第9話 転職

文字数 1,987文字

「おい! 開けろよ!」
ドンドン、とドアを叩くとすぐに清美がドアを開けた。
「何よ、叩かなくても良いでしょ!」
「さっきの男は何なんだよ?」
「何の話?」
「とぼけるなよ。俺はさっき、この部屋から男が出ていくのを見たんだからな!」
「ああ……良いわ、取り敢えず上がって」
俺は部屋へ入ると、美樹の肩を掴んだ。
「それで、誰なんだよ、アイツ」
「……店の常連さんよ。手を離して」
俺は美樹から手を離すと大きく一つ溜め息をついた。
「なあ、噂は本当なのか?」
「どんな噂よ?」
美樹は腕組みをして壁にもたれ掛かる。
「お前が……常連客に体を売ってるって」
「ええ、そうよ。それがどうかした?」
美樹は悪びれもせずにそう言うと薄ら笑いを浮かべた。
「どうかした? って、じゃあ俺は何なんだよ! そういう事して、俺に悪いとか思わないのかよ?」
「思うわよ」
「じゃあ、どうして……!」
「お金よ。まだ小説だけじゃそんなには稼げないしね」
「稼げないなら生活レベルを下げれば良いだろう? 独り暮らしなんだし、何もこんなお高いマンションに住まなくても」
俺は改めて部屋を見渡した。4LDKの広い白い空間……独身女の独り暮らしには贅沢すぎる。
「……嫌よ」
「は?」
「私は貧乏暮らしは嫌なの」
「だからって……何も体を売らなくても」
「だって私は他に何も出来ないし、それじゃあ貴方が貢いでくれるとでも言うの? 無理でしょ?」

パン!

俺は思わず美樹の頬を平手打ちした。
「何よ! ぶたなくても良いじゃないの!」
「馬鹿にするからだ! なあ、お前は俺を愛しているのか? 俺と結婚したい……とか思わないか?」
「……分からないわ。私には愛が何なのか、良く分からないのよ」
「畜生! 今度は上手くいくと思ったのに!」
俺は思い切り壁を叩いた。
「どういう意味?」
「……ホロスコープだ。あれが俺に一生付いて回る! 俺は女に愛されたいだけなのに!」
「ホロスコープ?」

 俺は美樹に例のホロスコープの話を説明した。美樹は大人しく聞いていたが、聞き終わると笑顔を向けて、信じがたい話を始めた。
「ホロスコープの運命は変えることが出来るのよ」
「なっ? どうやって!?」
「父がね……」
美樹の話によると、彼女の父親は科学者らしい。元々はホロスコープが人間に与える影響を研究機関で調べていたのだが、辞めて闇で人のホロスコープの運命を変更治療する商売を始めたのだ。もちろん違法だ。治療にはかなりの金が必要だが、金さえ用意すれば変更が可能だという。今まで何人も治療を受けて、それなりに効果が上がっているらしい。また、仮に効果が無かったとしても、そもそもそうした治療を受ける事自体が違法行為なため、訴えられる事も無いのだという。

「貴方も受けてみる?」
美樹はキッチンへ向かいながら俺に訊いた。俺は藁にもすがる思いで答えた。
「治療を受けるにはどうすれば良いんだ?」
「先ずはお金を用意して。それさえ出来れば、後は私から父に言っておくわ」
「……分かった」
俺は美樹の差し出したオレンジジュースを一気に飲み干した。

 翌日から俺は新たな仕事探しに奔走した。出版社の給料では、とても間に合いそうになかったからだ。ネットの求人広告で、建設現場の作業員の仕事を見つけた。肉体労働だが、会社から支給されたパワースーツを装着しての作業のため、肉体的条件はさほど問題にされない。苛酷な現場作業のため、給料は破格だった。俺はすぐさま履歴書と応募のメールを送った。それから返事が来るまでの一週間は、まるで一年にも感じた。一週間後に返事が来て、書類審査が通ったから面接の準備をしておくように言われた。俺は久しぶりにクローゼットからスーツを取り出してブラシをかけた。それから三日後、俺は面接を受け、自分でも意外だったが、あっさり合格したのだった。まあ、業種が作業員であるから、真面目な勤務態度と、仲間とのコミュニケーションスキルさえあって若ければ、後は基本作業を覚えるだけなのだ。

 俺は出版社を辞めて、建設会社で働く事となった。パワースーツを支給され、資材の運搬やら組立やら、基本的な作業を覚えていった。現場監督はちょっと厳しいタイプだったが、仲間や先輩格の作業員達は皆陽気で気の良い奴等で、それが俺の救いだった。地上百メートルの足場を歩きながら、俺はふと横に目をやった。眼下に東京のゴチャゴチャした街が広がっている。真昼の空は青く澄み渡って、白い太陽が作りかけのビルをジリジリ焼いていた。風がパワースーツの隙間から頬を撫でて、汗を乾かしてゆく。出版社に居たときとはまるで違う環境だが、悪くなかった。給料は申し分ないし、確かに作業はキツいが、若い俺にはそれ程苦にはならなかったし、デスクワークしていた時とは違った達成感があった。何より治療費を稼ぐため、という明確な目標があったため、むしろ俺は以前より充実していたのだった。
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