エピソード・ワン
文字数 1,827文字
さて、心という第四の次元軸について話をしよう。
一般的に、四つめの次元に考えられるのは時間だ。だが、私たちは時間を行き来することはできない。次元軸というからには、その次元の自由な移動が可能でなければならない。
私たちにタイムトラベルはできないが、実は、私たちのほとんどがタイムマシンは持っている。スマホだ。より正確には、スマホのカメラ機能だ。
いつ頃だったかな?今となっては懐かしい、アヴァン・ギャルドの頃だったかな?いや、もっと前からか?まあ、とにかくカメラは昔、タイムマシンと呼ばれていた。カメラの、現在を切り取り過去として保存する機能を、その頃の私たちはタイムマシンと評価していたのだ。
今の私たちは、スマホのカメラをタイムマシンとは思わない。それは、当時の私たちと今の私たちは、心の次元が違うからだ。
心の次元が違えば、世界は変わって見える。心の次元を移動すれば、世界は変わって見える。そう、心は、第四の次元軸なんだよ。
まあ、急に四次元の話をしても、ついて来れないのはわかっている。そもそも私たちは、次元について鈍感だ。
一歩前に進んでみよう。それが面倒くさければ、片手を上げるだけでもいいし、少し身じろぎするだけでも構わない。そうするとき、私たちの体は三次元空間の中で、変化している。三次元の前後、左右、上下の軸を移動している。しかし、私たちは次元軸の移動をいちいち認識したりしない。そう言う意味で、私たちは、次元については鈍感なのだ。
しかし、心についてはどうだろうか?心の変化に鈍感な人もいれば、敏感な人もいる。繊細な人もいれば、大胆な人もいる。そう、心については鈍感とは限らない。では、心の次元については?
そもそも心の次元とはどんな次元なのか。それを説明するために二枚の写真を用意した。二枚とも街の風景写真 で、とある国のとある時代を写している。
一枚の写真には、個性的な近代的な高層ビル群と、いろんな人が写っている。露出の多い派手な女性もいれば、地味な女性も写ってるね。裕福そうな紳士の傍らには、ホームレスが座り込んでいるよ。老若男女、実に様々だ。
もう一枚の写真も都会の写真だ。建物は統一感があるね。写っている人も、みな同じようなお堅い格好か、地味な格好をしている。ホームレスは、いないか。
実に対照的な街の風景写真 だが、さて、君がもし住むとしたら、この二つの街のどっちに住みたい?写真だけでは、判断できないかな?
実は、この二つの街のどちらもが、ユートピアであり、ディストピアでもあるんだ。
自由を大切にする考えの視点から見れば、多様性のある街のほうがユートピアであり、統一性のある街は、社会を統一する一部の特権階級が支配する監視社会、奴隷社会というディストピアになる。
反対に、平等を大切にする視点から見れば、統一性のある社会のほうこそユートピアであり、多様性のある社会は、弱肉強食のルールが支配する野蛮なディストピアとなる。
この二つの視点の違いが、心の次元の違いだ。心の次元が違えば、同じものでもまったく正反対のものになるんだよ。君にとってのユートピアは、どちらかな?それとも、どちらの街もディストピアかな?
この話をしたのは、心の次元が離れていると、世界がどのように違って見えるかを伝えたかったからなのだが、さて話を戻そう。心の次元軸について、私たちは鈍感だろうか?
もちろん鈍感だ。なにしろ私たちは、心が第四の次元軸だということさえ認識できないのだからね。それに、私たちの考えや気持ちが変わるとき、私たちの心の次元がすでに変わっていることに、気づかないだろう?
より具体的言うと、私の話を聞く前の君と聞いた後の君では、すで心を次元が変わっている。でも自分では、心の次元を移動したと感じていないだろう?次元に対して鈍感というのは、そういうことさ。
ときどき心という第四の次元軸に意識を向けるだけで、きっと、わからなかった相手の気持ちが理解できるようになったり、見えなかった世界が見えるようになってくる。
何?私にとってのユートピア?
ふふ、それは、心の次元を自由気ままに行き来することさ。つまり、心という次元そのものが、私にとってのユートピアさ。
ご清聴、ありがとう。
そうだ。せっかくだから最後に、私の最初のエピソードを記念して一緒に写真撮影をしよう。このスマホのカメラでね。ぜひ、この今を切り取って保存しておきたい。
一般的に、四つめの次元に考えられるのは時間だ。だが、私たちは時間を行き来することはできない。次元軸というからには、その次元の自由な移動が可能でなければならない。
私たちにタイムトラベルはできないが、実は、私たちのほとんどがタイムマシンは持っている。スマホだ。より正確には、スマホのカメラ機能だ。
いつ頃だったかな?今となっては懐かしい、アヴァン・ギャルドの頃だったかな?いや、もっと前からか?まあ、とにかくカメラは昔、タイムマシンと呼ばれていた。カメラの、現在を切り取り過去として保存する機能を、その頃の私たちはタイムマシンと評価していたのだ。
今の私たちは、スマホのカメラをタイムマシンとは思わない。それは、当時の私たちと今の私たちは、心の次元が違うからだ。
心の次元が違えば、世界は変わって見える。心の次元を移動すれば、世界は変わって見える。そう、心は、第四の次元軸なんだよ。
まあ、急に四次元の話をしても、ついて来れないのはわかっている。そもそも私たちは、次元について鈍感だ。
一歩前に進んでみよう。それが面倒くさければ、片手を上げるだけでもいいし、少し身じろぎするだけでも構わない。そうするとき、私たちの体は三次元空間の中で、変化している。三次元の前後、左右、上下の軸を移動している。しかし、私たちは次元軸の移動をいちいち認識したりしない。そう言う意味で、私たちは、次元については鈍感なのだ。
しかし、心についてはどうだろうか?心の変化に鈍感な人もいれば、敏感な人もいる。繊細な人もいれば、大胆な人もいる。そう、心については鈍感とは限らない。では、心の次元については?
そもそも心の次元とはどんな次元なのか。それを説明するために二枚の写真を用意した。二枚とも
一枚の写真には、個性的な近代的な高層ビル群と、いろんな人が写っている。露出の多い派手な女性もいれば、地味な女性も写ってるね。裕福そうな紳士の傍らには、ホームレスが座り込んでいるよ。老若男女、実に様々だ。
もう一枚の写真も都会の写真だ。建物は統一感があるね。写っている人も、みな同じようなお堅い格好か、地味な格好をしている。ホームレスは、いないか。
実に対照的な
実は、この二つの街のどちらもが、ユートピアであり、ディストピアでもあるんだ。
自由を大切にする考えの視点から見れば、多様性のある街のほうがユートピアであり、統一性のある街は、社会を統一する一部の特権階級が支配する監視社会、奴隷社会というディストピアになる。
反対に、平等を大切にする視点から見れば、統一性のある社会のほうこそユートピアであり、多様性のある社会は、弱肉強食のルールが支配する野蛮なディストピアとなる。
この二つの視点の違いが、心の次元の違いだ。心の次元が違えば、同じものでもまったく正反対のものになるんだよ。君にとってのユートピアは、どちらかな?それとも、どちらの街もディストピアかな?
この話をしたのは、心の次元が離れていると、世界がどのように違って見えるかを伝えたかったからなのだが、さて話を戻そう。心の次元軸について、私たちは鈍感だろうか?
もちろん鈍感だ。なにしろ私たちは、心が第四の次元軸だということさえ認識できないのだからね。それに、私たちの考えや気持ちが変わるとき、私たちの心の次元がすでに変わっていることに、気づかないだろう?
より具体的言うと、私の話を聞く前の君と聞いた後の君では、すで心を次元が変わっている。でも自分では、心の次元を移動したと感じていないだろう?次元に対して鈍感というのは、そういうことさ。
ときどき心という第四の次元軸に意識を向けるだけで、きっと、わからなかった相手の気持ちが理解できるようになったり、見えなかった世界が見えるようになってくる。
何?私にとってのユートピア?
ふふ、それは、心の次元を自由気ままに行き来することさ。つまり、心という次元そのものが、私にとってのユートピアさ。
ご清聴、ありがとう。
そうだ。せっかくだから最後に、私の最初のエピソードを記念して一緒に写真撮影をしよう。このスマホのカメラでね。ぜひ、この今を切り取って保存しておきたい。