第二章 少女は森の息吹に触れる -3-

文字数 9,281文字

「ハズ、いてる――?」
 ヴァルトラントは〈緑の館〉の談話室(サロン)を遠慮がちに覗き込んだ。その少年を、研究員たちの賑やかな声が迎える。
 予想外に襲ってきた歓声と、部屋を満たしている楽しげな雰囲気に、ヴァルトラントは一瞬何が起こっているのか判らず目を瞬かせた。
 談話室は素朴な山小屋の居間を思わせた。植物研究所らしく、窓辺や部屋の隅には観葉植物の鉢が見られる。板張りの壁に草花の絵が飾られ、カントリー風のソファとテーブルのセットが三組、ゆったりとした間隔で置かれていた。
 歓声をあげた研究員たちは、その中央のテーブルセットに集まっていた。座りきれないのか五人ばかりの男女が立ち、三人掛けのソファの真中を興味深げに見つめている。
「ヴァルティ、こっちだよ」
 立っていた研究員の一人が、入口に突っ立っている少年に気づいて手招きした。
 招かれるまま、賑やかに語り合う人々の輪に近づいたヴァルトラントは、輪の中心にハズリットがいるのを見てさらに驚いた。
 ハズリットは目を輝かせ、研究員たちとの会話に夢中になっていた。饒舌とは言えないが普段より口数も多く、積極的に研究員との会話に参加しようとしている。いつも大人びてどこか冷たさを感じさせる小さな顔は、歳相応にあどけなく、笑みこそ見せなかったがそれなりの感情が表れていた。
 こんなにも活き活きとした少女を、彼は初めて見た。きっといまの姿が、キーファの言っていた「彼女本来の姿」なのだろう。
「こんな初歩的なことを忘れてたなんて。ありがとうっハズリット、君のお蔭で解決できそうだ!」
「研究、巧くいくといいですね」
 少女の手を握り締めて振り回す研究員に、ハズリットは戸惑ったような、そして照れたような表情で応える。
「どうしたの?」
 ヴァルトラントは状況が判らず、近くの女性研究員に訊ねた。
「彼、いまやってる研究が行き詰まってたんだけど、ハズリットと議論しているうちに、解決の糸口を見つけることができたのよ」
「ふーん」
 ヴァルトラントはなぜか、ハズリットと対等に語り合う研究員たちに敗北感を覚えた。そして少女に対し、少しばかり不満を感じた。
 確かに専門的な知識を持つ彼らの方が、話も合うのだろう。しかし、彼らとは今日会ったばかりではないか。なのにそんな表情を見せるなんて。クラスメートとして一年あまり顔を合わせている自分の立場は一体。
 納得いかないといった顔で、ヴァルトラントは少女を見つめた。
「用事はもう済んだのかい?」
 研究員たちに混じって、ハズリットとの会話を愉しんでいたのだろう。〈緑の館〉研究所長のマテウス・ツィーゲが、少年を話の輪に引き入れようと声をかけた。
「えっ!? ……まあ、うん」
 ツィーゲ所長の言葉に、ヴァルトラントは一瞬ギクリとし、歯切れ悪く答えた。
 実は飛行計画部では、まだ明日のフライトの打ち合わせが続いている。
 だが、始終そわそわして会議に集中できずにいたヴァルトラントに司令官がキレ、結局彼は一時間ほどで会議室から追い出されたのである。
 実際はウィルなりの配慮だったのだが、昼間にあった少女とのやりとりと、重要な会議から締め出されたショックで精神的な余裕を失ってしまった少年には、そこまで考えが及ばなかった。
 それ以上突っ込まれたくなかったヴァルトラントは、ぎこちない笑みを浮かべると話題のすり替えを試みた。
「それよりみんな、仕事しなくていいの?」
 そう言って、端末を前にしたハズリットを取り囲んでいる連中を見回す。すると研究員たちは気まずそうに肩をすくめた。
「いや……ハズリットが理解(わか)らないところがあるっていうもんだから、説明してたんだよな」
「そうそう」
 彼らは顔を見合わせ、苦し紛れの言いわけをする。推察するに、突然やってきた珍しい「生徒」に、誰もが「先生」役をやりたがったというところか。
「しかし、この子が『レンツ博士の論文を読んだ』と聞いたときは、てっきり冗談だと思ったが……いやはや本当だったんだなぁ。しかもきちんと理解した上で自分なりに理論を展開させようとしているとは、全く驚くばかりだよ」
 この一時間、専門的な会話が繰り広げられたのだろう。植物学者である所長は、「年端のいかない少女」という、見た目からは判断できないハズリットの豊富な知識に触れ、感嘆の声をあげた。そして「危うく、やり込められるところだったよ」と頭を掻く。
「そりゃ、ハズは〈機構〉史上最年少で基幹学校を卒業するほど頭が良くて、勉強熱心なんだから」
 ヴァルトラントは、先ほどの感情とは一変して嬉しくなった。ハズリットを受け入れてもらえたばかりか、絶賛までされたのだ。思わず破願し、自分が誉められたとでもいうように、誇らしげに胸を張る。
 しかし少女と目が合うと、慌てて口元を引き締めた。
『そのヘラヘラした顔が、すごくムカつく』
 自分が笑うと、彼女の機嫌を損ねる。
 ヴァルトラントは彼女の前で笑わないようにと、神経を尖らせていた。彼自身が思っている以上に、彼女の言葉は彼の心に深く突き刺さっているらしい。
 とはいえ、研究員たちの前で変によそよそしくするわけにもいかず、ヴァルトラントは当り障りのない話題で場を繋いだ。
「あ、ハズ、お腹減ってない? 父ちゃんが『晩ご飯食べて行きなさい』って言ってるんだけど」
「別に……。もう少し、この資料を読みたい」
 少女はヴァルトラントの誘いに顔をしかめ、名残惜しそうにモニタに目をやった。彼女の方は人前で取り繕うつもりはないらしい。さっきまでの明るさは消え、いつもの彼女に戻ってしまった。
「でも、あまり遅くなると、お母さん心配するんじゃない?」
 子供たちが起きていてもいい時間は、あと数時間といったところだ。その時間までに彼女に食事をさせて、家まで送り届けなければならない。それができなければ、ヴァルトラントではなく父親のウィルの責任能力が問われることになる。
「ずっとほったらかしなのに、心配なんかするわけない」
 ハズリットは不機嫌になり、口を尖らせて呟いた。
 どうやらハズリットの母親は、最低限の責任さえも果たしていないらしい。
「でも……」
 かといって彼女の家庭事情に下手な口出しもできず、ヴァルトラントは対応に困って眉を八の字にするしかなかった。
 そこへツィーゲ所長が助け舟を出す。
「今日読みきれなかった分は、明日読めばいいじゃないか」
「明日も来ていいのっ?」
 所長の言葉に、ハズリットが顔を輝かせた。
 嬉しそうな少女に、初老のツィーゲは孫を見るような目で肯いた。
「もちろんだよ。今日みたいに相手はできないが、資料の閲覧ぐらいならいつでも――それこそ毎日でも来ていいよ。うちの研究員たちにとっても、いい刺激になるようだしね」
 所長はニヤリとして、苦笑いする「先生志願者」たちを見回す。
「ありがとう、所長さん」
 喜びで興奮しているのか、ハズリットは頬を上気させて礼を言った。
 一瞬少女がはにかんだように見え、ヴァルトラントの胸中に複雑な感情が通り過ぎた。ほんのわずかだがハズリットが笑顔を見せたことに驚き、そしてその笑顔が自分に向けられたものではないことに落胆する。
 しかしそのような感情は胸の内に隠し、少年はもう一度少女を誘った。
「じゃあ、ご飯食べに行こ。そのあいだに、総務に頼んでここまで入れる〈通行証〉を発行してもらうといいよ」
 ようやく少女が首を縦に振る。
 ヴァルトラントはほっとしたように小さく息を吐くと、〈緑の館〉所長に向き直った。
「リンゴを三つばかし貰ってもいい?」
「構わないよ。あの木は『ヴァルティの木』だからね」
「ありがと」
 ヴァルトラントは快諾してくれた所長に礼を言うと、ハズリットをつれて林檎の木のある温室へと向かった。

 〈恵みの間〉と呼ばれている温室内は、寒いというほどでもなかったが、ひんやりとした空気に満たされていた。
 目を楽しませるような花々はなく、胡桃や栗などの木の実や、林檎、柑橘といった色づいた果実に枝をしならせている樹々が目につく。
 室内は静かで、乾いた落ち葉を踏みつける音と、少女が樹々と呼吸を合わせている息遣いだけが、少年の耳を刺激した。
 談話室を出てから、ハズリットはひとこともしゃべらなかった。少年の視線を避けるように目をそむけ、固く口を閉ざしている。
 彼女の態度に、ヴァルトラントは彼女とのあいだを隔てる分厚い氷壁の存在を実感した。
「……この温室は果樹園になってるんだ。長く収穫できるように、この〈緑の館〉で品種改良したやつばっかなんだよ」
 樹々のあいだを縫うように歩いていたヴァルトラントは、沈黙に耐えかねて口を開いた。囁くように言ったつもりだったが、張りがあってよく通る彼の声は、思った以上に周囲に響いた。
 案の定ハズリットはその声に驚いたのか、感触を確かめるように木に当てていた手を慌てて引っ込めた。
 いつものように自然に振舞えない自分に内心苛立ちながら、ヴァルトラントは言葉を継ぐ。
「〈人工樹木(クンストバウム)〉も本物そっくりにできてるけど、やっぱり違うでしょ? 気にせず触っていいよ。触るぐらいなら怒られないから。勝手に実をとったら怒られちゃうけどね」
 たまに木の実に手を出して怒られている少年は、おどけるように肩をすくめた。
 しかしハズリットは黙ったままで、それ以上手を伸ばそうとはしなかった。彼女は無表情で足元の落ち葉を見つめている。
 会話が成り立たず、少年は悲しげに顔を歪めた。
 どう頑張っても、彼女の笑顔を自分に向けさせるのは無理なのだろうか。
 ヴァルトラントは小さく息を吐くと、もう少女に話しかけるのはやめ、サクサクという心地良い足音と、柔らかな落ち葉のクッションを愉しむことに専念した。少年の足音に慌てて顔を上げた少女の、何かを訴えるような眼差しにも気づかず。
 そして、このまま沈黙が続くと思われた。
 だが。
「あの――」
 ハズリットが唐突に口を開いた。遠慮がちに、そして怯えるようなか細い声が、少年の耳に届いた。
 ヴァルトラントは足を止めると、ゆっくりと振り返った。(みどり)色の視線がまっすぐ自分に向けられているのを知って、思わずたじろぐ。
 ハズリットが声を絞り出す。
「あの……ごめんなさい」
 不安そうな少女の目を見つめながら、ヴァルトラントはわずかに首を傾げた。少女が何を言うつもりなのか見当がつかなかった。
「試験の日と、今日の昼間……酷いことを言ってしまってごめんなさい。言いわけみたいだけど、どうしてあんなことを言ってしまったのか、自分でも理解(わか)らない。いまはとても後悔してる」
「え?」
 突然の謝罪に、ヴァルトラントは激しく目を瞬かせた。自分の方が彼女を怒らせているのだと思っていたのだから、無理もない。
「……ハズが怒ってるんじゃないの?」
 頭の中を占めている疑問がそのまま声になった。
 ハズリットは大きく首を振る。
「いまは違う。すごく腹が立ったのは確かだけど、それはあなただけのせいじゃない――と思う。原因はよく理解(わか)らない。このところいろんな事があったから、きっとどうかしてたんだわ。とにかく、酷い言い方をしてしまったことは謝りたいの。本当にごめんなさい」
 深々と頭を下げるハズリットを、ヴァルトラントは茫然と見つめた。しばらく思考が止まっていたが、唐突に気がついた。
 ハズリットが〈森の精(ヴァルトガイスト)〉に来た本当の目的は、〈緑の館〉ではなくこのためだったのだ。なのに自分は、格納庫を訪れた彼女とすぐに向き合おうとしなかった。
 ヴァルトラントは自分の対応のまずさに内心舌打ちした。
「や――」
 自分も謝らなければと思うが、咄嗟には言葉が出ない。それでも言語中枢に喝を入れ、なんとか言葉を引きずり出す。
「そんな……謝るのは俺だと思う。俺も何がマズかったのか理解(わか)らないけど、現にハズを怒らせたり、不安な思いをさせたわけだし、その……俺の方こそごめんっ!」
 ヴァルトラントは、少女と同じように頭を下げた。そしてそのままの状態で少女の反応を待つ。
 ところが、いつまで経っても彼女の反応はなかった。
 ふと不安になって、ヴァルトラントはそろそろと顔を上げた。すると、同じ姿勢で彼女も自分を見ているではないか。
 腰を屈め、顔だけを正面に向けているハズリットの姿は、まるで鏡を見ているようだった。
 ふとそう思ったヴァルトラントは、急に可笑しくなった。小さく吹きだすと、クスクスと肩を揺らしはじめる。
 突然笑い出した少年に、ハズリットは目を丸くした。
「ごめ……二人揃って同じポーズなのが、なんか可笑しくて――」
 笑いを堪えながら、ヴァルトラントは取り繕う。そして数回ほど深呼吸して笑いの発作を鎮めると、穏やかな表情を少女に向けて言った。
「確かにハズの言葉はグサッときたけど――ハズだって同じように傷ついてたんだね。俺の方はもう気にしてないから、安心して」
「……よかった」
 ハズリットは強張った表情を緩めた。安堵したように息を吐く。
 少年は、ほんのわずか笑みを浮かべてみた。
 少女はもう表情を変えなかった。彼女の瞳は、いままでの人を拒むような冷たい石の(みどり)ではなく、柔らかな若葉の緑を帯びている。
 ハズリットとのあいだにある氷の壁が少しずつ融けだしたのを感じて、ヴァルトラントはさらに顔をほころばせた。
 少しだけだが、彼女との距離が縮まったような気がする。これを足がかりに、一歩ずつ彼女に近づこう。そうすれば、彼女が自分に笑いかけてくれる日がいつか来るはず。
 でも焦ってはダメだ。ゆっくりと、ゆっくりと、時間をかけて、自分を守るために凍らせてしまった彼女の心を融かさなければ。
 そう心に決めたヴァルトラントは、笑みを浮かべたまま少女を招いた。目的の木はすぐそこにあった。
「〈ヴァルティの木〉――?」
 ヴァルトラントの隣にやってきたハズリットは、木の根元に立てられたプレートの文字を読み上げた。
「うん、俺の木」
 周囲のものに比べると貧弱で、実の数も少ない林檎の木を、ヴァルトラントは愛しそうに見上げた。
「俺が天王星にいたころ誰かからもらった種を、育ててるんだ」
「誰かから?」
 怪訝そうにハズリットが聞き返した。ヴァルトラントは振り返ると、少女に自嘲めいた笑みを見せて言う。
「もらった時のことを憶えてないんだ。三つか四つの頃なんだけど」
「普通、そのくらいの頃の記憶なんて不確かだと思う。私も学校へ上がる前のことは、あまり憶えてないもの」
 ハズリットの意見はもっともだ。だがヴァルトラントは否定した。
「だろうけど、天王星で俺の世話をしてくれてたショウ・グリフィス兵長のことは、よく憶えてるんだ。この種をくれた人も、ショウみたいに俺の世話をしてくれてたような気がする。でもそれが男の人という以外に、どんな人だったのか思い出せないんだ。ただ、誰かが『忘れちゃいけない』って言ったのは憶えてる」
「それだけ憶えてたって、意味ないじゃない」
「いや……ま、確かにそーなんだけどさ」
 バッサリ斬り捨てられて、ヴァルトラントは話の接ぎ穂を失った。相変わらず的確かつ簡潔な少女の物言いに、さすがの〈グレムリン〉もたじたじとなる。
 ハズリットはというと、もう少年の過去には興味をなくしたのか、ついと林檎の木へ目を移した。そして、そっと手を伸ばして枝や葉に触れはじめる。
 ヴァルトラントは、ハズリットが植物に関心を持っていたことを思い出した。なにしろ難しい論文を読破し、さらにここへ来た理由を忘れて研究員たちと話し込んでしまうほどの嵌りようだ。この林檎の木の話題なら、自分の失われた記憶なんかより、ずっと会話が続きそうだと思われた。
「その赤くなったやつ、とってくれる?」
 唐突に、ヴァルトラントは少女のすぐ目の前にある果実を指差して言った。
「え?」
 ヴァルトラントの依頼に、少女は戸惑った様子を見せた。中途半端に手を挙げたまま、動けなくなる。
 彼女はいままで、木から直接果実をとったことなどないのだろう。まあ、都会においてはそれが普通なのだが。
 木星圏では食料となる農作物のほとんどは、専門家の手によって日照時間や温度、湿度などが綿密にコントロールされた農業プラントで作られる。街に住む一般人にできることといえば、せいぜい鉢作りの家庭菜園などでサラダ用の野菜を作る程度か。
 その点ヴァルトラントは、それなりに経験豊富といえた。なにしろ身近に〈緑の館〉があるばかりか、エウロパには農場を営む大伯父一家がいて、何度か猫の手代わりにもなっている。
「こうするんだよ」
 ヴァルトラントが手本を見せる。
 少年の動作をじっと見つめていたハズリットは、恐る恐る両手を伸ばすと、小ぶりだがよく熟れた林檎の実を引っ張った。
 細い枝が弓のようにしなる。
 そのまま引っ張りつづけると、真中で折れてしまうかと思われた。しかし小枝は折れることなく、充分撓んだところで弾けるように元の位置へ戻った。
 少女は、まだ反動で揺れている枝と手に残った赤い実を、呆然と見比べた。しかし自分が林檎の実をとるのに成功したのだと判ると、途端に目を輝かせた。そして好奇に満ちた顔を少年に向け、無言で訴える。
 ヴァルトラントが肯くと、少女はとったばかりの実を少年に預け、二つ目に手を伸ばした。
「自分でとったリンゴはすっごく美味しいんだから。これはそのまま食べるには酸っぱすぎるけど、パイにすると最高だよ。あとで食堂のシェフに作ってもらおう」
 ハズリットはもぎたてのリンゴの甘酸っぱい香りを嗅ぎながら、小さくうなづいた。
 ふとヴァルトラントは、そんな少女を可愛いと感じた。そしてそう思ったことに、なぜか動揺した。
 少女の姿は充分に可愛らしいと、ヴァルトラントは以前から思っていた。しかしこんなふうに意識することなどなかったのだ。
 どうして、こんなにドキドキしてるんだろう?
 自分の不可解な感情に、少年は戸惑った。まともに少女の顔を見ることができなくなった。
 ヴァルトラントは慌てて自分の木を見上げると、何の脈略もなく話題を振る。
「俺、この木を見ると元気が出るんだ」
 ハズリットがチラリと少年に目をやる。その視線をヴァルトラントは痛いほど感じた。
「俺のもらった種は、古い上に保存状態が悪くて、初め『芽は出ない』って言われてたんだ。それがこんなに大きくなって、実までつけるようになったんだよ。見捨てられようとしていた種がこんなに頑張ってるんだから、俺も頑張ろうって――ね、そんな気になるんだ」
 ヴァルトラントは照れたようにはにかんだ。
 我ながらクサイことをほざいてると自覚している。ハズリットはきっと鼻で嗤うか呆れるかするだろう。
 しかし少年の予想に反して、少女は嗤わなかった。
「それ、理解(わか)る」
 真剣な目で少年を見つめ、ハズリットは言った。
「え?」
 少年は思わず彼女を振り返った。
「私もちょっと前に、枯れかけて捨てられていた鉢植えを拾って、水をやったの。そしたら、萎れていた葉がツヤを取り戻して、どんどん元気になっていった。いまでは新しい葉も出てくるようになったし――」
 ハズリットが自分の話をしてくれたことに、ヴァルトラントは舞い上がりそうだった。一方的に捲くし立てそうになるのを抑えて、会話を繋いでいく。
「きっとハズの気持ちが伝わったんだよ」
「まさか。いろいろと世話の仕方を調べて、その通りにしてみただけよ」
「でも、助かるかもしれないと思ったから、拾ったんでしょ? その鉢植えも、ハズの期待に応えようと頑張ったんだと思うな」
「そうかしら……」
 想像力豊かゆえに、ときとして突飛な想像をしてしまう少年の言葉に、現実的で論理実証主義の少女は疑わしげに首を傾げた。
 それでもヴァルトラントは力強く断言する。
「そうだよ!」
 ハズリットは少しばかり神妙な顔で思案すると、ようやく納得したように肯いた。
「そうね。植物が人間や動物に精神的な何らかの作用を及ぼしているのなら、その逆もあるかもしれない。今度、その辺の研究論文を探してみよう」
「そんな難しく考えなくてもいいけど……ま、いっか」
 ヴァルトラントは何でも学問に結び付けてしまう少女に苦笑したが、ふと思いついて少女に訊ねた。
「ハズは植物学者になるの?」
 ヴァルトラントの突然の問いに、ハズリットはきょとんとなった。質問の内容を時間をかけて吟味してから少女は答えた。
「そんなこと、考えてもみなかった」
「そうなの? 論文とかいっぱい読んでるみたいだから、てっきり」
「興味を持ったことは、徹底的に調べてみたいだけ。たまたま現在(いま)は植物学に興味があるだけで、植物学者になりたくて論文を読んでるんじゃないわ」
「そうなんだ。じゃ、将来何になるつもり?」
 この質問に、ハズリットは顔を曇らせた。手の中の林檎を見つめて呟く。
「まだ判らない……」
 ヴァルトラントは、彼女の「面接」のことを思い出した。ハズリットが明確に自分の進路を決めていれば候補者の数も大幅に減り、彼女の負担も減っていただろう。
 しかし彼女の「あらゆる知への好奇心」も、少年には理解(わか)る気がした。この世のありとあらゆる事を知りたいと思うことは、程度の差はあれ誰にでもあることだ。
「まあ、別になりたいものを一つしか選べないってわけじゃないもんね。それに大学だって、一つしか行けないとは決まってないし。そのとき、そのとき、興味のあることを究めていけばいいと思うよ」
 ハズリットがハッとしたように顔を上げた。意外そうな目でヴァルトラントを見ると、うわ言のように呟いた。
「一つだけじゃなくても――いい……」
 ヴァルトラントは大きく肯いてみせた。
「いま一番興味のあること――」
 少年を見ていたハズリットは、ふとそばの林檎の木を見上げた。そしてそのまま考え込んでしまった。
 ヴァルトラントは押し黙ってしまった少女の横顔をじっと見つめた。
 もうハズリットが黙っていることに不安はなかった。
 彼女は自分の言葉に気分を害したのではない。逆にきちんと受け取って、言葉の意味を考えようとしてくれいる。
 ほんのりと胸の中が暖かくなるのを感じながら、ヴァルトラントも自分の木を見上げた。
 そして二人は、お互いの腹の虫が抗議の声をあげるまで、樹々の息遣いに耳を澄ませた。
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登場人物紹介

◆ヴァルトラント・ヴィンツブラウト。〈森の精〉基地の〈グレムリン〉。
◆ハズリットの辛辣な言葉にもめげず、彼女の笑顔を見るために手を尽くす。

■笑うことを忘れてしまった8歳の天才少女ハズリット・ラムレイ。

■〈グレムリン〉たちとの交流を通じて、次第に彼女の心に変化が訪れる。

◆ミルフィーユ・ディスクリート。〈森の精〉の〈グレムリン〉2号。ヴァルトラントに振り回されつつも、絶妙なコンビネーションで《森の精》を引っ掻き回している。

◆ウィルドレイク・ヴィンツブラウト大佐。〈森の精〉基地司令官でヴァルトラントの父親。〈機構軍〉航空隊きってのエースパイロット。

◆エビネ・カゲキヨ准尉。〈グレムリン〉のいたずらによって土星から赴任してきた。〈森の精〉広報部所属。すっかり〈グレムリン〉のお守り役に……。

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