第216話 泡が天井からぽとりと鼻に
文字数 2,038文字
「やっと形になってきたのよ。むか~しからやってて、全然飛ばせなかった。手が小さかったせいもあるのかも。だから今になってようやくコインがフィットする感じになったわ」
「練習したらできるようになるもんなの?」
感嘆のあまり、言葉遣いがいつもに比べれば若干丁寧になった。本人に自覚はほとんどないけれども。
「なる、と思う。でも森君がチャレンジするのはまだ早いかも」
「何で」
口と尖らせて聞き返す。佐倉は困ったように目尻を下げた。
「今できるようになっても、これを活かせるマジックがほとんどないと思うから」
「……」
言われてみればそうかもしれない。ただ、そのまま認めるのは何だか癪だ。
「で、でも、コインをふわっと飛ばすだけでも、見てる人は不思議がるだろ。マジックだ」
「うん、森君の言う通り、マジックにならなくはないけれども、それだけで終わっちゃう。もったいないよ。だって一度でもマッスルパスをお客さんの前でやったら、次からは『このマジシャンはあの技ができる人だ』って思われるんだから。マッスルパスを使った応用マジックが不思議に見えなくなる恐れ、大ありよ」
「なるほど。じゃあ、セットで教わるのがいいのかな?」
「セットって? ああ、マッスルパスと応用マジックを併せてってことね。うーん、それはどうなんだろ? 私にも分からない。けど、マッスルパスを応用したマジックには、応用しない一段階下の、比較的簡単なマジックがあることが多いの。だからまずは簡単なマジックを覚えてから、応用マジックに進んだ方が演出の幅が広がるっていうか。分かる?」
「分かったよ。要は、段階を踏めってんだろう」
いつかそれ、教えてくれ。そう頼もうとしたとき、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「いっけない。夢中になりすぎてた。戻りましょっ」
くるっときびすを返す佐倉の長めの髪が、宗平の前で印象的に広がる。一瞬、見とれてしまった。
そこへ前から、くすくすと忍び笑いが流れてくる。
「何だよ、なに笑ってんだ」
「ううん、怒らないで。私も森君と一緒だなって思っただけ」
「俺と佐倉、さんが一緒?」
「好きなことに夢中になると時間を忘れる」
教室に着いた。どうやら間に合ったようだ。
(そりゃ誰だって好きなことには夢中になるし、時間を忘れるもんだろ)
そう思わないでもない宗平だったが、敢えて言い返しはしなかった。
その日の夜。
国語の宿題でどうしても分からない問題が一つあって、気になりつつもとりあえず時間だからと風呂に入り、湯船に浸かりながらぼーっと考えていると、いきなり閃いた。いやまあ、閃きっていうのはだいたいがいきなり、突然、急に来るもんだけど。
「あの問題文、そういう意味だったのかよ!」
思わず叫んだ。続いて、自分の思い込みで問題の意味を誤解していたことがおかしくって、ついつい笑い声まで立ててしまった。
問題を理解すると、早く応えを書きたい気持ちが強くなって、湯船を飛び出る。先に身体だけ洗って一旦湯船に浸かり、また出てから頭を洗うという順番を守っているため、今から頭を洗わなければならない。ちなみに、一番に頭を洗わないのは宗平の髪質のせいなのかどうなのか、湯で少々濡らしたぐらいでは泡立ちがどうも悪い、しばらく湯気にさらしたあとなら効果てきめん、抜群に泡立ちがよくなる、ということに気が付いたからだった。
(おっ。いつもよりちょっと短い蒸らし時間でも、結構泡立つじゃん)
妙なことに感心していると、風呂のドアの外から足音がどたどたと轟き、次いで母親の声がした。
「宗平! 何かあったの、騒がしいけど?」
不意の呼び掛けに、頭皮をがしがしやっていた手がびくっとなった。顔を起こすと泡が目に入りそうになったので、髪をオールバックっぽくなでつけながら、
「いや、何でもない!」
と、声を張って答えると、
「だったら変な笑い声上げなさんなっ!」
叱られてしまった。
そこからあとは粛々と?洗髪に集中。最後にシャワーを使って頭のてっぺんから、シャンプーを洗い流す。すっきりしたところでもう一度だけ湯船に浸かるのがいつもの段取り。と、そうしようとしたとき。
「ん?」
前髪から鼻先に掛けて、ぽたぽたっと上から落ちてきた何かが着いた。
浴室内にある鏡の方を向き、曇っている表面を手で拭ってから覗き込んだ。鼻の頭に泡の塊が付着していた。
「なんでこんな……」
ぶつくさ言いながら、天井を見上げると、また一つ、泡が雫になって落ちてきた。危うく目に入るところだったが外れた。
「あんなところに跳ぶほど、俺、激しく頭をかいたっけ?」
覚えのない状況に首を捻った宗平。ちょっとしたパズルと言えなくもなかったが、答は悩むまでもなく見付かった。
(あー、さっき母さんに返事する前に割としっかり、髪の毛を後ろにぐいってやったんだった。そのときに跳ねたのかな)
つづく
「練習したらできるようになるもんなの?」
感嘆のあまり、言葉遣いがいつもに比べれば若干丁寧になった。本人に自覚はほとんどないけれども。
「なる、と思う。でも森君がチャレンジするのはまだ早いかも」
「何で」
口と尖らせて聞き返す。佐倉は困ったように目尻を下げた。
「今できるようになっても、これを活かせるマジックがほとんどないと思うから」
「……」
言われてみればそうかもしれない。ただ、そのまま認めるのは何だか癪だ。
「で、でも、コインをふわっと飛ばすだけでも、見てる人は不思議がるだろ。マジックだ」
「うん、森君の言う通り、マジックにならなくはないけれども、それだけで終わっちゃう。もったいないよ。だって一度でもマッスルパスをお客さんの前でやったら、次からは『このマジシャンはあの技ができる人だ』って思われるんだから。マッスルパスを使った応用マジックが不思議に見えなくなる恐れ、大ありよ」
「なるほど。じゃあ、セットで教わるのがいいのかな?」
「セットって? ああ、マッスルパスと応用マジックを併せてってことね。うーん、それはどうなんだろ? 私にも分からない。けど、マッスルパスを応用したマジックには、応用しない一段階下の、比較的簡単なマジックがあることが多いの。だからまずは簡単なマジックを覚えてから、応用マジックに進んだ方が演出の幅が広がるっていうか。分かる?」
「分かったよ。要は、段階を踏めってんだろう」
いつかそれ、教えてくれ。そう頼もうとしたとき、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「いっけない。夢中になりすぎてた。戻りましょっ」
くるっときびすを返す佐倉の長めの髪が、宗平の前で印象的に広がる。一瞬、見とれてしまった。
そこへ前から、くすくすと忍び笑いが流れてくる。
「何だよ、なに笑ってんだ」
「ううん、怒らないで。私も森君と一緒だなって思っただけ」
「俺と佐倉、さんが一緒?」
「好きなことに夢中になると時間を忘れる」
教室に着いた。どうやら間に合ったようだ。
(そりゃ誰だって好きなことには夢中になるし、時間を忘れるもんだろ)
そう思わないでもない宗平だったが、敢えて言い返しはしなかった。
その日の夜。
国語の宿題でどうしても分からない問題が一つあって、気になりつつもとりあえず時間だからと風呂に入り、湯船に浸かりながらぼーっと考えていると、いきなり閃いた。いやまあ、閃きっていうのはだいたいがいきなり、突然、急に来るもんだけど。
「あの問題文、そういう意味だったのかよ!」
思わず叫んだ。続いて、自分の思い込みで問題の意味を誤解していたことがおかしくって、ついつい笑い声まで立ててしまった。
問題を理解すると、早く応えを書きたい気持ちが強くなって、湯船を飛び出る。先に身体だけ洗って一旦湯船に浸かり、また出てから頭を洗うという順番を守っているため、今から頭を洗わなければならない。ちなみに、一番に頭を洗わないのは宗平の髪質のせいなのかどうなのか、湯で少々濡らしたぐらいでは泡立ちがどうも悪い、しばらく湯気にさらしたあとなら効果てきめん、抜群に泡立ちがよくなる、ということに気が付いたからだった。
(おっ。いつもよりちょっと短い蒸らし時間でも、結構泡立つじゃん)
妙なことに感心していると、風呂のドアの外から足音がどたどたと轟き、次いで母親の声がした。
「宗平! 何かあったの、騒がしいけど?」
不意の呼び掛けに、頭皮をがしがしやっていた手がびくっとなった。顔を起こすと泡が目に入りそうになったので、髪をオールバックっぽくなでつけながら、
「いや、何でもない!」
と、声を張って答えると、
「だったら変な笑い声上げなさんなっ!」
叱られてしまった。
そこからあとは粛々と?洗髪に集中。最後にシャワーを使って頭のてっぺんから、シャンプーを洗い流す。すっきりしたところでもう一度だけ湯船に浸かるのがいつもの段取り。と、そうしようとしたとき。
「ん?」
前髪から鼻先に掛けて、ぽたぽたっと上から落ちてきた何かが着いた。
浴室内にある鏡の方を向き、曇っている表面を手で拭ってから覗き込んだ。鼻の頭に泡の塊が付着していた。
「なんでこんな……」
ぶつくさ言いながら、天井を見上げると、また一つ、泡が雫になって落ちてきた。危うく目に入るところだったが外れた。
「あんなところに跳ぶほど、俺、激しく頭をかいたっけ?」
覚えのない状況に首を捻った宗平。ちょっとしたパズルと言えなくもなかったが、答は悩むまでもなく見付かった。
(あー、さっき母さんに返事する前に割としっかり、髪の毛を後ろにぐいってやったんだった。そのときに跳ねたのかな)
つづく