第十五章 ⑤
文字数 1,779文字
時間枠が一致するので、
交互に読まれることをすすめる)
それで、話を戻しますね。
2月上旬の出来事です。
『私の名前』を嫌悪し続け、私自身の
存在性を否定し続けてしまっていた
私に、舞い降りた【奇跡的出来事】
です。
その日、私は、いつも通り、5時30に起床
して、朝イチで、聖書を読みました。
将来の義母からプレゼントされた本を読んで
聖書を読みたくなったし、また、松山時代
の思い出もあったので、神保町に買いに
行った、あの聖書です。
その日は、旧約聖書の詩篇というところを
読んでいました。
あの有名なダビデ王が書いた、詩篇。
なんと、150もの編で構成されています。
で、その日は、23番目の編、
『詩篇23編』を読んでいたのです。
いつもは、その日の編を1度読んで、
それで終わりなのですが……、
その日は、終わりにはできませんでした。
気づいてしまったのです!
見つけてしまったのです!
だから、『詩篇23編』を3度も
読みなおしました。
皆さん!
私は、聖書を胸に抱いて、泣いてしまい
ました。
感動したのです。
心の底から感動の泉が湧き上がってくる
のでした。
その理由は、皆さんからしたら、単なる
『こじつけ』のように思われるかも
しれないし、「そんなの単なる偶然だろ」、
「イヤイヤ、全く、関係ないじゃん」と
言う方もいるはずです。
でも、私には、そうは思えなかった。
そして、今も、そうは思っていません。
『詩篇23編』は、私のために、私を救う
ために書かれたのだと、今でも、私は、
確信しています。
どういうことか……?
皆さん、私はですね。
私は、『詩篇23編』に、私つまり奥中
真子と栄義時と不動みどりの名前を、
見出したのです!!
なんと、自分を含めた3人の名前を!!
「本当かよ!?」と思われる方も多いで
しょう。
また、実際に、私より、聖書に詳しく、
もう『詩篇23編』を何度も読んでいる方
なら、「ウソ言うな!真子、義時、みどり
なんて、詩篇23のどこに、書かれてるん
だよ!!」と思われるでしょう。
たしかに、『真子』、『義時』、『みどり』
と言うように直接的な表現はされていません。
それは、認めます。
でも、です。
その日、私は、発見してしまったのです!
詩篇23編の詩の中には、
『緑の牧葉』と言う表現があります。
それから、『義の道に』と言う表現も。
それと、『まことに、私のいのちの……』
という表現です。
分かります。
普通の方なら、冷静な方なら、
どっからどう読んでも、
「はい。それで…?」とか、「うん。それが
どうしたんですか?」と言う感想でしょう。
だけど、私は、本当に、これらの表現で
書き記されている、旧約聖書の詩篇23編の
詩によって、救われたのです。
心が解放されて、楽になったのです!
『私の名前』という束縛の重りから、
一瞬にして解き放たれた、のです。
私は、今でも確信しています。
中には、「バカじゃないの?」と思う方、
「こじつけてやんの!」と失笑される方も
いるでしょうけど……。
あくまで、これは、『私の名前』と言う
私自身の問題なので、関係ありませんし、
気にしません。
私が信じていること……。
それは、旧約聖書の詩篇23編の詩は、
大昔に、私のために書かれたんだと言う
ことです。
私を、救うために……!
『緑の牧葉』は、みどりちゃんの名前。
『義の道』の義は、栄義時の義。
『まことに、私のいのちの日の限り……』の
『まこと』にと言う表現は……!!
誰にどう思われようが、私の『まこ』が
含まれているのです!
私は、奇跡のように思いましたし、今も
そう思っています。
私たち3人の名前が、みごとに、聖書と言う
書物の中の1つの詩の中に、そろって
いるのです!!
それを知った時、発見した時、
フッと、私の中から、『私の名前』に対する
嫌悪、恥ずかしさ、怒りのようなものが、
どっかに出て行ったのです。
不思議です……。
そして、心が楽になったのです。
空想話のように思わるかもしれませんが、
これは、事実です。
私の名前『真子』にあるように、本当に、
これは真実な出来事なのです…。
私は、あの日から、『私の名前』を
受け容れています。
そして、自分自身の存在性を否定しよう
なんて、今は全く思っていません。
私が、この世に、今いるということは、
私を創造してくれた存在の大きな大きな
計画があってのことだ……と、私は、
確信しているからです。
(著作権は、篠原元にあります)