も宜しくない。その上に大酒飲みの大食漢だ。短気だし気も利かない。もし、俺が女だったなら、夫にこんな碌でもない男は選ばんだろう。親なら反対するぞ」
「酷い言い方」ジョスは笑った。「わたしはどうなるの。あなたを誰よりも愛しているのに」
「俺はお前に惚れ込んでいる。いや、愛している」
 スヴェルトは照れたように言った。「お前のような女が、俺にそう言うなど、今でも信じられない」
「では、わたしはあなたに自信をあげるわ。あなたは自分が思っているほど、ひどい人ではないわ。誰が何と言おうと、わたしはいつでもあなたの味方。あなたが欲しくてわたしがあげられるものは全て、あなたにあげるわ」
「親父やお袋でさえも俺を持て余したのに、か」
「わたしがあなたを持て余したことがあって、スヴェルト。あなたの方が、わたしを持て余しているのではなくて」
 その言葉にスヴェルトは空を仰いで笑った。ジョスはその顔を両手で挟み、ぐいと自分の方に向けた。
「そんなに笑わないで。わたしはあなたの言いなりになる女ではないわ。自分の道を一人で歩めるように育てられたの。他の女性とは違う。それを一番よく知っているのは、あなたでしょう。わたしと一緒にいると、ひどい目に遭うかもしれないわよ、また」
「ああ、そうだ。俺は、そんなお前が大好きだ。俺は、お前のそんなところにぞっこんなんだ。お前は何からも自由だ。それを奪う気は、俺にはない」
 優しい目だった。どうして、このような人を愛さずにいられるだろうか。豪快に笑い、荒々しく怒るその陰に、この人は底知れぬ優しさと広い心を秘めているのだ。それに誰も気付かなかっただけだ。
 父と母にとり、生きる事と愛する事は同義だった。共に生き、互いを愛し、自分達を愛情を掛けて育ててくれた。養い子のオルハも、分け隔てなく育った。部族の者をも、その大きな愛情で包んでいる。そんな二人には、到底、及ばないだろう。しかし、理想として近付く事は出来るだろう。
「あの子のことを考えていらっしゃるの」
 再び海に目を向けたスヴェルトに、ジョスはようやく言った。初めて、正面からその事について話した気がした。
「ああ」
 スヴェルトの返事はいつでも短い。だが、そこには様々な感情が籠められている。
「この子が産まれたら」とジョスは腹部を撫でた「ここで遊ばせましょう。あの子は、もう、海神の元で新しい生をいきているでしょう。でも、妹のことはわかるわ。わたしたちのことも、わかるわ」
「うん」
 スヴェルトの、ジョスの身体に回した腕に少し力が入った。
「あなたには、悲しい思いをさせてしまったわ、スヴェルト。あなたのせいなんかじゃない、それはわかって」
「お前は優しいな」
 スヴェルトはジョスの肩に頭を乗せた。「本当に、俺には過ぎた女だ」
「あなたも優しい人だわ。それも、わかって。それに、わたしはあなたが思うほどにできた女ではないわ」
 ジョスは海を見た。
 何でも受け入れてくれる海。そうかと思えば、恐ろしくもなる海。喜びも悲しみも、全てを受け入れ、呑み込んでしまう海。
「大丈夫だ、お互い様だ」
 スヴェルトが頭を起こして言った。その深い茶色の目に、ジョスは最早、哀しみのない事を見て取った。
 二人は暫し無言で海を眺めた。
「俺は――」スヴェルトが口を開いた。「俺は、この子が男だろうが女だろうが、乗せられるようになったら船に乗せよう。交易島へ連れて行き、世界の広い事を教えてやろう。俺がしてやれる事は、その位のものだな」
「慣例に反しますでしょう、子供を――特に女の子を軍船に乗せるなど」
「慣例など、糞食らえ、だ」
 そう言ってしまってから、スヴェルトは、しまった、という顔をした。
「あなたという人は」
 ジョスは笑った。
「女も男も十二で成人扱いだ。特に女は十五、六で嫁入り先を決められ、十七か十八で結婚させられる。族長の姪であるこの子には相手を選ぶ事は出来ないかもしれない。兄貴の命じるままに結婚させられるかもしれない。それまでに、俺は、世界を見せたい。狭い了見など笑い飛ばせる娘にしたい。お前のように」
「あなたのように、でしょう」
 ジョスは微笑んだ。
「何、俺の部下に文句は言わせない。いや、言えんだろう。お前の子だ。皆、お前の勇気と豪胆さには感服しているからな。武器の扱いも教えてやれ。何処の誰とどうなろうと、お前のように自分の脚でしっかりと生きて行けるように育てろ」
「わたしを買いかぶりすぎでしょう」
 スヴェルトは再び笑った。
 笑ってはいたが、この人が冗談ではなく本気でそう言っているのが、ジョスには分った。
 幸せだった。
 ねえ、幸せと思ってもいいでしょう。
 ジョスは心の中で亡き子に話しかけた。
 わたしは、あなたを幸せにしてあげられなかったけれど、わたしたちはあなたのことを忘れはしないわ。あの頃のわたしたちは、あなたの親になるには未熟すぎたの。でも、この子も、わたしたちも、この世界で幸せになってもかまわないでしょう。
 その想いを察したかのように、スヴェルトがジョスの額に頬を寄せた。まだ整えてはいない髭が当たった。くすぐったかった。
 あなたは今は、海の眷属。でも、戻って来たくなったら、もう一度、わたしたちのところに戻って来て。わたしには分るわ。
 海鳴りが、それに応えたような気がした。それは海神からの返事であるようにジョスには思えた。
「風が強くなって来たな。身体に障るといけない。そろそろ戻ろうか」
「もう少しだけ、ここにいさせてくださいな」
 ジョスは膝の上の二つの貝殻を再び手に取った。
 何時の日か、亡くした子と再び巡り会う事が出来るだろうか。両親も、そういった事を願ったのだろうか。
 スヴェルトの腕が、風からジョスを守るように強くなった。
 ジョスは眼を閉じた。
 もう暫く、スヴェルトの鼓動と体温を感じていたかった。服には海の匂いが染み付いている。
 この人も海に生きる北海の男なのだ。
 そう思うと安心した。
 全身を預けると心地良かった。
 一年という時間が、二人には必要だったのだろう。
 全ての出来事には意味があるのだと、父は言った事があった。
 ならば、今迄の痛みや苦しみも、全て意味のある事だったのだろう。
 ジョスにはまだ、その意味は分らなかった。それは、これからの人生で徐々にでも紐解かれて行くものなのだろう。
 だが、今は、この人の腕と胸に守られて海を感じていたかった。
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