第49話 変わる季節

文字数 3,899文字


 震災から二十日過ぎて、ハナたちはようやくなんとか日常を取り戻しつつあった。学校も来週から再開するという。そんな時に櫻子から手紙が届いた。

『ハナちゃん、お手紙を書くのが遅くなってごめんなさい。こちらに来て、色々慣れない事ばかりで、ずっとお手紙を書こうと思っていたのだけれど。いつも妹のようにしていたあなたのことだから甘えてしまってごめんなさいね。

 それと大きな地震で大変なことになっているって聞いて…、ハナちゃんはきっと無事だと思いながらこの手紙を書いています。
 ハナちゃん、私、ここに来て、みんなと過ごしていた時間が本当に懐かしく思うの。お揃いのリボン、一緒に歌を歌ったこと。どれもかけがえのない時間だったって。だから…ハナちゃんも楽しい時間を目一杯過ごしてね。詩も頑張って書いています。

 後、お姑さんがとっても意地悪な人で、こんな意地悪な人いるのかしらって思うくらいだから、初めて鬼ばばなんてあだ名をこっそりつけてるの。顔を見たら、嫌なこと言うから、最近は逃げてるのよ。足が悪いみたいだから、追いかけて来ないけど。
 大丈夫。私は元気にやってるの。負けません。
 旦那様にはそんなに会わないの。仕事で忙しいのか、分からないけれど。
 
 そうそう。家にね、書生さんがいるのよ。綺麗な顔してて、私、お茶を出すのが楽しみで。たまにお話しするのだけれど。彼も私もそんなにお話しが得意じゃないみたいだから黙ってる時間も多いのよ。でもそれでもその時間が私は好き。あ、こんなことを書いて、良くないわね。ハナちゃんの心にだけしまっておいてね。

 では。きっと無事だと祈って。この手紙を送るわね。ハナちゃんも結婚が近づいてると思うのだけど、今の間にしっかり楽しんでね。 櫻子より』

 ハナは櫻子の手紙を読んで、涙を流した。きっと手紙を書きたくても書けないくらい辛い思いをしていたに違いない。それでも持ち前の明るさと強さで生きている櫻子を思うと、胸が詰まって、涙が溢れてしまう。

『櫻子先輩。お手紙ありがとうございました。なんとか生きておりました。おかげさまで家族全員無事で、家は瓦が落ち、少し手入れしなければいけないところがありますが…それでもいい方です。

 私も本当に僅かな時間でしたが、初めて恋をしました。婚約者様のご友人の方に惹かれてしまい、自分が情けなくなりました。今でも切なくなります。それでもやはり結婚は決まっておりまして、夫となる人をその分、大切にしようと思っております。でも櫻子先輩がもしお家が嫌でお逃げになるなら、力になってくれると私の婚約者様が言っております。どうか英語のお勉強は続けておいてください。

 私は恋をして、自分がいかに愚かな人間か分かりました。よくしてくださっている婚約者の方のことも顧みず…。でもこれからは賢くなろうと思います。子供を産んで、育てて、しっかりと母になろうと思います。いつかお会いできる日を楽しみにしております。どうかそれまでお元気で。 あなたの妹、ハナより』

 返事を書いてポストに入れに行った。あれから正雄にもソノにも会うことはなかった。キヨにすら会っていない。みんなそれどころではなかった。毎日を生きていくことだけで精一杯だった。焼け野原になっているという下町にはハナは行く気がどうしてもおきない。自分が生き残って良かったのだろうか、と不意に思う。
 街の雰囲気も少し怖くなっている。自警団もできているが…、みんなが疑っているようで、それも恐ろしい。薄暗くなったら、外に歩かないようにしている。ふと鰹姫は生きているのだろうかと思い至った。
 ポストに手紙を入れたその足で、キヨの家まで歩いて行った。キヨの家は壁が少し崩れていたが、なんとかこれ以上倒れない用に応急処置がなされていた。

「ごめんください」とハナが言うと、聞き慣れた声で返事が帰ってきた。

 扉が開くと「ハナちゃん」と驚いたような顔で名前を呼ばれた。

「お元気でしたか?」

「あら、嬉しいわぁ。元気よ。ハナちゃんは無事?」

「ありがとうございます。山本様に助けて頂いて」

「あぁ…。あのね。正雄さん…出ていったのよ」

「え? そうなんですか」

「あ、ここでは何だから、入って」と言われて、家に入れてもらった。

「何もなくてごめんなさいね」と言ってお茶を入れてくれる。

 キヨの家に来るなら、何か手土産を用意すれば良かった。手紙を出すついでにふらっと立ち寄ってみただけだったと説明する。

「いいのよ。お顔が見れて良かったわ。私の知り合いも…」と言って、深いため息をついて、続けた。

「住む場所によって、だいぶ違ったみたいだから…」

「そうですね…」

「正雄さんね…。ソノさんをだいぶ探したみたいなのよ。でも見つからなくてね。…それで今も、避難所を訪ね歩いてるみたいなんだけど…彼自身、どこで寝ているのか分からなくて。荷物を処分して、ここを出てから…もう一週間は帰ってきてないのよ」

「そう…ですか」

「ソノさん、お仕事であちこち行ってらしたから。どこで地震に合われたのか分からないのよね」

 人力車に乗って、いつも忙しそうに動き回っていた姿を思い出す。

「もう…亡くなってるんじゃないの? って思うんだけど、その最後の姿を世話しようと思っているみたいで」

「先生らしいです。温かい人でしたから」

「…女にだらしなくて、困りものだけど。そういうところがあるから憎めないのかしらね」

「鰹姫は来てますか?」

「見てないわ。元気でどこかで暮らしてるといいんだけど」

 正雄も鰹姫もいなくなってしまった。しばらくお互いの状況を話していたが、暗くなる前にハナはキヨの家を出た。何も悪いことをしていないのに、ハナはそそくさと歩いて帰る。震災後はいろんな噂が飛び交って、疑心暗鬼な気持ちになる。ポストに手紙を入れてくると言っただけなので、心配しているだろう、とさらに足を早めていると、ハナの横で車が止まった。驚いて、道の端に避ける。

「ハナさん」

 車から降りてきたのは清だった。

「あ…」

 驚いて声も出なかった。

「無事で良かった」と抱きしめられて、驚く。

「大原様? いつおかえりで?」

「すまない。つい…」とすぐに体を離してくれた。

 東京が大変なことになったのは知っていたらしく、帰国を一週間ほど早めてもらったらしい。

「お仕事は…大丈夫ですか?」

「あぁ。もう最後の懇親会のようなものだけだったから…。心配で…眠れなかった。実家の方は電報で無事だと聞いていたけれど…」

「すみません。バタバタしてしておりまして…」

「いや、生きててくれただけで…」

 こんなに優しい人を…とハナは思った。

「山本様が助けてくださって…」

「正雄…。彼は無事ですか?」

「それが…恋人を探してらっしゃるようで。今はどこにいるのか…」

「恋人?」

「はい」

 清は目を丸くして、ハナの話を聞く。清は正雄も少しはハナに好意を持っていると思っていたから、恋人がいるなんて思いもしなかったようだ。

「そうか…。彼はなんとか生きてるだろう」

「…はい。家に来られますか?」

「いや、君に一目会いたくて来ただけなんだ。構わないで欲しい。車で送らせてもらうから乗ってください」

 清に言われて、車に乗り込む。

「ハナさん…。本当に無事で良かった」と何度も言われた。

 切長の目が何度も瞬きするので、きっと涙を堪えているのかもしれない、と思うと、ハナは清の優しさを見たような気がした。家まで来ると、清は缶詰を十缶ほど入った箱を車から出す。

「どうぞお使いください」

「こんな…」

「ご家族でお使いください」と言って、箱を持って玄関に入って行く。

「あ、大原様。母を呼んで参ります」と言って、慌ててハナは家に入る。

 そしてして本当に玄関先で挨拶をしただけで、清は帰って行った。

「ハナ…。あの人はハナをきっと幸せにしてくれるわ」と母は清の後ろ姿を見て、そう言った。


 学校が始まって、復興が少しずつ進むなか、ハナは友達と最後の時間を楽しむことにした。櫻子先輩からは月に一度くらいの文通が始まった。秘めた恋心の話をドキドキしながら手紙で読んだ。清の家に花嫁修行も行き、帰りにたまに清とデートもした。

「ハナさん…。正雄が見つかりまして…」

「あ、そうなんですね」

「それで母の紹介で三条家のお嬢さんと縁組をするそうです」

 ハナはなるべく顔に出さないようにと少し俯いて「良かったです」と言った。

 アイスクリームをスプーンで薄く掬う。

「ハナさん…」

「はい」

「大丈夫ですか?」

「え?」

 三条家の傍系から母は大原家に嫁いできたのだった。だから夫婦となった二人と顔を合わすことがあるだろう、と言う。

「えぇ。大丈夫です。私…英語ができる先生に憧れてただけですから」と嘘をついた。

 もうこれ以上、清を傷つけることはしないと決めていた。

「英語は僕も得意ですけどね」

「…そうでした。では大原様も…私の憧れです」

 清が笑ってくれるので、ハナも微笑んだ。

 街はまだ復興に向けている最中だった。物の値段は一層上がり、生活は苦しくなった。それなのに清はハナにアイスクリームをご馳走してくれる。ハナはいつかウメにも食べさせてあげたいと思っていて、溶けなければ、持って帰りたいと思った。

「ハナさん、そろそろ名前で呼んでくれませんか」

「え?」

「大原は…いずれあなたの苗字になるのですから」

 恥ずかしく思いながらも小さな声で名前を呼んだ。

「様なんてつけなくても」

「でも」

「では、さんでいいですよ」

 ハナはそうしたやり取りをして、きっといい夫婦になれるだろうと思った。秋がゆっくり深まり、冬が近づいていた。

 
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