第1話 僕についてと彼女を見つけた日

文字数 3,611文字

僕は、上田馨という名前で、一人の女性に出会って、恋をした。これはその話だ。


まずはその前に、僕がどんな人間なのかについて少し詳しく、それから、僕と彼女の出会いはいつだったのかを話さなくちゃいけない。


幼い頃からの僕の様子を、長くなるけど順番に話していこうと思う。



僕はごく普通の子供だった。少なくとも、自分ではそう思っていた。でも、僕にはどうしても「自分を真っ直ぐに見てもらえない」事情があった。


僕の家はかなり古くから続いてきた家柄で、一族は途中から鉄鋼関係の仕事を始め、今やそれは子会社をたくさん持つ企業に成長していて、僕の父はその企業の代表取締役社長だった。僕は一人っ子で、男子だ。それは、ゆくゆくは家の仕事、「上田鉄鋼グループ株式会社」を継ぐためだけの毎日が幼い頃から続き、やがてはそうしなければならないということを意味した。


両親は仕事で飛び回っていて夜も遅かった。だから僕はシッターといつも過ごしていて、4歳の頃からは英語などの家庭教師も入れ替わり立ち替わりにやってきた。両親より、それ以外の大人と話している時間の方が多かった。四歳くらいより前のことは、僕は覚えていない。幼過ぎるから当然だけど。

そして、たまに僕の部屋に両親がやってくると、厳格な父はあまり甘えさせてくれず、母はその様子を後ろから控えめに見ていた。母は父との触れ合いの後で僕をよく抱き締めてくれたけど、それも父に遠慮しながらだった。

父と一緒に母が夕食会や講演会などで家に居ない日は、僕はシッターに見張られながら食事をし、そしてマナー講師の先生が付いた。食べ物の好き嫌いは絶対に許されなかった。

そして、英語が良く話せるようになってきていると家庭教師の先生が両親に伝えると、「勉強に向く子かもしれない」と、五歳の僕には少し大きめな勉強机が買い与えられ、いろいろなテキストと辞書などを僕の部屋に持ってきて、父は「やってみなさい」と言った。

それまで僕は父には冷たく扱われて、母もそんな父から僕を守ってはくれず、他の大人も僕に対してよそよそしい中で、息苦しさを感じていた。と、思う。ほんとに小さい時のことだからよく覚えていないけど、夜に一人でベッドに上がって、「あしたはパパのかいしゃがおやすみにならないかな」と毎晩思っていたのを、思い出す。

でも、僕はいろいろな勉強のテキストを与えられて、わからない漢字や単語などを辞書で調べながら、一生懸命に父の期待に応えようと勉強した。結果は、とても良いものになった。父は初めて、僕を「すごいじゃないか、馨!」と褒めてくれた。僕はそれがとても嬉しかった。


その日から僕は勉強に熱中して、一年後に小学校に上がる頃には、もう中学の範囲の勉強を家で始めていた。でも小学校に入り、近づいて来るクラスメイトを最初は嬉しく思っていたけど、みんなみんなが僕の家の事を聞きたがって、僕が何をしても褒めそやすのを聞いているうちに、僕は自分を見てもらえない事が悲しくなり、独りになってしまった。


でも僕は、そのことに怯えなくていいということも知っていた。木森さんが居たからだ。


「木森さん」とは、僕が五歳だった頃までうちに住み込んで家事をしてくれていた人で、他にもメイドさんは二人居たけど、二人ともあまり僕に興味もなさそうで、僕に芯から優しくしてくれて、いつも気にかけてくれていのは、木森さんだけだった。

だから僕はよく木森さんに甘えて、「絵本を読んで」とねだったり、「いっしょにパズルをやろうよ」と遊びに誘ったりした。木森さんはいつも「お仕事が済んだらですよ」と言って、仕事が済むと僕の部屋に内緒で来てくれて、僕が絨毯の上に広げた絵本を手に取って膝に抱え、僕を隣に座らせて小さな声で絵本を読んでくれたりした。

でも、木森さんはある日急に解雇となって、僕の家を出て行った。僕が木森さんを見送りに出ようとすると、仕事に行こうとしていた父に「部屋に戻りなさい!」と怒鳴られて、僕は部屋の窓から、木森さんが荷物を背負って家の門に向かって歩いて行くのを、泣きながら見送った。

木森さんは多分、僕に近すぎるという理由で父に厳しく咎められ、出て行かされたんだと思っていたけど、僕は木森さんがいつでも優しくしてくれていたから、「僕が何者であっても、きちんと僕自身を見て、優しくしてくれる人は居るんだ」という安心感を、心の隅にいつも仕舞うことができた。


だから、学校でどこか孤独な気分で居ながら自分を褒めるだけのクラスメイトと喋っていても、気分に任せてわがままを言うのはしないで、僕の方からもなるべくその場に居る人を楽しませて、優しくしてみようと思っていた。それで、少しは心を許してくれる友達も居た。


でも、僕は家に友達を呼ぶのは許されず、学校から帰ったら、大体は家で過ごさなければいけなかったし、外出したい時は教育係の人にどこに行くのか説明して、お許しが出なければ、二階にある自分の部屋に戻るか、一階の居間で過ごさなければいけなかった。

友達と遊びに行きたいのに、僕は家で勉強をする他に、ほとんどできることがなかった。楽器の教室や、体操教室やスイミングスクールも通わされたけど、どれも僕には向かないようだとわかると、両親はそれらをやめさせて、「勉強しなさい」と僕に言い渡した。子供らしく過ごせなかった辛さもあったけど、僕は勉強は好きだったので、苦手な「お教室」に通わなくて済んだことだけは、有難かったかもしれない。

勉強は好きだった。知らないことがたくさんあって、一つ一つ知っていって、問題を解いてみると、とてもよく当たる。それは僕を得意な気分にさせて、わざわざ遅くまで頑張って起きていて、満点を取ったテキストを、仕事から帰った父に見せに行ったりした。父は、「こら、寝なくちゃダメだろう」と言いながらも、その時だけはちょっと困った顔をするだけで怒りはせず、全問正解の僕のテキストをしげしげと眺め、「よくやった。次も頑張りなさい」と言ってくれるのだった。



そして僕は順当に中学から高校へと上がり、受験勉強をする時がやってきた。入る大学は決まっていた。うちは代々入る大学が決まっていて、そこにトップの成績で入学できるかどうかが、僕にとっての問題だった。



勉強はどこでもできるというのが、小さな時から自宅学習をしていた僕の持論で、大学はどこでもよかった。ただ首席でなければ父さんは僕を厳しく叱るだろうことはわかっていたし、僕も自分を最高にまで高めたかったので、苦手な数学を中心に、寝る間も惜しんで必死に勉強をした。


そして試験当日、確かな手ごたえを感じて僕は満足して帰宅し、両親は久しぶりに家に揃っていて、僕が試験の内容を二人に話すと、二人とも安心したようで和やかに労ってくれて、一緒に食事をした。そして合否通知が届くまでは、僕は何かと両親に気遣われて過ごした。



でも、合格通知は届いたけど、そこにはトップだったとは書かれておらず、大学側から、「新入生代表で挨拶をしてくれ」という連絡も来なかった。数日はそれが遅れただけかと思ったけど、入学式一週間前になって父は食事の席で激怒し、「それでお前は上田家の長男のつもりか!」と怒鳴り声を上げた。母がすぐにとりなしてくれなければ、僕は食事を続けられなかったかもしれない。



僕は陰鬱な気分で入学式を迎えて、区立のホールで列に並んでいた。「早く終わればいい」と思って悔しい気持ちを抑えていたが、「新入生代表の挨拶」と学長がマイクに吹き込んだ時、思わず顔を上げて、檀上に上がって行くのがどんな人なのか、目を見張った。


カツカツと控えめで低いヒールの音がして、その生徒が檀上に上がる後ろ姿が見えた。

それは長い髪を低い位置で結んだだけで、小柄で質素なスーツに身を包んだ、女の子だった。

その子は階段を上がったところで一礼をして、マイクの前に進み出て、こちらへ顔を向ける。その顔は、とても晴れやかだった。


まさか。自分は女の子に負けたのか。そう思ってしばらく落胆していたが、その子の挨拶を聞いていて、理由がわかった。


「…私は、12歳の頃、この大学の哲学科で教鞭をお取りになっていらっしゃいます、皆川教授の著書を読ませて頂き、この方に是非師事したいと思って、今日まで努力しました。ですから、今ここに居られることがとても嬉しいです。そして…」


ああ、そうか。そんな頃からこの大学を目指して、きっと猛勉強をしたんだ。それじゃあ勝てるはずがないな…。僕はそう思った。それから、自分の自由で進む道を歩める彼女を少し羨ましく思い、そのために長年の努力を続けてこられた彼女を、尊敬した。


その子が語った挨拶はとても丁寧で、声も耳障りが良く、よく居る普通の女の子にしか見えないのに、しっかり伸ばされた背筋と、素直に開けられた両目の輝き、誠実そうな眉が、僕の目に焼きついた。




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