第二部 最終章 『全ての平和』

文字数 10,414文字

  最終章 『全ての平和』


「全てに幕引きを」
 そう宣言した同時に声がかけられた。
「それが君の本当の願いかい? 子冬」
 『少年』がいつの間にか佇んでいた。驚きはなかった。
「終わっていたのだ。最初から全てな」
「じゃあ、これは可能性の世界の結末の一つだね」
 多世界構成の解釈なぞする気は更々なかった。
 それでも終わり行く世界で『少年』は問い続けている。
「君ってさ、誰かと触れたがらないよね? それは何故なのかな?」
「………………」
「生きている温もりを感じるのはそんなに怖いのかい? 死別を君は究極的に恐れている。理屈や理論で天国や地獄を想起しても君の感情は納得出来ないんだね。君の中には死に対する拒絶がある。だから、誰かを殺す時も絶対に素手でやらない。小手先の技術で殺して直接手を下したがらない」
「そんな訳あるか。私は当の昔に良心を置いてきた。憎しみの教義によって神の愛を超克し、超越者の道を築き上げたのだ。我々は皆そうだ」
「君は致命的な嘘を吐いている。だったら最初から復讐者らしく生きれた筈だよ。君は何故『全てに救い』なんて説いたの?」
「所詮、迷妄だ」
「違う。君の中にはある種の確信があった。大愚か者でも大天才でもない奇人ならではの発想があった筈だ。病んだ者でなければ到達出来ない領域があった。初めは気の迷い程度に感じていたんだよね? だって世界にある全ての信仰告白、神学が矛盾なく一致するなんて試みを君は知らなかったんだから。君はそれを葡萄の木に喩えた。根源が同じなのに枝の様に幾つもの解釈が存在する。普通は各自の教理の共通点を見出す筈が逆だった。根源さえ同じなら一致する可能性を見出せる。君らしい発想だよ」
「何を根拠に……」
「『万物救済』、『信仰義認』、『自由意志』、『万人祭司』、『奴隷意志』、『二重予定』、これらを君は欠片でしか知ることは出来なかった。けど、これらを統合する切っ掛けを僕は以前君に伝えた。混乱しただろうね、一見すると統合出来る理論、実は重大な論理矛盾を抱えたものだったからね。あやふやな土台に感じた筈だ。そして、これらに根拠を与える為に二つの相反する命題を与えた」

 第一命題 神は全てを愛し、救い給う
 第二命題 神は全てを裁き、糾し給う

「継ぎ接ぎの理想にしか過ぎん。あんたもそれは判っていた筈だ」
 言語学が苦手としていた自分は結局原語での解釈を怠った。それ故に完全な命題として成立しない。精々、成立の根拠がヨハネの手紙に『神は愛である』に起因しているにしか過ぎない。それでも『少年』が語る信条が恐らくほぼ完璧な形で構築されていることは薄々感じていた。
 だが、それは『神のパラドックス』だ。完全そうに見える理論の中に致命的欠陥が欠片でもある筈だ。全ては神のみぞ知ると言うやつだ。
「判っていたよ。だけど、重要なのはそこじゃない。前進することなんだ。君は気付いていた筈だ。『全てに救い』の教えを研鑽していくことで社会に生命、技術の倫理学や技術そのものに一歩力を与えられると知っても尚『全てに滅び』を選んだ。君は苦しみに耐えられなく逃げたんだ」
「うるさい、黙れ」
 こちらの癇癪に触れることを言いながら敢えて『少年』は沈黙しない。
「君は知っていた筈だ。『全てに滅び』の信条を超克出来るものが愛そのものだと。君は知っていた筈だ。初代教会から古代教会に至るまで多くの信仰が存在し、支配者としてじゃなく仕える者として殉教していった信徒達の歴史を。あの時代は決して信徒にとって安らかな時代じゃなかった。でも多くの信徒が信仰を保ち続けた。その何者に縛られない強大な意志が存在したからこそ教会は公認された。その意志を受け継いだもの達こそ超人そのものなんだ。たとえ、どれ程の圧制に苦しもうとも汚泥に塗れようとも屈することのない人々。その人達こそ本物の超越者だよ。今の君は紛い物だよ」
「あんたに何が解る? 人間の愚かさの何が解るか? 人間とはな、極度の貧困に陥ると救いを求めたがる。物質的豊かさがない人間は精神の世界に傾倒するしかない。そして、心の何処かで誰しも正しくない道を渇望するものだ。清貧がどれ程美しかろうと人間には関係ない。人間とは外側だけ見る生き物だ。立派な着物を着て、上品な作法を身に付けた人間こそ優れているのだ。たとえ、その内面が毒々しく汚れていようとも器だけ綺麗なら何の問題にもならない。人間は皆何かの権威に縋ることによってしか自分達を魅せられないのだ。そこには神の良心など存在しない。あるのは空虚と虚偽、そして偽善だけだ」
 大群が押し寄せてくるのを全ての感覚で感じながら『少年』に事実を伝えた。
「愛など知るべきではなかった。神の柵に囚われた我々はとかく弱かった。神は不正を黙認する方ではないと信じ、忍耐するだけの人生に何の価値がある?」
「愛さなければ良かった? 実に矮小な言葉ですねえ。とてもジ・オーダーの言葉とは思えない戯言ですな」
 いつの間にか、蝿の王もその場にいた。不気味な嗤いを湛えて我々を見下していた・
「そもそも、あなた自身が愛の価値が如何程か存じていないでしょう? だから、そんなことが言える。あなたはそもそも中途半端な存在ですよ。平凡で変わり者だが、世界を変革する力を弁えていない。我々とも違う。たかだかヒトラー如きの書物を少し読んだだけで恐怖に凍り付いたあなたに悪の真価が、善の真価が解り得ますかね? 答えは否ですよ。あなたは人間を視て人そのものを視ようとしない」
 正しくその通りだ。私は個人を視ようとしなかった。個人の選択には繊細な微妙な心情の微かな動きがある。それなくしてビッグデータは活かせない。
 故に我々は新しい計画も用意していた。ペンタゴン・プロジェクトと名づけた計画。人間を恣意的に操作することが困難なら人間の熟知から始めなければならない。人間が秘密めいたやり取り出来ない様に創設された計画。最新鋭の人工知能を複数台使って相互にある特定の暗号を暴く計画。弁証法とネットワークの膨大な情報量を利用した暗号発見法にして開発法。あわよくば、量子暗号を成り立たせている不確定性を何らかの法則に当て嵌め破る為にも造られたシステム。そして、世界の人口の仮想知能を設定し、新たに恣意的に人間の行動を支配する為のシステム。
 だが、これも結局無駄なものだった。これでは人間の細緻に渡る機微を理解出来ない。人間は愚かだ。愚かだが、何と精密に造られていることか。心と言うものは何と緻密に構成されているのもなのか。そしてその緻密性を巧みに操作する蝿の王のあざとさ。
「忌々しい」
 本音で吐き出した。そうだ。忌々しい。
「何が忌々しいのさ? 君は人の価値を、世界の価値を、何より自分の価値が解っていないんだ。だから、自分を傷付ける。本当の君は真珠の様に高価で尊いものなのに」
「そんな戯言聴くに値せんよ。私が歩みたい生は失われた。私が共に歩みたかったものは去った」
「僕じゃ駄目なの? 僕は君を愛している」
 『少年』は臆面もなく真摯な表情で告白した。
『少年』
 我が心に居る『家族』にして真実な神の忠実な僕。
 我が心の足枷にして軛。そんな『少年』の真剣な告白を自分が採る言葉とは。
「ミカエル」
 『少年』の名を口ずさむ。続いて出た言葉は。
「愛しているよ」
 『少年』の表情が忽ち歓喜の表情に変わろうとしていた時。
「死んで」
 だから、自分のその言葉を『少年』は解すことが出来なかったに違いない。『少年』の表情は困惑に変わり果てた。
「人は『全てに滅び』をお与えになる。その意味を漸く解した。『被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています』。実に見事だ、逆を言えば恣意的に自らの意志で堕落と悪を選択するなら私は何者をも超えられる。失うことなき強大無比な存在へと」
 『少年』は血の気の引いた表情をしていた。その繊細な美しい表情に瑕を付ける様に宣言した。
「私はあんたの兄と同じになる。自由にして超越者たる器へと。もうオーダーオブオーダーは要らない。私がジ・オーダーにして新世界の秩序になろう。愛するあんたと言う軛を引き裂いて滅して神への復讐を果たす。これこそ『思想の優生学』の到達点にして『意志の優生学』である。我々を滅ぼし、私は孤独となる。全ての希望は全ての絶望へと」
 その瞬間、忌まわしき呪詛が音を立てず世界を侵食し、自分を侵食していった。人体を構成する遺伝子が形を成さなくなり、自分を構成している素粒子が何か未知の代物に変わっていく。それが何なのかは解らない。だが、白痴の全能に近い代物に成りつつあるのを周囲の人間達は驚愕を以ってして凍り付いていた。
 例外は『少年』と『悪魔』だった。
 『少年』は涙で頬を濡らし、蝿の王は囁いた。
「これが『大人』になると言うことですよ。あなたの様に何時までも甘い陶酔に浸れる讃美に留まるのではなく、そこから抜け出すこと。今、私は寿ぎましょう。歴史の繰り返しを。あなたが助けたいと思ったものが神から遠ざかる事実を。皮肉、実に皮肉」
 蝿がうるさいな。そう感じた自分は高密度の焔の槍にて蝿を串刺しにした。蝿は煩く喝采の叫びを挙げた。
「素晴らしい! 自らの意志で悪を創造するものよ! 自らが何たるか解らない白痴の全能者よ。あなたこそアポリオンの先駆けに相応しい! かつてヒトラーがそうした様に塵芥を滅ぼすのです」
「言われずとも」
 上空に見下している艦隊共に巨大なエネルギーの波動を放つ。艦隊のシールドは意味を成さず、誘爆に誘爆を重ね、地上に墜落していく。
 それを見たシトーは迷わず判断を下した。
「ソル太陽系にいる全艦隊に命じる。全ての火器をこの場に集中せよ」
「思い切った判断だ。下手を打てば地球が破壊されかねない状況だ。まあ、尤もクリストフォロスがいる限り、そんな事態は起きんだろうが」
「あなたは越えてはならないところを通った。このままでは幾千万の平行世界どころか全世界が危うい。私達の歴史に必ず戦争は付き物です。だが、かつてルシファーが世界を荒廃させた歴史を繰り返すつもりはない。愚行は正されるべきです。たとえ、私達が死んだとしてもそれは果たされる責務なのです」
 ほんの僅かの間に凄まじいエネルギーがこちらに向かってくるのを感じる。かつての自分なら怯え、平伏すだけだったろう。こんな大銀河を滅するにも十分な破壊的力に太刀打ち出来る術などなかったのだ。強大なエネルギーが直線にまで到達しようとした時、それを消した。
 それと同時に起きた出来事は空のあちらこちらで大閃光が眩いばかりに輝いたことだ。
 その光景を見たシトーは唖然と呟いた。
「銀河共和国同盟軍全艦隊が壊滅? そ、そんな馬鹿な……共和国が誇る……平行世界からも来た同盟艦隊すらも……」
「惨めなものだな。圧倒的強者が一瞬にして敗者になる様は。まあ、どうでも良い。私はこれからこの地球と『使徒』共の隠すもう一つの地球を壊す」
「親父!」
 突如クリストフォロスが『少年』に向かって叫ぶ。『少年』は覚悟を決めた顔で静かに一言唱えた。
「世界転移」

 瞬時に場の光景が一変する。緑溢れる環境もあれば、荒涼とした聖典の地もある。海もあれば、山々もある。地平の果てが限りなくない。空には幾つもの無数の天体が輝いている。さながら古代人共が描いた世界は平らであると言うことを実現した世界。
 しかし、規模が規模だ。今の自分を以ってしても測り知ることが出来ない程の広大無辺の世界。ここは宇宙の何処かと言う訳ではなさそうだ。
「ここは?」
 訊ねると『少年』は少年だった。少女の様に可愛らしく少年の様に凛々しい少年。在りし日の少年そのままの印象だった。柔和な微笑みを湛えた友にして兄弟なる大天使長がそこにいた。
「ここは『方舟』だよ」
「成程」
 かつて在りし日に語られた『方舟』。それは組織であり、一つの世界でもあった訳だ。そして、使徒共の造ったもう一つの地球とは『方舟』の模倣だ。しかも再現出来たのは極一部であって少年の足下にも及ばない代物だった訳だ。改めて見ると少年の別格さが判る。
「それで大人しく殺されてくれるのか? 少年?」
「さあ、どうだろうねえ。僕としては君と喧嘩するのは嫌だしね。出来れば仲直りしたい」
「弱かった頃の私なら乗っただろうな」
 今の自分は違う。力がある。いかなる軛も断ち切る力が。竜巻を発生させ、岩石を交えれば凶器の完成だ。それを幾重にも少年にぶつけた。マントル層に干渉し、噴火を起こし少年を閉じ込める。
 だが、固まった岩を内側から易々と砕いて少年は傷一つなく出てきた。
 次の手として空間そのものを歪ませて少年の肉体を分解する試みだ。だが、そんなものは無意味だと言わんばかりに少年に変化はない。
 かつての少年と少女の闘いを朧気に思い出す。少女のいかなる攻撃手段も通用しなかった。少年が傷を負ったのは裏道を使う為のことであってこの少年を傷付けるのは何者にも適わない。
 故に物理攻撃、精神攻撃の両面から行われなければ崩すことは出来ない。 
 光と闇あれ。突如溢れ出させた巨大な質量はぶつかり合い途方もない対消滅を幾兆回も繰り返す。それを眺めながら、少年に問い掛ける。
「私は言った筈だ。『私はこれから多くの絶望を味わうだろう。全ての希望が全ての絶望に染まるかも知れない。私は憎悪故に悪魔と共に道を歩むかも知れない。その時が来たら私を主と共に召しに来てくれないか? そして、願わくはこの道を歩む者達に加護を与えてくれないか?』私は待っていた。自らの命の終わりの時を。愛するものを失った世界に意味などあろうか? なのに、あんたは迎えに来なかった」
「生きて」
「何だと?」
「人生に絶望は付き物だよ、子冬。でも、先人は言っている筈だよ。全ての希望が絶えた瞬間こそ本当の光が見え始める。とてもとても長い道のりになるかも知れない。それでも主と共に歩んだ者だけ辿り着ける道があるんだ」
「言いたいことは解る。だが、私は耐え切れない。神の神聖とは人の汚泥と一緒だ。足ることを知れ、とは良く言ったものだ。人間の欲は無限大なのだ。人間はな、神の愛を実行するより、綺麗な衣服を纏い、嗤って暴食に耽け、姦淫を貪り、嗤って人の不幸を見物するのが好きな生き物なのだ。この汚泥こそ人間達の真っ当な生き方だ。世界のほとんどが神の神聖と共に歩むと思うか? 答えは『否』だ」
「それでもお父様は信じているよ。人が僕達と異なる未来を創り上げてくれるのを待っているんだ」
「もういないウォリアー卿の様な科白だな」
「彼は今も生きているよ。神の国の中で。そして、君が愛したものも生きているんだ」
「…………」
「君は確信した筈だよ。祈りが聞き届けられたことを。祈りの力を知っている筈だ。主が思いも寄らない道を用意して下さることも。君が目を背けても『全ての救い』の土台は岩になった。恵みも信仰も行いも一切調和する。この三つは義に到達する為に一致して存在するものなんだ。義とは正しくあることだけじゃない。赦された喜びであり、平安をもたらす救いそのものなんだ」
「動物は天には入れない」
「じゃあ、君にとってお父様はそんな程度の存在なのかい? 被造物の考えることすら実現出来ない非力な神だと言うのかい」
 『神のパラドックス』だ。神学は一つの可能性を確実にする為に他の可能性を切って捨てる。だが、それは本当の意味の神学ではない。神学は神を有限性に閉じ込められない。神の無限な可能性を否定出来ない葛藤を抱えている。アガペーの性質を考えれば何ら不可思議な結論でない。寧ろ、自明の理と言って良い程だ。
「私はあの子に逢うことは最早赦されない」
 今度は岩如きの嵐ではない。天体級の竜巻だ。それも不秩序に星々が砕け散る様に少年に巻き込んでいる。
「私はあんたの兄弟でいる資格がない。この手で幾十億も人間共を、幾百億もの生命を蹂躙してきた」
「嘘ばっかり」
 星々の暴虐すらものともせず、少年は静かで透き通った声で言った。
「何だと?」
「君は殺すのが怖いんだ。もっと言うと直接手に触れたがらない。そんなに怖いかい? 温もりを思い出すことが。命の尊さを感じるのを避けているよね。失ってしまうのがそんなに怖いかい?」
 その答えを言う前に突如少年が突進してきた。突然のことで対処が出来ず、咄嗟に拳を突き出す。
 本来ならそんな攻撃は少年には無意味だった。
 だが、現実として少年の胸元は抉れて真紅の血が滴り落ちていた。血に触れた瞬間、世界中の受難が流れ込んできた。
 これはソロモン卿が持っていたものと同じだ。唯、こちらの方が遙かに膨大で処理しきれない。歴史上の人々の苦難の中の悩み、生きし生けるもの達の純粋な想いが流れ込んできた。
 誰もが己の十字架を担っているのだ。
「そうか」
 人工知能を利用し、神の柵から逃れる為に遺伝子そのもの全てを書き換えた自分。決して誘惑からではない自由意志の堕落を行う為には出来るだけ神にも悪魔に屈しない意志が必要だと考えていた自分。それでも自分が人の姿を保っていたのは結局神の柵から抜け出せなかったのだろう。
 自分の身体が造り返られていくのが解る。少年の血とはそういうものなのだ。神から受け取った賜物の一つ。受難の共有を以ってして人を本来あるべき姿へと戻す。それは酷く弱弱しい姿だった。
 紛い物。自らの生から逃げた者。運命から背いた者にして道化がここにいた。少年がそっと自分を抱き締める。
「帰ろう」
 温もりが伝わってくる。安堵と恐れが生じる。人は独りでは生きて行けない。
 だが、それでも。
「いつか喪失する。皆が年老いて私より先に逝く」
 失ったことを認めたくなくて、愛するものを奪った神がどうしても赦せなくて『全ての滅び』の教義を生み出してしまった。
「失うと判っているのなら寄り添うだけ十分だよ」
 その言葉に戦意を失った。
「ああ、そうだったな」
 自分は寄り添うことが出来なかった。自分の家庭環境に倦み疲れ、最も大事なものの傍に一緒にいてあげることを怠った。仕事や負債の返済に追われて『家族』を蔑ろにしてきた自分があった。詰まるところ、我が身可愛さに愛するもの達を見捨てたも同然だ。そして、愛するものを失い、絶望し、罪に手を貸した。
 資本主義も民主主義も共産主義も社会主義もシステムとしては不完全だ。同盟国の凋落と共に中華国の発展が目覚しかったが、何のことはない。貧しい人々を救ってくれる理想的なシステムは存在しなかった。世界には目標となるシステムが存在しなかった。人類に自由と平等を与えるシステムなど存在しない。だからこそ、いずれ第二のヒトラーが現れるのは明確に判っていた。格差が生まれれば自然と余裕のない社会が生まれる。本当に大事なものは単純なものなのに皆家畜の様に働く。そこに人間性はない。そんな人間性を否定された時代に優生思想が台頭するのは火を見るより明らかだ。後はカリスマ性を持った人間が大衆を扇動すれば良いだけだ。
人生に絶望していた我々が紛い物のヒトラーになっただけだ。
「なあ、少年。人生とは蜃気楼の様だと思わないか? 人生に明るい未来が待ち受けていると信じても暗い道を歩む者が多すぎる。それでも人は心の何処かで期待をして細い糸を亘る。それでも何もなかったら? 人は何の為に生きる? 神の御業を讃美する為にか? 神が委ねたこの世界をより良くしていく為か?」
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』、『隣人を自分のように愛しなさい』。これ以上完全なシステムはあるかな?」
「理想はそうだ。だが、現実はそう出来ていない。不安定な世界で生きている」
「『明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である』。僕は今の君との時間を大切にしたい。今を大切にするのって結構重要なんだよ」
「だが、清算はしなければならない。人々をここまで地獄に追い込んだ対価は払わねばならない」
 少年は少し寂しそうな微笑を浮かべて「そうだね」と頷いた。

 『方舟』から地球に戻ると喧騒が聴こえる。群集が怒りに燃えて迫ってきているのだ。
 終わるのだな。いや、もう終わっていたのだ。判っていたことだ。
 愛犬が、パピが死に近づきある時から判っていたことではないか。我が最期の良心が燃え尽きる日が来ると。その後の運命は容易く読める。
 自死を選ぶか、世界に復讐するか、或いは他の道があっただろうか? 

 神は『全てに救い』をお与えになる。
 人は『全てに滅び』をお与えになる。

 賭けるならこの時代しかなかったのだ。ペンタゴン・プロジェクトが完成し、キングソロモンズプロジェクトが完成してしまえば、超大国による専制的支配が始まるのは予想出来ることだ。
 そうなれば、人類は機械としてしか機能しない。
 人はどちらの道を選ぶのか。
「結局、奇跡など起きないか」
 自嘲する。滑稽だ。人間に、神に絶望している自分が心の何処かで人と神の可能性を期待していたなどとは。何が第二のヒトラーだ。笑わせるな。自分は滑稽な道化にしか過ぎない。
「私は世の罪人の頭なり。淫欲に耽り、偶像を拝し、兄弟を裏切った者なり。己が為に家族を見捨てた者なり。私は全ての殺人者なり、中傷者なり、愛を唱えながら憎悪の炎を炎々として燃やしている破壊者なり、愛を選び取れなかった者なり。虚無に服した者なり。全ての罪を犯し、神の平和を乱した者なり、戦火に一票投じた者なり。『全てに滅び』をもたらす者なり。主よ、慈悲深き主よ、憐れみたまえ。私が傷付けた者達に安息を。私の為に小さな救い主として死んでいったもの達に平安を」
 死人の声音で呟く。自分は救われることはない。
 もし、あったとしてもそれは終末の日にしか訪れない。自分のことなのに不思議と解らなかった。思えば、そうだった。自分が何かを真に理解出来た試しなどなかったではないか。
 唯、これだけは判る。

 怖い。

 迫り来る死の怒涛に立っていられるのが奇跡な位だ。ああ、では奇跡はもう起きているのか。
 この瞬間こそ奇跡なのだ。
 怒涛の群集が剣や槍を抱えて迫って来た。

 終わり。

 そう思った。クリストフォロスもシトーも見守るしか出来ない。蝿の王に至っては興味が失せたのか姿すらない。
 穂先が届こうか、その瞬間。
 稲妻、鮮烈な炎が迸った。その余りにも強大無比な閃光は遙か後方にも伝わり、怒涛の群集はどよめきの群集に変わった。
 「少年……」
 その守護者は紛れもない大天使長ミカエルの姿そのものだった。
「君達は殺人を犯すのかい?」
 少年は人々に問い掛けた。
「では、どうすれば良いのです」
 群集から年配の者達が進み出た。
「教皇……総主教、新教の指導者達まで……」
 いつの間に牢から出ていたのだろうか。
「その問いは愚かです。ジ・オーダー。その方が存在することは同胞が世界中にいるに等しい」
 『方舟』の天使達が解放したのか。聖典の使徒達の生き様を連想させる出来事だ。
「私達の守護者よ、確かに私達は裁くことが許されてない存在です。しかし、律法を犯したのはジ・オーダーでもあるのです。神の赦しが無制限であるとは言え、罪の対価として何かを支払って頂かなければ人々は納得しないでしょう」
 少年は教皇達を見詰めたまま、クリストフォロスに話しかける。
「クリス、君はもう立派な『使徒』の一人だ。やるべきは解っているよね?」
「新世界秩序の構築だろ。解っているよ」
 哀しそうな顔を浮かべてクリストフォロスは頷いた。その口調を聴いた少年は安心した様に微笑んだ。
「子冬、残念だけど、君には世界を再建する賜物は預かっていないよ。でも、君にも果たせることがある。責任と使命を同時に得るなんて言う祝福が用意されている」
「神は『全てに救い』をお与えになる、か」
「僕も一緒に行くよ。未だ地獄で囚われている人々を解放して、終末の日に兄様も解放する。世界は大丈夫、人々の力を舐めちゃいけないよ。君の教義すら有用して、あらゆるものを有用して世界再建を果たすよ。必ずね」

風景が変わる。ここが地獄の入り口か。何とも陰湿な場所だ。迎えとして蝿の王が来ていた。悪魔はニヤニヤ嗤いながら黒く記された門を指差した。
「汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」
門の文面を読む少年は微笑みながら蝿の王に宣言した。
「これで勝ったって思っているのがベールゼブブ兄様の弱点だね。これはこう書き換えようよ」
仄かな光が門を包み、文面が変わった。
「汝等こゝに入るもの『全ての平和』に至れよ」
蝿の王は初めて不機嫌そうに不快な表情を示した。
そんな悪魔を放置して少年は自分の手を握り締め、無邪気な子供の様に引っ張っていく。
全く、これから想像を絶する苦難に満ちた長い旅が始まると言うのに少年の振る舞いは祝福されたかの様な煌めきを放っている。
「神は『全てに救い』をお与えになる。そして、その道は『全ての平和』に繋がっている……か」
「さあ、地上でも地獄でも救いを遍く述べ伝えようね」
果たして自分は耐えられるのだろうか? 
唯、少年の握っている手を通して温もりを感じる。この温もりは希望の灯火だ。いつの日か別れたもの達と逢える日が来ることを信じて二人で門の前に立つ。
「子冬」
「何だ?」

「愛しているよ」

少年は無邪気に無垢にそう告白してきた。あの日と同じ言葉。それに対し言葉で返せず手を力一杯握り絞めた。少年は安心したのか微笑んで門の第一歩をくぐる。いつの日か帰る日を目指して。
    

     ― 了 ―

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登場人物紹介

自分……教会の信徒であり、介護職であり、同時に同盟国の末端でもある。同時に精神的な病も患っており、無気力な人物。少年との出会いで諦めていた人生と信仰に一つの灯火が与えられ、『全てに救い』の信条に触れていくことになる。



少年……風の様に現われ、風の様に去る可愛らしい少女の様な凛々しい少年の様な少年。語り部である『自分』を受け容れ、『全てに救い』の教義を教えることに力を貸す。同時に語り部である『自分』の危機的状況を救ったりもしてくれる不可思議な少年。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)





少女……同盟国の関係者らしいが、実体は不明な少女。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)





ウォリアー……同盟国の重要人物で『使徒』と呼ばれる存在。重々しい口調が特徴的な牧師の格好を纏った軍人の様な男。実際に軍人でもあり、新しい計画にも携わっている。典型的な戦闘型の『使徒』で実際には星一つ滅ぼせる程の力を保有していると思われる。少年と付き合いは古い。(アイコンはあくまで参考用のイメージ像です。読者様のお好みの姿を思い描いてお楽しみ下さいませ)



 



ジューダリア……ユダとマリアを合わせて取られた名で『イスカリオテ』の中でも別格の存在。祈りを具現化する能力に長けており、『使徒』の番外と呼ばれる。

ジ・オーダー……第二部の語り部。オーダー・オブ・オーダーの中核。自分のことを我々と称する。「人は『全てに滅び』をお与えになる」の信条を創り上げたと言われる。世界の破壊者。

クリストフォロス……第二部の登場人物。『使徒』である。ジ・オーダーにとって先が読めない人物と考えられている。恩恵能力『絶対結界』(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

ソロモン……第二部の登場人物。『使徒』の一人。恩恵能力『ソロモン・システム』但し、精確には恩恵能力ではない。より厳密に言えば彼女の家系が築き上げた。『ソロモン・システム』については第一部参照。( アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

ジョシュア・エイブラハム・ノートン……現代の最古の『使徒』の一人。恩恵能力は不明。判ることは通信系の能力。古典的な通信手段のみならず現代の科学水準を以てしても理解出来ない通信手段を使用している様子。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

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