道現成は夢む、塗れた華の七仏通誡偈【第八話】
文字数 1,518文字
☆
岡倉天心によれば、〈茶の湯〉は〈禅〉の儀式が発達したものだ、という。
その〈禅〉は、〈道教〉の教えを強調していることが、しばしば見受けられる。
この二つの東洋思想。
これが茶道の思想のルーツだ、と岡倉天心は言うんだな。
じゃあ、まずは道教から見ていこう。
道教とは、老子を始祖とする、漢民族の伝統的な宗教だ。
中心概念は〈道 〉と呼ばれる。
その〈道〉ってのは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す、と辞典には出ているな。
〈道〉は文字通りだと「経路」を指す言葉だが、ほかにも「行路」、「絶対」、「法則」、「自然」、「至理」、「方式」も指す言葉であり、道教での〈道〉の言葉の用法には、そのときどきで問題にしている話題によって、異なる意味合いで〈道〉という言葉を使うから、どれかが正しい用法ということでもないんだけどな。
客に茶を供する礼は、その老子の高弟、関尹 に始まる。
関尹が函谷関 で「老哲人」に、一杯の仙薬を捧げたことから客にお茶を出す礼が始まった、とされるんだ。
〈道〉は「経路」というよりむしろ「通路」で、新しいかたちを生み出そうとして絶えず巡り来る永遠の成長だ、と老子は言う。
〈道〉は大推移であり、宇宙の気であり、その絶対は相対的なものだ、ってね。
道教でいう〈絶対〉は〈相対〉であり、倫理学的な場面においては社会の法律や道徳を罵倒することもあった。
と、いうのも正邪善悪は相対的な言葉であったからなんだ。
その定義が常に〈制限である〉というんだね。
故に、「一定」「不変」は単に成長停止を表わす言葉に過ぎない、という。
制限であるということは〈道〉から外れてしまうということなんだ。
永遠の成長を目指すのが〈道〉だからね。
その道教がアジア人の生活でした主な貢献は〈美学〉の領域で、であったんだ。
歴史家に言わせると道教は常に「処世術」だった、と言われていると岡倉天心は書いているけどね。
そして、話は〈禅〉に移る。
いや、〈重なって〉いく。
禅道は道教と同じく、〈相対〉を崇拝する。
ある禅師は禅を定義して〈南天に北極星を識るの術〉と言っていたそうだ。
どういうことかというと、真理は反対のものを会得することによって達せられる、と。
さらに禅道は、道教と同じく個性主義を強く唱道する。
われらみずからの精神の働きに関係ないものは一切実在ではない、という立場なのさ。
禅は仏教なんだが、しばしば正統の仏教の教えと相反した。
それはちょうど道教が儒教と相反したのと似ている。
どうして相反したかというと、禅門の徒は事物の内面的精神と直接に交通しようとし、その外面的な付属物はただ真理に到達する阻害だと見做したから、なんだな。
この精神性が、禅門の徒をして古典仏教派の精巧な彩色画よりも墨画の略画を選ばせたに至ったんだ、と岡倉天心は言う。
これが、そういう〈美学〉なんだな。
禅の東洋思想に対する特殊な寄与は、この現世のことをも後生のことと同じように重く認めたことだ、と岡倉天心は書いている。
この禅の思想の〈相対性〉から見れば大と小の区別はなく、一原子に大宇宙と等しい可能性がある。
極致を求めようとする者はみずからの生活の中にその極致の反映を発見しないとならない。
庭の草をむしりながら、またはお茶をくみながらでも、いくつもいくつも重要な論議を次から次へと行う。
〈茶道〉一切の〈理想〉は、人生の些事の中にでも偉大を考える、というこの〈禅〉の考えから生まれたものだ。
道教は審美的理想の基礎を与え、禅は実験的なものとし、それが〈茶〉の〈思想〉となった。
と、まあ、そういうことで、茶は思想、なんだな。
ご静聴、ありがとな、山茶花。
岡倉天心によれば、〈茶の湯〉は〈禅〉の儀式が発達したものだ、という。
その〈禅〉は、〈道教〉の教えを強調していることが、しばしば見受けられる。
この二つの東洋思想。
これが茶道の思想のルーツだ、と岡倉天心は言うんだな。
じゃあ、まずは道教から見ていこう。
道教とは、老子を始祖とする、漢民族の伝統的な宗教だ。
中心概念は〈
その〈道〉ってのは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す、と辞典には出ているな。
〈道〉は文字通りだと「経路」を指す言葉だが、ほかにも「行路」、「絶対」、「法則」、「自然」、「至理」、「方式」も指す言葉であり、道教での〈道〉の言葉の用法には、そのときどきで問題にしている話題によって、異なる意味合いで〈道〉という言葉を使うから、どれかが正しい用法ということでもないんだけどな。
客に茶を供する礼は、その老子の高弟、
関尹が
〈道〉は「経路」というよりむしろ「通路」で、新しいかたちを生み出そうとして絶えず巡り来る永遠の成長だ、と老子は言う。
〈道〉は大推移であり、宇宙の気であり、その絶対は相対的なものだ、ってね。
道教でいう〈絶対〉は〈相対〉であり、倫理学的な場面においては社会の法律や道徳を罵倒することもあった。
と、いうのも正邪善悪は相対的な言葉であったからなんだ。
その定義が常に〈制限である〉というんだね。
故に、「一定」「不変」は単に成長停止を表わす言葉に過ぎない、という。
制限であるということは〈道〉から外れてしまうということなんだ。
永遠の成長を目指すのが〈道〉だからね。
その道教がアジア人の生活でした主な貢献は〈美学〉の領域で、であったんだ。
歴史家に言わせると道教は常に「処世術」だった、と言われていると岡倉天心は書いているけどね。
そして、話は〈禅〉に移る。
いや、〈重なって〉いく。
禅道は道教と同じく、〈相対〉を崇拝する。
ある禅師は禅を定義して〈南天に北極星を識るの術〉と言っていたそうだ。
どういうことかというと、真理は反対のものを会得することによって達せられる、と。
さらに禅道は、道教と同じく個性主義を強く唱道する。
われらみずからの精神の働きに関係ないものは一切実在ではない、という立場なのさ。
禅は仏教なんだが、しばしば正統の仏教の教えと相反した。
それはちょうど道教が儒教と相反したのと似ている。
どうして相反したかというと、禅門の徒は事物の内面的精神と直接に交通しようとし、その外面的な付属物はただ真理に到達する阻害だと見做したから、なんだな。
この精神性が、禅門の徒をして古典仏教派の精巧な彩色画よりも墨画の略画を選ばせたに至ったんだ、と岡倉天心は言う。
これが、そういう〈美学〉なんだな。
禅の東洋思想に対する特殊な寄与は、この現世のことをも後生のことと同じように重く認めたことだ、と岡倉天心は書いている。
この禅の思想の〈相対性〉から見れば大と小の区別はなく、一原子に大宇宙と等しい可能性がある。
極致を求めようとする者はみずからの生活の中にその極致の反映を発見しないとならない。
庭の草をむしりながら、またはお茶をくみながらでも、いくつもいくつも重要な論議を次から次へと行う。
〈茶道〉一切の〈理想〉は、人生の些事の中にでも偉大を考える、というこの〈禅〉の考えから生まれたものだ。
道教は審美的理想の基礎を与え、禅は実験的なものとし、それが〈茶〉の〈思想〉となった。
と、まあ、そういうことで、茶は思想、なんだな。
ご静聴、ありがとな、山茶花。