~手~
文字数 6,670文字
その秋、俺たち南高サッカー部は全国大会への切符を掛けてライバル北高と県大会決勝を戦っていた。
スコアは1-0で俺たちのリード、そして既に後半アディショナルタイムに突入している。
あと何分か凌げば全国大会への切符が手に入る、と言う状況に置かれたチームと、あと何分かの間に得点を挙げられなければ三年間の厳しい練習が報われずに終わると言うチームでは、モチベーションの強さは変わらなくても方向が全く異なってしまう、終盤に入ってボールは俺たちのサイドからなかなか出て行こうとせず、俺たちは防戦一方だ。
俺は南高のキャプテン、ポジションは守備の要・センターバック。
そして俺がマークするのは北高のエース盛田、ポジションは点取り屋・フォワード。
南高と北高はここ十年近く常に県代表を争って来た、公式戦では常に決勝で顔を合わせて来たし、県内では他にライバルが見当たらないので練習試合も頻繁にやっている、そしてそれは一軍同士ばかりではなく二軍同士、あるいは学年ごとの練習試合と様々なレベルで行われ、二校は常に競い合い、共に成長しあって来た。
だから北高フォワードの盛田と南高センターバックの俺は一年の時からしのぎを削って来たライバル同士。
プライベートでは交流もないしフィールドでも別段親しく会話を交わすわけではないが、ずっと意識して来た相手であり、チームメイトとはまた違った親近感を抱く相手でもある。
この試合でも盛田は俺たちのゴールを幾度となく脅かした。
とにかく少しでも自由にすると危険な選手だが、勝手知った相手でもある、俺は八十分間盛田をマークし続け、時には先を読んでは何度もシュートを阻止した。
しかし、勝手を知っているのは向こうも同じこと、裏をかかれてヒヤッとした場面も何度かあった、ここまで無失点で切り抜けられているのはキーパーの好守のおかげでもある。
負ければその場で終わりのトーナメント、しかも最終学年での全国大会の予選だ、勝っても負けても盛田としのぎを削るのはこれで最後かも知れない。
試合前には少しはそんな感慨もわいたが、今はそれどころではない……主審はしきりに時計を気にしている、もう後ワンプレーかツープレーだろう、それさえ凌げればチームメイトと共に、三年間の目標だった全国大会へ行けるのだ。
必死の攻めと必死の守りは続く。
サイドからのパスに盛田が反応する、得点の匂いを嗅ぎ分けられる盛田のことだ、ボールを足元に収めて守備側に時間を与えるようなことはしないだろう。
(ダイレクトにシュートを打ってくる!)
俺は盛田の意図を読んで脚を伸ばしてシュートのコースを潰しにかかる……読みは当たり、シュートは俺の足に当たって軌道を変え大きくゴールを外れた。
北高のコーナーキック……主審が時計を確認してからコーナーフラッグを指差す、おそらくはこれが最後のプレイになるだろう。
南高のコーナーキックは決まって右サイドのミッドフィルダーだ、彼はフリーキックやコーナーキックと言ったセットプレーでは実に正確なキックを放つ、この状況なら必ず盛田がヘディングシュートを狙えるボールを蹴って来るはず。
その盛田はゴールエリアの僅かに外側でコーナーキックを待ち受けている、走り込んでのヘディングを狙っているのは間違いない、俺は盛田から少し距離を取り、盛田から目を離さないように注意しながらコーナーキックを待ち受ける。
キッカーが助走に入っても盛田は動き出さない、そしてインパクトの瞬間、盛田は一瞬、左に踏み出すフェイントを入れて来た、俺は盛田とキッカーの両方を視界に入れていたが、インパクトの瞬間はどうしても注意がキッカーに向かう、その瞬間を狙われた……と言うよりも、常に自分が視界に入っているのを知っていて、しかもキッカーに気をとられる瞬間ならフェイントに引っかかるだろうと読んでいたようだ。
一瞬、対応が遅れて俺は前を取られてしまった、こうなったら高さ勝負で勝つ他はない、敏捷性では盛田が上だが、高さなら俺に分がある、俺と盛田は同時にジャンプした。
コーナーキックは危険な軌道を描いて盛田めがけて飛んだが、僅かに高かった。
盛田の頭を掠めたボールを俺は頭でクリア、クロスバーのはるか上にボールをはじき出したのだが……。
ボールはジャンプの反動をつけるために振り上げた俺の左手人差し指の先に僅かに当たっていた。
ボールがクロスバーの上を通過するのを見届けた主審は試合終了の笛を吹き、チームメイトは最後のクリアを決めた俺に駆け寄って来る。
ボールは指にかすっただけ、その事でボールの軌道が大きく変わったとは思えない。
そしてクロスバーの上を充分な高さで通過した、よしんば少しは軌道が変わっていたとしても結果に変わりはないはず。
審判もハンドの反則を適用しようとはしなかった、何も問題はない……。
歓喜に沸くチームメイトにもみくちゃにされながら俺は知らず知らずの内にボールが掠めて行った左手の人差し指を突き上げて歓喜の輪の中心でジャンプを繰り返していた……。
シャワーを浴びて着替えを済ませ、ミーティングを終えた頃にはスタンドはすっかり空になっていた。
俺はスタンド上部まで上がって行き、フィールドを見下ろした。
この県立陸上競技場では幾度となく戦って来た。
卒業後は東京の大学から誘いを受けていてそこに進学するつもり、この競技場に戻ってくることはもうないだろう、そう思うと感慨深い。
そして……できることなら何の憂いもなくここを去りたかったのだが……左手の人差し指の先にはまだボールの感触が残っているような気がしていた。
「よう……予選突破おめでとう」
声の先を見ると盛田だった。
盛田も階段を上がってきて、俺の隣に座り、俺と同じようにフィールドを眺めた。
「ここで何回戦ったかな……お互いに二年の時からレギュラーだったからな」
「そうだな」
「最後は負けちまったな」
「去年は逆だったぜ」
「ああ……数えてないが、対戦成績は五分といったところかな?」
「多分な」
「お前は卒業後どうする?」
「東京の大学に誘われてる、そこへ進学するつもりだよ……お前は?」
「俺にも一応誘いはあったんだけどな……」
「だけど?」
「正直な所、奨学金を貰えるとしても進学する余裕はないんだ、親父が去年倒れてさ、何とか回復したけどもうそんなに無理は出来ないんだ、だから家業の酒屋を手伝うことにしたよ」
「サッカーは? もう辞めるのか?」
「競技としてはな……草サッカーとかはやるだろうし、子供に教えるのもいいな」
「そうか……」
「俺、北高に入って良かったよ、南高に入ってお前とチームメイトになるのも悪くなかったかも知れないけど、ライバルとして競い合えたからな、その方が良かったと思ってる……全国大会でも活躍して、大学でも頑張れよ……いつかプロになってこの競技場に戻って来てくれると良いな、その時は必ず応援に来るぜ」
「盛田……」
「そんな顔するなよ、俺はさ、シュート力には自信があったけど、小技はそんなに上手くないし、足もあんまり速くないからな、プロにまでは辿りつけっこないよ……でも、お前は身体が大きくてキック力もあるし、頭もいいからプロも夢じゃないと思ってる……もしお前がプロになったら、俺は高校時代あいつと張り合ったんだぜって自慢するよ……じゃあな、全国大会はテレビで応援してるからな」
盛田が立ち上がった。
平静を装ってはいるが、その目は僅かに潤んでいた。
「盛田」
「なんだ?」
「お前、見なかったか?」
「……指先のことか?」
「やっぱり見えてたんだな……」
「いや、ギリギリの所をボールが通ったのは見たが、当たってるかどうかまではわからなかった……」
「掠ってたんだ、主審がハンドを取っていればペナルティキックだ、勝負はどっちに転んだかわからない」
「そうか……だけど判定は判定だしさ、もし掠ってたにせよボールの行方は変わってやしないさ、最後のプレイで俺はお前に競り負けた、それだけのことさ」
「だけど、俺はハンドを隠したんだ」
「立場が逆なら俺だって隠すさ」
「……え?」
「八十分間……いや、三年間一緒に戦ったチームメイトが勝利を喜んでるんだ、それに水は注せないだろ?」
「だけど……」
「いいんだ、南高との試合はいつだって楽しかったぜ、南高があるから北高も強くなった、お前がいたから俺も三年間完全燃焼できた、最後は勝利の女神がそっちに微笑みかけた、それだけのことさ……」
「……」
「審判にハンドを取られても『触ってない』って言い張るのが普通さ、あんな微妙なプレイで『ハンドしました』なんて自分から言う奴は見たことないぜ」
「それはそうかもしれないけど……」
「そんなの気に病むほうがおかしいって、そんなんじゃ全国行ったら勝てないぜ」
「ああ……そうだな……ありがとう……」
「じゃあな、俺たちの分まで頑張ってくれよ」
「ああ……」
盛田は通路まで降りて行き、出口で立ち止まった。
「なあ……ユニフォームを交換してくれないか?」
「え? ああ……だけどまだ全国大会が……」
「そんなのわかってるさ、俺が欲しいのは全国大会で戦ったユニフォームだよ」
「ああ……わかった、必ず……」
迎えた全国大会、俺たちは一回戦を1-0で勝利した。
スコアこそ最少得点差だが、盛田を中心とした北高と比べれば相手の攻撃力は一段劣るように感じられ、決定的なピンチを招くことのない、危なげない勝利だった。
2回戦の相手は優勝候補の一角に挙げられる強豪、試合は押され気味でいくつか決定的なピンチもあったが、キーパーの好守もあって終盤まで0-0の接戦だった。
均衡を破られたのはコーナーキックから。
コーナーキックに備えて俺よりも少し大柄な相手センターバックが前線に上がって来た、それまで俺は、やや小柄な相手フォワードにヘディングシュートを許していなかったので、俺より身長のある彼を前線に上げて俺と競り合わせようと言う意図は明白だ、俺はそれまでマークして来たフォワードをサイドバックに任せて彼をマークした。
案の定コーナーキックは彼の頭に合わせるハイボール。
俺はポジションの奪い合いに競り勝って彼の前を取った、高い軌道を描いて飛んで来るボールを頭でクリアしようと、俺は思い切りジャンプする、が、ボールには僅かに届かない……スロービデオを見ているかのようだった、ボールは彼の頭に当たって大きくコースを変え、俺たち二人はもつれ合うように倒れ込んだ。
その瞬間、俺は見たのだ、ボールが彼の指先に僅かに当たってからゴール下隅に突き刺さって行くのを……。
(ハンドだ!)
思わず主審を見やるが、主審はゴールを認める笛を吹き、彼は素早く立ち上がると歓喜に沸く仲間たちの下へ走り去った。
そして、俺は歓喜の輪の中心で指を突き上げている彼を少し複雑な思いで眺めていた。
試合はそのまま0-1で敗れ、高校サッカーの三年間はその瞬間に幕を閉じた。
帰郷すると、俺は約束通りに盛田とファミレスで再会してユニフォームを交換した。
「惜しかったな、二回戦の相手は準決勝まで行っただろう? そのチームを結構追い詰めてたもんな」
「ああ……まあな」
「なんだか浮かないな、去年の俺たちは1回戦負けだったぜ……全国大会でひとつ勝ったユニフォームか、俺のより価値があるよ、なんだか悪いな」
「そんなの関係ないよ」
盛田がことのほか嬉しそうにしてくれていたので、俺も気分が良く、苦い敗戦のことをしばし忘れていたのだが……ふと、盛田が決勝点になったプレーの話を持ち出した。
「……なあ……あの決勝点の場面な、ハンドじゃなかったのか?」
「見てたのか」
「当たり前だよ、スロービデオで見ると当たってるようにも見えたんだが……お前は至近距離で見てたんだろう?」
「……ああ……掠ってたよ、指先が動いたのを見た……でもコースが変わるほどじゃなかった、キーパーも気づかなかった位だしな」
「どうして抗議しなかったんだ?」
「どうしてって、抗議したところで判定が覆らないのはお前も良く知ってるだろう?」
「そんな事はもちろん知ってるさ、でも、俺は抗議して欲しかったんだ」
「おかしいじゃないか、県大会の時にお前は俺のハンドに抗議しなかっただろうが!」
「それとこれとは話が別だ!」
「どう違うって言うんだ! ワケがわからないね!」
「どうしてわからない!?」
「なんだって言うんだよ!」
つい声が大きくなって、店中の注目を浴びてしまっているのに気づき、俺も盛田もトーンを下げた。
「本当にわからないか?」
少し頭が冷えると、自然と盛田の気持ちに気づいていた。
「いや……わかるよ」
「俺とお前、お前とあいつじゃ全然違って当たり前だよな? 俺とお前は三年間競い合った間柄だよ、サッカーを離れて会うのは初めてだけどさ……練習が辛い時とかは『そんなんじゃあいつに勝てないぞ』って自分を奮い立たせてたもんな、ある意味、チームメイト以上の存在だった、お前と競り合って負けたならそれは俺の力不足だったと素直に思えたよ、指に掠ったかどうかなんて些細なことはどうでも良かったんだ」
「……それは俺も同じだよ、お前に得点されると悔しい反面、もっと頑張らなくちゃ駄目だと思ってたよ……そうだな、俺も県大会の時なら立場が逆でも納得できたかもな、でも全国大会での負けは納得してちゃダメだな」
「その言葉を聞けて嬉しいぜ」
「ああ、ムキになって悪かったよ」
「それは俺も同じだよ……なあ、俺は酒屋を継ぐって言っただろう? 俺だってサッカーを続けたいよ、自分でも大して見込みはないと思っているのは前に言ったとおりさ、でも、諦めるのはやっぱり辛いんだよ……だから、お前には夢を叶えてもらいたいんだ、もっと貪欲になってもらいたいんだよ……ゴメンな、自分の夢を人に押し付けるなんてサイテーだよな」
「いや……そうは思わないよ、俺は恵まれてると思うよ、なのに判定は覆らないからって簡単に諦めた、それが歯がゆいんだろう?」
「ああ……身勝手だよな、でもそうなんだ」
「俺にお前の夢を背負えと言われてもな」
「ああ……そうだよな」
「でもさ……俺が俺の夢を追うのは勝手だろ?」
「え? あ、ああ、もちろんだ」
「それを応援してくれるって言うなら応援させてやっても良いぜ」
「はは……なんだよ、偉そうに……」
「どうなんだ? 応援してくれるのか? してくれないのか?」
「応援するに決まってるだろ、お前がプロになったら、『昔はあいつとしのぎを削ったんだぜ』って自慢できるからな」
「じゃあ俺もそのささやかな夢を実現できるように頑張らないとな」
「こいつ……」
盛田が拳を突き出し、俺もそれに拳を合わせた。
高校を卒業すると、盛田は酒屋を継ぎ、競技からは退いた。
酒屋の経営は大型スーパーの安売りに押されて大変らしいが、盛田はサッカーで鍛えたフットワークを生かし、配達を充実させて頑張っている、そして出身小学校のコーチになって子供たちにサッカーの楽しさを教えている。
俺の方はと言えば、大学卒業後もプロ・アマ混合のJFLに所属する社会人チームに入って競技を続けている。
そしてホームゲームともなれば、スタンドには盛田が教えている子供達が大挙してやって来てくれ、その応援はチームにも活力を与えてくれる。
アマチュアとは言え、子供達にとって自分がヒーローであるならば無様なプレイは見せられないと言うものだ、おかげで今季は成績が良く、次週の試合の結果如何ではJ3への道も見えてくると言う位置につけている。
『いつかはプロに……』
正直、高校時代にはあまりに遠すぎて実感の沸かない目標だった。
しかし、今は少しづつでもそこへ向けて歩を進められている。
それは盛田が応援してくれているからでもあり、盛田の分まで頑張らなくてはと思う。
辛い時、苦しい時、今でも指先に残るあの時のボールの感触が、盛田と競い合った日々を俺に思い出させてくれるから……。
スコアは1-0で俺たちのリード、そして既に後半アディショナルタイムに突入している。
あと何分か凌げば全国大会への切符が手に入る、と言う状況に置かれたチームと、あと何分かの間に得点を挙げられなければ三年間の厳しい練習が報われずに終わると言うチームでは、モチベーションの強さは変わらなくても方向が全く異なってしまう、終盤に入ってボールは俺たちのサイドからなかなか出て行こうとせず、俺たちは防戦一方だ。
俺は南高のキャプテン、ポジションは守備の要・センターバック。
そして俺がマークするのは北高のエース盛田、ポジションは点取り屋・フォワード。
南高と北高はここ十年近く常に県代表を争って来た、公式戦では常に決勝で顔を合わせて来たし、県内では他にライバルが見当たらないので練習試合も頻繁にやっている、そしてそれは一軍同士ばかりではなく二軍同士、あるいは学年ごとの練習試合と様々なレベルで行われ、二校は常に競い合い、共に成長しあって来た。
だから北高フォワードの盛田と南高センターバックの俺は一年の時からしのぎを削って来たライバル同士。
プライベートでは交流もないしフィールドでも別段親しく会話を交わすわけではないが、ずっと意識して来た相手であり、チームメイトとはまた違った親近感を抱く相手でもある。
この試合でも盛田は俺たちのゴールを幾度となく脅かした。
とにかく少しでも自由にすると危険な選手だが、勝手知った相手でもある、俺は八十分間盛田をマークし続け、時には先を読んでは何度もシュートを阻止した。
しかし、勝手を知っているのは向こうも同じこと、裏をかかれてヒヤッとした場面も何度かあった、ここまで無失点で切り抜けられているのはキーパーの好守のおかげでもある。
負ければその場で終わりのトーナメント、しかも最終学年での全国大会の予選だ、勝っても負けても盛田としのぎを削るのはこれで最後かも知れない。
試合前には少しはそんな感慨もわいたが、今はそれどころではない……主審はしきりに時計を気にしている、もう後ワンプレーかツープレーだろう、それさえ凌げればチームメイトと共に、三年間の目標だった全国大会へ行けるのだ。
必死の攻めと必死の守りは続く。
サイドからのパスに盛田が反応する、得点の匂いを嗅ぎ分けられる盛田のことだ、ボールを足元に収めて守備側に時間を与えるようなことはしないだろう。
(ダイレクトにシュートを打ってくる!)
俺は盛田の意図を読んで脚を伸ばしてシュートのコースを潰しにかかる……読みは当たり、シュートは俺の足に当たって軌道を変え大きくゴールを外れた。
北高のコーナーキック……主審が時計を確認してからコーナーフラッグを指差す、おそらくはこれが最後のプレイになるだろう。
南高のコーナーキックは決まって右サイドのミッドフィルダーだ、彼はフリーキックやコーナーキックと言ったセットプレーでは実に正確なキックを放つ、この状況なら必ず盛田がヘディングシュートを狙えるボールを蹴って来るはず。
その盛田はゴールエリアの僅かに外側でコーナーキックを待ち受けている、走り込んでのヘディングを狙っているのは間違いない、俺は盛田から少し距離を取り、盛田から目を離さないように注意しながらコーナーキックを待ち受ける。
キッカーが助走に入っても盛田は動き出さない、そしてインパクトの瞬間、盛田は一瞬、左に踏み出すフェイントを入れて来た、俺は盛田とキッカーの両方を視界に入れていたが、インパクトの瞬間はどうしても注意がキッカーに向かう、その瞬間を狙われた……と言うよりも、常に自分が視界に入っているのを知っていて、しかもキッカーに気をとられる瞬間ならフェイントに引っかかるだろうと読んでいたようだ。
一瞬、対応が遅れて俺は前を取られてしまった、こうなったら高さ勝負で勝つ他はない、敏捷性では盛田が上だが、高さなら俺に分がある、俺と盛田は同時にジャンプした。
コーナーキックは危険な軌道を描いて盛田めがけて飛んだが、僅かに高かった。
盛田の頭を掠めたボールを俺は頭でクリア、クロスバーのはるか上にボールをはじき出したのだが……。
ボールはジャンプの反動をつけるために振り上げた俺の左手人差し指の先に僅かに当たっていた。
ボールがクロスバーの上を通過するのを見届けた主審は試合終了の笛を吹き、チームメイトは最後のクリアを決めた俺に駆け寄って来る。
ボールは指にかすっただけ、その事でボールの軌道が大きく変わったとは思えない。
そしてクロスバーの上を充分な高さで通過した、よしんば少しは軌道が変わっていたとしても結果に変わりはないはず。
審判もハンドの反則を適用しようとはしなかった、何も問題はない……。
歓喜に沸くチームメイトにもみくちゃにされながら俺は知らず知らずの内にボールが掠めて行った左手の人差し指を突き上げて歓喜の輪の中心でジャンプを繰り返していた……。
シャワーを浴びて着替えを済ませ、ミーティングを終えた頃にはスタンドはすっかり空になっていた。
俺はスタンド上部まで上がって行き、フィールドを見下ろした。
この県立陸上競技場では幾度となく戦って来た。
卒業後は東京の大学から誘いを受けていてそこに進学するつもり、この競技場に戻ってくることはもうないだろう、そう思うと感慨深い。
そして……できることなら何の憂いもなくここを去りたかったのだが……左手の人差し指の先にはまだボールの感触が残っているような気がしていた。
「よう……予選突破おめでとう」
声の先を見ると盛田だった。
盛田も階段を上がってきて、俺の隣に座り、俺と同じようにフィールドを眺めた。
「ここで何回戦ったかな……お互いに二年の時からレギュラーだったからな」
「そうだな」
「最後は負けちまったな」
「去年は逆だったぜ」
「ああ……数えてないが、対戦成績は五分といったところかな?」
「多分な」
「お前は卒業後どうする?」
「東京の大学に誘われてる、そこへ進学するつもりだよ……お前は?」
「俺にも一応誘いはあったんだけどな……」
「だけど?」
「正直な所、奨学金を貰えるとしても進学する余裕はないんだ、親父が去年倒れてさ、何とか回復したけどもうそんなに無理は出来ないんだ、だから家業の酒屋を手伝うことにしたよ」
「サッカーは? もう辞めるのか?」
「競技としてはな……草サッカーとかはやるだろうし、子供に教えるのもいいな」
「そうか……」
「俺、北高に入って良かったよ、南高に入ってお前とチームメイトになるのも悪くなかったかも知れないけど、ライバルとして競い合えたからな、その方が良かったと思ってる……全国大会でも活躍して、大学でも頑張れよ……いつかプロになってこの競技場に戻って来てくれると良いな、その時は必ず応援に来るぜ」
「盛田……」
「そんな顔するなよ、俺はさ、シュート力には自信があったけど、小技はそんなに上手くないし、足もあんまり速くないからな、プロにまでは辿りつけっこないよ……でも、お前は身体が大きくてキック力もあるし、頭もいいからプロも夢じゃないと思ってる……もしお前がプロになったら、俺は高校時代あいつと張り合ったんだぜって自慢するよ……じゃあな、全国大会はテレビで応援してるからな」
盛田が立ち上がった。
平静を装ってはいるが、その目は僅かに潤んでいた。
「盛田」
「なんだ?」
「お前、見なかったか?」
「……指先のことか?」
「やっぱり見えてたんだな……」
「いや、ギリギリの所をボールが通ったのは見たが、当たってるかどうかまではわからなかった……」
「掠ってたんだ、主審がハンドを取っていればペナルティキックだ、勝負はどっちに転んだかわからない」
「そうか……だけど判定は判定だしさ、もし掠ってたにせよボールの行方は変わってやしないさ、最後のプレイで俺はお前に競り負けた、それだけのことさ」
「だけど、俺はハンドを隠したんだ」
「立場が逆なら俺だって隠すさ」
「……え?」
「八十分間……いや、三年間一緒に戦ったチームメイトが勝利を喜んでるんだ、それに水は注せないだろ?」
「だけど……」
「いいんだ、南高との試合はいつだって楽しかったぜ、南高があるから北高も強くなった、お前がいたから俺も三年間完全燃焼できた、最後は勝利の女神がそっちに微笑みかけた、それだけのことさ……」
「……」
「審判にハンドを取られても『触ってない』って言い張るのが普通さ、あんな微妙なプレイで『ハンドしました』なんて自分から言う奴は見たことないぜ」
「それはそうかもしれないけど……」
「そんなの気に病むほうがおかしいって、そんなんじゃ全国行ったら勝てないぜ」
「ああ……そうだな……ありがとう……」
「じゃあな、俺たちの分まで頑張ってくれよ」
「ああ……」
盛田は通路まで降りて行き、出口で立ち止まった。
「なあ……ユニフォームを交換してくれないか?」
「え? ああ……だけどまだ全国大会が……」
「そんなのわかってるさ、俺が欲しいのは全国大会で戦ったユニフォームだよ」
「ああ……わかった、必ず……」
迎えた全国大会、俺たちは一回戦を1-0で勝利した。
スコアこそ最少得点差だが、盛田を中心とした北高と比べれば相手の攻撃力は一段劣るように感じられ、決定的なピンチを招くことのない、危なげない勝利だった。
2回戦の相手は優勝候補の一角に挙げられる強豪、試合は押され気味でいくつか決定的なピンチもあったが、キーパーの好守もあって終盤まで0-0の接戦だった。
均衡を破られたのはコーナーキックから。
コーナーキックに備えて俺よりも少し大柄な相手センターバックが前線に上がって来た、それまで俺は、やや小柄な相手フォワードにヘディングシュートを許していなかったので、俺より身長のある彼を前線に上げて俺と競り合わせようと言う意図は明白だ、俺はそれまでマークして来たフォワードをサイドバックに任せて彼をマークした。
案の定コーナーキックは彼の頭に合わせるハイボール。
俺はポジションの奪い合いに競り勝って彼の前を取った、高い軌道を描いて飛んで来るボールを頭でクリアしようと、俺は思い切りジャンプする、が、ボールには僅かに届かない……スロービデオを見ているかのようだった、ボールは彼の頭に当たって大きくコースを変え、俺たち二人はもつれ合うように倒れ込んだ。
その瞬間、俺は見たのだ、ボールが彼の指先に僅かに当たってからゴール下隅に突き刺さって行くのを……。
(ハンドだ!)
思わず主審を見やるが、主審はゴールを認める笛を吹き、彼は素早く立ち上がると歓喜に沸く仲間たちの下へ走り去った。
そして、俺は歓喜の輪の中心で指を突き上げている彼を少し複雑な思いで眺めていた。
試合はそのまま0-1で敗れ、高校サッカーの三年間はその瞬間に幕を閉じた。
帰郷すると、俺は約束通りに盛田とファミレスで再会してユニフォームを交換した。
「惜しかったな、二回戦の相手は準決勝まで行っただろう? そのチームを結構追い詰めてたもんな」
「ああ……まあな」
「なんだか浮かないな、去年の俺たちは1回戦負けだったぜ……全国大会でひとつ勝ったユニフォームか、俺のより価値があるよ、なんだか悪いな」
「そんなの関係ないよ」
盛田がことのほか嬉しそうにしてくれていたので、俺も気分が良く、苦い敗戦のことをしばし忘れていたのだが……ふと、盛田が決勝点になったプレーの話を持ち出した。
「……なあ……あの決勝点の場面な、ハンドじゃなかったのか?」
「見てたのか」
「当たり前だよ、スロービデオで見ると当たってるようにも見えたんだが……お前は至近距離で見てたんだろう?」
「……ああ……掠ってたよ、指先が動いたのを見た……でもコースが変わるほどじゃなかった、キーパーも気づかなかった位だしな」
「どうして抗議しなかったんだ?」
「どうしてって、抗議したところで判定が覆らないのはお前も良く知ってるだろう?」
「そんな事はもちろん知ってるさ、でも、俺は抗議して欲しかったんだ」
「おかしいじゃないか、県大会の時にお前は俺のハンドに抗議しなかっただろうが!」
「それとこれとは話が別だ!」
「どう違うって言うんだ! ワケがわからないね!」
「どうしてわからない!?」
「なんだって言うんだよ!」
つい声が大きくなって、店中の注目を浴びてしまっているのに気づき、俺も盛田もトーンを下げた。
「本当にわからないか?」
少し頭が冷えると、自然と盛田の気持ちに気づいていた。
「いや……わかるよ」
「俺とお前、お前とあいつじゃ全然違って当たり前だよな? 俺とお前は三年間競い合った間柄だよ、サッカーを離れて会うのは初めてだけどさ……練習が辛い時とかは『そんなんじゃあいつに勝てないぞ』って自分を奮い立たせてたもんな、ある意味、チームメイト以上の存在だった、お前と競り合って負けたならそれは俺の力不足だったと素直に思えたよ、指に掠ったかどうかなんて些細なことはどうでも良かったんだ」
「……それは俺も同じだよ、お前に得点されると悔しい反面、もっと頑張らなくちゃ駄目だと思ってたよ……そうだな、俺も県大会の時なら立場が逆でも納得できたかもな、でも全国大会での負けは納得してちゃダメだな」
「その言葉を聞けて嬉しいぜ」
「ああ、ムキになって悪かったよ」
「それは俺も同じだよ……なあ、俺は酒屋を継ぐって言っただろう? 俺だってサッカーを続けたいよ、自分でも大して見込みはないと思っているのは前に言ったとおりさ、でも、諦めるのはやっぱり辛いんだよ……だから、お前には夢を叶えてもらいたいんだ、もっと貪欲になってもらいたいんだよ……ゴメンな、自分の夢を人に押し付けるなんてサイテーだよな」
「いや……そうは思わないよ、俺は恵まれてると思うよ、なのに判定は覆らないからって簡単に諦めた、それが歯がゆいんだろう?」
「ああ……身勝手だよな、でもそうなんだ」
「俺にお前の夢を背負えと言われてもな」
「ああ……そうだよな」
「でもさ……俺が俺の夢を追うのは勝手だろ?」
「え? あ、ああ、もちろんだ」
「それを応援してくれるって言うなら応援させてやっても良いぜ」
「はは……なんだよ、偉そうに……」
「どうなんだ? 応援してくれるのか? してくれないのか?」
「応援するに決まってるだろ、お前がプロになったら、『昔はあいつとしのぎを削ったんだぜ』って自慢できるからな」
「じゃあ俺もそのささやかな夢を実現できるように頑張らないとな」
「こいつ……」
盛田が拳を突き出し、俺もそれに拳を合わせた。
高校を卒業すると、盛田は酒屋を継ぎ、競技からは退いた。
酒屋の経営は大型スーパーの安売りに押されて大変らしいが、盛田はサッカーで鍛えたフットワークを生かし、配達を充実させて頑張っている、そして出身小学校のコーチになって子供たちにサッカーの楽しさを教えている。
俺の方はと言えば、大学卒業後もプロ・アマ混合のJFLに所属する社会人チームに入って競技を続けている。
そしてホームゲームともなれば、スタンドには盛田が教えている子供達が大挙してやって来てくれ、その応援はチームにも活力を与えてくれる。
アマチュアとは言え、子供達にとって自分がヒーローであるならば無様なプレイは見せられないと言うものだ、おかげで今季は成績が良く、次週の試合の結果如何ではJ3への道も見えてくると言う位置につけている。
『いつかはプロに……』
正直、高校時代にはあまりに遠すぎて実感の沸かない目標だった。
しかし、今は少しづつでもそこへ向けて歩を進められている。
それは盛田が応援してくれているからでもあり、盛田の分まで頑張らなくてはと思う。
辛い時、苦しい時、今でも指先に残るあの時のボールの感触が、盛田と競い合った日々を俺に思い出させてくれるから……。