8.アート・デ・シンガポール

文字数 1,974文字

やってきました、ビエンナーレ!

シンガポール旧市庁舎の白柱に、横断幕が掛かる。夕暮れのさざめきのなか、目の前の緑地ではバンドの演奏が始まる。ヤシの木々と、その後ろににょきにょきと立つ摩天楼を、ライトアップがかすめていく。いろいろな言語を話していても、みんなうきうきして眺めている。

2006年はシンガポールが初めてビエンナーレを主催した年です。二年に一度、各国を巡って開催されるモダンアートの祭典、ビエンナーレ。その時まで私は、その存在を知りませんでした。絵画は古典派が好きな人間です。たまたま受け取ったパンフレットで、それぞれの展示会場・インスタレーションポイントまで無料バスが出ていることを知って、これは行かねば!と決心したのでした。遠出する余裕の無いの金欠留学生に、シンガポール各地(といってもあのサイズなのですが)を見て回る願ってもないチャンス到来です。

そもそも、シンガポール人の美的感覚というものは、何なのか?その頃の私は、ショッピングモールのフードコートや、SMUのキャンパスに潜り込んで自習することを覚え、つまりコーヒー一杯で長時間椅子とテーブルを確保出来る場所を見つけることを楽しみにしていました。不思議なことに、人口密度の高いはずのシンガポールは、“空き空間”が多いのです。上方に上方に建物を造るせいか、屋上付近やエレベーターホールなど、また律儀にテーブルセットを置いて植物を飾り、掃除もしているので、お一人様好きには快適な空間が散在しています。土地が狭いのに、この贅沢な空間使用は何なのでしょうか。天空の箱庭のようです。前の仕事で上海に行った時も感じたのですが、この壮大なものが好き、感覚はチャイニーズ独特のもののような気がします。日本や東西アジアは、どちかというと精緻に簡素にこじんまりしているのが好き。

無料バスに揺られながら外を眺めていると、生い茂る木々の間から立派な洋館群が見えてきました。黒塗りの梁と白っぽく磨かれた外壁から、ブラック・アンド・ホワイトハウスと呼ばれる、植民地時代の十九世紀から戦前にかけて建てられた、ヴィクトリア様式の家々です。南国の気候に合わせて大きな窓とベランダを持っており、庭が広く、当時の流行であるアール・デコ風というかプラカナン風というか、シンメトリーな植物や流線のデザインが特徴的。スタイリッシュで活気に溢れている市中とは大分違う、軽やかで優雅な雰囲気を纏っています。けれど、オーチャード・ロード付近のマンションが一億円と言われるシンガポールで、お値段はどれくらいするのやら。

西洋と東洋と、伝統とモダンと、シンガポールはかなり稀有な条件を兼ね備えているのではないかと思います。ヒンドゥー寺院はみっちりと極彩色に装飾され、モスクが白金の光を返し、セントーサには観音像が聳え立つ。伝統的な茶芸館もあるし、高級ホテルのアフタヌーンティーも有るし、クラーク・キーの開放的なバーも有る。朝はHDBの中庭で太極拳をしている人たちもいるし、“ドリアン“の愛称で呼ばれるエスプラネード(オペラハウス)ではオーケストラが聞けるし、カラオケで歌うのもクラブで踊るのも好き。カオスというか、合わせ飲みというか、そう言えばマーライオンもざばざば飲んでいるし、いや吹いているのか?シンガポールのシンボル、マーライオンからしてライオンと魚の融合ですからね…

と、つらつらと考えていると、インスタレーションポイントに着いたようで、聞き取れない英語のアナウンスを背後に、他のお客さんたちに着いてバスを降りる。今思えばデンプシーヒルではなかったかと思うのですが、鬱蒼というくらい生い茂る熱帯植物の合間に、赤錆びたトタン屋根の古い長屋が建っています。植民地時代にイギリス軍の施設であったような説明書きを斜め読みし、薄暗くて埃っぽい内部へ進むと、何だか不思議、可愛らしい変わった生き物や植物の造形がここかしこに隠されていて、戸棚の中や裏の水場や、窓辺やきしきし鳴る階段をわくわくしながら辿っていく。こういう感覚を何て言うのでしょうか、ノスタルジック?それとも宝探しのRPGゲーム?ジャングルの探検のようで、待っているものはファンタジー。過酷な背景を持った場所を隠したり壊したりせず、アートやファッションで容貌を新たにしながら、過去を現在と共存させるという試みは、とても意味が有ることだと、密林の暑さと湿度でぼんやりしながら思いました。

ときどき無性にあの感覚が揺り起こされる時があるのです。今でも古い山道を見たり、開拓小屋を見ると、ここにはどんなストーリーが有ったのだろう、また誰かが訪れた時、ここで何か美しいものを見つけられるだろうか、と想像します。シンガポールはそんなところ。物語の種がいっぱいです。ビエンナーレ、また行きたいなあ。
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