アイコンタクト

文字数 1,990文字

 まさか、彼女にアイコンタクトを試みる日が来ようとは——。昨日の朝まではチラチラコソコソと横目や上目遣いで様子を窺い、たまに目が合うと慌てて目を逸らす、そんな毎日だったのに——。

 いつもの通学電車。僕は定位置、車両の一番端っこの席に座っていた。立っている人もそれなりにいる車内。乗車口近くの手すりに掴まって、小さくて

細いおばあさんが立っている。通勤通学客がほとんどを占めるこの時間には珍しい高齢者。足元が覚束無(おぼつかな)い。電車が小さく揺れるだけでも身体が大きく傾いたりして危なっかしいこと、この上ない。

 席を譲りたい。でも、僕のすぐ前にもサラリーマンが立っている。立ち上がれば、彼が座ってしまう可能性が高いだろう。かと言って、おばあさんに呼び掛けるには相当大きな声を出す必要がある。

 そのおばあさんの(そば)に立っている女子高生が、彼女だ。ブレザーの制服に身を包んだ彼女は、いつも一人でそこに立っている。気づいてくれないだろうか。次に電車が停車したタイミングで、こちらまでおばあさんを誘導してくれないだろうか。

 僕は眼球に力を込め、じっと彼女を見た。

 朝の光に照らされた彼女の横顔は美しい。ポニーテールが時折小さく揺れている。

 何を考えているんだろう。スマホを見るでもなく、本を読むでもなく、流れる景色を見つめている。

 こっちを見て——。

 何かしらのビームを出すほどの意気込みで、より一層目に力を込める。

 見た、と思ったら、すぐに視線を逸らされた。いつものことだ。でも、いつもならこっちも目を逸らすところだけれど、今日はそうはいかない。

 お願いだ、もう一度、こっちを見て!

 すると、ビームが届いたのか、彼女はまたすぐにこちらを見た。また目を逸らされないように、僕は小刻みに頷いて見せる。甲斐あってか、何かを伝えようとしていることは伝わったようで、今度は目を合わせたまま、彼女は怪訝そうな顔をした。そんな表情すら美しい。でも、見惚(みと)れている場合ではない。

 視線と(あご)を使っておばあさんを指す。
 彼女が一層怪訝そうにする。

 だから、その——。

 口の形で伝えることにした。

 お・ば・あ・さ・ん。

 彼女がおばあさんを見てから、またこっちを見た。愛らしい唇が、お・ば・あ・さ・ん、と動いて、小さく首を(かし)げた。

 僕は大きく頷く。腰を浮かせるようにして、おばあさんを指差し、その指で続けて座席を差した。ここ、ここ、とまた口の形でも伝える。

 次の駅が近い。良いタイミングだ。

 今度は彼女が控えめにおばあさんを指で差し、続けて僕の方を指差した。

 そうそう。そのおばあさんをこっちに連れて来て。

 僕が二度三度と頷くと、彼女は親指と人差し指で丸を作ってオッケーと微笑んだ。ああ、何て可愛いんだ!
 
 かくして、僕は彼女のすぐ傍に立つことになった。空気が甘い。

 さっきまで座っていた席に目をやると、おばあさんと目が合った。会釈をしてくれたので会釈を返す。

「何高校なの?」

 不意に彼女から問い掛けられ、慌てて振り向いて学校名を伝えた。

「ずいぶん遠くない⁈」

 そう驚かれて事情を話す。遠距離通学の理由は我が家の引っ越しだ。4か月ほど前、高校三年の夏休み前、大学受験を控えた大事な時期に母から決定事項として伝えられた。

——2学期から今の高校は校区外になっちゃうけど、卒業まで通いたければそれでもいいってさ。ちょっと遠くなるけど、どうする? 転校したければしてもいいし、好きにしていいよ。

 選択肢を与えられたようで、実のところ選択の余地などない。学校で(いじ)められているとか特殊事情でもない限り、転校などしたいはずがないではないか。

 結果、僕は引退前の部活の朝練があった1学期よりも更に早起きを強いられることになった。救いは最寄り駅から始発の電車を利用できるため、確実に座って眠りながら通学できること。車両の一番端っこが定位置になった。

 最初の頃はずっと寝てたから、彼女の存在に気づいたのは暫く経ってからのことだ。ある朝、何となく途中で目が覚めて彼女を見つけた。この世の中に恋に落ちる音なんてものがあるのなら、その時、電車内に鳴り響いていただろう。

「同じ学年だね」

 気のせいか、彼女が嬉しそうに言ってくれた。
 名前が知りたくて、僕が自分から名乗ると、少し恥ずかしそうに名前を教えてくれた。

「あの人、ふらふらしてて心配だったから助かったよ。ありがとう」

 あらためてお礼を言うと、彼女は俯き加減で首を横に振った。

「なんだか、視線を感じたから——」

「え?」

「わたしを見てるのかと思っちゃった。でも——わたしじゃなくて、おばあさんの方だったんだね」

「あ、いや、その、」

 彼女は一度、窓の外に視線を逸らした——かと思うと、

「でも、おかしいよね。視線を感じたのって、今日だけじゃなかったんだけどな——」

 そう言って、悪戯(いたずら)っぽい目でこっちを見た。






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