第10話 父親とは何か

文字数 1,983文字

明美の嘘は、正人に嘘だと伝えられる機会を与えられなかった。
そして明美の嘘は嘘のまま真実を伝えられることなく、明美と正人の日常に溶け込んでいった。


明美が起きるころにはもう正人は出勤していたし、家に帰って来るのは明け方だった。
正人はそっと明美を起こさないようにベッドに入るのだったが、明美はいつも起きていた。
そしてやっと正人の寝息が聞こえてくると、安心して、明美も眠るのだった。
今日も、正人はいつもと同じように、そっとベッドに入った。
いつものように明美は寝たふりをして、正人を待っていた。
正人の寝息が聞こえてくると、明美はそっと正人の方を見た。
正人はひどく疲れて、少しやつれたように見えた。



そんなに私と話したくないの?




明美は正人が明美を避けているのだと思った。




明美は、正人に妊娠していると嘘をついた時のことを思い出していた。


「それが父親になる人の言葉?」


正人は明美の棘のある質問をそのまま受け止めていた。
明美はただ間違いだと言ってほしかっただけだった。
明美は正人らしからぬ「責任はとる」という言葉に、何か間違いがあるのだと思った。
そこにいるのは、もしかして正人じゃないんじゃないか。
それが明美の願いだったのだ。
しかし返ってきたのは、ある意味、正人らしい言葉だった。



「明美は父親って何だと思う?」


正人は救いを求めるように明美を見ていたのだった。
明美の質問に、正人は質問で返した。
それはいつもの正人だった。
正真正銘の正人そのものだった。
その時はただその事実に落胆するしかなかった。
しかし今あの時の正人を思い出していた。
正人は困っていたんじゃないか。


あれはどういう意味だったのだろうか。
あの言葉の先に、明美はいたのだろうか。



♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

正人は仕事に没頭して、忘れようとしていた。
それでも、どうしても思い出してしまうのだった。
正人と優和は、子育て観の不一致で別れた。
確かにそれだけではないが、きっかけはそれだった。




今度は大丈夫だろうか。




正人はその質問から逃れるために、仕事に打ち込んだ。



父親失格




それは正人が正人自身に下したレッテルだった。



優和は自分の子どもが傷つけられることに対して、たびたび怒り狂った。
たとえそれが自分の子どもと同じ年の子どもが間違えておもちゃをぶつけてしまっただけでも容赦なかった。
さすがに相手に言い放つことはしなかったが、その怒りは毎回正人にぶつけられた。
優和は怒りに震え、時には泣いていた。
正人には、その優和の過剰すぎるであろう感情が理解できなかった。
優和は毎回聞き流すことしかできない正人を見抜いていた。
その度に優和は「それでも父親なのか」とでもいうかのように冷めた目で正人を見るのであった。
そして正人は「そうだ、自分は本当の父親ではない」と自分に言い聞かせ、逃げるしかなかった。
正人は優和が異常だと思っていた。


しかしある日気づいてしまった。
その日電車の優先席で子どもが泣き叫んだ時に、舌をならした若者に、父親が激昂していたのだ。
正人はその父親の姿を見て、あの怒り狂った優和を思い出した。
そして気づいた。
優和は母親だ。正人が父親ではなかった。



正人が父親ではなかったのだ。



正人は父親になろうと思った。
でも分からなかった。
努力しようとした。
でもどう努力すべきか分からなかった。





父親とは何か






ある父親はこう答えた。




「自分も最初実感がなかったけど、やっぱり自分の子どもはかわいい」




ああ、そうか




正人はその言葉が腑に落ちた。





父親は感情だ。





正人は気づいてしまった。
自分には父親の感情がない。
正人が行き着いた答えは正人を苦しめた。
父親になろうと努力しなければならないことが、答えだった。
それは正人が父親ではないからだ。



自分は父親にはなれない。



それは自分の本当の子どもではなかったからだ。
本当の子どもだったら、こうじゃなかった。
そうやって自分を必死に肯定した。




本当に?




正人は怖かった。
自分が信じていた自分は本当に自分だったのだろうか?




父親になりたい。
それは正人がたびたび口にする言葉だった。
そしてその言葉には暗黙に父親になれることが前提にあった。



本当は自分は自分が思っていた自分とは違うんじゃないか?



急に自分がまったく知らない他人のようによそよそしく感じられ、自分が考えることすべてに自身がなくなった。
それくらい正人にとって父親になるということは特別なことだったのだ。
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